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【120%=ファクトリーブランド】
最終製品を持ちたい。自分が創りだした製品で市場と直接に対話をしたい。それは中間製品のメーカー、下請けで仕事をする会社の多くが持つ願いである。
須永さんも例外ではなかった。素材の布は自社の工場で織っている。試作を繰り返して他にはない布を生み出している自負もある。これを最終製品にして消費者に直接届けたい。

夢を持つのは簡単だ。しかし、最終製品を持つということは、在庫を持つことである。いまはアパレルメーカーですら販売不振に悩む。独自ブランドの服を作っても在庫が膨れれば経営は危機に瀕する。

「服はハードルが高いんです。それで、まずリスクが小さい小物から始めよう、と」

準備を積み重ねた。

須裁のファクトリーブランド商品群。

社員が自社開発の生地を使ってバッグや帽子といった小物を作る「須裁ラボ」を立ち上げた。須裁の可能性を広げる研究機関だが、できた商品は「須裁ラボ」ブランドで販売も手がけている。

「ジャカードワークス」は、都市開発会社の女性社長の協力を得て始めた。男女を問わず使えるユニセックス製品、リサイクル繊維などを使ってサステナビリティ(持続可能性)商品が主体だ。まだバッグ類に止まっているが、将来は服も手がけたい。

そして2020年秋、アトリエショップ「Charrm(チャーム)」を工場の一角に開いた。初めての販売店舗である。専属デザイナーは桐生出身の坂入歩未さん。関西のアパレルメーカーでパタンナーとして腕を磨いた坂入さんは、

「日常を過ごす時間を美しくすることで人生はもっと豊かになる」

と、まず「Charrmブランド」のバッグ類をデザインし、販売を始めた。

内外装を白に統一した「Charrm」は、1925年に建った工場と壁1枚で隔てられ、いつ訪れてもガシャガシャガシャガシャというジャカード織機の機音が響く。

Charrmの内装。

「ところで、須裁のファクトリーブランドのショップを何故工場の一角にしたか、わかりますか?」

突然、須永さんから質問を受けた。取材者が取材先から問われるのは異例である。

戦略的な販売店だから、できれば東京の繁華街に出したいところですよね。ひょっとしたら、コストをかけないため? うーん、分かりません。

「お客様に、生地の生産現場を見て欲しいのです」

1枚の布地ができるまでに、どれだけの手間暇、工夫、労力、隅々まで張りめぐらした神経がいるのか。生の機音を聞き、織機の動きを見てもらえば、私たちが織る生地の良さを分かってもらえるはずだ。
須永さんはそう考えたという。それは、私たちは最高の仕事をしているという自負の表れだろう。

だが、わざわざ桐生まで、須裁までどれだけの人が足を運んでくれる?

「手応えが出始めました。営業をかけたわけでもないのに、有力な販売店のバイヤーが来てくれるんです」

いま、須裁のファクトリーブランド商品はネット通販が主だ。店頭に置いている店はまだ東京都内に6店しかない。訪れたバイヤーたちは、ネットで須裁のブランド商品を知ったと口をそろえた。いいものを作り、ネットでの情報発信に力を入れたたまものだろう。
いまの手応えが続けば、須裁の商品を置く店が間もなく10店になり、やがて数十店に増えるはずだ。
須裁オリジナルの服が出回るのもそう遠くないのかも知れない。

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電子ジャカードを動かすデータは社内で作る。

【120%=お節介】
2022年秋、チェック柄の織物の注文が来た。といっても言葉によるイメージだけで、具体的な図案はない。イメージを形にし、生地に織り上げるのは須永さんの仕事である。デザイナーの仕事の一部を丸投げされたようなものだ。発注者は、須永さんのセンスに余程の信頼を寄せているのだろう。
任された須永さんは、イメージを元にチェック柄をデザインする。だが、1通りにまとめ上げることはしない。例えば、色の組合せを4通り考えたとすると、1枚の試し織りに4通りのチェック柄を織り出す。幅120㎝の織物だとすると、30㎝ごとに色の組合せを変えるのである。経糸(たていと)は整経屋さんに、30㎝ごとに色を切り換えるように頼む。特殊な整経だから費用はかさむが、4枚の織り見本を織るより遙かに安く済む。緯糸(よこいと)の色の切り替えは社内の意匠士に指示する。

4通りのデザインを作るのはお節介かも知れない。しかし、比較対照できるものがあれば最終判断しやすいはずだと須永さんは考える。
もともとイメージだけによる発注だから、4枚の試し織りをし、4枚分の請求書を書くことも可能なはずである。しかし、

「お客様だって最終判断をしやすいだけでなく、安くあがった方がいいでしょう」

それが須永商法である。

野村證券のある社長が大阪支店長時代、株式市場の変調を見て取った。株価が大きく下がりそうだ。彼は得意先に、株を手放して金を買うよう説得して歩いた。長年の顧客に、野村證券離れを勧めたわけだ。そして間もなく株価は下落した。金に乗り換えて損害を防いだ客たちはそれ以降、彼を絶対的に信用したという。
筆者が現役記者時代。彼を知る人から聞いた話である。ビジネスにおける信用とは、そんな姿で形成されるものではないか。
業種は違う。しかし須永さんの「顧客ファースト」の姿勢は、筆者の目にはその野村證券社長と二重写しになる。

須永さんのお節介は、それだけではない。織り見本を求められれば、顧客の図案をもとに、ある色をトレンド色に入れ換えたり、全体のイメージを手直ししたりしたものを加える。

「口には出さなくても、新しいデザインの布を生み出すときには『本当にこれでいいのか?』と迷っている人は多い。比較対照できるものをお目にかけることで最終選択のお手伝いができないかと」

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上にある黄色いボックスが電子ジャカード。重量鉄骨で支えられている。

【電子ジャカード】
織機に張った経糸(たていと)の上げ下げを自動化したジャカード織機には、「大塚パンチングの1」で触れた。紋紙の穴を読み取り、穴があるところは経糸を引き上げ、ないところはそのままにして織り柄を生み出すジャカード織機は機屋さんにはなくてはならないものである。
あるかないか、0と1で情報を作り出すのはジャカードだけではない。いまでは日常生活にすっかり溶け込んだコンピューターも、0と1で構成した情報で動く。「コンピューターの父」といわれる英・ケンブリッジ大学の数学教授・チャールズ・バベッジ(1791〜1871)は19世紀のはじめ、急速に普及し始めたジャカード織機にヒントを得て世界初のプログラム可能な計算機を考案した。ジャカードとコンピューターにはもともと親和性がある。
機械式で始まったジャカード織機を動かす紋紙にあけた穴が、0と1の電子情報に置き換わるのは自然な流れだった。コンピューターは当初、無数の真空管を使った巨大な装置だったが、大規模集積回路(LSI)などの開発が進んで急速に小型化が進んだ20世紀後半になると、コンピューターでジャカードを制御する電子ジャカードが開発された。紋紙はなくなり、フロッピーディスクやUSBメモリー、ついにはインターネットを介してやりとりされる電子データに置き換わった。
複雑な機械仕掛けで綜絖(そうこう)に上下運動の指令を出していたジャカードも、磁石のON-OFFで綜絖を上げ下げするようになった。電子情報は寸時に伝わる。紋紙の穴のあるなしで情報を読み取る機械式に比べてはるかに速い。このため織機の速度が上がり、生産性が高まった。
いいこと尽くめのようだが、泣き所もある。まず価格だ。かつての機械式ジャカードの数倍はする重量も遙かに増えた。機械式なら木製のフレームで織機の上に設置できたが、電子ジャカードは太い鉄骨でフレームを組まねば設置できず、これにもかなりコストがかかる。小さな機屋さんはなかなか手が出ないのが実情だ。

【120%=試作】
2026年に創業120年を迎える機屋、須裁が高価な電子ジャカード織機を導入したのは2013年のことである。鉄骨で新たにフレームを作り、フレームを支える基礎を頑丈にし、天井も高くした。それに高速に耐えられる架物も新たに作ったから、投資額は3000万円ほどに膨れあがった。従業員わずか6人の小企業には重い出費だ。

そもそも、従来通りの仕事を進めるのなら、速度を除けば使い慣れたジャカード織機で何の問題もなかった。それなのに、須永康弘社長は贅沢を承知で導入に踏み切った。

「入社してずっと、紋紙をなくさなきゃ、と思ってたんです」

紋紙は出来るかぎり処分したが、まだ工場の片隅にたくさん残っている。

紋紙とは、旧来のジャカードに経糸の上げ下げを指令するデータセンターである。ジャカード織機が発明されて以来、織機は紋紙からの司令で布を織り続けてきた。いまでも紋紙に頼る機屋さんは数多い。その紋紙をなくす?

「電子ジャカードができた今の時代、紋紙にはもうメリットがない。まずコストがかかる。使っているうちに摩擦で穴が広がって織り傷ができる。紋紙の紙も輸入品ばかりになって品質が落ちてそんな事故が増えた。何度も使うから保管場所も馬鹿にならない。電子ジャカードならそんな心配がなくなります」

なるほど。電子ジャカードの利点は分かった。しかし、そんな高額な投資に見合うほど利点は大きいのか?

背中を押されて 金加の3

【桐生ならばこそ】
金加の前身は、産地商社ともいえる買継商である。父・亥嘉造さんが昭和25年(1950年)5月、群馬県北群馬郡榛東村から桐生市に出て来て興した。起業から間もなく朝鮮戦争が勃発、繊維産地である桐生は戦争景気に沸いた。創業間もない金加にも大量の注文が押し寄せた。豊かな買継商の長男として何不足なく小学校6年生になった金井さんは、作文に

「家の仕事を継ぐ」

と書いた。

だが、子ども時代の夢を持ち続ける人は少ない。金井さんは中学生になると音楽にのめり込み、高校ではロックバンドを組んだ。大学を出るころには初志はどこかに行ってしまい、就職して給料のほとんどを楽器につぎ込んだ。フェンダー、ギブソン……、ギター好きの誰もが憧れる楽器で金井さんの部屋が埋まって行った。

仕事を辞め、家業に入ったのは就職して1年半ほどたった頃である。

「父に『車を買ってやるから戻ってこい』っていわれてコロリと変わっちゃった。だから、たいした跡継ぎじゃなかったね」

そんな金井さんが、後に世界の何処にもないキルティング関連の機械を次々と生み出すのだから、遅ればせながら金井さんは初志を貫徹したことになる。

それまで会社に勤めながら休日はバンド活動でステージに立ち、ギャラも得ていた金井さんが、今日は東京、明日は大阪と営業に飛び回り始める。

「ええ、時間の99%が仕事になりました」

客の求める生地を聞き出し、桐生の機屋に注文を出す。子どもの時からの友人には機屋の子弟がたくさんいた。彼らに客の注文を伝えると、他の仕事を押しのけてでも織ってくれる。時間ができると機屋を回った。遊びに行くのではない。それぞれの機屋の得意分野を頭に詰め込むためだ。繊維産地・桐生だからできたことだ。

「こんな生地、織れないかなあ?」

多分、他ではできないといわれたのだろう。客からそんな相談を持ちかけられれば金井さんは桐生にとって返し、織れそうな機屋に話を繋ぐ。織り上がれば生地を納める。できなければ、なぜ織れないのかを客に説明する。
金井さんへの客の信頼が日々増した。

【機屋へ】
客からの信頼は高まっているはずなのに、買継ぎの仕事は徐々に減った。中間を省いて流通を合理化する動き、いわゆる流通革命が繊維業界にも押し寄せたのである。
それを見て取った金井さんは金加をテーブル機屋に変身させる。織物産地と都会の問屋を繋ぐだけでなく、機を織るのに必要な紋紙、糸、架物、ジャカードなど機を織るのに必要な資材を小さな機屋に供給し、企画した生地を織ってもらうのである。工場を持たない製造業、いまでいうファブレス経営を取り入れたのだ。そして、ベッドを覆うマット用の生地に生産の重点を起いた。暮らしの洋風化が進み、需要が旺盛だったからである。

仕事が増え、捌ききれないほどになった。仕事に追われる日々を過ごしながら、金井さんは2つの問題に気が付いた。

背中を押されて 金加の2

【補修機】
ベッド用マットレスのマットのキルティングは、巨大なキルティングマシンが引き受ける。ローラーで送る出される生地の上で何本ものミシン針が同時に縫っていく。金加には日本製、ドイツ製、アメリカ製の高機能マシンが7台並ぶ。
だが、いくら高機能なマシンでも、ミスはある。糸切れ、である。滅多にないが、見過ごして出荷すれば不良品だ。だから、出荷前の検品で目をこらして糸切れがないか調べ、見つけたら補修する。

糸が切れている部分をミシンで縫う。切れていないところにきっちり繋げて縫う神経を使う作業だ。ジャンパーなどの小物や厚みがない生地ならミシンでできる。ところが金加が手がける、ベッドを覆うマットは大きいだけでなく、分厚い。糸が切れた部分を補修するには、たくしこんで幅を縮め、押さえ込んで薄くしなければミシンにかからない。力のいる仕事で、補修を担当する社員の多くは慢性的な腱鞘炎に悩まされていた。典型的な職業病である。

「何とかならないか」

という思いを金井さんは持ち続けていた。

上海で開かれた展示会場を訪れたとき

「これを使ったら何とかなるのではないか?」

と思いついたのは、いつも頭の片隅に補修作業のことが引っかかっていたからに違いない。

といっても、金井さんが目にしたのはそのものズバリの機械ではない。自動的に刺繍で絵を描くミシンである。厚手の生地の上をミシン針が自在に動き回り、見る見る絵を仕上げていた。事前のプログラムに従ってコンピューターが制御しているに違いない。

「それを見て、ミシンで絵が描けるのなら補修も出来るんじゃないか、って思ってね」

帰国するとすぐに知り合いの京都の機械メーカーの社長に打診した。

「実はキルティングの糸切れ補修に困っていてね。上海でこんな機械を見たんだが、あれに手を加えれば自動的に補修してくれる機械が出来るんじゃないかな」

コンピューターだけでなく、センサーなどの技術もひと昔前に比べれば飛躍的に進化した。縫わねばならない箇所をセンサーで特定し、コンピューター制御でミシンを動かして糸切れの部分を正確に縫う。残っている糸と繋げて縫うのだから、精密な測定とミシンの制御が必要になる。いまの技術なら……。
それが金井さんのアイデアだった。

「うーん、何とかなるかも知れないね」

半年ほどすると、世界の何処にもない補修機が届いた。検品係は見つけた傷の部分にシールを貼る。そのマットをローラーで送り込み、シールをはがして機械を動かす。まず赤色光を出すセンサーが傷を特定すると、ミシンがその場所まで移動して傷の部分を縫い始めた。補修が終わって機械を出てきたマットは、どこを見ても傷の跡形すらない。金加からクレームはもとより、腱鞘炎という職業病が消えたのはいうまでもない。

まずセンサーで傷を特定する
ミシンが傷を縫い始める

金井哲学に沿って、この機械も2台導入した。

「いやあ、金井さん、この機械はいいね!」

と感嘆の声を漏らしたのは親しくしているベッドメーカーの担当者である。

「これ、うちにも欲しいな」

やがてこのメーカーも1台買った。まだ世界に3台しかない最新鋭機である。