桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第7回 ラオス型実技試験

1度目と2度目のラオス行きでは、日本の技能検定3級のシステム、実技試験のやり方を伝えようとした。カンボジアで伝えようとしたことと同じである。架台を用意して受験者にはその上に1㎝塗り重ねる作業を課す。
カンボジアの2倍の時間をかけての伝授である。十分に伝わったかと思ったが、ラオスの生徒たちの表情が何故か冴えない。

 ラオスでも、まず「口」の字型に塗ることを教えた

「どうかしましたか?」

と訪ねたのは2回目の滞在の最終日だった。思わぬ答えが戻ってきた。

「実は、この国の左官は床ではなく、壁を塗る仕事がほとんどなのです。この実技試験は我々の実情にはあまり合っていないかと……」

虚を突かれた。野村さんは左官職人の技は日本が世界一だと思っている。だから、成長の入口にたどり着いた東南アジアの国々は、日本の3級試験のやり方を伝えれば十分だと思っていた。国によって左官に求められる仕事が違うことに気が付かなかったのだ。

聞くと、ラオスではレンガを積んで家を建てる。左官はレンガを積み、その表面を塗ってレンガを隠す。つまり、左官は壁を塗る仕事が多いのだ。
日本では壁塗りの仕事は年々減る一方である。地震が多い日本ではレンガ積みの家は許可されない。木造や鉄骨の家がほとんどで、しかも内壁は石膏ボードやベニヤ板が使われ、その上に壁紙を貼るのが一般になったからだ。また、日本の左官はレンガを積まない。レンガを積むのは専門のレンガ職人である。

これでは、日本の3級の実技試験をそのまま伝えてもラオスの役には立たないだろう。ではどうするか。ラオスの実情に合った実技試験方法を編み出すしかない。

その作業は3回目のラオス行きから始まった。レンガを積み重ね面を塗るのがラオスの左官の主な仕事なら、それを試験に取り入れなければならない。
教室の床にシートを敷いた。その上に間にモルタルを挟みながらレンガを積み、幅90㎝、高さ80㎝ほどの壁を作った。そのままでは安定しないので、片側に2カ所の支えをレンガで作り、全体を「コ」の字型にした。下図はそれを上から見たところである。

受験者はこのようにレンガを積み、すべての面をモルタルで塗ることにする。これをラオスでの実技試験にしようと考えた。

生徒と一緒に試してみた。かなり大変な作業である。朝9時ごろから始めた。レンガを積み終わると昼近かった。しばらく乾かさねば表面は塗ることができない。昼食を済ませて表面を塗り始めた。

「塗りにくいなあ」

この作業台が動くのである。背面に支えを入れたのに、鏝を少し押しつけるとグラグラと揺れる。

日本ではモルタルに様々な混和剤を加える。厚く塗る時、薄く塗る時、早く乾燥させたい時、それぞれの目的に合った薬剤を使う。そして混和剤を入れると、モルタルの延びが良くなって少ない力で作業が出来る。
ところがラオスには混和剤がなかった。モルタルはなかなか延びでくれない。勢い、強い力を加えて無理矢理延ばすことになる。だから作業台が動いてしまうのである。

「これじゃあ、試験にならないねえ」

3回目のラオスはそれで時間切れだった。

解決策を見出したのは4回目のラオスだった。作業台を「口」の字型にしたのだ。これで作業台のぐらつきがなくなった。現地で、日本の混和剤に代わる材料を見つけたのもこの時である。日本で使う混和剤は海草から作られることが多い。

「似たような海草はないか?」

と探して見出したのである。

「これで課題をクリアできました。日本の3級試験とはまるで違いますが、受験生には午前中に口の字型の作業台を作らせ、午後に表面を混和剤の入ったモルタルで塗らせることにしました」

ラオス型の実技検定試験ができ上がった。

写真=3回目のラオスで作ってみた作業台

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第6回 遅刻常習犯

カンボジアでの野村さんの仕事は2015年1月17日午前中に終わった。その日の午後、野村さんはプノンペン国際空港を飛び立った。だが、目的地は日本ではなかった。ミャンマー最大の都市、ヤンゴンである。18日〜24日まで、この国にも左官職の技能検定制度を伝える。大変な強行軍である。

ヤンゴンで1週間の務めを果たした野村さんは、24日に帰国した。2週間ぶりの日本だった。しかし席が温まる間はなかった。わずか1週間後の2月1日にはラオスの首都、ビエンチャンのワットタイ国際空港に向かって成田から飛び立ったのだ。日本の左官職技能検定制度を伝授する3つ目の国である。

そして、ラオスは忘れられない国になった。なんとその後、10月12日〜17日、翌2016年10月12日〜15日、2017年1月22日〜30日と、合計4回も左官の技の伝道師として招かれたのである。
前回も書いたように、厚生労働省の原則は、1つの技術伝道は1カ国で1回だけ、だった。ところがラオス政府が繰り返し、

「もっと日本の技を知りたい。講師を派遣して欲しい」

と頼み込んできたと聞いた。原理原則を墨守するのが常の官僚も、あまりの懇願ぶりに原則を曲げたらしい。
となれば、

「野村さん、そんなことができるのはあんたしかいないよ」

なのである。ほかに代わりうる人がいなかった。

いや、野村さんがラオスを忘れられなくなったのは4度も招かれたためだけではない。その国民性に強く惹かれたのである。

まず治安が良かった。例えばカンボジアでは到着した日の夜、もう1人の講師として招かれていたデンソーの社員に同行していた中央職業能力開発協会の女性職員がショルダーバッグをひったくられた。

1970年代、この国で政権を握ったポル・ポト派は強引に原始共産社会の樹立を目指し、そのため干魃、飢餓、疫病、虐殺などで100万人から200万人の国民が犠牲になった。
筆者はその虐殺のありさまを映画「キリング・フィールド」で見て暗澹たる気持ちになった。虐殺現場で米兵が持っていた携帯ラジオから流れたポール・マッカートニーの「Band on the Run」が耳に入った瞬間、この虐殺は過去の出来事ではない、筆者が日本で安穏と生きていた時に起きていたことだ、と強く思い知らされ、打ちのめされたのだった。
カンボジアにはその殺伐とした空気がまだ残っているのか。

ショルダーバッグには40万円ほどの滞在費とパスポートが入っていた。

「おかげで翌朝、その女性職員は日本大使館に出向いてパスポートの再発行手続きをしなければならなくなり、開講式には間に合いませんでした」

だが、ラオスではそんな心配はなかった。夜1人で歩いても何の心配もなかった。

「それにね、何となくのんびりした国なんですよ、ラオスは」

初日、野村さんは毎日朝8時か8時半から始めようと提案した。まさか4度もこの国に来るとは思ってもいなかったので、限られた滞在期間を有効に使いたかった。
だが、どうしても受け入れてもらえない。

「いや、遠くから来る人もいるので、朝は9時から、終わりは午後4時にしてもらわなければ困ります」

やむなく、ラオスのルールに従った。生徒は8人。会場となった訓練校の教官、大学教授、左官職人、ほかの職業訓練校の教官などである。
その中に1人だけ、毎朝遅刻してくる生徒がいた。大学の講師だという。あまりのことに数日して

「何故毎日遅刻を?」

と聞いた。すると

「いや、渋滞がひどくて」

思わず、

「だったら、もう少し早く家を出たらいいでしょう!」

と叱った野村さんだが、しかし、この小太りの大学講師、何とも憎めない。おっとりしていて悠揚迫らぬ大人の風がある。いつも笑みをたたえ、嫌みを言われてもほほえみで返す。とにかく人柄がいい。叱りながら野村さんは、

「いまの日本ではお目にかかれなくなった人物だな」

と嬉しくなってしまったのだ。

中央、ブルーのポロシャツの男性が通訳。その右に野村さん

後に、日本の講師の再招聘を強く主張したのは、8人の生徒の1人、通訳を務めながら野村さんに左官の技を学んだ政府職員だと聞いた。そういえば1回目のラオス滞在の最終日、教室で

「1回だけじゃ学びきれない。何とかして日本を参考に自分たちの左官職人育成ステムを作りたい。2回でも3回でも来てもらわないと」

と彼がいっていたのを思いだした。

「ラオスの人ってのんびりしているようで、実は貪欲なんですよ。それもラオスに強く惹かれた理由のひとつですね」

ラオスでも野村さんが生徒たちをポケットマネーで夕食に誘い、昼間の授業の補習を続けたのはいうまでもない。

写真=黄色いTシャツが遅刻常習の大学講師。左から2人目が野村さん

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第5回 3度の夕食会

教官たちの試技が終わると、今度は9人の生徒に技能検定3級の実技試験をやらせてみた。1人の持ち時間は1時間である。この間に下地に厚さ1㎝のモルタルを塗る。

訓練生たちが作業を始めた。野村さんは通訳についてもらって会場を歩き回っり、1人1人の作業ぶりを見回った。まだ経験が浅い訓練生だ。みな苦労しているようだ。教官たちですら手こずった実技試験である。そりゃあ難しいだろう。

彼らが一様に戸惑っていたのは、架台の小ささだ。幅60㎝、長さ90㎝。なるほど、この中でまだ慣れない鏝(こて)を思い通りに動かすのは難しいだろう。なかなか平らな面ができなくて思案投げ首、といった顔があちらにもこちらにもあった。そんな顔を見ると野村さんはそばに寄り、手を取りながら丁寧に指導した。

「ほら、君はここに力が入りすぎている」

「平面を出すには鏝を少し斜めにして……」

「出隅の角度を出すには、鏝をこんな風に持とう。定規をあてて塗ると正確な線と角が出るよ」

翌5日目は午前中に1回、そして午後にもう1回、架台に挑ませた。嬉しいことに、3回目はすべての生徒が「合格」』だった。

「それにね」

と野村さんはいう。

「みんな熱心なんですよ。左官の技を何とか自分のものにしてやる、という熱気が生徒たち1人1人から伝わってくるのです。いい体験をさせてもらいました」

教官たち、生徒たちの学習意欲は旺盛だった。日本で年号が明治と改まり、先進国に追い付こうと欧米の進んだ技術を必死に学んで日本の富国強兵を支えた人たちもこんなだったに違いないと思われるほどだった。鏝(こて)を操る野村さんの手先に注いでくる食い入るような視線、野村さんの言葉を一頃も聞き逃すまいとする真剣なまなざし。
ついつい野村さんはいった。

野村さん(中央)主催の夕食会

「これから私は夕食に行きますが、皆さんもいかがですか?」

どうやら昼間だけの講習では彼らの学習意欲を満足させることは出来そうにないと思ったのである。

「それはありがたい」

と数人の教官がついてきた。その場でも彼らは熱心だった。昼間の野村さんの説明で十分理解できなかったところを次々に質問する。勢い、野村さんの説明にも力が入る。
野村さんが持参した日本製の鏝を羨ましがる。昼間、試しに使わせてみたのだった。鋼ででき、中首である鏝はやはり使いやすいらしい。しかし、日本製は高価でとても手に入らない……。

「たった1週間しかいなかったのに、そんな夕食会を3度も持ちました。みんな喜んでくれましてね」

——ほほう、そんな交際費まで出すとは、厚生労働省もなかなか配慮が行き届いてますね。

「とんでもない。渡航費と滞在費は国が出してくれましたが、交際費なんてありません。私のポケットマネーですよ」

身銭を切ってでも日本の、自分の技を伝えたい。野村さんはそんな左官職人なのだ。

日本から技の伝道師を派遣するのは、1つの技術について原則として1カ国1回だけである。だから、カンボジアでの野村さんの仕事は1週間で終わった。さて、あれだけで日本の技能検定制度が現地に根付いただろうか? 左官の技を伝えることができたか? 私は役に立ったのか?

厚生労働省は何も教えてくれない。野村さんがいまでも何となく後ろ髪を引かれる思いを抱え続けているのはそのためかも知れない。

写真=みごとに仕上がった! 左から4人目が野村さん

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第4回 試技

4日目。技能検定制度の説明はこの日の午前中まで続いた。野村さんの出番が来たのはこの日の午後である。実技試験の実技を教えなければならない。

まず、野村さんが模範を示した。

再び図で説明する。

下地_NEW

最初の作業は墨出しである。この厚さまで塗る、という線を周りの木枠に入れる。墨壺という専用の道具を使う。大工さんもやはり墨出しをするが、その線は黒である。左官は赤い線を入れる。

それが済めば塗り始める。しかし、一度に1㎝厚に塗ってはならない。必ず2度塗りをする。1度目は3㎜ほどの厚みにする。これで下地との接着を確保する。2度目はモルタルに含まれる水分が下に均一に行き渡るよう気を配って塗る。

上の図でいうと、A⇒B⇒Cの順に塗る。Aは鏝(こて)さばきが難しいところで、右利きの場合、左下から右上に向かって鏝を動かし、平らな面を作る。
B、Cの平面は「口」の字型に塗る。漢字の「口」の書き順と同じ順で、まず左隅を上から下に塗り、上の隅を左から右、右の隅を上から下に塗って最後に下の隅を左から右に塗る。それができたら「口」の真ん中部分を平らに塗る。
以上は昔から日本の左官職人に伝えられている塗り方だ。研究熱心な野村さんは、違った塗り方も試してみた。だが、やはり伝統の塗り方が最も綺麗に仕上がった。

2度目の塗りは厚みが7㎜ほどである。これで墨出しした高さに合わせる。2回目もA面は左下から右上に鏝を動かし、平面を塗る「口」の順序が同じなのはいうまでもない。

平らに塗るにはコツがある。鏝の一方を少し持ち上げるのだ。両刃の包丁を研ぐ時と同じである。その持ち上げる角度はできるだけ小さい方が綺麗に仕上がる。

そこまでやって見せて、訓練校の教官たち3人にやらせてみた。彼らにとって、日本の技能検定3級の実技試験を体験するのは、もちろん初めてである。だからだろうか、事前に教科書を送り、目の前でやって見せたにもかかわらず。合格レベルに達しなかった人がいた。

日本の左官は鏝だけで平面を出す。しかしカンボジアを含めた多くの国では、平面を出すのに定規のようなものを使うことが多い。とりあえず厚めに塗って、モルタルが固まらないうちにその定規を表面にあてて滑らせ、余分なモルタルを掻き取るのだ。日本のように、表面が真っ平らになることを求めない国民性もあるかも知れない。日本の技能検定3級の実技試験に取り組んだ教官たちにとっては鏝だけで平面を出すのは初めてだったのだろう。上手くできないのが当たり前かも知れない。

「それに、鏝が違うのです。日本の鏝は鋼(はがね)でできていますが、カンボジアを含む多くの国ではほとんどステンレス製です。滑り具合が全く違います。また、握る部分(柄)と鏝の本体を繋ぐ『首』と呼ばれる柱の位置も違います。日本製は柄のほぼ中央に首があって『中首』と呼ばれ、人差し指と中指の間に挟むので力が均等に伝わりますが、多くの国の鏝は『元首』といって柄の一番前に首がある。やってみれば分かりますが、それだと均等に力をかけるのが難しいのです」

結果を見て、野村さんは「コツ」を伝授した。周りを塗る時の注意点、平面を出すための力のかけ方……。野村さんが帰国すれば、いま目の前にいる教官たちがこの「コツ」を訓練生に教えなければならないのだ。通訳を介した説明は隔靴掻痒の感もあったが、できるだけ丁寧に説明したつもりである。

そして教官たちにもう一度やってもらった。嬉しいことに今度は全員が合格点だった。

「さすがに教える立場の人達ですね、飲み込みが早かった」

同時に、3人には採点の仕方を教えた。日本は減点法で採点する。満点の100点から、ミスがあるごとに引き算する。60点以上とれば合格である。減点するポイントも詳しく話した。
だが、カンボジアは加点法が主流という。さて、加点法で採点するには何ができていたら何点加点するかの基準を作らなければならない。これは改めて話し合うしかない。

しかし、教えるべきことは教えた。教官たちは実技も合格した。これで生徒の指導ができるだろう。野村さんは大役の一端をし遂げたと思った。

写真=カンボジアの人たちに3級検定の実技に挑んでもらった

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第3回 開講式

3日目。午前9時から国立ポリテクセンターのエアコンの入った講堂で開講式が始まった。壇上にはカンボジアの政府関係者が十数人並んでいた。恐らく、カンボジア労働職業訓練省の局長クラスなのだろう。よく見ると、日本から来た厚生労働省の若い役人もひな壇の一角に座を占めている。課長補佐クラスか。

野村さんが案内された席は平場の最前列だった。この話を聞きながら筆者は、この日の主役は日本の左官技術を伝道するためにはるばる海を越えてやって来た野村さんのはずで、だとすれば野村さんこそ壇上にいるべきだと思った。筆者の常識はカンボジアの常識ではないようだ。
もっとも、野村さんは全く気にしなかった。単なる式典である。カンボジアとはそんな国か、と思っただけだ。それに、ひな壇には座り慣れていない。平場の方が気楽だ。振り向くと、場内には200人ほどの訓練生が座っていた。すべて20歳前後の男性である。左官という仕事はやはり男の仕事なのか。制服なのだろうか、みな真っ白なシャツに身を包んでいた。この200人は生徒2100人の代表なのだろう。

開講式には地元テレビ局のカメラが入っていた。収録した映像はニュースの時間に3度放映されたとあとで聞いた。カンボジアの人たちが日本からの技の伝道師に寄せる期待は、テレビが開講式をニュースとして取り上げるほど大きいらしい。

式典が始まると、壇上にいた3,4人がそれぞれ短いあいさつをした。それが済むと、日本からやって来た先生として野村さんが紹介されたようだったが、現地語なのでよく分からなかった。野村さんは、

「あなたが紹介されました」

と通訳に促されて立ち上がると、壇上に向かって一礼し、後ろにいる生徒たちにも頭を下げた。現地語は全く分からないので言葉でのあいさつはしようもなかったが、

「何とかご期待に添えるよう、全力を尽くします」

という思いを込めたつもりである。

開講式は3 0〜40分ほどで終わった。野村さんは別室に案内された。待っていたのは左官科の教官1人と建築科の教官2人だった。この人たちがこの国で技能検定実技試験のシステムを作り、実施する段階では採点官になるのだろう。彼らに日本の技能検定の仕方を教えるのが野村さんのミッションなのだ。いよいよ本番である。

野村さんには、日本の左官職人代表としての誇りと、カンボジアの若者たちを立派な左官職人に育てるシステムを根付かせてカンボジアの経済成長を手助けする責任があった。まるで1点差を追う9回裏、2死走者3塁で打席に入る打者のような緊張感と身震い、そして興奮を感じながらその部屋に足を入れた。

中央職業能力開発協会から派遣された職員が日本の技能検定の説明を始めた。

日本では1959年に始まり、合格者には国が「技能士」の認定証を発行する。これまで700万人を超える合格者が出ており、世界中から高い評価を受けている日本のものづくりの技術の分厚い基盤になっている。そんな話から始まり、日本で実施している左官職3級技能検定試験は学科試験と実技試験の2本立てであることを説明し、現地語に翻訳した学科試験の問題も3人に渡した。そして実技試験の進め方、その採点方法など説明は多岐にわたった。
通訳を介しての意思疎通は共通言語での話ができる場合の数倍もの時間がかかる。その上、3人の受講者からは質問が相次いだ。

とうとうその日は野村さんの出番が来ないまま時間切れになった。

写真=開講式での記念写真。野村さんは右から5人目