桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第15回 日本1の左官になれ

付き合いが始まった小林段ボールの住宅建築部門には、当時左官店が3社入っていた。時を追って野村左官店が受ける仕事の比率が増えた。小林社長は、基本を忠実に守る野村左官店の仕事ぶりを気に入ってくれたようである。

「おい、野村君」

ある日、小林社長に声をかけられた。

「ちょいと話あるんだがな」

話とは、野村左官店の事業を広げないか、という提案だった。住宅建築にはタイル貼り、外壁の塗装、外構工事なども必要だ。

「そこでだが野村君、君の会社でその3つの仕事を始めないか。なーに、新しく職人を雇う必要はない。全部外注して君が仕切ればいいんだ。仕事は俺が回してやる。どうだ、やってみないか?」

事業を拡大したい。それは野村さんが日頃考えていることである。渡りに船の提案ではある。だが、野村さんは考え込んだ。左官店がタイル、塗装、外構まで手を広げる。確かに利益は増えるだろう。だが……。

「社長、申しわけありませんが、この話はお断りさせてください。確かに事業は広げたいのですが、私は左官一筋でやっていきたいのです」

また怒られるかと身構えた。だが、小林社長は破顔一笑した。

「そうか。いい心がけだ。だがな、左官一筋でやるのなら、野村君、一芸に秀でろ。日本一の左官にならなきゃダメだぞ」

日本一の左官になる。誰にも告げず、ひとり密かに思い続けていることだった。その背中を小林社長から押された。一層仕事に打ち込んだ。

「ええ、下地の上に1回塗りではなく2回塗りは必ずやりましたし、ほかの職人が5時で仕事を切り上げるのなら、俺は6時,7時までやってやるって思い定めました」

そんなころである。ある現場で3時のお茶をしていた。そこへ施主さんが顔を出した。

「野村さん、お願いがあるんだが」

何だか言いにくそうである。黙って待っていると、1枚の写真が出て来た。年頃の、綺麗な女性だった。

「これ、私の娘なんだが、どうだろう、あなたがもらってやってはくれないだろうか?」

突然の話だった。驚いていると、

「いや、あなたの仕事ぶりがたいそう素晴らしいので、この人ならうちの娘の婿に最適だと思ってね」

いま思い出しても、美しい娘さんだった。だが、結婚は一生の大事である。それだけで決められるわけはない。

「ありがたいことでしたが、丁重にお断りしました」

驚いたことに、それからしばらくしてほかの現場で仕事をしていると、またまたそこの施主から

「うちの娘を……」

と声をかけられた。野村さん、モテモテである。

「あまりお話しもしたことがないお施主さんから、1度ならず2度までもお嬢さんの結婚相手になれといわれて、ホント、戸惑いました。いったいどうなっているんだろう、って」

筆者は当時の野村さんにお目にかかったことはない。だが、セメントと砂のほこりにまみれて鏝(こて)を動かし続ける野村さんの姿は、周りから見ればきっと光り輝いて映ったのに違いない。

野村さん(中央)はギターを抱いて舞台に立ったことも

そして野村さんは、昭和42年(1967年)に開校した桐生市青年大学に通い始める。日本一の左官になり、左官店の事業を拡大するには腕を磨くだけでなく、知識や知性、教養を身につける必要があると思い立ったのだ。仕事を終えて週2回、一般教養や桐生の歴史、そして好きな音楽を学んだ。

同じ頃、友人に誘われて市のバドミントン教室にも通い始める。コートに出て無心にシャトルを追い、ラケットを振るっていると仕事のモヤモヤした思いが吹っ切れ、気が晴れた。
だが、野村さんがバドミントンで手に入れたのは気晴らしだけではなかった。2歳年下の妻・恵子さんと知り合い、29歳で結婚したのである。

充実した日々だった。

写真=バドミントンに興じる野村さん(右)

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