履きやすい靴、とは? クイーン堂シューズ 第4回 輸入靴

クイーン堂シューズを女性靴の専門店にする。大胆な発想だった。琛司さんは自分で選び取った道を勢いよく駆け出した。鋭いファッション感覚を持っているのが女性なら、その女性たちに選ばれ、喜ばれる魅力的な靴を仕入れなければならない。

琛司さんは妻の民子さんを伴って問屋を歩いた。女性が欲しくなる靴を選ぶには、女性の目線が必要だ。こうしてクイーン堂シューズの棚を、優雅で洗練された女性靴が埋め始めた。

そして琛司さんはもう1つ手を打った。フランス、イタリア、ドイツ、スペインなどからの輸入靴を仕入れ始めたのである。
日本製の女性靴は1万円内外が相場だった。しかし、フランス、イタリア製の靴は1足2万円から3万円はした。そんな高価な靴が本当に売れるのか?

「当時の桐生には勢いがありましたしね。桐生の経済力なら必ず売れるはずだ、と思っての決断でした。それに革製品には輸入枠があって、輸入商社は売れ行きにかかわらず一定の数量を輸入しないと、翌年から枠を減らされました。それが分かったから『私の店で売らせてもらうよ』とその商社に申し出たんです。喜んでくれましてね。だから有利な条件を出してもらえたんです。それも踏み切った理由の1つでした」

織都桐生が衰退の道を転げ落ち始めたのは1990年前後だと桐生の人たちは口をそろえる。琛司さんが女性靴専門店にしたのは1965年前後である。桐生にはまだ繁栄の余韻がたっぷり残っていた。値札を見ることもなく「すてきな靴」を買うことができるお洒落な女性たちがたくさんいたのである。美しい織物を生み出す町桐生で育った女性たちは自然にファッション感覚を磨いていたのだろう。ファッションの本場であるフランス、イタリアの靴に魅せられたのだ。
そして、同じようなファッション感覚を持つ女性は桐生の外にもいた。

「当時は群馬県内の大都会である前橋や高崎の靴屋にも、フランス製、イタリア製の靴は置いてありませんでした」

だから、時を追って、客層はさらに広がった。遠く高崎や前橋、沼田から、フランス製、イタリア製の靴を求めてクイーン堂シューズに足を運ぶお洒落な客が増え始めたのだ。

「いまのように、インターネットやSNSなどの安価な情報伝達手段はありません。かといって、新聞やテレビに広告を出すほどの資金はクイーン堂にはないから広告なんてまったくしなかった。それなのに遠くからのお客様がおいでになるようになった。桐生のクイーン堂シューズにはフランス、イタリアの最先端のモード、ファッショナブルな靴が置いてある、という話がいつの間にか口づてで伝わったらしくて」

賭けが見事に当たったといえる。昭和60年(1985年)ごろには、フランス、イタリア製の高価な靴が毎月50足、100足と売れるようになったのである。

「毎月、100足? 桐生のような地方都市で、どうして高価な輸入靴がこんなに飛ぶように売れるんだ?」

そんな疑問を持った輸入靴の問屋が視察に来たこともあった。繊維の町・桐生の豊かさと、輸入靴を売っているのは群馬県内ではクイーン堂シューズだけだから県内全域、近県からも客が来るのだ、と説明すると納得して帰っていったという。

靴職人がコツコツと注文靴を1足ずつ作る工房から、注文靴の注文を受けながら既成靴も合わせて販売する店に、そして既成靴だけを販売する店へ、さらに女性用の既成靴の専門店へと、クイーン堂シューズはまるで時代の風向きを読むように、しなやかにその姿を変えていった。

写真=クイーン堂シューズにはいまも輸入靴がある。ポルトガル製の靴の前に立つ琛司さん

履きやすい靴、とは? クイーン堂シューズ 第3回 誕生

クイーン堂シューズを創業したのは、小泉充さんの曽祖父にあたる七藏さんである。栃木県足利市の注文靴工房に勤める靴職人だった。やがて腕前を認められたのだろう、工房が隣の群馬県桐生市に支店を出すと、その支店長を任された。間もなく七藏さんは独立、本町通から1本西の糸や通りに店を持ってアサヒ屋靴店を名乗った。明治40年(1907年)ごろのことだったという。後に店名を小泉靴店に変えた。

当時の桐生は名だたる繊維の町で、わが世の春を謳歌していた。次から次へと靴の注文がきて、すぐに数人の職人を使うようになった。加えて大正9年(1920年)には今の群馬大学理工学部の前身、桐生高等染織学校が市内に設立された。

「ええ、そこに通う学生さんたちにずいぶん贔屓していただいたと聞いています」(小泉充さん)

時代を少しさかのぼる。日本で革靴が普及し始めたのは明治維新後のことだ。幕末に坂本龍馬が革のブーツを履いたというが、それは例外に過ぎない。開国して世界と向き合った明治政府は西洋の進んだ知識、文物を急速に取り入れて国の近代化を図った。急がねば西欧列強の植民地にされかねない。危機感が拍車をかけた。官吏や軍隊を洋装化した。となると、履くのは革靴である。
草履やわらじ、下駄で過ごしてきた日本に靴メーカーなどあるはずがなかった。そこに革靴の需要が生まれた。当初は輸入に頼ったが、やがてお雇い外国人が靴の作り方の指導を始めた。こうした流れを受けて、足袋職人、草履職人が転職して注文靴を作り始めた。
七藏さんが靴工房に職を求め、そして独立したのはそんな時代だった。

しかし、すべての兵隊の足を採寸して注文靴を作っていたのではとても間に合わない。そこで1870年代後半には靴工場も生まれた。そして、国民の洋装化も日に日に進んだ。革靴の需要が民間にまで広がりを見せ始めた明治20年代、既成靴の製造と販売が東京・浅草を中心に徐々に始まる。高価な注文靴(2円から5円程度。革質やデザインでもっと高価なものも)に比べ、大量生産を取り入れた既成靴は50銭から1円50銭程度と安かった。既成靴が徐々に浸透し始めた。

充さん(右端)と理一さん(右から2人目)

小泉充さんの祖父・理一さんが小泉靴店を受け継いだのは、そんな流れが強まった昭和のはじめだった。理一さんはこの流れを見逃さなかった。父・七藏さんに学んで注文靴作りの技術を身に付けながらも、既成靴の仕入れ、販売も始めたのである。店を現在地に移したのは太平洋戦争前のことである。

3代目の琛司さんの時代になると、靴店経営の決定的な転換期が訪れる。琛司さんは桐生商業高校を卒業すると、18歳で埼玉県熊谷市の靴問屋に修業に出た。小泉靴店を引き継ぐためだったが、注文靴を作る工房ではなく問屋を選んだ。

「私は靴職人になる才能がない」

と自分で見極めたからだ。

「いい靴を作るには絵心がいるんです。デザイン性もそうでしょうし、3次元のものを作るには空間図形を思い描く能力が必要だということなのでしょう。ところが、私は絵がからっきしダメ。ああ、これは無理だな、と」

熊谷市の問屋に勤め始めて半年少したった頃だった。

「お父さんが交通事故で入院した!」

という知らせが飛び込んだ。あわてて帰郷した。理一さんは意識不明の状態が1週間続いたが命に別状はなく、1ヶ月ほどで退院できた。しかし、体の自由が少し奪われた。注文靴はもう作れそうにない。店の経営も大儀そうだ。私が父に代わるしかない。琛司さんは勤めを辞め、家に戻った。昭和33年(1958年)のことだ。

当時、小泉靴店には4人の靴職人がいた。注文靴は彼らに任せた。琛司さんが力を入れたのは既成靴である。何しろ、注文靴に比べればはるかに安い。それにメーカーがデザイナーを使って作るだけあってデザイン性も優れている。これからは既成靴の世が来る。琛司さんはそう確信していた。
10年ほどは注文靴、既成靴の両方を扱い続けた。注文靴が売り上げの3割を切った頃、琛司さんは決断する。

「もう注文靴の時代は終わった」

職人さんたちには徐々に独立してもらい、小泉靴店を既成靴だけの店にした。そして数年後、さらに大きな決断をした。男性用の靴を捨てた。女性靴専門の店にしたのである。

「売り上げを見ていました。すると女性靴が男性靴の3倍売れているんです。女性はファッションに敏感なんですね。それに、桐生の旦那衆はなかなか靴を買わない。市内を歩き回る時は突っかけやサンダルを履くんですよ。であれば、狭い店に男性靴も置くより、女性靴専門にしたほうが経営効率が上がると考えたのです」

昭和46年(1971年)、店名を「クイーン堂シューズ」に改めた。女性靴専門店に「クイーン(女王)」ほどぴったりの名前はないではないか。

写真=1965年(昭和40年)の小泉靴店

履きやすい靴、とは? クイーン堂シューズ 第2回 足に靴を合わせる

筆者はバリー(Ballyの靴を買ったことがある。もう40年近く前、仕事で香港に出張した時だ。
バリーはスイス高級靴メーカーである。とある大臣の定例記者懇談会で彼がバリーのハーフブーツを履いているのを目にした。

「金持ちはこんな靴を履くのか」

成功者の香りをその靴は放っていた。憧れが芽生えた。

「一生に一度はあんな靴を履いてみたいものだ」

だが、日本ではとてつもなく高価である。1足10万円では手に入らない。一介のサラリーマン記者には手が出ない。半ば諦めていた。

ところが香港では高くなかった。日本円で確か2万円強だった。ここで買わねばバリーの靴なんて一生買えない。心が動いた。

靴のサイズには足長(つま先からかかとまでの長さ)しかないものと思い込んでいた。私のサイズ、27.5cm(欧州の表示では43⅓)を出してもらい履いてみた。右足の甲の部分が窮屈で痛い。それを告げたが、店員は

「革は履いているうちに伸びる。問題ない」

という。そういうものか。筆者は財布のヒモを解いた。

帰国して早速履き始めた。痛い、甲が痛い。靴は朝家を出るとき履けば、普通脱ぐのは帰宅してからである。だが、それが待てないほど甲が痛む。伸びるはずだった革は、何度履いても伸びてくれない、だから履くたびに足の甲が傷む。我慢できないほど痛む。

靴の幅を広げる器具をDIYの店で買ってきた。履いても伸びないのなら器具を使って伸ばそうと思った。器具を靴の中に入れてセットして数日経つと、なぜか靴の底が一部剥がれていた、接着剤で接着しようとしたが、着かなかった。これでは履けない。大枚を投じたバリーの靴はゴミ箱に放り込むしかなかった。

靴には足長のほかに、足囲(親指、小指のそれぞれ付け根にある出っ張った部分の周囲。3E、4Eなど)というサイズがあるのを知ったのはその後のことだった。そして、欧米人の足は細く、2Eが標準なのだそうだ。私の足は3E、ないしは4Eである。バリーの靴は私の足には細すぎたらしい。

人の足は百人百様である。靴箱に表示されているのは足長、足囲程度だが、これだけではあなたの足にぴったりの靴を見つけることは出来ない。右足と左足だって、実は同じサイズというわけではない。右は27cmで入るのに、左は27.5cmが欲しいということだってある。だからといって、同じ靴の27cmと27.5cmを買って半分は捨てる、などということをする人はまずいない。

親指が一番長い足を「エジプト型」という。人さし指が親指より先に出ているのは「ギリシャ型」だ。「正方型」は、足指の長さがほぼ同じである。それぞれの「型」に合った靴を選ばないと歩くたびに我慢を強いられることになる。いや我慢ですめばいいが、足全体の変形、爪甲鉤彎症(そうこうこうわんしょう=足の親指の爪が厚くなり、濁り、表面がでこぼこし、前方に鉤のように彎曲する状態)、巻き爪、陥入爪(かんにゅうそう=爪の先端が周囲の皮膚に刺さり、炎症や痛みを引き起こす状態)だって引き起こしかねない。

くるぶしの位置も人によって違う。低い位置にくるぶしがある人がやや深目の靴を履くとくるぶしが靴の端に当たって痛み始める。

百人百様の足にぴったりとフィットし、快適な歩きを生み出す靴を選ぶのは、実は大変に難しいことなのだ。そんなことを知ったのは、多くの女性客を引き寄せるクイーン堂シューズの秘密を知ろうと取材を始め、小泉充さんに教えてもらったからだ。

だが、足が千差万別であることを知っても、既成靴なのに履き心地を高く評価されているクイーン堂シューズの秘密を知ったことにはならない。

小泉さんが発信するSNSには

「モードな靴、素敵なのに足に合う靴を見つけられます。フィッティングもさすが。他で買っても今一なことが多く、結局こちらへ戻ります。お勧め」

などという投稿が絶えない。繰り返すが、クイーン堂シューズはメーカーが作る既成の靴を売る靴屋さんである。この店には魔法使いでも住み着いているのか?

写真=クイーン堂シューズの店内

履きやすい靴、とは? クイーン堂シューズ 第1回 生き残り

「商店街の靴屋で最後に靴を買ったのはいつだったろう?」

そうなのである。いま、町から靴屋さんが急速に姿を消している。

1985年、全国に約2万7600店あった靴屋は2021年、5083店舗にまで減った。総務省統計局と通商産業省が実施する「経済センサス」の数字である。わずか40年足らずで4分の1になってしまった。さらに5083店舗は5年前の調査に比べると1124店舗の減少だ。町の靴屋さんの廃業に歯止めがかからない。

原因はいくつかある。まず、大手チェーン店の台頭である。2023年時点で最大手のABC-MARTは全国に1081店舗を展開、2位の東京靴流通センターも507店舗を開いている。この2社だけで全体の3割以上を占める。
オンライン通販の台頭も目覚ましい。Amazon、楽天、ZOZOTOWNなどがサイズ交換、返品対応を充実させて店舗に足を運ばなくても安心して靴が買えるようになった。
それに少子高齢化が追い討ちをかけ、さらに都市部ではテナント料・人件費の高騰が加わる。町の靴屋さんが生き残ることが出来る隙間が年々狭くなっている。

こうした大きな流れは、当然桐生でも起きた。織物で繁栄を極めた時代を持つ桐生には、かつて30を超す靴屋さんが軒を並べた。しかし大手チェーン店の進出、ネット通販の普及という全国に吹く逆風に加えて、桐生には繊維産業の衰退、急速な人口減少という嵐が吹き荒れた。2005年に旧新里村、黒保根村と合併した時は13万2443人だった人口は2025年5月、とうとう10万人を割り込んで9万8224人になった。町の靴屋さんは全国以上の早さで姿を消していった。いま、いわゆる町の靴屋さんはたった3店舗しかない。

ご紹介する「クイーン堂シューズ」は、生き残った3店舗の1つである。桐生市の目抜き通りである本町通のほぼ中央、本町4丁目にある店舗は、間口3m弱、店内は100㎡に足りない。だから店内に展示できるのは200足ほどでしかない。広い店内に所狭しと靴を並べるチェーン店に比べれば品揃えははるかに見劣りする。
ところがこの店、驚くほど商圏が広い。客は桐生市内や隣接するみどり市、伊勢崎市、太田市、栃木県足利市だけでなく、車を使っても1時間以上はかかる高崎市、前橋市、沼田市、埼玉県熊谷市からも、わざわざこの店に靴を求めに来る常連さんが100人以上もいるのだ。

なぜ、こんな地方都市のちっぽけな靴屋に遠路はるばる足を運ぶ客がいるのか?

クイーン堂シューズの4代目、小泉充(たかし)さんが展開するFacebookやインスタグラムへの書き込みを見て、

「ひょっとしたら、そうなのか?」

と閃くものがあった。
書き込みはこんな具合である。

「さすがクイーン堂さん!!履きやすくて素敵な靴が必ず見つかります★」

「快適に歩けるシューズを買いました(^O^)/私の変な足を理解して歩きやすい靴を提供してくれる【クイーン堂シューズ】さんいつもありがとうございます(*^o^*)。ちびっ子な私が嬉しいインソールだし 早速履いて歩いたけど 足がひっくり返る事もなく歩けた!!良かった♪♪」

この店が遠方の客も引き寄せているキーワードは、どうやら

履きやすく、快適に歩ける靴

らしいのだ。

だが、クイーン堂シューズはひとりひとりの足に合わせて靴を作る靴工房ではない。メーカーが大量生産する既成靴を仕入れて販売する靴屋さんである。チェーン店を含めたほかの靴屋さんと同じではないか。それなのに、クイーン堂で売る靴がほかの靴屋で買う靴より履きやすいということがありうるか?

どうにも納得できない。納得するには話を聞くしかない。私は取材を始めた。

写真=クイーン堂シューズ。左から小泉充さん、琛司さん、民子さん

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第23回 伝統と革新

左官日本一を目指して第20回全国左官技能競技大会に出場した野村さんが、石膏の置き引きで失敗したことはすでに書いた(第18回 そして、3位)。だが、転んでもただでは起きないのが野村さんである。広島県三次(みよし)市からわざわざ前橋市に引っ越し、野村さんに弟子入りした宮地健さんが2007年の大会に出ることになると、石膏の4本引きを考え出し、みごと宮地さんに習得させたのだ。

石膏の置き引きは「第17回 3位」で書いたように、平らな台に盛り上げた石膏を型で引いてモールディングを作る技術である。普通は1本ずつ引く。これを4本まとめて引いてしまおうというのだ。

「ええ、大会前にボンヤリと考えていて思いついたのです。大会は制限時間内に課題を完成させなければなりませんので、一度に何本もモールディングを作ることができれば有利になりますから」

弟子が技能五輪に出た時、2本引きしている出場者を見たことがある。型を2つつなぎ、ガイドに沿って引いていた。

「なるほどな」

その工夫ぶりに感心した。宮地さんが大会に出ることになった時、

「2本同時に引けるのなら、4本も引ひけるのではないか?」

と工夫を重ね、で宮地さんに練習させた。無論、最初は上手くいかなかった。置き引きは石膏の固まり具合との闘いである。柔らかい間は型で引いてもひしゃげてしまう。そこにまた石膏を盛り、型で引く。この作業を4本同時に進めるには……。

  4本引きに挑む宮地健さん

水で練った拙稿を置く台を「引き台」という。90㎝×180㎝ほどの大きさだ。2本引きしていた出場者は180㎝の方にガイドを取り付け、2つつなげた型で引いていた。であれば、反対の側にもガイドを取り付けたらどうだ? そしてそれぞれのガイドに沿って、2つつなげた型で引けば、1度に4本のモールディングが出来るはずだ!

大会で宮地さんはみごとに4本引きを実演した。あっという間に課題をこなした宮地 さんは、置き引きに取り組み続ける競技者の中でただひとり、時間をもてあました。関係者はその早技に度肝を抜かれたという。

「私はこの大会にコーチとして参加したのですが、もう1つ工夫したんです」

円柱に漆喰を塗り、そこにレースを押しつけて模様を描くという課題があった。

「普通はレースを円柱に巻きつけるのですが、それだとどうしても継ぎ目が出来ます。この継ぎ目を何とかしてなくすことは出来ないか、と考えて……」

レースを30㎝の幅に切って斜めに巻きつけたらどうか。巻きつけながらレースの柄を継ぎ目で合わせれば、継ぎ目が見えなくなるはずだ。

大会前、13回練習を重ねた。やっと継ぎ目が見えなくなった。

「大会当日はね、宮地君が30㎝幅のレースを円柱に巻きつけ始めると、どっと見物が押し寄せたんです。そりゃあ、ほかの選手はレースを円柱に巻きつけるだけ。ところが宮地君は30㎝幅に切ったレースを上から斜めに巻いているのだから、『こいつ、いったい何を始めたんだ?』と関心を引いたらしいのです」

宮地さんは、みごとに継ぎ目のない模様を円柱に描いた。13回も繰り返した練習が生きたのである。場内にどよめきが起きたのをはっきり覚えている。

だが、宮地さんは2位だった。優勝者とわずか1点差の2位である。

「実質は彼の優勝でした。一部の人にしか知らされていなかった競技条件を彼は知らなかったので大きく減点されてしまったのです。1位との点数差はわずかに1点。あの条件を彼が知っていたら、彼が日本一でした」

野村さんは2021年1月、71歳を目前に野村左官店を長男の卓矢さんに譲った。

「私が父から仕事を受け継いだのは32歳の時でした。息子も30代後半になったので、そろそろ潮時かと」

だが、いまでも頭の中は現役のままである。より美しく、より早く、より作業性がいい仕事の仕方はないか? いくつもの「?」がいつも存在している。

だからだろうか、いまでも難しい仕事は野村さんご指名で来る。2022年夏から秋にかけて沼田市出身の土木技術者、衆議院議員の久米民之助が東京・渋谷に構えていた鉄筋コンクリートの洋館、「旧久米家住宅洋館」が、ゆかりの沼田市に施設された際、左官工事は

「野村さん、あなたにしか出来ない」

と頼み込まれ、2ヵ月かけて仕上げた。群馬県嬬恋村鎌原(かんばら)地区から

「江戸時代に建てられた地区所有の土蔵の修復をしたい」

と声をかえられたのは2021年5月である。9月から11月まで3ヵ月かかった。
そして2023年から2025年にかけて、桐生市本町1,2丁目の重要伝統的建造物群(伝建群)の一角で進む土蔵の修復も野村さんの仕事である。

「ええ、息子に仕事を譲って、私は片付け仕事でもしていようかと思っていたのですが、なかなかそうはいきません」

——身体が空いたら何をしたいですか?

「土で何かを作りたいですね。そうそう、ピザ窯を作って欲しいというお客さんがいるのですが、なかなか手がつけられなくて。それが出来たら、全部土で出来て2,3人が入れる家を作り、宴会をやりたいな、と。それに、土で鳥を作るなんてことも考えています」

どうやら、野村さんは鏝(こて)を手放す気はないらしい。事務所の棚には100本を超す鏝が飾ってある。

「死ぬまで鏝を手放す気はありません」

写真=野村さんの事務所には100を超す鏝(こて)が飾ってある