FREE RIDE ライダーは桐生を目指す その1 好きこそ

好きこそものの上手なれ。好きだから一所懸命になる。ますます上達する。

そうあればいいが、人生はそれほど甘くない。好きなのに上手くなれないたくさんの実例を積み重ねるのが大方の人生だともいえる。

例えば筆者は音楽が好きである。桐生に来て60歳を迎え、

「これまで仕事に時間とエネルギーを取られてできなかったギターをマスターしよう」

と決意した。アコースティックギターを買い、ギター教室に通い始めた。文字通り60の手習いである。

「何をしたいのですか?」

と訊いた先生には

「1年後にエリック・クラプトンになりたい」

と答えた。

あれから随分時間がたつ。結果は「たくさんの実例」に、またひとつ実例を加えただけである。

筆者の誇大妄想は置くとして、好きであれば必ず上達するのなら、世の中には各種のプロがあふれかえっているはずだ。

夏の甲子園を目指す高校は4000校を超す。1校平均20人の部員がいるとすると、毎年8万人にも上る高校生たちが野球が「好き」で、毎日グラウンドで汗を流す。だが、甲子園への切符を手にできるのはわずか50校前後に過ぎない。そして、大甲子園のグラウンドを踏んでも、「上手」の極みであるプロ選手になれるのはほんの一握りであり、名選手と呼ばれる人たちはほんの一握りである。「好き」なのに「上手」にはなれない例は枚挙にいとまがない。

つまり、こういうことだ。「好き」で「上手」になるには、類い希な才能と、よほどの幸運が必要である。

桐生市末広町の通り沿いに店を構える「FREE RIDE」はオリジナルのバイクウエアをデザインし、製作し、販売する専門店である。経営者の二渡一弘さんは子どもの頃からオシャレで、そのうえバイクと恋仲になった。アルバイトで蓄えた10数万円をつぎ込んで初めてのバイクを手に入れたのは16歳。以来、時間ができるとバイクウエアに身を包み、愛車にまたがってフラリと旅に出る暮らしを今も続ける。
そんな暮らしを続けているうちに、選びに選んだはずのウエアに不満を持ち始めた。

当時、バイクのサドルに腰を落として「決まる」ファッションはアメカジ(アメリカンカジュアル=ラフで動きやすい)しかなかった。その中からこれぞと思うものを選んだはずなのに、

「バイクに乗りにくい!」

のである。

求める機能があり、格好良く、着ていて楽。そんなウエアが欲しいのに、どれも満たしてくれない。選び方が悪かったのか? 改めて探し直した。しかし、どう探しても

「これだ!」

というのがない。

FREE RIDE ライダーは桐生を目指す その2  黒魔術の館

東西に走る末広通りは、桐生市を南北に貫く本町通りと本町5丁目で交差する。この交差点を西に曲がって末広通りをJR桐生駅方面へ約100m。

……。

この店は何だ? 店の前に服を吊したハンガーラックが並ぶ。テーブルに山積みされた服もあるから、きっと洋服屋なのだろう。しかし、衣料品を扱う店はディスプレーに気を遣う。綺麗な服をお洒落に並べれば、美しさが一段と映えるのに、この店は……。

軒下には、丸太を製材したときに出る端材と思える板や曲がりくねった枝が長さも揃えずに打ち付けられている。その上には日本では見慣れないナンバープレートや看板が所狭しと並ぶ。

「DO NOT ENTER」

入るな、ってか!

「DANGER」

この店は危険なのか?

「THE ROLLING STONES WORLD TOUR」

何でローリング・ストーンズ?

店の名前が見つからない。たくさん並ぶ看板の中に店名はないし、シールがベタベタ貼られた入り口のガラスドアにもない。ショーウインドウにはなぜか「Budweiser」や「Harley-Davidson」のネオンサインがのぞいている。その右手にはエレキギターが……。

あった! これが店の名前だな! ショーウインドウのガラスに、白い文字にオレンジ色の影がついたアルファベットで「Free Ride」。しかし、すぐ後ろの「Budweiser」のネオンサインが目立ちすぎて目に入らないし、第一、店名の前にマネキンが立って一部を隠しているじゃないか。これで、この店が「FREE RIDE」だと分かる人がどれだけいるのか……。

ガラス戸を開けて店内に足を踏み込む。

両側に棚があり、たくさんの商品が並んでいるのは当たり前だが、まず通路が狭い。人1人が歩くのがせいぜいだ。

この床は何だ? 長い1枚板がコンクリートで固められているだけではない。板とコンクリートにはボルトや鎖、そしてコンクリートにはドライバー、チェーン、点火プラグ、レンチ、歯車、ブレーキのディスクローター、スプリング、ラジオペンチ……。思いつくままに、バイクの部品や工具が埋め込まれている。

私は、機械文明時代の黒魔術の館に踏み込んだのか?

FREE RIDE ライダーは桐生を目指す その3 青春

青春時代とは、世の中を仕切っているように見える大人たちを憎みながら、でも、大人の世界に憧れる矛盾した時期である。大人ってなんて汚くてバカなんだろうと頭の一方で吐き捨てるのに、他方には早く大人の仲間になりたい自分がいる。親や教師に隠れてこっそりタバコを吸って粋がるのも、酒を口にして酔いを覚えるのも、一足飛びに大人の自由な世界に飛び込む早道だと見えるからでもある。

この時期に、車やバイク、飛行機などのメカに強烈な魅力を感じ始めるのも、閉ざされた世界で日々悶えている今の自分を、鎖をぶっちぎってもっと自由な世界に運び出してくれる強力な武器に見えるからではないか。

二渡さんの記憶によると、車とバイクに強く惹かれ始めたのは中学時代のことだった。車のアクセルを思い切り踏み込み、自在に操ってみたい。バイクで初夏の心地よい風を切り裂きたい。自宅の近くに、車高を低く、いわゆる「シャコタン」に改造した車、ピカピカに磨き上げた、いかにもかっ飛びそうな大型バイクを自在に乗りこなしている先輩たちがたくさんいたからかも知れない。

とりわけバイクにのめり込んだ。バイクの図鑑を手に入れて飽きずに眺め、街中を、山道を、草原を走り回る自分の姿を思い浮かべた。

「うーん、いま思えば、車やバイクが大人のシンボルに見えたのかも知れませんね」

バイク熱は高校に進んでも冷めなかった。いや、益々燃えさかった。

「バイクの方が早く免許が取れるんですよ、16歳で。だからでしょうね。車への関心はもちろん持ち続けていましたが、『もうすぐ乗れる』バイクへの思いが高まる一方でした」

FREE RIDE ライダーは桐生を目指す その4 転職人生

二渡さんは4度に渡って離職を繰り返した。それも、仕事が嫌になって辞めるのではない。職場に居づらくなったのでもない。計算ずくで、次の仕事の見通しをたててから辞めるという利口さとも無縁である。
何となく、

「いまの仕事は違う」

という思いに背中を押されるのである。

そして不思議なことに、そのたびに、おそらく自分でも意識しないまま、一歩ずつ「FREE RIDE」への歩みを続けたように見える。

最初に選んだ仕事は営業だった。初めて大人の世界に足を踏み入れ、戸惑いながらも人との接し方、言葉の選び方、気遣いの仕方など、大人の世界で求められる知識や経験を学び取っていった。順調なサラリーマン生活だったが、2年ほどで辞めた。

「何となく、『俺、こんなことやっていいのかな?』って考え出して、スパッと」

間もなく、先輩に声をかけられて男性用カジュアル衣料のブティックに勤めた。ファッションは大好きだったから渡りに船だったともいえる。

それなのに、本店長になって1年半後、この仕事も辞めた。二渡さんを見込んで本店長に引き上げた社長に挨拶に行くと、

「どうしたんだ?」

と聞かれた。思いの丈を話した。

「この会社には感謝しかありません。でも、外の飯を食ってみたくなりました。他の世界も見てみたい。いろいろな経験をしたいという思いが抑えきれなくなりました。見て、経験して自分が成長したら、またお世話になるかも知れません。今日までありがとうございました。これからもよろしくお願いします」

次はレディース専門のブティックだった。これも声をかけてくれる人がいての就職だった。
再び一介の売り子からの出発である。だが、不満はなかった。
売るには商品を知らねばならない。女性物の服の試着を始めた。そして、チェックする。

・着やすいか

・動きやすいか

・美しいシルエットが出るか

・素材は肌に馴染むか

・日本人の体型に合うか

・……

女性客は自分のサイズを男性店員にはいいたがらないから女性の体型も頭にたたき込んだ。

「お客様にはこのサイズでいいと思いますが」

それが客の身体にみごとにフィットする。

FREE RIDE ライダーは桐生を目指す の5 服作り

相変わらず、見通しも計画もないままの離職である。年齢はすでに30歳。無鉄砲はもう、二渡さんの天性というほかない。何かが二渡さんを突き動かし続ける。

さて、どうしよう。まともに考え始めたのは職を離れてからだ。もう、「若い」という年齢ではない。親にすがるなどもってのほかで、すでに実家も出ていた。

「えっ、仕事辞めたの。だったら、うちの仕事を手伝ってよ」

前の仕事で付き合いがあった東京の取引先から、数件のオファーがあった。しかし、就職したら同じことを繰り返すのではないか? それに、大好きな桐生を離れて東京に出るのも気が進まない。だったら、いっそのこと起業するか?

いまの店舗の近くに店舗を借りて倉庫にした。ここを拠点に、東京のアパレルメーカーの仕事を桐生の染め屋さん、刺繍屋さん、縫製屋さん、プリント屋さんなどにつなぐ。メーカーは、織都桐生の全貌を知らない。織都桐生の職人さんたちは、メーカーに伝手がない。その仲介をする。倉庫は出荷待ちの製品の一時置き場である。
両方から喜ばれた。それに、10年ほど服を売り続けて、いつかは自分でも服を作ってみたいと思い始めていたから、

「少なくとも服を作る手伝いはしている」

という満足感もある。

人は欲張りだ。起業から1、2年は手伝うことだけで満足していたのに、やがて不満がムクムクと頭をもたげてきた。

「やっぱり、自分で服を作りたい!」

桐生市内で繊維を手がけている会社とは仕事を通じていい関係が築けていた。それぞれの職人さんの得手、不得手も分かってきた。彼等の得意分野をつないでいけば自分でも服を作れるのではないか?

「そう、そんなことを考えてるの。いいねえ。作ってサンプルを送ってよ。展示会にかけてみるから」

と声をかけてくれたのは東京のアパレルメーカーの部長さんだった。その一言が最後のダメ押しだった。

「よし、やってみる!」