桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第10回 堺駿二

野村さんの父・角尾さんは若くして独立、野村左官店を起こした。裕司さんは2男1女の長男である。だから、幼いころから

「僕は親のそばにいないとまずいよな」

とボンヤリと思っていた。孝行息子である。

  母のキヨさんと

ところが、家の仕事を継ぐ気はなかった。角尾さんは野村左官店の社長とはいえ、当時の住まいは2畳の玄関に6畳の居間、それに2畳ほどの台所という苫屋である。そこで親子4人(弟はまだ生まれていなかった)が暮らす。決して恵まれた暮らしとはいえない。

小学校1年のころ、角尾さんは3畳間を増築した。

「ああ、これで少しは家が広くなる」

と喜んだのもつかの間、角尾さんはその部屋に住み込みの職人を住まわせたのである。先輩の左官職人から

「俺の息子を鍛えてやってくれ」

と頼まれたらしい。何のことはない、やがて弟が生まれ、さらに居住空間が狭くなっただけだった。

角尾さんは酒好きで気のいい左官職人だった。先輩職人の息子を引き受けたのも気の良さの現れだった。そして、しょっちゅう左官職人だけでなく、現場で知り合った様々の職種の職人たちがやって来て酒盛りを始めた。6畳間での大人たちの宴会が終わるまで、子ども3人は玄関の2畳の間に押し込められた。

「父の仕事を継いでもこんな暮らししか出来ないのか」

だから、左官になんかなりたくない。両親のそばにいなくては、と思いながら、2代目の左官になる気は全くなかった。

では、何になりたかったのか。野村さんは、小学校も高学年になると俳優に憧れた。父に連れられてよく東映の時代劇映画を見に行った影響だろう。市川右太衛門、片岡千恵蔵、大川橋蔵,中村錦之助、東千代之介……。カッコいい主役たちが悪人腹をバッタバッタと切り伏せる。当時は東映時代劇の黄金時代だった。

いや、野村さんが憧れたのはそんな銀幕のヒーローたちではなかった。何故か脇役に憧れたのである。

「堺駿二さんという役者さんがいたでしょう。そうそう、ザ・スパイダースのヴォーカルだった堺正章さんのお父さん。目明かしなんかの役で主役の回りをウロウロして笑いを取っていた人です。その堺駿二さんに憧れましてね。ああ、私も人を笑わせる喜劇役者になりたいって」

母キヨさんは歌謡曲が好きだった。いつも鼻歌を歌いながら家事をこなしていた。その影響だろうか、野村さんも歌が好きだった。岡晴夫や田端義夫の曲が得意で音楽の成績は優秀。音楽の時間、

「野村君、前に出て歌ってみて」

と何度指名されたことか。イではなかったから、ひょっとしたら芸人の素質はあったのかも知れない。

歌以上に好きだったのが友人たちを笑わせることだった。様々なギャグを自分で考え、披露する。友人たちが笑い転げてくれるとこの上なく幸せだった。
桐生商業高校に入るとさらにヒートアップした。頭の中はコントだらけである。まとまるとやってみたくなる。教室で友人に相方を頼み込み、格闘シーンの練習をする。クラスメートの何人かが笑えば、ますます心が固まる。

「俺、喜劇役者になってみせる!」

ある日、テレビを見ていて思わず独り言を言った。

「あ、このコント55号のコント、俺が考えたヤツと同じじゃないか!」

家の近くに,東京の飲食店に修飾した先輩がいた。ある日、帰省してきた先輩に喜劇役者になりたいと話した。

「だったら、夏休みに俺の店でアルバイトしないか。すぐ近くに芸能事務所があるんだ」

お笑い芸人への道が見えてくるかも知れない。休みになると同時に上京してアルバイトを始めた。店にいた従業員の1人が

「そうなのか。だったらあの事務所には知り合いがいるから話してやるわ」

トントン拍子である。数日後、いよいよ芸能事務所の担当社員に会えることになった。私、お笑いが取れる喜劇役者になりたいんです!

「ああ、そうなの。惜しかったなあ。玉川良一の運転手が決まったばかりなんだよ。いまのところほかに空きがないから、君、急ぐことはない。まず高校を卒業して、それでも芸人になりたかったらやっておいで」

俺は喜劇役者になる。道は半ば開かれたと思った。

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第9回 思い出のラオス

思い返してみれば、何かとラオスとは縁があったようだ。
野村さんが東南アジア3カ国への左官技術伝道者になる数年前のことだ。埼玉県行田市のものつくり大学に東南アジア8カ国から左官技術の研修生を集めて講座が開かれたことがあった。左官職技能検定員だった野村さんも講師として壇上に登り、日本の鏝(こて)について話した記憶がある。

初めてラオスを訪れた時、

「あの時はお世話になりました」

とあいさつした生徒がいた。通訳を務めてくれた政府職員である。話を聞いてみると、ものつくり大学の受講生だったというのだ。そういわれて記憶が蘇った。確かにそうだ。日本語が話せる彼とは打ち解け合って、確か居酒屋でご馳走をしたんだったなあ。
そういえばあの時、彼と一緒にラオスから来た研修生がいた。その研修生は休み時間になると教室から消えた。授業が始まってもなかなか戻ってこない。あとで聞くと、ものつくり大大学の隅々まで歩き回っているのだという。地方都市にある職業訓練校の教官だった。日本のものつくり大学の設備をつぶさに見て回り、帰国した後の参考にしたいと思ったのだろう。

「あの人、今回はお見えになっていないようだが、どうしていらっしゃいますかねえ」

そんな話で盛り上がった。

その政府職員が、2回目、3回目、4回目の講師派遣をラオス政府に働きかけ、野村さんが4度もラオスに行くことになった次第は先に書いた通りである。

あれは2度目にラオスに行った時のことだ。生徒の1人が

「今度日本に行く用事があります」

と話しかけてきた。

「だったら、お見えになった時に食事をしましょうよ」

と誘うと、帰国してしばらくしたら電話が来た。ものつくり大学がある行田市まで出かけて、数人のラオス人と食事をした。
その中に、工務店の経営者がいた。日本の住宅建築が知りたいという。野村さんは知っている限りの知識を総動員して日本の住宅建築を説明した。
日本ではかつて、壁は左官が漆喰塗装で仕上げるものだった。だがいまは漆喰仕上げの住宅はほとんどない。木造、鉄骨作り、コンクリートの住宅、どんな家も内装は木で桟を組み、その上に耐火ボードやベニヤ板を打ち付ける。その上に壁紙を貼るのが一般である……。

「ラオスではほとんどの家がレンガでできていますが、内装には木を使うことも考えてみてはどうですか?」

工務店の社長は、野村さんのアドバイスに何度も頷いていた。

「研究熱心な社長さんだな」

と強く印象に残ったためだろう。4回目のラオス行きの時、野村さんはあるプレゼントを用意した。モルタルと砂、水を混ぜ合わせる攪拌機である。長いシャフトの先端にスクリューがついており、バッテリーで駆動する。ラオスでは見たことがなかった。日本で2万5000円ほどするから、彼らには高嶺の花なのかも知れない。だから、

「これがあったら、あの社長の仕事も少しは楽になるだろう」

と思いついたのだ。コンセントの違い、電圧の違いも考え、ラオスで使える変圧器も用意した。

「これがあると楽ですよ」

といいながら手渡した。工務店の社長はもちろん、飛び上がらんばかりに喜んだ。それ以上の反応を見せたのは、残りの7人の生徒である。

「うわー、いいなあ」

「私も欲しい」

そこまでは思いつかなかった。日本で酒を間にして熱心に質問を繰り返した工務店社長しか頭になかった。

「ごめんなさい。皆さんの分までは用意できませんでした。許して下さい」

そんなこともあって、ラオスは忘れがたい国になった。あの工務店社長、いまでも攪拌機を使ってくれているだろうか? 時折そんな思い出が頭に蘇る。

海外旅行が好きだった野村さんはあれ以来、海外に出ていない。最後の訪問国。ラオスは、野村さんの人生に大きな意味を持つ国になった。

写真=攪拌機でモルタルを練る野村さん。同じものをラオスの工務店社長にプレゼントした

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第7回 ラオス型実技試験

1度目と2度目のラオス行きでは、日本の技能検定3級のシステム、実技試験のやり方を伝えようとした。カンボジアで伝えようとしたことと同じである。架台を用意して受験者にはその上に1㎝塗り重ねる作業を課す。
カンボジアの2倍の時間をかけての伝授である。十分に伝わったかと思ったが、ラオスの生徒たちの表情が何故か冴えない。

 ラオスでも、まず「口」の字型に塗ることを教えた

「どうかしましたか?」

と訪ねたのは2回目の滞在の最終日だった。思わぬ答えが戻ってきた。

「実は、この国の左官は床ではなく、壁を塗る仕事がほとんどなのです。この実技試験は我々の実情にはあまり合っていないかと……」

虚を突かれた。野村さんは左官職人の技は日本が世界一だと思っている。だから、成長の入口にたどり着いた東南アジアの国々は、日本の3級試験のやり方を伝えれば十分だと思っていた。国によって左官に求められる仕事が違うことに気が付かなかったのだ。

聞くと、ラオスではレンガを積んで家を建てる。左官はレンガを積み、その表面を塗ってレンガを隠す。つまり、左官は壁を塗る仕事が多いのだ。
日本では壁塗りの仕事は年々減る一方である。地震が多い日本ではレンガ積みの家は許可されない。木造や鉄骨の家がほとんどで、しかも内壁は石膏ボードやベニヤ板が使われ、その上に壁紙を貼るのが一般になったからだ。また、日本の左官はレンガを積まない。レンガを積むのは専門のレンガ職人である。

これでは、日本の3級の実技試験をそのまま伝えてもラオスの役には立たないだろう。ではどうするか。ラオスの実情に合った実技試験方法を編み出すしかない。

その作業は3回目のラオス行きから始まった。レンガを積み重ね面を塗るのがラオスの左官の主な仕事なら、それを試験に取り入れなければならない。
教室の床にシートを敷いた。その上に間にモルタルを挟みながらレンガを積み、幅90㎝、高さ80㎝ほどの壁を作った。そのままでは安定しないので、片側に2カ所の支えをレンガで作り、全体を「コ」の字型にした。下図はそれを上から見たところである。

受験者はこのようにレンガを積み、すべての面をモルタルで塗ることにする。これをラオスでの実技試験にしようと考えた。

生徒と一緒に試してみた。かなり大変な作業である。朝9時ごろから始めた。レンガを積み終わると昼近かった。しばらく乾かさねば表面は塗ることができない。昼食を済ませて表面を塗り始めた。

「塗りにくいなあ」

この作業台が動くのである。背面に支えを入れたのに、鏝を少し押しつけるとグラグラと揺れる。

日本ではモルタルに様々な混和剤を加える。厚く塗る時、薄く塗る時、早く乾燥させたい時、それぞれの目的に合った薬剤を使う。そして混和剤を入れると、モルタルの延びが良くなって少ない力で作業が出来る。
ところがラオスには混和剤がなかった。モルタルはなかなか延びでくれない。勢い、強い力を加えて無理矢理延ばすことになる。だから作業台が動いてしまうのである。

「これじゃあ、試験にならないねえ」

3回目のラオスはそれで時間切れだった。

解決策を見出したのは4回目のラオスだった。作業台を「口」の字型にしたのだ。これで作業台のぐらつきがなくなった。現地で、日本の混和剤に代わる材料を見つけたのもこの時である。日本で使う混和剤は海草から作られることが多い。

「似たような海草はないか?」

と探して見出したのである。

「これで課題をクリアできました。日本の3級試験とはまるで違いますが、受験生には午前中に口の字型の作業台を作らせ、午後に表面を混和剤の入ったモルタルで塗らせることにしました」

ラオス型の実技検定試験ができ上がった。

写真=3回目のラオスで作ってみた作業台

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第6回 遅刻常習犯

カンボジアでの野村さんの仕事は2015年1月17日午前中に終わった。その日の午後、野村さんはプノンペン国際空港を飛び立った。だが、目的地は日本ではなかった。ミャンマー最大の都市、ヤンゴンである。18日〜24日まで、この国にも左官職の技能検定制度を伝える。大変な強行軍である。

ヤンゴンで1週間の務めを果たした野村さんは、24日に帰国した。2週間ぶりの日本だった。しかし席が温まる間はなかった。わずか1週間後の2月1日にはラオスの首都、ビエンチャンのワットタイ国際空港に向かって成田から飛び立ったのだ。日本の左官職技能検定制度を伝授する3つ目の国である。

そして、ラオスは忘れられない国になった。なんとその後、10月12日〜17日、翌2016年10月12日〜15日、2017年1月22日〜30日と、合計4回も左官の技の伝道師として招かれたのである。
前回も書いたように、厚生労働省の原則は、1つの技術伝道は1カ国で1回だけ、だった。ところがラオス政府が繰り返し、

「もっと日本の技を知りたい。講師を派遣して欲しい」

と頼み込んできたと聞いた。原理原則を墨守するのが常の官僚も、あまりの懇願ぶりに原則を曲げたらしい。
となれば、

「野村さん、そんなことができるのはあんたしかいないよ」

なのである。ほかに代わりうる人がいなかった。

いや、野村さんがラオスを忘れられなくなったのは4度も招かれたためだけではない。その国民性に強く惹かれたのである。

まず治安が良かった。例えばカンボジアでは到着した日の夜、もう1人の講師として招かれていたデンソーの社員に同行していた中央職業能力開発協会の女性職員がショルダーバッグをひったくられた。

1970年代、この国で政権を握ったポル・ポト派は強引に原始共産社会の樹立を目指し、そのため干魃、飢餓、疫病、虐殺などで100万人から200万人の国民が犠牲になった。
筆者はその虐殺のありさまを映画「キリング・フィールド」で見て暗澹たる気持ちになった。虐殺現場で米兵が持っていた携帯ラジオから流れたポール・マッカートニーの「Band on the Run」が耳に入った瞬間、この虐殺は過去の出来事ではない、筆者が日本で安穏と生きていた時に起きていたことだ、と強く思い知らされ、打ちのめされたのだった。
カンボジアにはその殺伐とした空気がまだ残っているのか。

ショルダーバッグには40万円ほどの滞在費とパスポートが入っていた。

「おかげで翌朝、その女性職員は日本大使館に出向いてパスポートの再発行手続きをしなければならなくなり、開講式には間に合いませんでした」

だが、ラオスではそんな心配はなかった。夜1人で歩いても何の心配もなかった。

「それにね、何となくのんびりした国なんですよ、ラオスは」

初日、野村さんは毎日朝8時か8時半から始めようと提案した。まさか4度もこの国に来るとは思ってもいなかったので、限られた滞在期間を有効に使いたかった。
だが、どうしても受け入れてもらえない。

「いや、遠くから来る人もいるので、朝は9時から、終わりは午後4時にしてもらわなければ困ります」

やむなく、ラオスのルールに従った。生徒は8人。会場となった訓練校の教官、大学教授、左官職人、ほかの職業訓練校の教官などである。
その中に1人だけ、毎朝遅刻してくる生徒がいた。大学の講師だという。あまりのことに数日して

「何故毎日遅刻を?」

と聞いた。すると

「いや、渋滞がひどくて」

思わず、

「だったら、もう少し早く家を出たらいいでしょう!」

と叱った野村さんだが、しかし、この小太りの大学講師、何とも憎めない。おっとりしていて悠揚迫らぬ大人の風がある。いつも笑みをたたえ、嫌みを言われてもほほえみで返す。とにかく人柄がいい。叱りながら野村さんは、

「いまの日本ではお目にかかれなくなった人物だな」

と嬉しくなってしまったのだ。

中央、ブルーのポロシャツの男性が通訳。その右に野村さん

後に、日本の講師の再招聘を強く主張したのは、8人の生徒の1人、通訳を務めながら野村さんに左官の技を学んだ政府職員だと聞いた。そういえば1回目のラオス滞在の最終日、教室で

「1回だけじゃ学びきれない。何とかして日本を参考に自分たちの左官職人育成ステムを作りたい。2回でも3回でも来てもらわないと」

と彼がいっていたのを思いだした。

「ラオスの人ってのんびりしているようで、実は貪欲なんですよ。それもラオスに強く惹かれた理由のひとつですね」

ラオスでも野村さんが生徒たちをポケットマネーで夕食に誘い、昼間の授業の補習を続けたのはいうまでもない。

写真=黄色いTシャツが遅刻常習の大学講師。左から2人目が野村さん

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第5回 3度の夕食会

教官たちの試技が終わると、今度は9人の生徒に技能検定3級の実技試験をやらせてみた。1人の持ち時間は1時間である。この間に下地に厚さ1㎝のモルタルを塗る。

訓練生たちが作業を始めた。野村さんは通訳についてもらって会場を歩き回っり、1人1人の作業ぶりを見回った。まだ経験が浅い訓練生だ。みな苦労しているようだ。教官たちですら手こずった実技試験である。そりゃあ難しいだろう。

彼らが一様に戸惑っていたのは、架台の小ささだ。幅60㎝、長さ90㎝。なるほど、この中でまだ慣れない鏝(こて)を思い通りに動かすのは難しいだろう。なかなか平らな面ができなくて思案投げ首、といった顔があちらにもこちらにもあった。そんな顔を見ると野村さんはそばに寄り、手を取りながら丁寧に指導した。

「ほら、君はここに力が入りすぎている」

「平面を出すには鏝を少し斜めにして……」

「出隅の角度を出すには、鏝をこんな風に持とう。定規をあてて塗ると正確な線と角が出るよ」

翌5日目は午前中に1回、そして午後にもう1回、架台に挑ませた。嬉しいことに、3回目はすべての生徒が「合格」』だった。

「それにね」

と野村さんはいう。

「みんな熱心なんですよ。左官の技を何とか自分のものにしてやる、という熱気が生徒たち1人1人から伝わってくるのです。いい体験をさせてもらいました」

教官たち、生徒たちの学習意欲は旺盛だった。日本で年号が明治と改まり、先進国に追い付こうと欧米の進んだ技術を必死に学んで日本の富国強兵を支えた人たちもこんなだったに違いないと思われるほどだった。鏝(こて)を操る野村さんの手先に注いでくる食い入るような視線、野村さんの言葉を一頃も聞き逃すまいとする真剣なまなざし。
ついつい野村さんはいった。

野村さん(中央)主催の夕食会

「これから私は夕食に行きますが、皆さんもいかがですか?」

どうやら昼間だけの講習では彼らの学習意欲を満足させることは出来そうにないと思ったのである。

「それはありがたい」

と数人の教官がついてきた。その場でも彼らは熱心だった。昼間の野村さんの説明で十分理解できなかったところを次々に質問する。勢い、野村さんの説明にも力が入る。
野村さんが持参した日本製の鏝を羨ましがる。昼間、試しに使わせてみたのだった。鋼ででき、中首である鏝はやはり使いやすいらしい。しかし、日本製は高価でとても手に入らない……。

「たった1週間しかいなかったのに、そんな夕食会を3度も持ちました。みんな喜んでくれましてね」

——ほほう、そんな交際費まで出すとは、厚生労働省もなかなか配慮が行き届いてますね。

「とんでもない。渡航費と滞在費は国が出してくれましたが、交際費なんてありません。私のポケットマネーですよ」

身銭を切ってでも日本の、自分の技を伝えたい。野村さんはそんな左官職人なのだ。

日本から技の伝道師を派遣するのは、1つの技術について原則として1カ国1回だけである。だから、カンボジアでの野村さんの仕事は1週間で終わった。さて、あれだけで日本の技能検定制度が現地に根付いただろうか? 左官の技を伝えることができたか? 私は役に立ったのか?

厚生労働省は何も教えてくれない。野村さんがいまでも何となく後ろ髪を引かれる思いを抱え続けているのはそのためかも知れない。

写真=みごとに仕上がった! 左から4人目が野村さん