桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第3回 開講式

3日目。午前9時から国立ポリテクセンターのエアコンの入った講堂で開講式が始まった。壇上にはカンボジアの政府関係者が十数人並んでいた。恐らく、カンボジア労働職業訓練省の局長クラスなのだろう。よく見ると、日本から来た厚生労働省の若い役人もひな壇の一角に座を占めている。課長補佐クラスか。

野村さんが案内された席は平場の最前列だった。この話を聞きながら筆者は、この日の主役は日本の左官技術を伝道するためにはるばる海を越えてやって来た野村さんのはずで、だとすれば野村さんこそ壇上にいるべきだと思った。筆者の常識はカンボジアの常識ではないようだ。
もっとも、野村さんは全く気にしなかった。単なる式典である。カンボジアとはそんな国か、と思っただけだ。それに、ひな壇には座り慣れていない。平場の方が気楽だ。振り向くと、場内には200人ほどの訓練生が座っていた。すべて20歳前後の男性である。左官という仕事はやはり男の仕事なのか。制服なのだろうか、みな真っ白なシャツに身を包んでいた。この200人は生徒2100人の代表なのだろう。

開講式には地元テレビ局のカメラが入っていた。収録した映像はニュースの時間に3度放映されたとあとで聞いた。カンボジアの人たちが日本からの技の伝道師に寄せる期待は、テレビが開講式をニュースとして取り上げるほど大きいらしい。

式典が始まると、壇上にいた3,4人がそれぞれ短いあいさつをした。それが済むと、日本からやって来た先生として野村さんが紹介されたようだったが、現地語なのでよく分からなかった。野村さんは、

「あなたが紹介されました」

と通訳に促されて立ち上がると、壇上に向かって一礼し、後ろにいる生徒たちにも頭を下げた。現地語は全く分からないので言葉でのあいさつはしようもなかったが、

「何とかご期待に添えるよう、全力を尽くします」

という思いを込めたつもりである。

開講式は3 0〜40分ほどで終わった。野村さんは別室に案内された。待っていたのは左官科の教官1人と建築科の教官2人だった。この人たちがこの国で技能検定実技試験のシステムを作り、実施する段階では採点官になるのだろう。彼らに日本の技能検定の仕方を教えるのが野村さんのミッションなのだ。いよいよ本番である。

野村さんには、日本の左官職人代表としての誇りと、カンボジアの若者たちを立派な左官職人に育てるシステムを根付かせてカンボジアの経済成長を手助けする責任があった。まるで1点差を追う9回裏、2死走者3塁で打席に入る打者のような緊張感と身震い、そして興奮を感じながらその部屋に足を入れた。

中央職業能力開発協会から派遣された職員が日本の技能検定の説明を始めた。

日本では1959年に始まり、合格者には国が「技能士」の認定証を発行する。これまで700万人を超える合格者が出ており、世界中から高い評価を受けている日本のものづくりの技術の分厚い基盤になっている。そんな話から始まり、日本で実施している左官職3級技能検定試験は学科試験と実技試験の2本立てであることを説明し、現地語に翻訳した学科試験の問題も3人に渡した。そして実技試験の進め方、その採点方法など説明は多岐にわたった。
通訳を介しての意思疎通は共通言語での話ができる場合の数倍もの時間がかかる。その上、3人の受講者からは質問が相次いだ。

とうとうその日は野村さんの出番が来ないまま時間切れになった。

写真=開講式での記念写真。野村さんは右から5人目

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第2回 コーナー定規

これから国力を充実させようというカンボジアは、国力の基盤である国内産業を支える力を求めていた。若い技術者を育てねばならない。様々な技術移転を先進国に依頼して国造りに取り組んでいた。
左官職の技術もその1つである。国が豊かになればビルや家屋、マンションなどの建物が続々と建つはずだ。壁を塗り、床を作る左官職人が足りなくなる。左官職人を何としても育てなければならない。カンボジア政府が日本政府に要請し、野村さんを派遣してもらったのはそのためだった。

カンボジアに伝えるのは、日本の技能検定3級の進め方である。3級は最も簡単な試験で、日本では左官を目指す工業高校生も受験する。左官になりたての人でも、1年も仕事をしていればパスできる入門編といえる。技能レベルがまだそれほど高くないカンボジアに伝えるのは、この3級技能検定から始める。

ホテルに1泊した翌12日月曜日の朝、野村さんが向かったのは国立ポリテクセンターという高等職業専門学校だった。300人の職員がいて2100人の生徒が学ぶマンモス校だ。
野村さんたちに託されたのは、日本の技能検定試験の仕組み、進め方、採点法などを教えることだった。技能の底上げを図るには、技能のレベルを客観的に測る仕組みがいる。検定制度ができれば、左官を目指す若者たちは検定合格を目指した体系的な技能習得ができる。

野村さんに与えられた期間は1週間る。初日は下調べに費やした。会場に足を運び、技能試験に使う架台、鏝(こて)などの工具、材料を確認した。いくつもの問題が見つかった。

受験生に科せられるのは、下図のように作られた架台での作業である。架台は外枠が木で作られており、中の階段部分(図では、A、B、Cの面)にモルタル(セメントと砂、水を混ぜたもの)で1㎝厚の上塗りをする。出隅(でずみ=階段で踏み板と蹴込みが作る出っ張り)の角は正確に90度に仕上げ、出隅の直線は真っ直ぐでなければならない。平面はあくまで平らにすることが求められる。

下地_NEW

架台の外形は幅60㎝、長さは90㎝ほど。木枠の中の階段はモルタルでできており、平坦な面の長さはBが30㎝、Cは48㎝、そして階段の高さは6㎝ほどだ。

架台の図面は事前に送っておいた。だからそれらしいものは用意してあった。だが、野村さんの目から見れば。

「ああ、これは架台になっていない」

仕上がりでしかなかった。出隅の線が一直線でない。欠けたりうねったりしていて角度もあやふやだ。受験生はこの下地の上に1㎝厚の上塗りをして出隅の角は一直線に、角度は正確に90度に仕上げることを求められる。だが、下地がこれでは、まだ左官初心者である3級の受験生には難しすぎる試験になってしまう。これでは技能の熟練度を測ることはできない。

日本ではこの直角と直線を正確に出すために、コーナー定規と呼ばれる道具を使う。それも事前に知らせてあったのだが、現地では手に入らず、他の何かで間に合わせたのだろう。

「これでは試験に使えませんねえ」

そういった野村さんはこういうこともあろうかと持参したコーナー定規と鏝(こて)を取り出し、この階段の出隅を修正し始めた。現地が用意した架台は9台あった。9台とも野村さんが修正した。

ふと思いついてカバンからコーナー定規をもう1本取り出した。

「これは日本製ですが、確かタイで作っているので、手に入るはずです。差し上げますから参考にして下さい」

問題があったのは架台だけではない。モルタルも日本では考えられないほど質が悪かった。砂が細かすぎるのである。そして工具も貧弱だった。カンボジアの左官の技能レベルはこの程度らしい。いや、それを自覚しているからこそ、日本の左官技能検定試験を学ぼうというのだろう。出発点は限りなくゼロに近いな。胸の内でそう考えた。

こうして1日目が終わった。

写真=国立ポリテクセンターの人々と。後列右から2人目が野村さん

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第1回 プノンペン

カンボジアの首都プノンペンの国際空港に降り立った1人の日本人を、東南アジア特有の「冬」が迎えた。気温は30℃を越えているだろう。日本では「真夏日」である。だが、空気が乾燥しているのか、風が肌に心地よい。いまカンボジアは1年で一番過ごしやすい乾期である。
空港を出た群馬県桐生市の左官、野村裕司さんは空を見上げた。まだ明るい。ふとひとりごちた。

「この季節、こんな時間だと桐生は夕闇に包まれているが、プノンペンはまだ明るいんだな」

2015年1月11日夕のことだった。

野村さんは海外旅行が好きである。中学生のころから地理の勉強に身が入った。世界各地の地図を開き、

「ここでこれを見て、このルートを通って次の目的地に向かう。あ、これだったらもう1カ所回れるぞ」

と、世界旅行のプランをいくつも立てた。まだ見ぬ風景、写真でしか知らない歴史遺物、顔立ち、風貌、体格、言葉が私たちと違った異国の人々。野村少年の頭には、いつかは行ってみたい、踏みしめてみたい土地への憧れがいつもあった。

その夢が実現し始めたのは、18歳で始めた左官という仕事に慣れ、暮らしが安定してからだった。地図で辿った見知らぬ土地への憧れが、

「世界の左官職人はどんな仕事をしているのだろう? この目で見てみたい。私は世界の左官職人に引けを取らない仕事をしているのだろうか?」

という探究心と重なった。
だから、機会があるたびに海外に出た。同業者の慰安旅行、金融機関が主催する視察旅行、気の合う仲間と出る旅、同じ探究心を持った仲間との目的を持った旅。巡り歩いた国々は30近くにもなる。

カンボジアも、世界遺産のアンコールワットを訪ねたことがある。アンコールワットは石やレンガを積み上げて作られた寺院である。であれば、石と石を繋ぐ仕事、積み上げたレンガの表面をモルタルで飾る仕事、つまり左官の仕事が残っているはずだ。800年以上も前の「左官」はどんな仕事していたのか? それを自分の目で見てみたい。
だから、カンボジアへの旅は、初めてではなかった。

だが、今回の旅は「初めて」だった。

「東南アジアの3つの国から、日本の優れた左官技術を教えて欲しいとの依頼があった。日本を代表する左官職人を派遣して、日本が実施している左官職技能検定の仕方を現地に根付かせて欲しいと頼まれている」

発展途上国の技術の底上げを手伝う援助事業である。依頼主は厚生労働省だった。その依頼を受けた中央職業能力開発協会が日本左官業組合連合会に人選を頼んだ。日本左官業組合連合会は、中央職業能力開発協会が実施している左官職技能検定試験の検定委員として4人を出していて、野村さんもその1人だった。

「野村さん、そんなことができるのはあんたしかいないよ」

野村さんに白羽の矢を立てたのは、日本左官業組合連合会の技術顧問をしている鈴木光さんだ。鈴木さんは埼玉県行田市にあるものつくり大学の客員教授でもあった。いわば左官職人界の「ドン」である。断る術はなかった。いや、むしろ

「行ってみたい!」

と思った。自分の技が発展途上国の役に立つのなら、こんなに名誉なことはないではないか。

だから、今回のカンボジア訪問は物見遊山ではない。研究のための行脚でもない。日本を代表する左官職人としての「公務」の渡航だった。そして、日本の左官の技術が、初めて海を越える旅でもあった。

野村さんはプノンペン国際空港を出ると、成田空港から同行した中央職業能力開発協会の職員と2人、迎えの車に乗り込んで宿舎であるホテルに向かった。
さあ、明日からは真剣勝負である。カンボジアで左官職人を目指す若人たちを育てる検定制度をこの国に根付かせなければならない。

何だかわくわくしている野村さんがそこにいた。

桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第18回 桐生は聖なる町である

前回まで、森村さんが発掘してきた桐生誕生の姿を綴ってきた。ジグソーパズルに例えれば、何となく全体の姿は浮かび上がってきた。20年にわたる研究の成果である。
だが、まだ見つからないピースがある。

・桐生新町にお稲荷さんで描かれた斜めの線はいったい何なのか? 
・桐生の恩人でありながら極悪人とされた大久保長安の実像は?
・山王一実神道の実像は?

それは森村流でいえば、セレンディピティを待つしかない。

では、これまでに手に入ったピースをつなぎ合わせて浮かび上がった、生まれ落ちたばかりの桐生新町はどんな姿・形をしていたのだろう?

まず、桐生新町の町立ては1604年に始まった、というのが森村さんの見方である。根拠は村上直・法政大学名誉教授(故人)の研究資料から見つけた初鹿野加右衛門の記録だ。初鹿野加右衛門は町立てを現場で指揮する技術者で、桐生新町の町立てにも汗を流したと伝わる。その初鹿野加右衛門は17世紀初頭、大久保長安の配下として奈良に駐在していたが、下の表に見るように慶長9年(1604年)だけは奈良にいないのである。

中坊奉行衆一覧
年号 奈良在住の長安下代衆
慶長5年

(1600)

大久保藤十郎 初鹿野加右衛門
慶長6年 大久保藤十郎 初鹿野加右衛門 中坊秀祐
慶長7年 初鹿野加右衛門 吉村米介 三王五郎右衛門 原田二右衛門

中坊秀祐 北見勝忠 豊嶋忠次

慶長8年 初鹿野加右衛門 原田二右衛門 北見勝忠
慶長9年 原田二右衛門 吉村米介
慶長10年 初鹿野加右衛門 原田二右衛門 大久保藤十郎

「桐生新町の町立ての日程には3つの説があります。この1604年説はその3説には入っていないのですが、町立ては事務官僚ではできません。町立ての技術者だった初鹿野加右衛門がこの年、桐生に来ていたと考えれば辻褄が合います」

町立てがお稲荷さんを目印に使って進められたに違いないことはすでに書いた。しかし。何の必要があって、渡良瀬川と桐生川に挟まれた扇状地に新しく町を作る必要があったのか?

「日光東照宮に至る山入りの地、としてここが重要だったからです。天海僧正は天台宗の僧でもあります。天台宗で最も苛酷な修行は険しい山道を1000日歩き続ける『大峯千日回峰行』です。天台宗では山を歩くことは神聖な行為なのです。それを考え合わせると、徳川家康と天海僧正は、聖なる山中に入る入口、日光東照宮に至る入口、聖なる町として、桐生新町を作ったと考えれば、桐生が何故徳川家に厚遇されたのかなど様々な疑問が氷解します。徳川家康はこの地を『安楽土』にしたかったのではないでしょうか」

その上で森村さんは、家康の亡骸を運んだという天海僧正の足取りを想像してみた。

「桐生が山入りの地だとすると、ここから山道を通ってみどり市の覚成寺に行ったはずです。桐生市の吾妻山の中腹には下権現と呼ばれるところがあり、頂上を上権現といいます。上権現には吾妻権現という小さな神社がありました。天海僧正が大権現である家康の亡骸をお守りして通ったから、権現の名が残ったのに違いありません」

日光東照宮に至る、聖なる山道の入口。だから桐生は「特別な町」だと森村さんは自慢するのである。

✖️     ✖️     ✖️     ✖️     ✖️     ✖️     ✖️

2013年、東京・府中の大国魂神社(おおくにたまじんじゃ)で1本の太刀が見つかった。桐生新町の町立てを現場で指揮した大野八右衛門が死の前年、慶長18年(1613年)に奉納したものである。翌2014年は八右衛門没後400年だった。この年、桐生市で開かれた桐生町立て祭にこの太刀が貸し出され,1日だけ公開された。

この太刀は、何故か「御蛇丸」と名付けられ、いまでも「御蛇丸」として大国魂神社に所蔵されている。

「御蛇丸? それは違うのではないか?」

と言い出したのは、森村さんである。聞くところによると、やたらと長い刀だからこの名がついたという。

 「でもね、この太刀の名は茎(なかご=刀身の柄の中に入った部分)にちゃんと書いてあるんですよ。誰も気が付かなかったのかな」

その茎に刻まれた文字は次の通りである。

奉納武州惣社 六所大明神𠝏
願主當國之住 大野八右衛門
    一男 八郎兵衛尉

「どうです? この太刀の名前は『六所大明神𠝏』と明記してあるじゃないですか」

そして、刀身に刻まれていた銘文も森村さんの注意を惹いた。

諸佛救世者 住於大神通 為悦衆生故 現無量神力 如我昔所願 今者己満足

前の4句は法華経の有名な一節である。現代語に訳すれば

「世の人々を救おうとする諸々の仏たちは、偉大な神通力を持っており、みんなを悦ばそうと、計り知れないほどの神通力を現された」

とでもなろうか。仏への感謝の気持ちを表したくて法華経を引いたのだろう。
太刀を奉納した大野八右衛門の気持ちは。最後の2句である。森村さんはこんな訳を付けた。

「私が昔から懐いていたこのような願いをいま成し遂げたのだ。私の心は悦びに満たされている」

奉納の時期から見て、「昔から懐いていたこのような願い」とは桐生新町の町立てを指しているのに違いない。大事業を無事に成し遂げた安堵、悦びが伝わってくる言葉だ。

「私はこのようにして産声を上げた桐生で生まれ、育ちました、どうです、桐生ってすごい町でしょ?」

ふるさと桐生は、森村さんの誇りなのである。

写真:裏の畑で作物を育てる森村さん

桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第17回 鹿沼、空白の4日間

覚成寺はいまでもみどり市大間々町の中心街を外れた山地にある。覚成寺を訪れた森村さんは、もう一つの看板に気が付いた。「覚成寺の歴史」とあり、その中に

「古い時代、この覚成寺は現在地より西北の山中深くにあったが、明治四十五年(一九一二)現在地に移転されたものといわれる」

とあった。
だとすると、天海僧正が家康の亡骸を持って辿ったという「裏街道」は、山中の道だったことになる。天海僧正の生年ははっきりしないが、もっとも有力とみられている天文5年(1536年)だとすると、この時80歳前後である。一説によると天海僧正は108歳まで生きたという長命の人だ。だが、他に勝る体力があったとしても、いまでいえば後期高齢者である。山路は辛かったはずだ。わざわざこのルートを選んだのには訳があったに違いない。いったい何故、天海僧正は苦難の道を選んだのか?

1000人を超える大行列が辿ったのは歩きやすいように整備された街道である。それはできるだけ平坦な土地を通っている。だから、前回掲載した森村さん自作の地図で見るように家康の御霊が神になるために通るといわれる不死の道からは大きくはずれることになる。
天海僧正が裏街道を選んだのは、覚成寺の看板にあったように、家康の亡骸を無事に日光に届けるという目的もあったかも知れない。しかし、出来るかぎり不死の道に沿って日光に行こうとしたのではないか? もちろん、不死の道を正確に辿ろうとすれば山中の道なき道を進むことになる。それは無理だろう。それでも、できるだけ不死の道に沿って歩こうとしたのが、天海僧正が選んだルートではなかったのか?

川越を発ったのが3月27日。整備された街道を歩いた本隊は2日後の3月29日には鹿沼に到着した。鹿沼から日光までは29㎞。わずか1日の行程である。それなのに、本隊はここに4日間も足を止めている。とどまる理由が見あたらない「空白の4日間」である。いったい何故、無駄としか思えない日程を組んだのか?

これも、天海僧正が家康の亡骸を持って「裏街道」を歩いたと考えると謎が氷解する。本隊は、天海僧正の日光到着を待っていたのである。本隊に遺骨がない以上、本隊だけで日光東照宮にたどり着いても意味がない。その前に天海僧正との合流を果たさなければならなかった。
川越から深谷の瑠璃光寺に向かい、世良田の長楽寺、桐生の永昌寺と辿り、ここから山中に分け入ってみどり市の覚成寺を通り、山道を歩き続けた天海僧正は、本隊に比べて日光にたどり着くまではるかに時間がかかったはずだ。とすると……。

鹿沼での、謎の空白の4日間は、本隊が天海僧正の到着を待つ待機時間ではなかったのか。

日光東照宮は毎年5月17,18日の2日間、春季例大祭を催す。神輿を中心に100人の鎧武者、それぞれ50人の弓持ち、槍持ち、鉄砲持ちなど1200人が参道を往復する「百物揃千人武者行列」を見に、毎年多くの人々が詰めかける。久能山から日光へ、家康の亡骸を遷した際の行列を再現したものだという。
そういえば、

 「春季例大祭には不思議なことがありまして」

と話したのは、あのコピーを送ってくれた学芸員である。その話によると、東照宮に安置されている3基の神輿は、祭りの前夜、東照宮を出て近くの二荒山神社に遷される。祭りの当日はこの二荒山神社から御旅所になっている四本龍寺まで進む。ここで1200人と一緒になり、参道を東照宮まで行くのである。
学芸員はいった。

「どうして祭りの前夜、神輿を二荒山神社に遷すのだろう、と考えているのですが、よく分かりません」

3基の神輿は祭りの前夜、前夜に東照宮を離れて二荒山(ふたらさん)神社まで降り、当日は四本龍寺で1200人と合流する。

「あっ、これは、家康の亡骸を日光東照宮に納めた様をそのまま再現しているのではないか?」

と森村さんが思いついたのはしばらくたってのことだった。
二荒山神社の御神体は男体山である。ということは、家康の亡骸を持った天海僧正は男体山の頂上に登ったのだろう。男体山は久能山を出た不死の道が行き着く先である。そこから下山して本隊と合流したのに違いない。

「家康の御霊、亡骸は本隊には存在しなかった。だから1200人の本隊は四本龍寺で家康の御霊・亡骸の到着を待って合流し、日光東照宮を目指したのに違いありません」

森村さんに訪れたひらめきである。そう考えれば、全ての辻褄が合う。いや、そう考えなければ、鹿沼での謎の4日間、深谷の瑠璃光寺、桐生の栄昌寺、みどり市の覚成寺に、家康の遺骨を持った天海僧正が立ち寄ったという伝承を説明できないではないか。

そんなことをこれまで唱えた人はいなかった。だが、確かに辻褄が合う。森村さんは、家康が東照大権現という神になった手順を読み解いたのだと、筆者は考える。

写真:歴史の研究は史料との格闘である。これは森村さんが集めた資料のほんの一部だ。