桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第11回 逃避

昭和43年(1968年)も秋が深まった。野村さんは翌春、卒業である。

「高校を卒業したら上京して喜劇役者になる」

と思い定めていたはずだった。だから勉強などほとんどした記憶がない。頭の中は思いついたコントで満員状態だ。もちろん、成績は低空飛行である。

「喜劇役者になるのに成績なんか関係ない」

そう思い続けてきた。

ところが上京するはずの日が目の前に迫ったこのころから、突然野村さんは迷い始めた。

「喜劇役者になるということは桐生を離れるということだ。どこに腰が落ち着くかも分からない。俺がそんな仕事を選んだら両親はどうする? 長男の俺がそんな勝手なことをしていいのか?」

子どものころから漠然と心にあった父母への思い、家への思いが何故か沸き上がってきたのである。これは自分の人生だ。やりたい仕事をやらずに充実した人生を築けるか? いや、俺は長男だ。父と母の世話をする大きな責任があるはずだ。
右に行くのか、左の道を選び取るのか。考えても考えても踏ん切りがつかない。考えるほどに迷いが深まる。喜劇役者になるのか? 長男として左官職人になって家業を継ぐのか? 左官なんてなりたくないなあ……。

そうだ、左官にならなくても桐生の会社に就職すれば父母と暮らすことが出来る。喜劇役者への道は諦めることになるが、俺は長男だから仕方がないか。地元の金融機関か役所への就職を考えた。

ところが、

「野村、成績表を見てみろ。お前の成績じゃとても無理だわ」

就職担当の先生に冷たくいわれた。いよいよ追い詰められた。喜劇役者か、左官か。

迷いの中で年が明けた。昭和44年である。3学期が始まった。すぐに担任に呼び出された。

「お前、卒業したらどうするつもりだ? クラスの中で決まっていないのはお前だけだぞ」

切羽詰まった。野村さんは逃げ道を思いついた。いまの俺には人生を決める決断力がない。とりあえず大学に進もう。4年かけてじっくり考えれば少しは知恵もつき、自分の進むべき道が見えてくるかも知れない。

「先生。大学に行くことにします。今からでも間に合うところはありますか?」

いや、単なる逃げ道ではなかった。自分で自分の進む道を選べないのなら、ほかの誰かに選んでもらうしかないと考えたのである。大学に合格すれば4年間の猶予が出来る。合格できなかったら、これも運命と考えて、父の仕事を継ごう。

とはいえ、大学入試向けの勉強はもちろん、高校の中間試験、期末試験のための勉強もサボり続けてコントばかり考えてきたのである。まともに大学入学試験を受けたって合格するはずがない。

「推薦枠のある大学、まだ残っていませんか?」

担任は2つの大学に手続きをしてくれた。結果が出たのは2月中旬である。2大学ともに不合格だった。

「いやあ、これで私の人生は決まったな、と」

人生行路が決まった。俺は左官になるらしい。

その日から野村さんは友人たちと遊び呆けた。何となく寄り集まっては街をブラブラする。友人宅を訪ねては 雑談に花を咲かせる。

「自分には左官になるしか道がない、という現実を受け入れられなかったんですね。だから、何とかして現実から目をそらそうとした。いまなら、そんなことをしても現実が変わるはずはないと理解できますが、まだ18歳ですからね。とにかく何とかして現実から逃げたかったんです」

間もなく、現実が姿を現した。4月1日、野村さんは野村左官転に入社した。イヤでイヤでたまらない左官の仕事が始まった。

写真=壁を塗る野村さん

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