桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第14回 バカヤロウ!

左官という仕事に身が入り始めた。評判のいい左官だった父・角尾さんの技を盗み始めた。角尾さんは何も教えてくれなかったのだ。盗んだ技は建ちかかった家の押し入れの壁塗りで試した。ここなら多少失敗しても目立たないからである。
セメントや砂のほこりで真っ白になった自分を恥じることもなくなった。

「俺は額に汗して働いている。日本一の左官を目指している。どうして恥じなければいけない?」

そう思えるようになっていた。
働きながら考えた。俺は日本一の左官になる。そのためには何が必要だろう?
考えた末にたどり着いたのが

「毎日の仕事を基本通りにやる」

ことだった。
基本通り、とは下塗り、中塗り、上塗りと、必ず3度に分けて塗ることである。当時は内装に石膏ボードを使う建築が多かった。これには、石膏で下塗り、中塗りをし、上塗りは施主の好みで繊維壁材を使ったり、漆喰を使ったりした。

新しい家がたくさん建った時代である。勢い、左官職人は仕事に追われ、現場から現場へ飛び回る忙しさだった。そのためだろうか、下塗りをすっ飛ばし、2度塗りする左官がほとんどだった。確かに、一見しただけでは下地がきちんと塗ってある壁と見分けがつかない。だが、時がたつにつれて違いが出る。下塗りで下地としっかりした接着を保っていない壁は数年もすると剥げ落ち始める恐れがあるのだ。

ひょっとしたら、施主は野村さんの丁寧な仕事には気が付かなかったかも知れない。だが、建築現場にはたくさんの「専門家」がいる。大工を始め、電気工事屋、塗装屋などいくつもの工事現場を手がけてきた人たちである。彼らは建築現場で、厳しい批評眼を持ってほかの職人の仕事を見る。
その人たちの間で

「野村はいい仕事をする」

という評価が生まれていたらしい。時折、そんな言葉の端々が野村さんの耳にも届くようになったのだ。ますます仕事が面白くなり、少しずつだが自信もつき始めた。その自信が

「野村左官店をいま以上に大きくしよう」

という事業欲を生んだ。25歳前後のことだったと記憶する。

そして、父・角尾さんが

「俺と違って、倅(せがれ)は真面目なヤツだ。面倒を見てくれ」

とあちこちで頭を下げてくれていたことを知ったのもこの頃である。

そんなころ、野村さんは桐生市の小林段ボール社長、小林禎(ただし)さんと知り合う。父・角尾さんが可愛がっていた電気工事屋の紹介だった。当時小林段ボールは住宅建築にも事業を広げていて、野村さんにも仕事を出してくれるようになった。

その日は朝から雨だった。外回りの仕事にかかっていたところだから、雨では仕事にならない。現場には行かず、何かの用事で小林段ボールを訪れた。すると、

「社長が呼んでいますよ」

と声をかけられた。何事だろう?

「野村君、朝からうちの会社に来て、いまの現場はどうした?」

「朝から雨ですから、仕事は休みました」

「そうか。でも君、現場に行って確認したのか? 君の家の周辺は雨かも知れないが、現場は降ってないかも知れないじゃないか」

「いやあ、こんな雨ですから……」

「バカヤロウ!」

怒声が鳴り響いた。

「お客様はな、自分の家が建つのを今日か明日かとお待ちになっている。雨が降っても現場に顔を出し、そこが雨じゃなければ仕事をする。やっぱり雨だったら、お客様に『この雨で、今日は仕事ができません』とお断りするんだ。それが職人というものだ! いまからでも行ってこい!!」

野村さんは青くなって現場に駆け付けた。現場でもやっぱり雨が降っていた。その雨に濡れながら、野村さんには社長への感謝の思いが沸き上がった。
少しばかり仕事ができるようになって思い上がっていたのではないか? 自分がいい仕事をすれば周りなんかどうでもいいと思っていたのではないか? お客様の思いなんて考えようともしなかったのではないか?
私の常識は世間の常識ではなかった。約束は守らねばならないこと、守ることが出来なくなった際は連絡を欠かさないこと、そんな当たり前のことが私には見えていなかった……。

今日は雨で仕事ができないと施主に伝えながら、野村さんはつい先程小林社長の顔を思い出した。額に青筋を立てんばかりの怒り顔だった。
ありがたかった。小林社長は本気で怒っていた。あの人は、私を左官として育てようとしてくれている。

「いまでも、小林社長は私の恩人だと感謝しているんです」

写真=小林社長(左端)と食事をする野村さん(中央)

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第13回 交通事故

やっと鏝(こて)を握らせてもらったのは1年ほど下働きを続けてからだった。といっても、左官の技の華である仕上げ塗りなどさせてもらえるはずもない。工事が終われば見えなくなる下塗りが野村さんに与えられた仕事だった。砂ふるい、材料の攪拌に比べれば多少は左官らしい仕事ともいえる。だが、嫌いな仕事である。まったく面白くない。
現場では

「早く夕方になってくれ」

と願い続けた。
朝、目が醒めた時に真っ先に頭の浮かぶのは

「雨が降ってないか?」

である。相変わらず鬱々とした日々が続いた。

野村さんは負けず嫌いである。子どものころから何でも1番を目指した。勉強、運動会、校内マラソン大会、図画工作、喧嘩……。残念ながら1番になれたことは少なかったが、だが、1番になろうと努力はした。最もがんばったのは、喜劇役者を目指して様々なギャグを考え続けた高校時代である。真面目に喜劇役者の頂点を目指した。あのころは頭の中がギャグだらけだった。

そして反抗心も強かった。人に従うのが嫌いだ。自分は自分であり続けなければならない。だから子どものころは協調性に欠けた男の子だった。そんな野村さんは友だちから見れば扱いにくかったのだろう。一時、近所では誰も遊んでくれなくなった。

鬱々とした暮らしの中で、突然、そんな生まれ持った性格が表面に顔を出した。きっかけはやっと鏝を持ち始めた昭和45年(1970年)4月、すぐ近くに新しく事業内高等職業訓練校(現在の桐生高等技能専門校)が開校したことである。大工、鳶(とび)、左官などの技術を教えるという。

「嫌がっても、逃げても、俺は左官職人になるしかない。だったら、左官の世界でもトップを目指すべきではないのか? 先ずは左官の技を1から学ばねば1番にはなれないのではないか? 俺は負けるのが嫌いだ。この職業訓練校に通おう!」

突然の思いつきだった。野村さんは夜間部の入学手続きを取った。週2回、仕事を終えてからここに通い始めた。第1期生である。野村さんが変わり始めた。

「でも、いま考えると、まだ中途半端でした。本当に心が定まったのは22歳になってからでした」

22歳の野村さんは大きな交通事故を起こしてしまう。草野球チームの仲間と車4台を連ねて白樺湖へキャンプに行った時のことだ。
テントを張り終えると、誰言うともなく近くの街に遊びに行くことになった。車2台で出かけるという。

その日、野村さんは疲れていた。どうしようもなく眠い。1週間ほど残業が続いたせいだ。

「野村、お前は眠そうだ。残って寝ていろよ」

友の1人が気遣ってくれた。だが、野村さんは若かった。ついつい突っ張った。

「いや、俺も行く」

当時の野村さんの愛車は買ったかりのトヨペット・コロナだった。まだ6000㎞しか走っていないバリバリの新車である。見栄があった。町に行くなら新車がいい。だが、友人たちは新車には触りたがらない。

「いいよ、俺が運転する」

キャンプ場を出て片側1車線の道を走った。

「ああ、左カーブだな」

と思ったことまでは記憶にある。だが、記憶はそこで途切れ、次の記憶は車がつぶれる音と、体中を襲った痛みだった。

居眠りをしてしまったのだ。野村さんの車は左カーブを直進してしまった。反対車線を走ってきた山梨県庁職員の車と正面衝突したのである。相手の車の助手席に乗っていた息子さんが頭部陥没骨折の重症を負った。野村さんも上の前歯が3本折れた。

「幸い、亡くなった方はおられませんでしたが……」

職員が大事故に遭った山梨県は聴聞会を開いた。野村さんをともなってその聴聞会に出席し、事故に巻き込まれた方々に謝罪して回ったのは、父・角尾さんだった。

「事故に巻き込んでしまった方々はもちろん、親や友人にとてつもない迷惑をかけてしまいました。それに深々と頭を下げる父の姿が脳裏に刻み込まれました。とても許してもらえることではありませんが、何故か、せめて左官という仕事を一所懸命にやらなければ、迷惑をおかけたした皆さん、そして父へのお詫びは出来ないという気がしまして」

野村さんは、今度こそ左官の1番にならねばならないと自分に言い聞かせた。そうでなければ、事故で迷惑をかけた人達へ申し訳が立たないではないか……。

写真=野村さんの記憶によると、これが愛車のトヨペット・コロナ

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第12回 イヤでイヤでたまらない仕事

父・角尾さんは自動車の運転免許を持っていなかった。高校2年、16歳で軽自動車の免許を取った野村さんは、その頃から家の仕事を手伝ってはいた。学校が休みの日、軽トラックに左官仕事や道具を乗せ、現場まで運ぶのである。
だが、それ以上の手伝いはしなかった。したくなかった。なにしろ、左官という仕事は嫌いなのだ。

しかし、もうそんな甘えは許されない。4月1日、野村さんは建築現場に出た。まだ鏝(こて)を持たせてもらえるはずはない。野村さんに割り振られたのは砂をふるいにかけることである。山のように積まれた砂を篩(ふるい)に入れ、それを持ち上げて前後左右に振る。こうして大きな石ころを取り除く。それが一段落したら、篩にかけた砂とセメント、水を混ぜ合わせて練る。石膏を練るように言いつけられたこともあった。砂ぼこり、セメントの粉が全身に降り注ぎ、真っ白になった。

「とにかく汚れるんですよ。それでね、現場はほとんど桐生市内でしょ。だから時々、同級生だった女の子が通りかかったりする。それを目ざとく見つけると、私、建ちかかった家に中に隠れるんですよ、彼女たちから見られないように。いえ、別に憧れていた女の子がいたわけじゃないんですが、私、いまと違って左官という仕事に誇りなんか持っていない。砂とセメントのほこりで真っ白になった自分を見られるのが恥ずかしくてね」

1日の最後は後片付けである。建築現場をきれいに掃き清めて野村さんの1日が終わる。

「左官という仕事もね、原則は日曜日は休みなんですが、工事の進み具合次第では日曜も祭日も仕事、っていうことになる。でもね、ほとんど屋外での仕事だから、雨が降れば平日でも休みになるんです。ほら、もともとイヤでイヤでたまらない仕事でしょ? だから、雨が降ると飛び上がりたくなるほど嬉しかった」

野村さんは野村左官店に就職したはずだった。普通、就職して働き始めれば月給が出る。ところが、野村左官店は野村家の家業でもあった。

「だからね、月給なんかないんです。お金が必要になると、母に言って必要なだけお金をもらうんです。私は野村家の子ども扱いでした」

仕事は面白くない。月給もない。

——それでよく我慢が続きましたね。

「軽の乗用車を買ってもらったんです。ホンダのN360って車。休みになると、茨城県や新潟県の海までドライブしたり、冬場は苗場にスキーに行ったり。それに母にもらう金で車を飾り立てるんです。といってもたいしたことはなく、ハンドルカバーを買ったり、シートカバーを取り換えたり程度で、まあ、そんなことで気を紛らせていたんです」

N360に負けず劣らず野村さんを支えてくれたのは、高校時代に一緒にアルバイトをした親友だった。1年365日のうち300日は、夜になると縫製業を営んでいた彼の家に遊びに行った。だが、まだ酒には慣れていない。

「ええ、酒を飲み交わすなんてことはなく、一緒にボーリングに行ったり、部屋でどうでもいいことを語り合ったり、そんな付き合いでした」

後に日本の左官技術を東南アジアの国々に伝授することになった時、左官職人界のドンから

「そんなことができるのはあんたしかいないよ」

という言葉をかけられた、日本を代表する左官の野村さんだが、10代の終わりは左官という仕事に鬱屈を抱える青年だったのである。

写真=友人たちとよくキャンプに出かけた。左端が野村さん

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第11回 逃避

昭和43年(1968年)も秋が深まった。野村さんは翌春、卒業である。

「高校を卒業したら上京して喜劇役者になる」

と思い定めていたはずだった。だから勉強などほとんどした記憶がない。頭の中は思いついたコントで満員状態だ。もちろん、成績は低空飛行である。

「喜劇役者になるのに成績なんか関係ない」

そう思い続けてきた。

ところが上京するはずの日が目の前に迫ったこのころから、突然野村さんは迷い始めた。

「喜劇役者になるということは桐生を離れるということだ。どこに腰が落ち着くかも分からない。俺がそんな仕事を選んだら両親はどうする? 長男の俺がそんな勝手なことをしていいのか?」

子どものころから漠然と心にあった父母への思い、家への思いが何故か沸き上がってきたのである。これは自分の人生だ。やりたい仕事をやらずに充実した人生を築けるか? いや、俺は長男だ。父と母の世話をする大きな責任があるはずだ。
右に行くのか、左の道を選び取るのか。考えても考えても踏ん切りがつかない。考えるほどに迷いが深まる。喜劇役者になるのか? 長男として左官職人になって家業を継ぐのか? 左官なんてなりたくないなあ……。

そうだ、左官にならなくても桐生の会社に就職すれば父母と暮らすことが出来る。喜劇役者への道は諦めることになるが、俺は長男だから仕方がないか。地元の金融機関か役所への就職を考えた。

ところが、

「野村、成績表を見てみろ。お前の成績じゃとても無理だわ」

就職担当の先生に冷たくいわれた。いよいよ追い詰められた。喜劇役者か、左官か。

迷いの中で年が明けた。昭和44年である。3学期が始まった。すぐに担任に呼び出された。

「お前、卒業したらどうするつもりだ? クラスの中で決まっていないのはお前だけだぞ」

切羽詰まった。野村さんは逃げ道を思いついた。いまの俺には人生を決める決断力がない。とりあえず大学に進もう。4年かけてじっくり考えれば少しは知恵もつき、自分の進むべき道が見えてくるかも知れない。

「先生。大学に行くことにします。今からでも間に合うところはありますか?」

いや、単なる逃げ道ではなかった。自分で自分の進む道を選べないのなら、ほかの誰かに選んでもらうしかないと考えたのである。大学に合格すれば4年間の猶予が出来る。合格できなかったら、これも運命と考えて、父の仕事を継ごう。

とはいえ、大学入試向けの勉強はもちろん、高校の中間試験、期末試験のための勉強もサボり続けてコントばかり考えてきたのである。まともに大学入学試験を受けたって合格するはずがない。

「推薦枠のある大学、まだ残っていませんか?」

担任は2つの大学に手続きをしてくれた。結果が出たのは2月中旬である。2大学ともに不合格だった。

「いやあ、これで私の人生は決まったな、と」

人生行路が決まった。俺は左官になるらしい。

その日から野村さんは友人たちと遊び呆けた。何となく寄り集まっては街をブラブラする。友人宅を訪ねては 雑談に花を咲かせる。

「自分には左官になるしか道がない、という現実を受け入れられなかったんですね。だから、何とかして現実から目をそらそうとした。いまなら、そんなことをしても現実が変わるはずはないと理解できますが、まだ18歳ですからね。とにかく何とかして現実から逃げたかったんです」

間もなく、現実が姿を現した。4月1日、野村さんは野村左官転に入社した。イヤでイヤでたまらない左官の仕事が始まった。

写真=壁を塗る野村さん

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第10回 堺駿二

野村さんの父・角尾さんは若くして独立、野村左官店を起こした。裕司さんは2男1女の長男である。だから、幼いころから

「僕は親のそばにいないとまずいよな」

とボンヤリと思っていた。孝行息子である。

  母のキヨさんと

ところが、家の仕事を継ぐ気はなかった。角尾さんは野村左官店の社長とはいえ、当時の住まいは2畳の玄関に6畳の居間、それに2畳ほどの台所という苫屋である。そこで親子4人(弟はまだ生まれていなかった)が暮らす。決して恵まれた暮らしとはいえない。

小学校1年のころ、角尾さんは3畳間を増築した。

「ああ、これで少しは家が広くなる」

と喜んだのもつかの間、角尾さんはその部屋に住み込みの職人を住まわせたのである。先輩の左官職人から

「俺の息子を鍛えてやってくれ」

と頼まれたらしい。何のことはない、やがて弟が生まれ、さらに居住空間が狭くなっただけだった。

角尾さんは酒好きで気のいい左官職人だった。先輩職人の息子を引き受けたのも気の良さの現れだった。そして、しょっちゅう左官職人だけでなく、現場で知り合った様々の職種の職人たちがやって来て酒盛りを始めた。6畳間での大人たちの宴会が終わるまで、子ども3人は玄関の2畳の間に押し込められた。

「父の仕事を継いでもこんな暮らししか出来ないのか」

だから、左官になんかなりたくない。両親のそばにいなくては、と思いながら、2代目の左官になる気は全くなかった。

では、何になりたかったのか。野村さんは、小学校も高学年になると俳優に憧れた。父に連れられてよく東映の時代劇映画を見に行った影響だろう。市川右太衛門、片岡千恵蔵、大川橋蔵,中村錦之助、東千代之介……。カッコいい主役たちが悪人腹をバッタバッタと切り伏せる。当時は東映時代劇の黄金時代だった。

いや、野村さんが憧れたのはそんな銀幕のヒーローたちではなかった。何故か脇役に憧れたのである。

「堺駿二さんという役者さんがいたでしょう。そうそう、ザ・スパイダースのヴォーカルだった堺正章さんのお父さん。目明かしなんかの役で主役の回りをウロウロして笑いを取っていた人です。その堺駿二さんに憧れましてね。ああ、私も人を笑わせる喜劇役者になりたいって」

母キヨさんは歌謡曲が好きだった。いつも鼻歌を歌いながら家事をこなしていた。その影響だろうか、野村さんも歌が好きだった。岡晴夫や田端義夫の曲が得意で音楽の成績は優秀。音楽の時間、

「野村君、前に出て歌ってみて」

と何度指名されたことか。イではなかったから、ひょっとしたら芸人の素質はあったのかも知れない。

歌以上に好きだったのが友人たちを笑わせることだった。様々なギャグを自分で考え、披露する。友人たちが笑い転げてくれるとこの上なく幸せだった。
桐生商業高校に入るとさらにヒートアップした。頭の中はコントだらけである。まとまるとやってみたくなる。教室で友人に相方を頼み込み、格闘シーンの練習をする。クラスメートの何人かが笑えば、ますます心が固まる。

「俺、喜劇役者になってみせる!」

ある日、テレビを見ていて思わず独り言を言った。

「あ、このコント55号のコント、俺が考えたヤツと同じじゃないか!」

家の近くに,東京の飲食店に修飾した先輩がいた。ある日、帰省してきた先輩に喜劇役者になりたいと話した。

「だったら、夏休みに俺の店でアルバイトしないか。すぐ近くに芸能事務所があるんだ」

お笑い芸人への道が見えてくるかも知れない。休みになると同時に上京してアルバイトを始めた。店にいた従業員の1人が

「そうなのか。だったらあの事務所には知り合いがいるから話してやるわ」

トントン拍子である。数日後、いよいよ芸能事務所の担当社員に会えることになった。私、お笑いが取れる喜劇役者になりたいんです!

「ああ、そうなの。惜しかったなあ。玉川良一の運転手が決まったばかりなんだよ。いまのところほかに空きがないから、君、急ぐことはない。まず高校を卒業して、それでも芸人になりたかったらやっておいで」

俺は喜劇役者になる。道は半ば開かれたと思った。