桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第21回 最高の職人の仕事 その2

沼田市の旧土岐家住宅洋館は国の登録有形文化財である。関東大震災直後の大正13年(1924年)、土岐章子爵が東京・渋谷に建てた。土岐子爵は最後の沼田藩主、土岐頼知の7男で、東京帝国大学を卒業後、パンの製造販売を始めた。無類のパン好きで、周りの人達は「パンの殿様」と呼んだと伝わる。
旧土岐家住宅洋館は1990年、土岐家にゆかりのある沼田市の沼田公園に移築され、さらに2018年には解体されて同市上之町に移された。この移築工事で左官の仕事を任されたのが野村さんだった。

移築工事は沼田市の建築会社が落札した。その会社から左官工事を任されたのが北関東一の評価を持つ高崎市の左官会社だった。落札から間もなく、この会社の担当者が建物を見に行った。
驚いたのは、天井と壁との突き合わせに取り付けられた廻り縁である。漆喰の蛇腹引きという難しい工法が使われている。天井と壁の突き合わせ部分にまず砂漆喰(漆喰に砂を混ぜたもの)を練り付け、適度に固まったタイミングを見て金型を曳いて形を作り、さらにその上に漆喰を2㎜ほど上塗りして仕上げる手法である。

「これはうちの会社ではでは出来ないわ」

しかし、仕事を請け負った以上、発注主の建築会社に

「できない」

とは口が裂けても言えない。何とかしなければならない。この工法ができる左官を探さねばならない。
まず東京の名高い左官に声をかけた。仕事の内容を説明すると、

「そんな仕事、とてもうちじゃ無理です。でもあそこなら」

というので、その静岡の業者を下請けに使おうとした。見積もりを取ったらかなりの金額だった。高崎の左官会社は、

「これじゃあ赤字になる!」

と突き返した。これでは左官仕事は請けられない、高崎の左官会社は仕事を返上した。

工事開始は目先に迫っている。困り果てたのは沼田市の建築会社だ。一緒に仕事をしていた設計士に相談を持ちかけた。どこかに漆喰の蛇腹引きができる左官はいないものだろうか?
打てば響くように答えが返ってきた。

「これは桐生の野村さんしかできない仕事ですよ」

野村さんはその設計士と長い仕事の付き合いがあった。変わった仕事を発注する設計士だった。ドイツ風にしたい、北フランス風がいい、スペイン風には出来ないか。それだけで具体的な指示がない。漠然としたイメージを語るだけで、あとは材料の選択からデザインまでが野村さん任せ。海外の建築写真などを参考にして造った見本を持って行くと

「あー、これこれ!」

と話がまとまる。野村さんの左官の腕、美的感覚に絶対の信頼を置く設計士だったのだ。

「だからね,野村さん、この仕事が始まった時から、この仕事はあんたにしか出来ないと思っていた。だけど口出しはできないので、建築会社が相談に来るのを待っていたんだよ」

2018年秋、野村さんは「現代の名工」になった。人並み優れた技能を持つ人を厚生労働大臣が表彰して「卓越技能者」と認定する制度である。沼田市の工事を進めている最中に東京のホテルで授賞式が開かれた。68歳での受章である。

「あなたを推薦するから『現代の名工』を受章してくれないか」

と群馬県職業能力開発協会の幹部から打診を請けたのは、実はその10年程前が最初だった。それからも毎年のように話を持ちかけられていた。しかし野村さんは

「左官に肩書きは要らないと思いますので」

と断固として首を縦に振らなかった。全国左官技能競技大会で1位を逃して以来の、それは野村さんの信条である。

だが、この時は押し切られた。

「ねえ、野村さん、いつまで拒否し続けるんだ? 住所と名前だけ書いてきてよ。あんたがもらってくれないと、後の人がもらえないんだよ。欲しい人がいっぱいいるんだ」

そうか、私が固辞し続けると、ほかの人が名工になれなくて困るのか。表彰式場まで足を運んだのは渋々だった。

意に染まない受章ではあった。しかし、それを報じた朝日新聞の記事に意を強くした。

「『最高の職人』めざし 後継育成も」

という見出しがついていたからである。「最高の職人」。まだそんなものになれたとは思わない。だが、自分が目指し続けてきたことは事実だ。それを言葉にしてもらえた。だから

「私の人生、これで良かったのかな?」

という思いが沸き上がり、何だか心が浮き立ったのである。

写真=旧土岐家住宅洋館で作業に当たる野村さん

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第20回 最高の職人の仕事 その1

「最高の職人」を目指す野村さんはどんな仕事をするのか。

何人もの左官が

「俺には出来ない」

と辞退した仕事を任されたのは2017年のことだ。現場は館林市。ある不動産経営者が、発明で資産をなした祖父から受け継いだ平屋建ての住宅の改築を思い立った。請け負ったのは前橋市の建築会社である。
ところが、難題が持ち上がった。漆喰で塗った壁である。施主は

「いまのこの色を再現して欲しい」

と強く求めた。その壁は陽が当たらないところにあり、幅90㎝、高さ60㎝ほどで、青みがかった黒、とでも表現するしかない色をしていた。その色をそのまま再現しろという。

建築会社はいつも使っている左官に任せた。壁が塗り上がった。その壁が

「何だ、この色は!」

と、施主の怒りを招いたのである。

「あれほど言ったじゃないか。どうしてこんな色に塗る?」

建築会社は震え上がった。この建築会社にとって、施主はマンション建築を継続的に発注してくれる大口顧客である。任された仕事ができなければ新しいマンションの建築を他社に取られるかも知れない……。
あわてて前橋市のほかの左官を現場に呼んだ。その左官は壁を見るなり、

「俺には出来ない」

と逃げ帰った。
新潟に腕のいい左官がいると聞いて問い合わせた。やんわりと断られた。断りながら、この左官店は情報をくれた。

「佐野市に漆喰メーカーがある。そこに相談してはどうか?」

その漆喰メーカーが推薦したのが野村さんである。社長を始め、長年の知り合いだった。

野村さんはどんな仕事も断らない。施主のあらゆる要望に応える。それが左官・野村の信条なのだ。
数人の左官が手に負えなかった現場に出かけ、問題の壁を見た。漆喰に松煙を混ぜ込んだ黒漆喰である。それが長い年月の間に黒が沈んで濃い鼠色になり、さらに青みが加わっていた。
一方、塗りの仕上げは並、と見えた。とすると、問題はこの色か。

「少し時間を下さい」

野村さんは、会社に戻ると色の再現に取り組んだ。あの壁は松煙を加えた黒漆喰だ。10日ほどかけて松煙の混合率を変えた20枚の色見本を作り、現場で施主と一緒に色合わせをした。

「全く違うじゃないか。ほかの左官を連れてこい!」

施主の怒声が飛んだ。

「申しわけありません」

野村さんは深々と頭を下げた。下げながら心に誓った。

(この仕事ができなければ1人前の左官ではない。見てろ、絶対にこの色を出してやる!)

松煙だけではあの色は出ないらしい。であれば紺色の顔料を加えてみよう。1g単位で混合率を変え、A4版ほどの大きさの色見本を150枚ほど作った。見本はない。写真は微妙に色が変わるから使えないのだ。現場で頭に刻み込ませた「色」だけが頼りである。

1ヵ月半ほどかかって仕上げると現場通いが始まった。1度に持参する色見本は20枚ほどである。

「ほら見ろ、この左官には出来ないんだ!」

「何度来ても一緒だ。左官を変えろ!」

行く度に怒声を浴びた。

「ん?」

と施主の表情が変わったのは5回目の訪問だった。

「似てるな」

野村さんの目にもそう見えた。

「悪いが、色見本の角度を少し変えてもらえませんか?」

色は光の当たり具合で微妙に表情を変える。色見本を壁に押し当てていた建築会社の社員が野村さんの指示に従った。

「あ、この色だ。これだ、これでやってくれ!」

施主のゴーサインが、やっと出た。そこまでやって、施工費は20万円。

「それまではずいぶん叱られましたが、最後は『よくできた、よく出来た!』って大変喜んでいただきました。気に入っていただけたのでしょう、それからは門に連なる外壁を『あんたに任せる』と塗らせていただいたり、塀の補修の仕事をいただいたり、可愛がってもらいました。はい、外壁は土佐漆喰の磨き仕上げでやらせてもらいました」

野村さんは「1人前の左官」なのである。

写真=野村さんが作った色見本の一部

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第19回 どんな日本一に?

全国左官技能競技大会での日本一には手が届かなかった。だが野村さんは、日本一の左官になる夢は諦めなかった。

「競技大会に出場するのは左官職人のほんの一部です。だとしたら、建築現場で工夫と努力を積み重ねて熟練の技を持つようになった本当の『名人』、私が学ばなければならない左官の技の持ち主はほかにいるんじゃないかと考えましてね」

名人の仕事を自分の目で見て学ぼうと、暇を見つけてはあちこちに足を運んだのである。

秋田・角館(かくのだて)には3度も足を運び、土蔵を見て回った。みごとな黒漆喰があった。黒漆喰とは本来真っ白の漆喰に、あえて「松煙(しょうえん)」や「油煙(ゆえん)」などを加えて黒くして塗る工法である。これにはさらに、光沢を抑えた「ずい黒」、鏡面のように表面を光らせる「磨き」の2つの仕上げ手法がある。人の姿が映るまでに磨き上げる「黒漆喰磨き」は左官の仕事中でも極めて難しい技だといわれる。

山形県の旧県庁舎には石膏の置き引きの技を見に行った。講堂や知事室だった部屋の天井と壁の突き合わせ部分に石膏を置き引きした廻り縁が取り付けてあった。縦幅が50㎝はあろうかという大きさである。モールディングは大きくなればなるほど製作が難しい。乾燥具合が部分によって違うので、タイミングが取りにくいのだ。天井から下がるシャンデリアの周りにも目を見張りたくなる石膏のレリーフがあった。

埼玉県・川越の白漆喰磨き、姫路城の屋根漆喰(屋根瓦を止めるための漆喰)を任された金沢の左官店が施工した美術館の白漆喰磨きの壁……。

最も心惹かれたのは、高知県の土佐漆喰だった。漆喰は石灰、のり、苆(すさ)、水を混ぜ合わせたものだということはすでに説明した。ところが土佐漆喰はのりを使わない。代わりに細かく切った藁(わら)を発酵させた苆で粘り気を出す。こうすると、仕上がった漆喰がカチカチに固くなるのだという。

いわれてみて思い当たった。高知県は台風銀座といわれるほど台風の来襲が多い。そのため、普通の漆喰で外壁を塗ったのでは台風がもたらす雨風で破損してしまう。そこで考え出されたのが土佐漆喰だった。これなら台風に襲われてもビクともしない。
左官の技はその土地土地の風土によって違った発展をしてきたらしい。

高知市で見せてもらった建設会社社長宅の玄関の欄間には、えびす様、大黒様なのだろう、釣り竿を担いだ2人の姿が、漆喰でみごとな彫刻になっていた。たった1人の左官職人がこの家屋の左官仕事を3000万円で請け負い、3年がかりで仕上げた仕事の一部だという。野村さんより少し年下で、漆喰彫刻の技を祖父に学んだのだそうだ。

「各地を回れば回るほど、全国にはそれぞれの分野の左官日本一がいると思い知らされました。見ながら、じゃあ、私はどんな左官日本一になったら良かろう? と考え込みました」

あの角館の、山形の、川越の、金沢の、土佐の左官たちは日本一の肩書きとは無縁である。それなのに、生涯をかけて自分の技を磨き続け、それぞれの土地の伝統技能と呼べるほどの技に育て上げた。そして後継たちがその技を受け継いでいる。

「それでね、私は自分の技を磨くのはもちろんだが、私ひとりで何かの名人になるのではなく、若い者を育てようと思ったのです。漆喰彫刻なんて私にはできませんが、私の後継者も含めた左官の仕事で日本一になってやろうって」

いま野村さんは、全国左官技能競技大会で優勝しなくて良かったと思っている。

「ずっと後のことですが、天狗になって周りから浮き上がってしまった『元日本一』が多いという話を耳にしました。あんな大きな肩書きがついてしまうと、ついつい思い上がってしまう弱さが人間にあるのでしょう。でも、考えてみれば、ある瞬間に日本一でも、その後もずっと日本一でいられるかどうか分からない。実るほど頭を垂れる稲穂かな、を実行するのは難しいらしい。私も優勝していたら、全国の名人の技に学ぼうなんて気は起こさなかったでしょうし、自分の出来ることを突き詰め、若い人を育てようなんて考えなかったかも知れませんからね」

東南アジア3国から技能検定の仕方を教えて欲しいと頼まれた仕事を、

「野村さん、そんなことができるのはあんたしかいないよ」

と任された野村さんは、そんな左官なのである。

写真=秋田・角館の土蔵

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第18回 そして、3位

1982年10月、東京・市ヶ谷の日本左官業組合連合会本部ビルで第20回全国左官技能競技大会が開かれた。期間は2日間である。日本一の座を競う出場者は27人。その中の1人が野村さんである。

会場に着くと、競技会場である屋上で審査員が道具を点検した。持って来た鏝(こて)や石膏の置き引きに使う型、鑿(のみ)などなどを競技台に並べ、順番を待った。点検は出場者ひとりずつ順番に行われ、次が野村さんの番だった。その時、

「開会式が始まります。全員式場に入って下さい」

と声がかかった。審査員を含め、出場者全員が階下に降りた。まだ点検を受けていない野村さんは道具を出しっぱなしにして開会式場に向かった。

式が終わり、屋上に戻った。さあこれから点検を受けなければならない。
ところが、今度は

「競技大会を始めます。直ちに屋上に向かって下さい」

のアナウンス。えっ、私はまだ点検を受けていないのだが、いいのかな? だが、競技台に道具を出しっぱなしでは作業が出来ない。屋上に戻りあわてて道具を仕舞い始めた。その時である。

「競技が始まった今ごろ道具を仕舞う奴があるか!」

怒声を浴びせられた。顔を上げると大会実行委員長である。

「何を言ってるんだ。道具の点検が済まないうちに開会式が始まったから出しっぱなしにしていたんじゃないか。そちらの不手際だろ!?」

カッとした。カッとしたまま道具を取りまとめて作業を始めた。後で思えば、あれがケチのつき始めだった。

最初に取り掛かったのは石膏の置き引きである。モールディングを10本ほど曳かねばならない。石膏を水で溶き始めた。あれ、おかしいな? 練習では30分ほどで固まっていたのに、今日はなかなか固まってくれないぞ? どうしたんだ?
焦りが生まれた。固まる直前に型で曳かねばならないのだが、そのタイミングがつかめない。とりあえず1本曳いてみた。ダメだ。これじゃあ使いものにならない。焦りが増した。2本目、3本目……。

「何とか制限時間中に10本は曳けたのですが、仕上がりは『何とか形にした』という程度で……」

   大会での野村さんの作品

石膏を溶く水の温度が違っていたことに気が付いたのは大会が終わったあとである。桐生では井戸水で石膏を溶いていた。ところが大会で使ったのは水道水だった。井戸水は1年中16℃〜18℃で安定している。ところが10月の東京の水道水はずっと水温が低かった。そのため石膏が固まりにくかったのだ。

済んだことを悔やんでも仕方がない。3面の壁を塗り、天井と壁の突き合わせに不出来な石膏のモールディングを取り付けた。モールディングの継ぎ目に石膏を塗り込む。あれほど固まりにくかった石膏だから、塗り込んだ石膏が固まるのに時間がかかるはずだと考えてほかの仕事をし、さて余分な石膏を掻き取ろうと向き合ってみると、今度は石膏が完全に固まっていた。完全に固まる直前、まだ柔らかいうちに余分な石膏を筆や鉄板で掻き取るからきれいに仕上がるのだが、こんなにカチカチになっては掻き取れない。やむなく、鑿(のみ)で削り落とした。ここでもタイミングが取れなかったのである。

「ええ、モールディングについては散々でした。自己採点でも100点満点でせいぜい70点。あー、こりゃあいかんな、と」

2日間の競技が終わり、優勝杯を手にしたのは東京代表の左官職人だった。モールディングで大失敗した野村さんは、それでも3位。

「群馬県の1級検定でも3位、全国競技大会でも3位。なんだか『3』という数字に魅入られたようで……」

あの年優勝した東京の左官職人の悪評が思わぬところから伝わってきたのは10年ほど後である。彼が取り仕切った群馬県庁昭和庁舎の補修工事の評判が最悪だったのだ。塗った壁にヒビが入った。それではと補修工事を任せたら、モルタルに混ぜる調整剤の選択を間違ったらしく、壁面に雨に含まれるよごれが染みついてしまったのだ。シミだらけの昭和庁舎の壁。県庁にクレームが殺到したらしい。

「ああ、そうか、と思ったのです。競技大会では特殊な技能が求められます。そこで優勝するということは、例えてみれば受験秀才のトップになるということでしょう。しかし、受験に必須の知識が世の中の役に立つとは限りません。だったら私は受験問題を誰よりも上手く解ける左官ではなく、本当にお施主さんのお役に立てる左官になろうと思ったのです」

いや、そんなことを考えながら、実はもう一度全国大会に挑んでみようか、という思いもあった。しかし、そのためにはまた少なくとも3ヵ月、現場に出ずに「受験勉強」をしなければならない。

「大会が終わると、親父が『現場はお前に任せるからな』といいました。身体も弱ってきたみたいで、あ、それじゃあ私が受験勉強をするゆとりはないな、と」

夢は果たせなかった野村さんだが、全国大会に出てひとつだけいいことがあった。

「あの3ヵ月の準備、2日間の競技に比べる、現場の仕事がすごく楽なんですよ!」

思ってもみなかった余録だった。

写真=第20回全国左官技能競技大会。野村さんは右から2人目

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第17回 3位

全国左官業組合連合会が実施する全国左官技能競技大会に野村さんが出たのは1982年のことである。当時32歳。文字通り、左官の日本一を決める大会だ。

「はい、日本一を目指しました」

大会参加資格は、都道府県ごとに行われる左官の1級技能検定で優秀な成績を収めることである。野村さんは2年前の1980年、30歳の若さで1級に合格していた。成績は群馬県で3位で、この年は全国大会に出る資格はなかった。

「だから、私は全国大会に出る機会はないだろうと諦めていたんでです」

2年後の1982年、群馬県の1級技能検定で1位だった左官職人が全国大会への出場を辞退した。それではと前年の成績1位に声をかけたが、前年も辞退していたこの人は、この年も断った。特殊な技能が求められる全国大会では、少なくとも3ヵ月は仕事を休んで準備をしなければ上位入賞は覚束ない。勤務先が支えてくれなければ出たくてもも出ることが出来ないのだ。それが辞退の背景だった。

「というわけなんだが、野村さん、あんた出てくれないかね」

思ってもみなかった誘いだった。2年前に3位でしかなかった私に声がかかるということは、この2年間で野村はさらに腕を上げたと評価されたのだろうか?
理由は分からなかったが嬉しかった。日本一の左官。野村さんは密かに狙っていたからだ。

「はい、私でよければ喜んで出させていただきます」

そして、自信もあった。もう2年前,県で3位だった私ではない。あれからも研究を続けてきた。自信過剰かも知れないが、腕は見違えるほど上がったよ思う。よし、日本一になってみせる!

大会の実施要項を取り寄せ、準備を始めた。全国大会では、間口が180㎝、高さ230㎝、奥行き90㎝の床の間状にしつらえられた競技架台の奥と左右の3つの壁を塗って技を競う。それもただ塗ればいいというのではない。聚楽土を使う部分、漆喰で塗る部分、リシンの掻き落としと呼ばれる手法を使う部分、石膏の置き引きでモールディングを作って取り付ける仕事、と左官に求められるほとんどあらゆる技法を駆使することが求められる。

と書いても、左官業界の用語に通じている人は多くはないだろう。ここで少し言葉の説明をしておく。

聚楽土、漆喰については前回触れたので参照していただきたい。

リシンとは石灰、ドロマイトプラスター(苦石灰=鉱物のドロマイトを原料とした材料)、セメント、顔料、砕石を混合したものをいう。これを壁に塗り、乾ききらないうちに鏝(こて)と先の尖った突起がたくさん並ぶ活け花の剣山に似た道具を使って表面をデコボコに仕上げ、砕石を表面に出すのがリシンの掻き落としと呼ばれる手法だ。壁に独特の風合いを出すために使われる。

石膏の置き引きとは、石膏でモールディングを作る手法である。モールディングは壁や家具に彩りを添える帯状の装飾で、大会では天井と壁の突き合わせ部分に取り付ける「廻り縁」を作る。水で練った石膏を平らな板に盛り上げ、固まり具合を見ながら木と金属で出来た型で石膏を引いて作る。石膏は固まりながら膨張する。その固まり具合を見ながら20回から40回も型で引いて仕上げる。粘土をプラスチックの型に押し込んで動物や星を作るのに似た作業だ。
乾いたモールディングは競技架台の壁と天井の突き合わせ分に取り付ける。継ぎ目を見えなくするため、継ぎ目部分には溶いた石膏を塗り込み、乾いた後で継ぎ目が見えなくなるように余分な出っ張りを掻き取る。

一言でいえば、全国左官技能競技大会は最高難度の左官の技を競うのである。そして現代建築ではほとんど使われなくなった技がたくさん含まれる。だから少なくとも3ヵ月は日々の仕事を放り出し、試験対策に全力を注がなければ上位入賞は望めないのだ。

幸い、父・角尾さんはまだ現役だった。野村さんが日々の仕事を外れても野村左官店は健在である。
野村さんは大会の準備に熱を入れた。目標は日本一である。

写真=全国大会に向けた練習中の野村さん