朝倉染布第12回 魔法の糸と撥水加工

競泳用水着に革命を起こした「初代レーザー・レーサー」だったが、寿命は長くなかった。

一言で言えば、結果が華々しすぎた。水着のあまりの性能に、記録を塗り替えるのは選手なのか、それとも水着が記録更新の主役なのかが曖昧になった。それに、水泳選手は多くの場合、水着メーカーと契約を交わしている。このため「初代レーザー・レーサー」を使えない選手が現れ、

「公平ではない」

との声が世界中で高まった。
柔道の選手の一部がロボット・スーツを身につけて試合に臨むようなもの、といえば分かりやすいだろうか。

加えて、スピード社を追いかけるメーカーも現れた。「初代レーザー・レーサー」に似た仕組みの水着を造り、それを使った選手が「初代レーザー・レーサー」での記録を塗り替えるケースが出始めた。そのため危機感を持ったスピード社が国際水泳連盟に規約の改定を申し入れたとの話もあるが、真偽ははっきりしない。

いずれにしても2009年7月、国際水連は「初代レーザー・レーサー」の締め出しを決めた。競技用の水着の素材は布地だけしか認めないとルールを変更したのである。

「レーザー・レーサー」に代わる競泳用水着の開発競争が始まった。

「初代レーザー・レーサー」は禁止されたが、競泳用水着の新しい「常識」を創り出した名誉はいまも持ち続けている。水着の、劇的な軽量化である。

身にまとうものは出来るだけ軽い方が記録は伸びる。それは水着用の生地を開発する人々の常識だった。うまくは行かなかったが、より軽い生地を求めて中空の糸で試験的に使ってみた会社もある。

そして、もう一つの古い「常識」が、織物より編み物の方が伸縮性と締め付け度が高いということだった。織物は水着の生地としては使えない、と皆が思い込んでいた。

その常識を、スピード社が塗り替えたのである。ナイロンの織物にすれば水着がはるかに軽くなる。装着にやや手間取りはするが、身につけてしまえばポリエステルの編み物以上の締め付けが得られる。スピード社が採用したナイロンの織物は画期的な生地だったのだ。
新しく創り出す競泳用水着が、「初代レーザー・レーサー」が実現した新しい「常識」を取り入れたものになるのは必然だった。

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第6回 デザイナーたち

いまでは「ドン小西」と表現した方が通りがいいかも知れないファッションデザイナー、小西良幸さんとの仕事が始まったのは、カーンとの仕事が終わって間もない1987年のことだった。知り合いの女性に

「小西さんと会ってみませんか」

と誘われ、東京まで足を運んだのだった。

小西さんは1981年に独立、「フィッチ・ウオモ」ブランドを立ち上げ、パリコレクション、東京コレクションなどに出品する新進のデザイナーだった。国内でビートたけし、谷村新司たちに愛用されていただけでなく、世界中に多くのファンを持つロック歌手、エルトン・ジョンも「フィッチ・ウオモ」のファンだった。
華々しい活躍を続ける小西さんはこの当時、新しい路線に挑んでいた。それまで前面に押し出していたニットを、織物に切り替えようとしていたのである。
ところが、ニットでは多彩なデザインを生み出して高い評価を受けた彼だが、織物には苦労していた。織物を生かした新しいデザインを模索中だったのである。

「実は、刺繍を大胆に取り入れたいと思い、あれこれ捜してみたのですが満足な刺繍職人が見つからないのです。いろいろ調べてやっと貴女のことを知りました。大澤さん、お手伝いいただけないでしょうか」

彼が持ち出したアイデアは一風変わっていた。
ジャケットのすべての面を刺繍で埋め尽くしたい。アイデアは固まっているのだが、これまで当たった刺繍職人ではどうしても思ったようなものが出来ない。

すべてを刺繍で埋め尽くすとすれば、仕立てる前の布地に刺繍をしなければならない。刺繍を施した布地を縫い合わせてジャケットに仕上げるので、問題は縫い合わせるときに刺繍の柄がきれいに繋がるかどうかである。それが、これまで頼んだ刺繍職人ではできなかった。

「大澤さん、あなたならやっていただけると思っています」

他の誰にも出来なかった。大澤さんはこの言葉に弱い、永遠の挑戦者だからである。二つ返事で引き受けた。

2年後の東京コレクション。小西さんのジャケットが大きな話題になった。ヒンドゥー教の神、観音菩薩……。背中にも胸にも袖にも、デフォルメされた神や仏が刺繍されている。下絵は小西さんが描いた。その色を決め、縫い目で0.5mmもずれることがない刺繍に仕上げたのは大澤さんだった。

「売れたんだそうですよ。1着100万円も200万円もするジャケットが100着以上売れたんだと聞きました」

朝倉染布第13回 脱下請け

すっかり回り道をした。しかし、急がば回れ。背景をご理解いただくには避けられない回り道だった。これでようやくにして、超撥水風呂敷「ながれ」に戻ることができる。

朝倉染布が「ながれ」を売り出したのは2006年のことである。

染色加工という仕事は「下請け」の色彩が濃い。仕事のほとんどは、長年付き合ってきた繊維メーカー、アパレルメーカーから来る。発注の量も時期も全て相手任せだから工場が仕事に追われたかと思うと、暇で暇で仕方がない時期が続く。それが周年行事である。景気の波にも翻弄されてしまう。快適にサーフィンを楽しむなど、夢の夢でしかない。

それでも、

「最高の品質で染色加工をする」(朝倉剛太郎社長)

創業以来、それが朝倉染布のモットーであり、誇りでもあった。だが、誇りだけでは会社の存続はおぼつかない。

脱下請け。下請けから抜け出すことが出来れば会社の経営は安定するのではないか。そんなぼんやりした思いが幹部や従業員にいつ頃から芽生え始めたのか。いまとなってははっきりしないが、具体化したきっかけは取引先の「夜逃げ」事件だった。

毎月の発注量が、30万円から50万円程度の小さな会社だった。ところが半年ほど前から急に染色加工の発注量が増えた。

「景気がいいのかな?」

と喜んでいた。ところが支払いが滞り始めた。発注量が増えたあと、手形の支払も2回延ばされた。

「変だな」

とは思っていた。だが、長年の取引先である。経営者の夜逃げは想定外だった。その「想定外」が現実になった。取りはぐれた加工賃は約300万円。代わりに、ひと山ほどもある加工済みの水着生地が朝倉染布に残った。
ここに置いておいても意味がない生地である。朝倉染布はその生地を、「夜逃げ会社」が納めることになっていた会社に持ち込んだ。予定していた生地が入ってこなくて困っていたその会社は、喜んで引き取ってくれた。

朝倉染布第14回 得意技術

壁にぶつかったからすごすごと引き返すのでは、前に進むことは出来ない。壁は乗り越えるためにある。

久保村さんを中心に社内で検討を繰り返した。せっかく始めた自販事業を軌道に乗せるにはどうすればいいか。浮かび上がってきたのが、

「自販事業も受注事業も本質は変わらない。朝倉染布の得意技術を活かそう」

という、思いつて見れば当たり前のことだった。

朝倉染布の得意技術を洗い直した。

生地にプリントするには、プリントが栄えるように事前に生地を白く染色する。どこでも出来ることだが、朝倉染布はインクジェットを使い始めて、プリントしやすい生地とそうでない生地があることを知った。大量に事前処理をしてきたからこそ身についたノウハウである。
インクジェットでプリントしやすい生地の販売を始めた。大量の生地をまとめて事前処理するからコストも下がる。中小の事業者に大歓迎された。

次のアイデアは、朝倉染布が何よりも得意とするの撥水加工である。最高の得意技術を自販に生かさない手はない。白や黒など無地に染め上げた生地に撥水加工をして販売した。ダンスウエアの裏生地など、結構な需要があった。

インクジェットでプリントした生地の販売も手がけた。相性のいい生地を選び、最高のプリントをしたのはいうまでもない。

「これは、小さな生地商社やアパレルメーカーに喜ばれました。小さなところは販売量が少ないため、生地をまとめて買うことが出来ません。そんな工場をいくつも束ねる形で朝倉染布が大量に生地を仕入れてプリント加工するから安くなるんです」(朝倉剛太郎社長)

自社技術の組み合わせもありだ。インクジェットでプリントして撥水加工をした生地の販売も始めたことはいうまでもない。

自前製品の販売を始めて3年目には、東京の展示会への出展も始めた。最高の加工をした製品はあっても、それを知ってもらわねば取引先が増えるはずがないからだ。小さなブースに加工済みの生地を並べた。

「私も展示会場に詰めっきりだったのですが、誰も立ち寄ってくれないんです。水をはじくとかいったって、見た目はただの布じゃないですか。布がたくさん並んでいても関心の持ちようはないですよね。これ、あと知恵ですけど」(同)

確かに、生地が並べられただけのブースには何の変哲もない。

「もっと分かりやすい展示にしなければ、とそのままで商品になるものの開発を始めました」(同)

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第7回  個展

見知らぬ人からの手紙を受け取ったのは1975年秋だったと記憶する。天下の日展からは門前払いを受けた大澤さんだったが、そのころには「知る人ぞ知る」刺繍作家として世に認められ始めていた。突然の手紙を受け取ることも増えていた。

差出人を見ると、記憶にない美術関係らしい財団法人名と、差出人と思われる個人名があった。

「いったい何の用だろう?」

いぶかりながら封を開けた。

「あなたの作品を見せていただきました。すばらしい。いま私は美術展を準備しています。あなたの作品を是非出展していただきたい」

といわれても、見も知らぬ人からの依頼を二つ返事で引き受けるわけにはいかない。

「一度お目にかかって詳しい話を伺いたい」

丁寧な返事を出し、相手の日程に合わせて上京した。話を聞くと、長く海外で仕事をしてきた人だという。

「無謀な戦争に打って出て奈落の底まで落ちた日本は、どん底から立ち上がって「奇跡」と呼ばれる経済成長を成し遂げました。今では経済力は世界の先進国と肩を並べるまでになっていますが、日本の本当のすばらしさを理解している外国人は少ないように思います。長い海外暮らしでそれを実感し、何とかしたいと思っていた私は、退職して日本の美を世界に紹介する財団法人を立ち上げました。あなたの刺繍は日本が世界に誇ることが出来る美です。世界中の人に是非見てもらいたいと思います。ご協力いただけないでしょうか」

決して饒舌な人ではなかった。だが、一言ずつ絞り出すように口にする言葉は重かった。聞けば、これまでの活動で各国の駐日大使との付き合いも深くなり、展覧会には彼らが多数来てくれるはずだという。

大澤さんは思わず即答していた。

「私の作品で良ければ、こちらからお願いします。出させて下さい」

作品を出しても「出展料」をもらえるわけではない。その場で販売する展覧会でもない。無料奉仕である。

だが、主催者の言葉は大澤さんの胸を打った。それに、

「ミシンで刺繍している人に『作家』と呼ばれる人がいないのよ。美術品としては認められていなかったわけ。だから、もっとたくさんの人に、世界中の人に、ミシン刺繍でも美が生み出せることを知って欲しかったの」