沼田市の旧土岐家住宅洋館は国の登録有形文化財である。関東大震災直後の大正13年(1924年)、土岐章子爵が東京・渋谷に建てた。土岐子爵は最後の沼田藩主、土岐頼知の7男で、東京帝国大学を卒業後、パンの製造販売を始めた。無類のパン好きで、周りの人達は「パンの殿様」と呼んだと伝わる。
旧土岐家住宅洋館は1990年、土岐家にゆかりのある沼田市の沼田公園に移築され、さらに2018年には解体されて同市上之町に移された。この移築工事で左官の仕事を任されたのが野村さんだった。
移築工事は沼田市の建築会社が落札した。その会社から左官工事を任されたのが北関東一の評価を持つ高崎市の左官会社だった。落札から間もなく、この会社の担当者が建物を見に行った。
驚いたのは、天井と壁との突き合わせに取り付けられた廻り縁である。漆喰の蛇腹引きという難しい工法が使われている。天井と壁の突き合わせ部分にまず砂漆喰(漆喰に砂を混ぜたもの)を練り付け、適度に固まったタイミングを見て金型を曳いて形を作り、さらにその上に漆喰を2㎜ほど上塗りして仕上げる手法である。
「これはうちの会社ではでは出来ないわ」
しかし、仕事を請け負った以上、発注主の建築会社に
「できない」
とは口が裂けても言えない。何とかしなければならない。この工法ができる左官を探さねばならない。
まず東京の名高い左官に声をかけた。仕事の内容を説明すると、
「そんな仕事、とてもうちじゃ無理です。でもあそこなら」
というので、その静岡の業者を下請けに使おうとした。見積もりを取ったらかなりの金額だった。高崎の左官会社は、
「これじゃあ赤字になる!」
と突き返した。これでは左官仕事は請けられない、高崎の左官会社は仕事を返上した。
工事開始は目先に迫っている。困り果てたのは沼田市の建築会社だ。一緒に仕事をしていた設計士に相談を持ちかけた。どこかに漆喰の蛇腹引きができる左官はいないものだろうか?
打てば響くように答えが返ってきた。
「これは桐生の野村さんしかできない仕事ですよ」
野村さんはその設計士と長い仕事の付き合いがあった。変わった仕事を発注する設計士だった。ドイツ風にしたい、北フランス風がいい、スペイン風には出来ないか。それだけで具体的な指示がない。漠然としたイメージを語るだけで、あとは材料の選択からデザインまでが野村さん任せ。海外の建築写真などを参考にして造った見本を持って行くと
「あー、これこれ!」
と話がまとまる。野村さんの左官の腕、美的感覚に絶対の信頼を置く設計士だったのだ。
「だからね,野村さん、この仕事が始まった時から、この仕事はあんたにしか出来ないと思っていた。だけど口出しはできないので、建築会社が相談に来るのを待っていたんだよ」
2018年秋、野村さんは「現代の名工」になった。人並み優れた技能を持つ人を厚生労働大臣が表彰して「卓越技能者」と認定する制度である。沼田市の工事を進めている最中に東京のホテルで授賞式が開かれた。68歳での受章である。
「あなたを推薦するから『現代の名工』を受章してくれないか」
と群馬県職業能力開発協会の幹部から打診を請けたのは、実はその10年程前が最初だった。それからも毎年のように話を持ちかけられていた。しかし野村さんは
「左官に肩書きは要らないと思いますので」
と断固として首を縦に振らなかった。全国左官技能競技大会で1位を逃して以来の、それは野村さんの信条である。
だが、この時は押し切られた。
「ねえ、野村さん、いつまで拒否し続けるんだ? 住所と名前だけ書いてきてよ。あんたがもらってくれないと、後の人がもらえないんだよ。欲しい人がいっぱいいるんだ」
そうか、私が固辞し続けると、ほかの人が名工になれなくて困るのか。表彰式場まで足を運んだのは渋々だった。
意に染まない受章ではあった。しかし、それを報じた朝日新聞の記事に意を強くした。
「『最高の職人』めざし 後継育成も」
という見出しがついていたからである。「最高の職人」。まだそんなものになれたとは思わない。だが、自分が目指し続けてきたことは事実だ。それを言葉にしてもらえた。だから
「私の人生、これで良かったのかな?」
という思いが沸き上がり、何だか心が浮き立ったのである。
写真=旧土岐家住宅洋館で作業に当たる野村さん