金襴を現代に 周敏織物の1

【金襴(きんらん)】
「金襴緞子(きんらんどんす)の帯締めながら、花嫁御料はなぜ泣くのだろう~」
と歌う唱歌「花嫁人形」はある程度の年代以上の方の記憶にこびり付いているに違いない。「金襴」は金糸を使って模様を織りだした布地、「緞子」とは厚地の絹織物のことで、どちらも高額なため、「金襴緞子」は高価な織物の意味でも使われる。
「金襴」は中国・宋の時代に、金箔を張り付けた紙を細く切った金箔糸(「平金糸」という)を緯糸(よこいと)として織り込む技術が開発されて始まり、明の時代に全盛期を迎えた。紙の片側に金箔を張り付けるのだから、反対側は単なる紙である。先染めされた糸ならどこが布地の表に出ようと同じ色だが、金箔糸の裏側が布地の表に出ると単なる紙の色になってしまう。だから金箔糸で模様を描くには、金箔糸は絶対によじれてはならず、高度な技が必要とされた。のちに、糸に金箔を巻きつけた撚金糸(ねんきんし)も開発された。
日本には入宋した禅僧が持ち帰った袈裟や書画の付属品として鎌倉時代に伝わった。室町時代になると交易品として盛んに輸入されるようになる。室町も末期なると明から渡来した技術者の指導を受けて堺で国内生産が始まり、やがて京都・西陣で盛んに織られるようになった。僧侶の袈裟、仏壇に敷く打敷(うちしき)など宗教関連の用途のほか、帯、能衣装、人形の衣装、七五三用の雪駄、掛け軸、お守り袋などに広く使われた。
いまの金襴に使われる金糸は、多くがポリエステルのフィルムに金箔を蒸着したものだ。用途も生活習慣に合わせて広がり、ネクタイ、バッグ、ストール、アルバムの表装などにも用いられている。また、おもに輸出用としてテーブルセンターなどとしての需要もある。

【先駆者】
金襴の織元である周敏織物にはいま、自社工場15台、外注先19台、併せて34台の織機がある。うち22台(自社工場12台、外注先10台)を、高速で布を織るレピア織機が占めている。

普通の織機は、ジャカードからの指令で綜絖(そうこう)が上下して出来た経糸(たていと)の隙間を杼(ひ=シャトルともいう)が走って緯糸(よこいと)を通す。杼を打ち出して経糸の間を走らせるため、杼は一定以上の重さがなければならない。また往復運動になるから、高速化には限度があった。

左右から出て来るレピアは中央で出会う

機屋は、いうまでもなく製造業である。製造業である以上、生産効率の向上は常に頭にある。もっと早く織れないか。だから杼を使う織機も高速化は図られてきたが、この課題を解決したのがレピア織機だ。
レピア織機に杼はない。織機の両側に、刀の先のような形をした「レピア」と呼ばれる部品があり、片側のレピアが緯糸をつかんで織機の中央部まで走る。反対側から出て来たレピアがこの緯糸を受け取って元の場所に戻る。この繰り返しで布を織る。普通の織機に比べれば、布を織る速さは数倍に上がる。
もちろん、いいことばかりではない。普通の織機に比べれば高価なのである。

縫製業→ブランドメーカー ナガマサの3

【素人】
東京の繊維問屋、桐生の縫製会社を経て、父・正さんが「長正商事」を興したのは昭和40年前後だった。長谷川博さんはその次男である。

「そもそも兄がいますし、家業を継ごうなんて思いもしなかった。大学を出たら広告代理店の仕事をしたかったんです」

ところが、就職活動で訪れた東京のアパレルメーカーのショールームが人生を変えた。

「ディスプレーされた服が何とも格好良く見えて。よし、この会社に入ろうと広告代理店コースを捨てました」

仕事は営業。入りたくて入った会社である。最初は楽しかった。ところが3、4年たつと違和感を感じ始めた。

「時折帰省すると、なんかホッとするようになったんです。あ、私、都会生活に疲れている。そもそも都会暮らしに向いていないんだと」

5年で会社を辞め、桐生に戻って家業を手伝い始めた。だが、戻ってきた次男を見て、父・正さんはいい顔をしなかった。

「日本ではそろそろ縫製業は成りたたなくなっている。お前はまだ若い。なんでこの仕事に入るんだ?」

父の話は聞き流した。長谷川さんには勝算があったのだ。東京で働いた5年でアパレル界にネットワークがある。それを活かせば何とかなる。

正さん会社を閉じる準備を始めた。博さんは営業に回った。思った通り、ネットワークは活きた。取れた仕事は父の会社ではなく、外注先に廻した。「長正」の名前を出すと、どこも喜んで引き受けてくれた。順調な滑り出しである。

「博さん、こんなの縫えないよ」

そのうちクレームが出始めた。そんなことはないだろ? ミシンがあれば何でも縫えるはずだ。

「あんた、縫製を知らないのか? こりゃあ縫えないんだよ」

考えてみれば、自分は縫製という仕事をしたことがない。だから、縫えないという職人さんを説得する言葉を持っていない。

「縫製を覚えよう」

父の工場で働いていたベテランの職人さんに弟子入りした。なるほど、縫製とはこのような仕事かと知ったのは、この時が初めてである。

「確かに、厚物、薄物、布帛、カットソーなどそれぞれに専門のミシンがあって、裁断の仕方によっては縫えないところもあるって初めて知りまして」

それが分からなかったから、アパレルから頼まれれば何でも引き受けていた。これでは外注先に

「これ、縫えない」

といわれても仕方がない。

「当時の私は、ミシンが1台あればどんな縫製でもできる、と思っていた素人に過ぎなかったわけです」

外注先を説得するために始めた縫製が、いつしか面白くなった。やがて父・正さんは会社を閉じた。2009年、長谷川博さんは自分の会社「ナガマサ」を起業して自前の工場を持った。

縫製業→ブランドメーカー ナガマサの2

【ポップアップショップ】
飛ぶように東京・日本橋室町に駆けつけて下見をした。空きが出たのはコレド室町3の3階、店舗型のところである。店舗として使われてきたから什器は揃っていた。これなら棚とハンガーを運び込めばショップになる。事前の費用が抑えられるのはありがたい。

いや、待て。店が出来たとして、誰が売る? 週末は自分が上京しよう。しかし平日は桐生にいなければ本業の縫製が出来ない。それに食事やトイレタイムを考えれば、毎日最低2人は常駐しなければならない。どうしよう?
ふっと思い出した女性がいた。縫製業にCAD(コンピューターでデザインするシステム)を導入した時、使い方を教えてくれた先生である。確か、近々務めを辞めるといっていた。彼女は東京住まいだ。頼めないか?
幸いなことに、彼女は2つ返事で引き受けてくれた。まず1人。

「東京には販売専門の派遣会社がある」

と教えてくれたのは取引先だった。早速連絡を入れると、ベテランの女性を派遣してくれた。これで陣容は揃った。あとは10月1日を待ち、「Season off」ブランドの商品を運び込んで店を開くだけである。

10月1日午前11時。いよいよ店開きだ。この日は長谷川さんも店員である。少しでも商品の見栄えを良くしようと店内を動き回りながら客を待つ。来ない。そういえば、ここに店を開くという広告なんてやってない。数人の東京の知り合いにメールで知らせただけだ。だからかな?
しばらく店番を続けているうちに気が付いたことがある。客が来ないのは自分の店だけではない。そもそも人通りが少ないのだ。思い立ってコレド室町1、コレド室町2を回ってみた。混み合っていた。何が違うのだろう?

「1、2は飲食店が中心なんですね。しかし3はショップが多い。飲食店街には人が詰めかけても、ショップ街にはあまり客足が伸びてこないわけです。しかも3階ですからね」

客があまり来ない訳は分かった。だが、ここで勝負するしかない。だったら、と長谷川さんはある決意を固めた。目先の利益を求めて売ることより、「Season off」のファン作りを優先しよう。
店を手伝ってくれる2人の女性には、商品を売るより、来店客の話を聞くように頼んだ。雑談の相手になってやって下さい。ここに来ればいつでも四方山話が出来ると思ってもらってください。

最初の半月は、慣れない店舗運営もあってバタバタが続いた。だが、それを過ぎると変化が生まれた。まず、派遣の女性が、頼んだわけでもないのにわざわざ桐生を訪ねてきた。「EACH OF LIFE THE SHOP」でコーヒーを振る舞いながら話をした。縫製の工場も見てもらった。
それからである。ボツボツとではあるが、商品が売れ始めた。そしてリピーターまで現れ始めたのである。

「ええ、結果的には1ヶ月と1週間営業したのですが、売上は何と200万円を超えました。店番をお願いした2人の人件費を差し引いても十分黒字が出ました。期待以上でした」

まだポップアップショップを開いているうちに、コレド室町3の客が、桐生の「EACH OF LIFE THE SHOP」にやって来た。店で渡したパンフレットの効果らしい。

「いまでは数十人のお客様が、定期的に遠くから来て下さっています」

縫製業→ブランドメーカー ナガマサの1

【コレド室町3】
コレド室町は、東京・日本橋室町で三井不動産が手がけた再開発で生まれた商業ビル群である。2010年10月、コレド室町1が出来ると、3年半後の14年3月、コレド室町2、コレド室町3が続いた。日本橋は旧東海道の起点。ここに江戸の伝統を蘇らせるのが狙い、と各種メディアは紹介する。コレド(COREDO)とは「CORE(核)」と「EDO(江戸)」を組合せた、「江戸の中心」という意味の合成語である。
「コレド」を現実にしようと、三井不動産は国内外から有名店、老舗を誘致、ショッピングも食事も楽しめる商業施設を生み出した。日本橋三越本店、日本銀行本店はすぐそば。少し歩けば高島屋日本橋店もある。東京の、いや日本の商業活動の核の1つに育てようとの意欲が見える。

「コレド3に空きが出来ます。ポップアップショップを出しませんか?」

桐生の縫製会社ナガマサの社長、長谷川博さんが東京の合同展示会場で突然声をかけられたのは2022年3月のことだった。差し出された名刺を見ると三井不動産の商業施設担当と書いてある。百貨店のバイヤーがほとんどの展示会に不動産会社? 何のことだろう?
ポップアップショップとは、期間限定で開く店舗だ。何でも、いま営業している店が、突然閉店すると言い出した。跡を埋めなければならない。そこに入りませんか? という。
相手は業界の雄、三井不動産である。それが、東京の商業エリア中心の1つである日本橋に新しく作った商業ビルに出店しないかという。聞くと、入っているのは国内外の有名店や老舗ばかりだ。どうして、知名度も何もない私に? 戸惑いが先に立ち、曖昧な返事しか出来なかった。

「EACH OF LIFE THE SHOP」にはカフェが併設され、美味しいコーヒーが楽しめる。

長谷川さんがオリジナルブランド「Season off」を立ち上げたのは2016年のことだった。最初は、縫製した際の余り布でTシャツやブラウスを作ってネットの手作りサイトに出してみたがあまり売れなかった。
翌年、会社の倉庫を改造してカフェを併設したライフスタイルショップ「EACH OF LIFE THE SHOP」を開店した。同時に、「Season off」のために機どころの桐生、隣の栃木県足利市から生地を仕入れ始めた。余り布を活用する発想はよかったが、それでは消費者が求めるものは作れないと思い至ったからだ。素材から見直した「Season off」は、「EACH OF LIFE THE SHOP」に並べると、そこそこ売れ始めた。
もっと販路を広げたい。2018年、知人の勧めで繊研新聞社が主宰して東京・恵比須で年2回開く新作衣料の展示会に出始めた。そして4年後、三井不動産から声をかけれられたのだった。

決断できないまま三井不動産の担当者と別れた数日後、再び長谷川さんに声をかける来場客がいた。

「コレド室町3に空きが出来ます。ポップアップショップを出しませんか?」

えっ、あなたも三井不動産の方ですか? 実はつい先日も……。

「ここで『Season off』見て、これならコレド室町3のお客さんにも喜んでもらえると思いましたので」

だが、長谷川さんはそれでも決断できなかった。
「EACH OF LIFE THE SHOP」の「Season off」の売上げは右肩上がりではある。しかし、目の肥えた東京の客に、「Season off」が通用するか? シャツの1枚も売れずに、スゴスゴと引き返すことになりはしないか? そんな弱気の虫が決断を鈍らせた。

ほかがやらない仕事 下山縫製の3

【ほかがやらない仕事】
下山縫製は下山湧司会長の父、清次郎さんが興した。清次郎さんは、戦争中に鉄=織機の供出を求められて廃業するしかなかった機屋の長男である。桐生工業専門学校(群馬大学理工学部の前身)を出て市内の縫製会社に勤め、1950年代の初めに独立した。

父が興した事業は順調だったが、湧司会長には跡を継ぐ気はなかった。高校を出ると東武鉄道に就職し、サラリーマン生活を始めた。
ところが、である。このサラリーマンというやつが肌に合わない。

「だって、働いても働かなくても給料は一緒。どうにも納得できなくて、仕事が嫌になったんだ」

働けば働いた分の見返りがある父の会社に入ったのは23、4歳の時である。
清次郎さんは、得意先1社の仕事を丁寧にこなす職人だった。繊維製品の需要が年を追って増えていた時代である。それでも捌ききれないほどの仕事に追われた。湧司会長は父のもとで縫製を学び始めた。

繁栄を続けた織都・桐生に陰りが見え始めたのはいつからだったろう? 健全な経営を続けていた下山縫製もその例外ではなかった。少しずつではある。だが、確実に仕事が減り始めた。

「これはいかん。受注先を増やさないと大変なことになる」

湧司会長が頻繁に東京に出てアパレルメーカー、問屋を回り始めたのは36歳の時だ。飛び込み営業である。自分で縫った見本を抱え、足を棒にして歩き、粘りに粘った。
とはいえ、総ての訪問先には縫製の仕事を出している先がすでにある。そこに潜り込むのは生半可なことではない。

「だからね、ほかがなかなか引き受けない仕事はありませんか? ってやったんだ。どんなに難しい仕事でも、うちならできます、ってな」

言ったからにはやらねばならない。湧司会長は

「父は気になることがあると、何とか解決してやろうとする」(下山光政社長)

人である。もぎ取るにようにとってきた注文をこなそうと、脇目も振らずにミシンと格闘し始めた。

少しずつ仕事が増えた。ミシンを増やし、縫子さんを集めた。縫子さんは若い女性ばかりだ。敷地に寮も建てて30人以上を使うようになった。
ほかの縫製業者が敬遠する仕事を率先して引き受ける下山縫製には技術が蓄積し始めたのは自然な流れだろう。
いま下山縫製が、

「ほかが引き受けない仕事、安くない仕事」

を仕事の中心に据えているのは、自分たちの技に対する自負心の表れだ。