左官という仕事に身が入り始めた。評判のいい左官だった父・角尾さんの技を盗み始めた。角尾さんは何も教えてくれなかったのだ。盗んだ技は建ちかかった家の押し入れの壁塗りで試した。ここなら多少失敗しても目立たないからである。
セメントや砂のほこりで真っ白になった自分を恥じることもなくなった。
「俺は額に汗して働いている。日本一の左官を目指している。どうして恥じなければいけない?」
そう思えるようになっていた。
働きながら考えた。俺は日本一の左官になる。そのためには何が必要だろう?
考えた末にたどり着いたのが
「毎日の仕事を基本通りにやる」
ことだった。
基本通り、とは下塗り、中塗り、上塗りと、必ず3度に分けて塗ることである。当時は内装に石膏ボードを使う建築が多かった。これには、石膏で下塗り、中塗りをし、上塗りは施主の好みで繊維壁材を使ったり、漆喰を使ったりした。
新しい家がたくさん建った時代である。勢い、左官職人は仕事に追われ、現場から現場へ飛び回る忙しさだった。そのためだろうか、下塗りをすっ飛ばし、2度塗りする左官がほとんどだった。確かに、一見しただけでは下地がきちんと塗ってある壁と見分けがつかない。だが、時がたつにつれて違いが出る。下塗りで下地としっかりした接着を保っていない壁は数年もすると剥げ落ち始める恐れがあるのだ。
ひょっとしたら、施主は野村さんの丁寧な仕事には気が付かなかったかも知れない。だが、建築現場にはたくさんの「専門家」がいる。大工を始め、電気工事屋、塗装屋などいくつもの工事現場を手がけてきた人たちである。彼らは建築現場で、厳しい批評眼を持ってほかの職人の仕事を見る。
その人たちの間で
「野村はいい仕事をする」
という評価が生まれていたらしい。時折、そんな言葉の端々が野村さんの耳にも届くようになったのだ。ますます仕事が面白くなり、少しずつだが自信もつき始めた。その自信が
「野村左官店をいま以上に大きくしよう」
という事業欲を生んだ。25歳前後のことだったと記憶する。
そして、父・角尾さんが
「俺と違って、倅(せがれ)は真面目なヤツだ。面倒を見てくれ」
とあちこちで頭を下げてくれていたことを知ったのもこの頃である。
そんなころ、野村さんは桐生市の小林段ボール社長、小林禎(ただし)さんと知り合う。父・角尾さんが可愛がっていた電気工事屋の紹介だった。当時小林段ボールは住宅建築にも事業を広げていて、野村さんにも仕事を出してくれるようになった。
その日は朝から雨だった。外回りの仕事にかかっていたところだから、雨では仕事にならない。現場には行かず、何かの用事で小林段ボールを訪れた。すると、
「社長が呼んでいますよ」
と声をかけられた。何事だろう?
「野村君、朝からうちの会社に来て、いまの現場はどうした?」
「朝から雨ですから、仕事は休みました」
「そうか。でも君、現場に行って確認したのか? 君の家の周辺は雨かも知れないが、現場は降ってないかも知れないじゃないか」
「いやあ、こんな雨ですから……」
「バカヤロウ!」
怒声が鳴り響いた。
「お客様はな、自分の家が建つのを今日か明日かとお待ちになっている。雨が降っても現場に顔を出し、そこが雨じゃなければ仕事をする。やっぱり雨だったら、お客様に『この雨で、今日は仕事ができません』とお断りするんだ。それが職人というものだ! いまからでも行ってこい!!」
野村さんは青くなって現場に駆け付けた。現場でもやっぱり雨が降っていた。その雨に濡れながら、野村さんには社長への感謝の思いが沸き上がった。
少しばかり仕事ができるようになって思い上がっていたのではないか? 自分がいい仕事をすれば周りなんかどうでもいいと思っていたのではないか? お客様の思いなんて考えようともしなかったのではないか?
私の常識は世間の常識ではなかった。約束は守らねばならないこと、守ることが出来なくなった際は連絡を欠かさないこと、そんな当たり前のことが私には見えていなかった……。
今日は雨で仕事ができないと施主に伝えながら、野村さんはつい先程小林社長の顔を思い出した。額に青筋を立てんばかりの怒り顔だった。
ありがたかった。小林社長は本気で怒っていた。あの人は、私を左官として育てようとしてくれている。
「いまでも、小林社長は私の恩人だと感謝しているんです」
写真=小林社長(左端)と食事をする野村さん(中央)