桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第17回 3位

全国左官業組合連合会が実施する全国左官技能競技大会に野村さんが出たのは1982年のことである。当時32歳。文字通り、左官の日本一を決める大会だ。

「はい、日本一を目指しました」

大会参加資格は、都道府県ごとに行われる左官の1級技能検定で優秀な成績を収めることである。野村さんは2年前の1980年、30歳の若さで1級に合格していた。成績は群馬県で3位で、この年は全国大会に出る資格はなかった。

「だから、私は全国大会に出る機会はないだろうと諦めていたんでです」

2年後の1982年、群馬県の1級技能検定で1位だった左官職人が全国大会への出場を辞退した。それではと前年の成績1位に声をかけたが、前年も辞退していたこの人は、この年も断った。特殊な技能が求められる全国大会では、少なくとも3ヵ月は仕事を休んで準備をしなければ上位入賞は覚束ない。勤務先が支えてくれなければ出たくてもも出ることが出来ないのだ。それが辞退の背景だった。

「というわけなんだが、野村さん、あんた出てくれないかね」

思ってもみなかった誘いだった。2年前に3位でしかなかった私に声がかかるということは、この2年間で野村はさらに腕を上げたと評価されたのだろうか?
理由は分からなかったが嬉しかった。日本一の左官。野村さんは密かに狙っていたからだ。

「はい、私でよければ喜んで出させていただきます」

そして、自信もあった。もう2年前,県で3位だった私ではない。あれからも研究を続けてきた。自信過剰かも知れないが、腕は見違えるほど上がったよ思う。よし、日本一になってみせる!

大会の実施要項を取り寄せ、準備を始めた。全国大会では、間口が180㎝、高さ230㎝、奥行き90㎝の床の間状にしつらえられた競技架台の奥と左右の3つの壁を塗って技を競う。それもただ塗ればいいというのではない。聚楽土を使う部分、漆喰で塗る部分、リシンの掻き落としと呼ばれる手法を使う部分、石膏の置き引きでモールディングを作って取り付ける仕事、と左官に求められるほとんどあらゆる技法を駆使することが求められる。

と書いても、左官業界の用語に通じている人は多くはないだろう。ここで少し言葉の説明をしておく。

聚楽土、漆喰については前回触れたので参照していただきたい。

リシンとは石灰、ドロマイトプラスター(苦石灰=鉱物のドロマイトを原料とした材料)、セメント、顔料、砕石を混合したものをいう。これを壁に塗り、乾ききらないうちに鏝(こて)と先の尖った突起がたくさん並ぶ活け花の剣山に似た道具を使って表面をデコボコに仕上げ、砕石を表面に出すのがリシンの掻き落としと呼ばれる手法だ。壁に独特の風合いを出すために使われる。

石膏の置き引きとは、石膏でモールディングを作る手法である。モールディングは壁や家具に彩りを添える帯状の装飾で、大会では天井と壁の突き合わせ部分に取り付ける「廻り縁」を作る。水で練った石膏を平らな板に盛り上げ、固まり具合を見ながら木と金属で出来た型で石膏を引いて作る。石膏は固まりながら膨張する。その固まり具合を見ながら20回から40回も型で引いて仕上げる。粘土をプラスチックの型に押し込んで動物や星を作るのに似た作業だ。
乾いたモールディングは競技架台の壁と天井の突き合わせ分に取り付ける。継ぎ目を見えなくするため、継ぎ目部分には溶いた石膏を塗り込み、乾いた後で継ぎ目が見えなくなるように余分な出っ張りを掻き取る。

一言でいえば、全国左官技能競技大会は最高難度の左官の技を競うのである。そして現代建築ではほとんど使われなくなった技がたくさん含まれる。だから少なくとも3ヵ月は日々の仕事を放り出し、試験対策に全力を注がなければ上位入賞は望めないのだ。

幸い、父・角尾さんはまだ現役だった。野村さんが日々の仕事を外れても野村左官店は健在である。
野村さんは大会の準備に熱を入れた。目標は日本一である。

写真=全国大会に向けた練習中の野村さん

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第16回 研究

左官という一芸に秀でよう。野村さんは暮らしのリズムを変えた。仕事が早く済んだ夕刻や休日はそれまで野村さんのリラックスタイムだった。仕事で疲れた身体を休めるため、テレビをボンヤリながめたり、町に遊びに出たり、ただ漫然と過ごしていた。
その時間を、左官という仕事の研究に使い始めた。

左官の仕事はまず材料に始まる。
モルタルはセメントと砂、水を混合する。では、セメント1に対して、砂、水の混合比はどの程度にしたら塗りやすく、仕上げがきれいで、耐久性がある仕上がりになるのか。
日本ではこれに混和剤を加える。塗りやすくするもの、コンクリートの防水性を高めるもの、ひび割れを防ぐもの……。混和剤と一口に言うが、種類は多い。そしてメーカーごとの違いもある。それをひとつひとつ、混合比を変えて作る。

漆喰は市販品を使う職人が多い。漆喰とは石灰、のり、そして麻の繊維の混合物で、市販品は3つの素材をメーカーが混ぜ合わせている。しかし、それが最高の混合比率とは限らない。野村さんは自分で最適な混合比を追求した。
最近の市販品は、植物繊維から抽出したメチルセルロースをのりとして使っているものが多い。だが、伝統的な漆喰は海草から取る角又(つのまた)のりを使っていた。よし、角又のりを配合したらどうなるだろう?
主原料の石灰にもいろいろな種類がある。石灰石を焼いたものが主流だが、貝殻を焼いて作ったものもある。その中でも最高級といわれるのが赤貝の貝殻を焼いた貝灰だ。福岡県柳川市が主産地で、石灰石から作る石灰の3倍〜5倍の価格がする。角又のりが少なくて済み、これで塗るとヒビが少なくなるらしい。
石灰石にしろ貝灰にしろ、焼く際の熱源でも違いが出る。重油で一気に焼くよりコークスでじっくり焼いた方が質の良い石灰になるのである。
そして、それぞれの素材を混ぜ合わせる比率も突き詰めなければならない。

あまり多くはないが、たまに土壁にして欲しいという施主もいる。竹を格子状に編んだ小舞(こまい)という下地に粘土を張り付けて下地を作り、仕上げに色土を2㎜ほどの厚さに塗る。色土とは錆色、赤、黒、白など色のついた粘土に藁や紙。麻などを細かく切った苆(すさ)を混ぜたものだ。
その色土で最高だといわれるのが聚楽土(じゅらくつち)である。豊臣秀吉が建てた聚楽第(じゅらくだい)の歩廊(門から建物の入口までの道)で偶然見つかり、江戸時代から使われ始めた。この土は聚楽第があった京都市上京区の近くでしか採れない。いまでは聚楽第跡にはビルが建ち並んでいるため、その建て替えなどで地面が現れた時、3mほど掘ってやっと採れる希少な土だ。高価である。
野村さんはこの聚楽土が欲しくなった。手に入れるため、わざわざ京都まで出かけ、聚楽土を販売しているただ1軒の建材店、「中内建材」で手に入れた。合わせて、聚楽土専用の鏝(こて)も買った。最高級品は30万円,40万円もしてさすがに手が出なかった。手にしたのは6万円ほどの「普及品」だった。

聚楽土の水こね鏝(左)と磨き鏝=漆喰などの磨き上げに使う

「この土、最高級の仕上げはのりを使わないんです。『水ごね仕上げ』といいます。のりを使わないから水に弱い。外回りに使えば、雨にあたればボロボロ崩れ落ちます。それを最高級というのは、日本人の独特な価値観ですよねえ」

もちろん、野村さんが研究した色土は聚楽土だけではない。桐生にはいい土がなく、赤城山の中腹で採れる赤土を使ってみた。ところが、なかなか固まってくれない。

「それなら、と石灰やセメントを混ぜてみました。色を良くするため顔料も使いました。はい、そんなことは誰もやったことがないようです。うまく固まっていい色になってくれましたが、これ、邪道かも知れませんね」

こうして様々に混合した材料は塗ってみなければ良し悪しが分からない。野村さんは60㎝×60㎝の石膏ボードやベニヤ板をたくさん用意し、混合が終わった材料を次から次へと塗り続けた。
そして、目についた専門書も読み始めた。いま書棚を埋める専門書は100冊を下らない。

「野村さん、あんたよく勉強してるね」

という声を聞くようになった。知識をひけらかしたことはない。だが、言葉の端々、仕事のどこかに自ずから顔を出すのだろう。
研究にますます身が入った。

写真=野村左官展の資材倉庫。野村さんの研究の場でもあった

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第15回 日本1の左官になれ

付き合いが始まった小林段ボールの住宅建築部門には、当時左官店が3社入っていた。時を追って野村左官店が受ける仕事の比率が増えた。小林社長は、基本を忠実に守る野村左官店の仕事ぶりを気に入ってくれたようである。

「おい、野村君」

ある日、小林社長に声をかけられた。

「ちょいと話あるんだがな」

話とは、野村左官店の事業を広げないか、という提案だった。住宅建築にはタイル貼り、外壁の塗装、外構工事なども必要だ。

「そこでだが野村君、君の会社でその3つの仕事を始めないか。なーに、新しく職人を雇う必要はない。全部外注して君が仕切ればいいんだ。仕事は俺が回してやる。どうだ、やってみないか?」

事業を拡大したい。それは野村さんが日頃考えていることである。渡りに船の提案ではある。だが、野村さんは考え込んだ。左官店がタイル、塗装、外構まで手を広げる。確かに利益は増えるだろう。だが……。

「社長、申しわけありませんが、この話はお断りさせてください。確かに事業は広げたいのですが、私は左官一筋でやっていきたいのです」

また怒られるかと身構えた。だが、小林社長は破顔一笑した。

「そうか。いい心がけだ。だがな、左官一筋でやるのなら、野村君、一芸に秀でろ。日本一の左官にならなきゃダメだぞ」

日本一の左官になる。誰にも告げず、ひとり密かに思い続けていることだった。その背中を小林社長から押された。一層仕事に打ち込んだ。

「ええ、下地の上に1回塗りではなく2回塗りは必ずやりましたし、ほかの職人が5時で仕事を切り上げるのなら、俺は6時,7時までやってやるって思い定めました」

そんなころである。ある現場で3時のお茶をしていた。そこへ施主さんが顔を出した。

「野村さん、お願いがあるんだが」

何だか言いにくそうである。黙って待っていると、1枚の写真が出て来た。年頃の、綺麗な女性だった。

「これ、私の娘なんだが、どうだろう、あなたがもらってやってはくれないだろうか?」

突然の話だった。驚いていると、

「いや、あなたの仕事ぶりがたいそう素晴らしいので、この人ならうちの娘の婿に最適だと思ってね」

いま思い出しても、美しい娘さんだった。だが、結婚は一生の大事である。それだけで決められるわけはない。

「ありがたいことでしたが、丁重にお断りしました」

驚いたことに、それからしばらくしてほかの現場で仕事をしていると、またまたそこの施主から

「うちの娘を……」

と声をかけられた。野村さん、モテモテである。

「あまりお話しもしたことがないお施主さんから、1度ならず2度までもお嬢さんの結婚相手になれといわれて、ホント、戸惑いました。いったいどうなっているんだろう、って」

筆者は当時の野村さんにお目にかかったことはない。だが、セメントと砂のほこりにまみれて鏝(こて)を動かし続ける野村さんの姿は、周りから見ればきっと光り輝いて映ったのに違いない。

野村さん(中央)はギターを抱いて舞台に立ったことも

そして野村さんは、昭和42年(1967年)に開校した桐生市青年大学に通い始める。日本一の左官になり、左官店の事業を拡大するには腕を磨くだけでなく、知識や知性、教養を身につける必要があると思い立ったのだ。仕事を終えて週2回、一般教養や桐生の歴史、そして好きな音楽を学んだ。

同じ頃、友人に誘われて市のバドミントン教室にも通い始める。コートに出て無心にシャトルを追い、ラケットを振るっていると仕事のモヤモヤした思いが吹っ切れ、気が晴れた。
だが、野村さんがバドミントンで手に入れたのは気晴らしだけではなかった。2歳年下の妻・恵子さんと知り合い、29歳で結婚したのである。

充実した日々だった。

写真=バドミントンに興じる野村さん(右)

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第14回 バカヤロウ!

左官という仕事に身が入り始めた。評判のいい左官だった父・角尾さんの技を盗み始めた。角尾さんは何も教えてくれなかったのだ。盗んだ技は建ちかかった家の押し入れの壁塗りで試した。ここなら多少失敗しても目立たないからである。
セメントや砂のほこりで真っ白になった自分を恥じることもなくなった。

「俺は額に汗して働いている。日本一の左官を目指している。どうして恥じなければいけない?」

そう思えるようになっていた。
働きながら考えた。俺は日本一の左官になる。そのためには何が必要だろう?
考えた末にたどり着いたのが

「毎日の仕事を基本通りにやる」

ことだった。
基本通り、とは下塗り、中塗り、上塗りと、必ず3度に分けて塗ることである。当時は内装に石膏ボードを使う建築が多かった。これには、石膏で下塗り、中塗りをし、上塗りは施主の好みで繊維壁材を使ったり、漆喰を使ったりした。

新しい家がたくさん建った時代である。勢い、左官職人は仕事に追われ、現場から現場へ飛び回る忙しさだった。そのためだろうか、下塗りをすっ飛ばし、2度塗りする左官がほとんどだった。確かに、一見しただけでは下地がきちんと塗ってある壁と見分けがつかない。だが、時がたつにつれて違いが出る。下塗りで下地としっかりした接着を保っていない壁は数年もすると剥げ落ち始める恐れがあるのだ。

ひょっとしたら、施主は野村さんの丁寧な仕事には気が付かなかったかも知れない。だが、建築現場にはたくさんの「専門家」がいる。大工を始め、電気工事屋、塗装屋などいくつもの工事現場を手がけてきた人たちである。彼らは建築現場で、厳しい批評眼を持ってほかの職人の仕事を見る。
その人たちの間で

「野村はいい仕事をする」

という評価が生まれていたらしい。時折、そんな言葉の端々が野村さんの耳にも届くようになったのだ。ますます仕事が面白くなり、少しずつだが自信もつき始めた。その自信が

「野村左官店をいま以上に大きくしよう」

という事業欲を生んだ。25歳前後のことだったと記憶する。

そして、父・角尾さんが

「俺と違って、倅(せがれ)は真面目なヤツだ。面倒を見てくれ」

とあちこちで頭を下げてくれていたことを知ったのもこの頃である。

そんなころ、野村さんは桐生市の小林段ボール社長、小林禎(ただし)さんと知り合う。父・角尾さんが可愛がっていた電気工事屋の紹介だった。当時小林段ボールは住宅建築にも事業を広げていて、野村さんにも仕事を出してくれるようになった。

その日は朝から雨だった。外回りの仕事にかかっていたところだから、雨では仕事にならない。現場には行かず、何かの用事で小林段ボールを訪れた。すると、

「社長が呼んでいますよ」

と声をかけられた。何事だろう?

「野村君、朝からうちの会社に来て、いまの現場はどうした?」

「朝から雨ですから、仕事は休みました」

「そうか。でも君、現場に行って確認したのか? 君の家の周辺は雨かも知れないが、現場は降ってないかも知れないじゃないか」

「いやあ、こんな雨ですから……」

「バカヤロウ!」

怒声が鳴り響いた。

「お客様はな、自分の家が建つのを今日か明日かとお待ちになっている。雨が降っても現場に顔を出し、そこが雨じゃなければ仕事をする。やっぱり雨だったら、お客様に『この雨で、今日は仕事ができません』とお断りするんだ。それが職人というものだ! いまからでも行ってこい!!」

野村さんは青くなって現場に駆け付けた。現場でもやっぱり雨が降っていた。その雨に濡れながら、野村さんには社長への感謝の思いが沸き上がった。
少しばかり仕事ができるようになって思い上がっていたのではないか? 自分がいい仕事をすれば周りなんかどうでもいいと思っていたのではないか? お客様の思いなんて考えようともしなかったのではないか?
私の常識は世間の常識ではなかった。約束は守らねばならないこと、守ることが出来なくなった際は連絡を欠かさないこと、そんな当たり前のことが私には見えていなかった……。

今日は雨で仕事ができないと施主に伝えながら、野村さんはつい先程小林社長の顔を思い出した。額に青筋を立てんばかりの怒り顔だった。
ありがたかった。小林社長は本気で怒っていた。あの人は、私を左官として育てようとしてくれている。

「いまでも、小林社長は私の恩人だと感謝しているんです」

写真=小林社長(左端)と食事をする野村さん(中央)

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第13回 交通事故

やっと鏝(こて)を握らせてもらったのは1年ほど下働きを続けてからだった。といっても、左官の技の華である仕上げ塗りなどさせてもらえるはずもない。工事が終われば見えなくなる下塗りが野村さんに与えられた仕事だった。砂ふるい、材料の攪拌に比べれば多少は左官らしい仕事ともいえる。だが、嫌いな仕事である。まったく面白くない。
現場では

「早く夕方になってくれ」

と願い続けた。
朝、目が醒めた時に真っ先に頭の浮かぶのは

「雨が降ってないか?」

である。相変わらず鬱々とした日々が続いた。

野村さんは負けず嫌いである。子どものころから何でも1番を目指した。勉強、運動会、校内マラソン大会、図画工作、喧嘩……。残念ながら1番になれたことは少なかったが、だが、1番になろうと努力はした。最もがんばったのは、喜劇役者を目指して様々なギャグを考え続けた高校時代である。真面目に喜劇役者の頂点を目指した。あのころは頭の中がギャグだらけだった。

そして反抗心も強かった。人に従うのが嫌いだ。自分は自分であり続けなければならない。だから子どものころは協調性に欠けた男の子だった。そんな野村さんは友だちから見れば扱いにくかったのだろう。一時、近所では誰も遊んでくれなくなった。

鬱々とした暮らしの中で、突然、そんな生まれ持った性格が表面に顔を出した。きっかけはやっと鏝を持ち始めた昭和45年(1970年)4月、すぐ近くに新しく事業内高等職業訓練校(現在の桐生高等技能専門校)が開校したことである。大工、鳶(とび)、左官などの技術を教えるという。

「嫌がっても、逃げても、俺は左官職人になるしかない。だったら、左官の世界でもトップを目指すべきではないのか? 先ずは左官の技を1から学ばねば1番にはなれないのではないか? 俺は負けるのが嫌いだ。この職業訓練校に通おう!」

突然の思いつきだった。野村さんは夜間部の入学手続きを取った。週2回、仕事を終えてからここに通い始めた。第1期生である。野村さんが変わり始めた。

「でも、いま考えると、まだ中途半端でした。本当に心が定まったのは22歳になってからでした」

22歳の野村さんは大きな交通事故を起こしてしまう。草野球チームの仲間と車4台を連ねて白樺湖へキャンプに行った時のことだ。
テントを張り終えると、誰言うともなく近くの街に遊びに行くことになった。車2台で出かけるという。

その日、野村さんは疲れていた。どうしようもなく眠い。1週間ほど残業が続いたせいだ。

「野村、お前は眠そうだ。残って寝ていろよ」

友の1人が気遣ってくれた。だが、野村さんは若かった。ついつい突っ張った。

「いや、俺も行く」

当時の野村さんの愛車は買ったかりのトヨペット・コロナだった。まだ6000㎞しか走っていないバリバリの新車である。見栄があった。町に行くなら新車がいい。だが、友人たちは新車には触りたがらない。

「いいよ、俺が運転する」

キャンプ場を出て片側1車線の道を走った。

「ああ、左カーブだな」

と思ったことまでは記憶にある。だが、記憶はそこで途切れ、次の記憶は車がつぶれる音と、体中を襲った痛みだった。

居眠りをしてしまったのだ。野村さんの車は左カーブを直進してしまった。反対車線を走ってきた山梨県庁職員の車と正面衝突したのである。相手の車の助手席に乗っていた息子さんが頭部陥没骨折の重症を負った。野村さんも上の前歯が3本折れた。

「幸い、亡くなった方はおられませんでしたが……」

職員が大事故に遭った山梨県は聴聞会を開いた。野村さんをともなってその聴聞会に出席し、事故に巻き込まれた方々に謝罪して回ったのは、父・角尾さんだった。

「事故に巻き込んでしまった方々はもちろん、親や友人にとてつもない迷惑をかけてしまいました。それに深々と頭を下げる父の姿が脳裏に刻み込まれました。とても許してもらえることではありませんが、何故か、せめて左官という仕事を一所懸命にやらなければ、迷惑をおかけたした皆さん、そして父へのお詫びは出来ないという気がしまして」

野村さんは、今度こそ左官の1番にならねばならないと自分に言い聞かせた。そうでなければ、事故で迷惑をかけた人達へ申し訳が立たないではないか……。

写真=野村さんの記憶によると、これが愛車のトヨペット・コロナ