ほかがやらない仕事 下山縫製の2

【シルク、3㎜、三巻(みつまき)】
布地の端を三つ折りにして縫う加工を三巻加工という。糸のほつれをなくし、布地の強度を高めるのが狙いである。身の回りにも、ハンカチ、風呂敷、スカーフをはじめ、ズボンやシャツなど、三巻加工が施されたものは多い。

生地の端を三重に折りたたんで直線に縫う。生地がポリエステルなどの化繊やコットンならそれほど難しい縫製ではない。だが、その三巻加工で難度が極めて高いのがシルクである。
三重に折りたたんでミシンで縫っていくと、上になった布と下の布がずれてしまうことが多いのだ。ミシンには「送り歯」があり、生地を自動的に前へ前へと進める。三重になった一番下の生地は、この送り歯で送られていく。ところが、三巻されたところは上から「押さえ」で下に押しつけられている。だから、一番下の生地は前に進むのに、一番上になった生地はその場に止まろうとする。三重になった生地は、この二律背反に直面することになる。

化繊やコットンなど硬い生地なら、それでも三重になった生地は同時に動いてくれるからずれがでることはまずない。ところが柔らかく滑りがいいシルクは、余程の熟練の技がないと三重になった生地がそれぞれずれてしまい、縫い終わりが揃ってくれない。

生地がシルクであるだけでもそれだけの難しさがある。下山縫製が得意とするのは、「シルク、3㎜、三巻」である。下の図を見て頂こう。

シルク生地の端をこの図のように折りたたむ。そして「1.5〜2㎜」とあるところのちょうど真ん中をミシンで縫う(図では緑の線)。お手元に物差しがあれば、「1.5〜2㎜」というのがどれほど狭いのか、改めて確認して頂けるだろう。そして縫い目がほんのわずかでもずれれば、三重になったところではなく、二重のところ、あるいは一重になったところにはみ出してしまう。その上、縫いはじめと縫い終わりの両方がきちんと揃っていなければならない。作業の難しさがおわかりいただけるだろうか。

だから、加工賃は高価である。化繊やコットンの三巻なら1mあたりの加工費は100円内外といわれるが、この「シルク、3㎜、三巻」は400円を下らない。

「とにかく、手間がかかるんだ」

と下山湧司会長はいう。

ほかがやらない仕事 下山縫製の1

【縫製】
服は数多くのパーツが縫い合わされてできている。この、各パーツを縫い合わせて完成品にする工程を「縫製」という。家庭内で趣味的に服を仕立てる「裁縫」もその一種だが、作業を効率化するため設備を導入し、産業として服を仕立てることを「縫製」ということが多い。
縫製業は通常、アパレルメーカーから注文受けて仕事が始まる。求められるのは、メーカーが作ったパターン、仕様書の通りに服を仕上げること、つまり正確さだ。ペーパークラフトに挑んだことがおありだろうか? 数多くのパーツを組み合わせ、ノリで貼り合わせて3次元の立体を作る工作だ。縫製もやはり、型紙に従って裁断したパーツを縫い合わせて体の曲線にピッタリ合う3次元の服に仕上げる。
だから、せいぜいペーパークラフトができる程度の技があればできる、と考えると大間違いである。最大の理由は、紙は歪んだり伸びたりしないのに対し、布、あるいは縫製の対象になる皮やビニールシートなどは伸びもするし歪みもすることである。さらに具合が悪いことに、使ってある糸の種類、太さ、織り方、編み方などで伸び方、歪み方が違う。また、布地を布目に沿って引っ張るのか、布目に斜めになる方向に引っ張るかでも変わる。それをのみ込んだ上で指示通りに3次元の服を仕上げるには、高度な職人技が必要になることはおわかりいただけると思う。
縫製業の仕事は、まずパターン通りに生地を裁断することから始まる。10枚、20枚の生地を重ねて裁断機にかけるが、生地によって伸び方、歪み方が違うため裁断の仕方を変えなければパターン通りのパーツができない。職人さんは手で触って布地の性格を読み取り、最適な裁断方法を選ぶ。また、どうしても伸びや歪みが取れない生地には、樹脂を吹き付けて型崩れをしないように加工した「接着芯」を張り付けた上で裁断する。

        下山縫製の工場

次は、裁断したパーツをミシンで縫い合わせる工程だ。シャツの前立て(二重になってボタン穴が縦に並んでいるところ)のように、布目に沿って直線に縫えば済むところは比較的に簡単で、数ヶ月すればできるようになる人が多い。難しいのはシャツなら裾や衿に出てくる曲線だ。場所によって布目との角度が変わり、伸び方、よじれ方に変化が起きるためで、指先の感触に頼って布地をなだめながら美しく縫いあげるには少なくとも数年の修行がいるといわれる。また、シャツの袖口には着脱が簡単なように切り込みが入っているが、ここを強化するために短冊状の布を縫い合わせている(「剣ボロ」という)部分も難度が高い。

ミシンの職人 大澤紀代美さんの3

【こっそりと】
大澤さんが横振りミシンに魅せられ、刺繍職人の道に進んだのは17歳の時だった。近くの刺繍屋さんに弟子入りし、十数人の先輩女工さんに囲まれながら刺繍の技を学び続けた。

だが、学んだのは刺繍の技だけではなかった。十数台の横振りミシンはしばしば調子が狂う。そのたびにミシン職人が呼ばれ、修理をする。ほかの女工さんたちは自分のミシンが修理されている間は辛い仕事から解放される自由時間だ。好き勝手なことをして修理が終わるのを待った。

大澤さんは違った。ミシン職人の修理を食い入るように見ていた。こんな故障が起きたときはどこを見るのか。何をどうすればうまく動くようになるのか。工具が大好きな少女は、やっぱりメカが好きなのだ。それも、修理されているのは人生をかけようと思っている横振りミシンである。仕組みも動作も修理方法も完全にマスターしたい。ミシンの故障は最大の勉強の機会だったのだ。

半年もすれば修理の要領は頭に入る。大澤さんは自分のミシンは自分で修理し始めた。ミシン職人を呼べば時間がかかる。仕事が混み合っていれば2、3日後、ということもある。その間、大好きな刺繍ができない。自分で直せば、使えない時間はずっと短くなるじゃないの!

「みんなに知られないようにこっそりやったの。だって周りはみんな先輩でしょ。2ヶ月もたつと刺繍の出来映えも仕上げる枚数も先輩を追い抜いていた。その上、ミシンの修理まで自分でやるとなると、あの人たちの顔をつぶすし、悪くするといじめにあうかも知れないからね」

大澤さんは腕利きの刺繍職人になっただけでなく、こっそりと働くミシン職人にもなったのである。

【ミシンへの愛】
19歳、大澤さんが刺繍屋さんを退職して独立した。自宅の一部を改造し、10台連結の横振りミシンを入れた。前の職場から2人の女工さんがついてきた。社長は父・藤三郎さん。大澤さんは工場長兼技術部長兼刺繍職人という役回りだ。

油を差す
ここにも油を差す

大澤さんの朝は早い。朝6時には作業場に入る。まず床を丁寧に掃き清める。終わると、全てのミシンに油を差す。ミシンは高速運動を繰り返すパーツが多い。油が切れると金属同士がこすり合いって動作が不安定になる。そればかりか、金属部品の摩耗も起きる。

「弘法筆を選ばず、っていうけど、弘法さんだってちゃんと手入れされてる筆を使った方がいい字を書けるんじゃない? ミシンも同じ。私たちは横振りミシンのおかげで仕事ができているんだから、まず周りを清潔にし、ミシンにちゃんと手入れしてあげるの。私たち刺繍職人のイロハのイだと思うのよね」

それほど気を使っても、経年変化もあれば女工さんの操作ミスもある。不具合は起きてしまう。そうなると、ミシン職人である大澤さんの出番だ。
もう人の目を気にすることはない。大澤さんは幼い頃から集めていた工具を取り出し、できる修理はすべて自分でこなし始めた。

「いつの間にか、ほとんどの修理ができるようになったわ。あ、ミシンを動かすモーターの修理はできないけど」

いま、大澤さんは11台の横振りミシンを持っている。最も古いのは33歳の時に買ったから、もう半世紀も使い続けていることになる。あとの10台も

「みんな古いの」

毎日周りを掃き清めてもらい、油を差してもらい、それでも体調を壊せばすぐに修理してもらえる。大澤さんの愛に包まれた横振りミシンたちは幸せを噛みしめているに違いない。

ミシンの職人 大澤紀代美さんの2

【どぶ板通り】
2022年11月、筆者は大澤さんと一緒に、「スカジャン展」を開催中の横須賀美術館を訪れた。
スカジャンとは、「横須賀ジャンパー」の省略である。戦後間もなく、米海軍横須賀基地に駐留した米軍兵士たちが、鷹や虎、龍など和風の柄や、自分の所属部隊、基地のシンボルをデザインした柄をジャンパーに刺繍させたのが始まりだといわれる。その後、横須賀・どぶ板通りで一般向けの販売も始まって人気が沸騰した。歴代のスカジャンを一堂に集めたのが「スカジャン展」である。

一見、桐生とも大澤さんとも縁がない「スカジャン展」にわざわざ足を運んだのは、会場の一角に「大澤紀代美コーナー」が設けられ、美術館の依頼で大澤さんが貸し出した作品が展示されていたからだ。
大澤さんの作品はスカジャンではない。普通の刺繍である。それなのに、なぜ「スカジャン展」に展示されたのか。

「だってね、名前はスカジャンだけど、そのほとんどは桐生で縫ってたの。あの頃の桐生は和服に刺繍をする人たちがたくさんいて、スカジャンは新しい職人の練習にピッタリだったのよ。私の工場でも随分縫ったわ」

名前はスカジャンだが、Made in桐生。スカジャンを語るには桐生は外せない。桐生の刺繍といえば大澤紀代美をおいてほかにない。それが美術館の判断だった。

大ちゃんと「ドブ板コーバスタジオ」

美術館をひと巡りした私たちは、スカジャンのメッカ、どぶ板通りに足を伸ばした。大澤さんのもとで横振り刺繍を3年間修行した若者が、ここでスカジャン店「ドブ板コーバスタジオ」を開く準備を進めていたからだ。彼を大ちゃん(山下大輔さん)という。

店に入るなり、大澤さんは口を開いた。

「大ちゃん、このミシンじゃ縫いにくいでしょ。ちょっと紙はないかしら」

大澤さんは紙を置いてミシンを動かした。

「ほら、針穴がいくつもできるでしょ? 本当は同じところに針が落ちなきゃいけないのに」

なるほど、小さな針穴が狭い範囲に散らばっている。

「ちょっと、マイナスドライバーある?」

大ちゃんが持ち出したドライバーを手にした大澤さんは釜を取り出した。針も外して何やら調整している。

「ここをもう少しこうすると、バランスが良くなるの。動かしてみて。ね、音も違ってきたでしょう」

確かに、大澤さんが手を入れるまでは何となく濁っていた音が、スッキリした。

弟子が開く店に駆けつけて、まずミシンを調整する。大澤さんはそんな人である。

「だって、いい刺繍をするには、ミシンにちゃんと動いてもらわなくちゃいけないの。刺繍職人は刺繍の腕はもちろん必要だけど、それと同じぐらいミシンに詳しくなって手入れ、修理ができるミシン職人にならなきゃならないのよ」

大澤さんに調子を整えてもらった横振りミシンで、いまごろ大ちゃんは素敵なスカジャンを縫っているはずである。

ミシンの職人 大澤紀代美さんの1

【横振りミシン】
服の仕立てに、ミシンはなくてはならない道具である。趣味と実益を兼ねてミシンを操っている方もいらっしゃるだろう。しかし、ミシンで何故縫えるのかをご存知だろうか?
ミシンの針は先端に糸を通す穴がある。この穴を通った上糸は針が下に下がると糸を伴って布地を突き抜ける。針が上に上がると、糸は布地との摩擦で布地の下にループ状になって残る。目で見えないミシンの下部には「釜」という部品があり、布地の下に残った上糸を引っかけて1回転しながら、釜の中にあるボビンに巻かれた下糸をループの中に通す。実に巧妙な仕掛けで、18世紀にイギリスで発明された。一般的には縫製ミシンと呼ばれ、布地を自動的に送る機構(「送り歯」)や布地を押さえて縫いやすくする「押さえ」が備わり、正確に素早く縫える。
上下運動を繰り返すだけだったミシンの針を左右にも動かす機能をつけ加えたのは、一説では、19世紀半ば、アメリカの機械工、ウォルター・ハントだった。やがて改良が相次ぎ、ジグザグミシン(千鳥ミシン、ともいう)が生まれた。縫い目の幅を前もって調整できるため、ズボンの裾上げや布の端の始末などにいまでも使われている。これが横振りミシンの原型となった。
ミシンで刺繍をするには、縫う布地を自在に動かさなければならない。それには、まずジグザグミシンから「送り歯」「押さえ」を取り外して布地を自在に動かせるようにする。さらにジグザグミシンでは一定だった針の振れ幅を自由に調整できる機構がいる。そんな改良型ミシンを作った人が桐生にいた。大正時代のことというが、残念ながら名前は残っていない。このミシンを「横振りミシン」という。国内繊維産業が盛んな頃は複数社が製造していたが、いま残っているメーカーはJUKIだけだ。
では、「横振りミシン」は何故桐生で発明されたのか? 桐生の刺繍作家、大澤紀代美さんによると、繊維産業で栄えたかつての桐生では大量の帯が織られた。ほかの帯産地と違って桐生の帯は無地のものが多く、それに刺繍職人さんたちが手刺繍で装飾を施していた。すべて手作業だから生産性は低く、出来上がった帯は高価になる。「それを何とかしようと思ったんでしょうね」と大澤さんはいう。ただ、発明家の名前が残っていないのと同じように、この件についての資料も見付かっていない。

【ミシン職人が驚いた】
大澤さんについては「ミシンの魔術師 大澤紀代美さん」で、刺繍を芸術にまで高めた刺繍作家として紹介した。お読みいただいた方もいらっしゃると思う。
今回は、少し違った視点から大澤さんをご紹介する。ミシン職人としての大澤さんである。

あれは、30人ほどの女工さんを使って工房を経営していた20代のころだった。数台のミシンで頻繁に目飛びが起きるようになった。目飛びとは、布地を突き抜けた上糸が下糸と絡まらず、宙ぶらりんに浮いてしまう事故である。
刺繍作家、刺繍職人は刺繍には詳しいが、その道具であるミシンについての知識は浅い。ミシンが故障すれば、専門のミシン職人に修理を頼むのが普通だ。大澤さんは出入のミシン職人さんを呼んだ。