全国左官業組合連合会が実施する全国左官技能競技大会に野村さんが出たのは1982年のことである。当時32歳。文字通り、左官の日本一を決める大会だ。
「はい、日本一を目指しました」
大会参加資格は、都道府県ごとに行われる左官の1級技能検定で優秀な成績を収めることである。野村さんは2年前の1980年、30歳の若さで1級に合格していた。成績は群馬県で3位で、この年は全国大会に出る資格はなかった。
「だから、私は全国大会に出る機会はないだろうと諦めていたんでです」
2年後の1982年、群馬県の1級技能検定で1位だった左官職人が全国大会への出場を辞退した。それではと前年の成績1位に声をかけたが、前年も辞退していたこの人は、この年も断った。特殊な技能が求められる全国大会では、少なくとも3ヵ月は仕事を休んで準備をしなければ上位入賞は覚束ない。勤務先が支えてくれなければ出たくてもも出ることが出来ないのだ。それが辞退の背景だった。
「というわけなんだが、野村さん、あんた出てくれないかね」
思ってもみなかった誘いだった。2年前に3位でしかなかった私に声がかかるということは、この2年間で野村はさらに腕を上げたと評価されたのだろうか?
理由は分からなかったが嬉しかった。日本一の左官。野村さんは密かに狙っていたからだ。
「はい、私でよければ喜んで出させていただきます」
そして、自信もあった。もう2年前,県で3位だった私ではない。あれからも研究を続けてきた。自信過剰かも知れないが、腕は見違えるほど上がったよ思う。よし、日本一になってみせる!
大会の実施要項を取り寄せ、準備を始めた。全国大会では、間口が180㎝、高さ230㎝、奥行き90㎝の床の間状にしつらえられた競技架台の奥と左右の3つの壁を塗って技を競う。それもただ塗ればいいというのではない。聚楽土を使う部分、漆喰で塗る部分、リシンの掻き落としと呼ばれる手法を使う部分、石膏の置き引きでモールディングを作って取り付ける仕事、と左官に求められるほとんどあらゆる技法を駆使することが求められる。
と書いても、左官業界の用語に通じている人は多くはないだろう。ここで少し言葉の説明をしておく。
聚楽土、漆喰については前回触れたので参照していただきたい。
リシンとは石灰、ドロマイトプラスター(苦石灰=鉱物のドロマイトを原料とした材料)、セメント、顔料、砕石を混合したものをいう。これを壁に塗り、乾ききらないうちに鏝(こて)と先の尖った突起がたくさん並ぶ活け花の剣山に似た道具を使って表面をデコボコに仕上げ、砕石を表面に出すのがリシンの掻き落としと呼ばれる手法だ。壁に独特の風合いを出すために使われる。
石膏の置き引きとは、石膏でモールディングを作る手法である。モールディングは壁や家具に彩りを添える帯状の装飾で、大会では天井と壁の突き合わせ部分に取り付ける「廻り縁」を作る。水で練った石膏を平らな板に盛り上げ、固まり具合を見ながら木と金属で出来た型で石膏を引いて作る。石膏は固まりながら膨張する。その固まり具合を見ながら20回から40回も型で引いて仕上げる。粘土をプラスチックの型に押し込んで動物や星を作るのに似た作業だ。
乾いたモールディングは競技架台の壁と天井の突き合わせ分に取り付ける。継ぎ目を見えなくするため、継ぎ目部分には溶いた石膏を塗り込み、乾いた後で継ぎ目が見えなくなるように余分な出っ張りを掻き取る。
一言でいえば、全国左官技能競技大会は最高難度の左官の技を競うのである。そして現代建築ではほとんど使われなくなった技がたくさん含まれる。だから少なくとも3ヵ月は日々の仕事を放り出し、試験対策に全力を注がなければ上位入賞は望めないのだ。
幸い、父・角尾さんはまだ現役だった。野村さんが日々の仕事を外れても野村左官店は健在である。
野村さんは大会の準備に熱を入れた。目標は日本一である。
写真=全国大会に向けた練習中の野村さん