FREE RIDE ライダーは桐生を目指す その10 3割打者

世に「一発屋」と呼ばれる現象がある。大ヒット商品を生み出したものの、次のヒット商品を作り出すことができず、時の流れの中でいつしか忘れ去られる。それでもふと思い出す人もいて、

「ああ、あれは一発屋だったね」

と、懐かしさとちょっぴりの嘲笑を込めて使われる言葉である。だから、事業家は「一発屋」になってはならない。ホームランに次ぐホームラン、とはいかなくても、シングルヒットや2塁打は量産しなければならない。タイムリーヒットを重ねなければならない。日米通算で3割2分2厘の生涯打率を残したイチローには及ばなくても、3割はキープしたい。

「RIDERS N-3B」が毎年4、500着以上のペースで売れ始めたころ、二渡さんは次の手を打った。「SKULL FLIGHT」というブランドを立ち上げ、バイクウエアのフルラインナップを目指し始めたのである。「頭蓋骨の飛翔」とはややおどろおどろしいブランド名だが、

「ほら、ロックにもAC/DCとかKISSとかROLLING STONESとか、意味ははっきりしないけど耳障りのいいバンド名があるでしょ。あれと同じ乗り。特に意味はないんです」

というのが二渡さんの説明である。

ジャケットの下に着るインナーのスウェット・パーカーを手がけた。市販品は、バイクライダーの目から見ると

「総てダメ」

だったからだ。

インナーにスウェット・パーカーを着たとき、ライダーはジッパーを上げてフードをかぶり、その上からヘルメットをかぶる。ヘルメットはあごひもで頭に固定するが、このままではあごひもをかけることができず、ヘルメットをかぶった後でインナーのジッパーを下げなければならない。

「だったら、ジッパーを上げたままであごひもがかけられるように穴を空ければいい」

「SKULL FLIGHT」のパーカーのフードには、顎の左右にひもを通す穴がある。

袖は長くして、親指を出せる穴を空けた。これでインナーの袖がまくれ上がることはない。その上からグローブをするから、袖口からの風の侵入をシャットアウトできる。

袖にたるみがあると、上にジャケットを着たときに動きにくくなる。だから袖から肩にかけては身体に密着するようにデザインした。風が身体に廻らず、体温を逃がしにくい。

両サイドにはリブをつけ、その上に革ひもをクロスにかけた。靴紐の要領で締めたり緩めたりできるから、どんな体型でも身体にピッタリ合う。それに、ジャケットを脱いだときのデザイン上のアクセントにもなる。

ポケットの口にもリブを縫い付けて伸縮性を持たせた。中に入れたものを落ちにくくするためだ。

REE RIDE ライダーは桐生を目指す その11 桐生においで

話が少し前後するが、「RIDERS N-3B」を初めて紹介し、「FREE RIDE」を全国銘柄にした有限会社源は毎年、HARLEY乗りの祭典、「VIBES MEETING」を開催している。10月の体育の日を含む3日間が恒例で、毎回会場を変えてすでに28回を数える。500人ほどの参加者から始めた催しは年々盛り上がり、いまでは1人3500円の参加費をポケットに、全国から1万人内外が自慢のHARLEY-DAVIDSONのエンジン音を響かせながら群れ集まる。会場に入ると、早速テント作りが始まる。ここで野宿をしながら、2泊3日を楽しむのである。

会場にはロックバンドの演奏などのイベントも用意されているが、集まるライダーたちの楽しみは全国津々浦々からやってくるHARLEY仲間との交流と、バイク用品の買い物である。会場には1万人の胃袋を満たす約50店の飲食店だけではなく、全国のバイク用品専門店が1500店ほど軒を連ねるのである。

数多いバイク愛好家の中でも、HARLEY-RIDERは別格に扱われる。愛車HARLEYは彼等の暮らしとすっかり溶け合い、HARLEY抜きの暮らしは考えることさえできないという人が多いのである。ほとんどのHARLEY-DAVIDSONはピカピカに磨き上げられ、様々なチューンアップ・パーツで飾り立てられている。

「これぞHARLEY-RIDER!」

といいたくなる個性的なファッションも、HARLEY-RIDERの定番だ。

「人生、トコトン楽しんでやる!」

とでも言いたげな熱気に満ちあふれた人々なのだ。

そんなHARLEY-RIDERが1万人も集まる。ここに店を出すのは、例えは悪いが、腹を空かせた魚が群れているところに釣り針を落とすようなものである。バイクグッズの店には長蛇の列ができ、わずか3日間で軽く100万円以上を売り上げる店も少なくない。

二渡さんも

「出店したらどうですか?」

と何度か誘われた。出せば売れることは目に見えている。他の店の2倍、3倍だって行けるだろう。それなのに、二渡さんは一度も首を縦に振ったことがない。

「嫌なんですよ、そんな売り方をするのが」

FREE RIDE ライダーは桐生を目指す その12 一生もの

HARLEY-DAVIDSONに乗ってきた客に、「FREE RIDE」で会った。桐生の隣町、みどり市笠懸町にお住まいの方だ。バイク歴10数年。
桐生市は生活圏の一部である。だから、バイクを持つ前にも「FREE RIDE」の前を通りかかったことは何度もあった。その頃は

「なんか、おっかない店だ。俺には関係ない」

と思っていた。だが、憧れのHARLEY-DAVIDSONを手に入れた。HARLEYのオーナー同士にはなぜか親近感が産まれ、自然に仲間として付き合い出すことが多い。「FREE RIDE」を教えてくれたのはそんな仲間の1人だ。それ以来根強いファンになった。

「ええ、ジャケットもインナーもパンツも、6、7着ずつ持ってます。まだ捨てたものはないな。ほらこのパンツいいでしょ? 後ろのポケットが深くて長財布が入るし、財布につけたチェーンを繋ぐDカンもある。あー、このブーツもここで買いました」

同じパンツを20本まとめて注文する客がいたことは前に書いた。二渡さんがデザインしたウエアには

「同じものを使い続けたい」

と思わせる力がある。

だから、なのだろう。「FREE RIDE」には

「これ、修理できませんか?」

という客が、毎年30人から50人は訪れる。
ジッパーが壊れた、というのは普通にありうることだ。その程度なら、直して着続けたいと思う人も多いはずだ。
ところが、

「RIDERS N-3Bのリブ(袖の中にある)を引っかけちゃって穴が空いたんだけど、何とかなります?」

「RIDERS N-3Bの首元のムートンがすっかり汚れてしまって。毛も痩せてきたんで交換できませんか?」

となると、普通の洋品店では珍しい。

「バイクで転けちゃって、N-3Bとパンツが破れちゃった。どちらも10年以上着てるんで愛着があるんですよ。修理できませんか?」

そんな客は、他の店にはいないだろう。

FREE RIDE ライダーは桐生を目指す その13 肌のぬくもり

いつもは自慢のHARLEYでやって来る高崎市の常連客が車で訪れた。20020年春のことである。聞くと、愛車はいまドレスアップに出してあるという。

「次はHARLEYで来ますよ!」

と言い残して去った彼は、1週間後、再び車で現れた。

「あれ、バイクで来るんじゃなかったっけ?」

と声をかけると、

「実は……」

仕上がったHARLEYを早速乗り回していたところ、事故を起こしてしまったのだ。愛車は再びドックに入院中とのこと。そこまで話すと、彼はおずおずと、ズタズタに破れたパンツを取り出した。

「これ、事故の時に履いていたヤツなんだけど、何とかなりますか?」

見れば、転倒して道路を滑っていったのか、あちこちがすりきれている。破れているところも沢山あった。

「なんか可愛くて。一緒に事故ったパンツでもあるし、捨てるに捨てられなくて……」

店に備えてあるミシンの前に座った二渡さんの作業は2時間もかかっただろうか。これなら何とか使えるだろう、というところまで修復ができた。
渡すと、

「うわー、よかった! ところでおいくらでしょう?」

ぼろきれに近かったパンツの修復を頼んだのである。当然、費用がかかると誰もが考える。ところが。

「何言ってんの。転んで痛い思いをしたのはお前さんだろうが。金なんか取れるかよ」

これ、店主と客の会話である。店主が客を「お前」と呼び、「取れるかよ」と締めくくる。ほとんど見かけない情景だ。

二渡さんが成功に思い上がっているのだ、と見る向きもあろう。だが、店の片隅で客との会話に耳を傾けていると、いつもこの調子なのだ。店主と客と言うより、友人同士の会話なのである。だから、客が年上なら自然な敬語が出る。同輩、あるいは年下なら、二渡さんの言葉は友人、先輩の言葉使いとなる。

FREE RIDE ライダーは桐生を目指す その14  Made in桐生

それにしても、である。桐生という町はなんと豊かなのだろう。
いまの桐生を知る方々からは

「それは皮肉か」

と罵声を浴びるかも知れないが、九州の炭鉱町で生まれ育った筆者にはそう思えて仕方がない。

炭鉱町は、たまたま土中に石炭があったから誕生した。世の中が膨大なエネルギーを必要とする時代になると、その担い手として繁栄した。しかし、石炭とは40数億年の地球の歴史が残してくれた遺産にすぎない。掘り続ければいつかは枯渇してしまう天然資源である。加えて、土中には石炭よりももっと使い勝手のいい石油が埋蔵されていた。石油の掘削技術が確立し、エネルギー資源の主力が石炭から石油に移ると産炭地は衰退した。時代に追い越されてしまったのである。石炭層の上にいて時代の寵児になり過ぎていたために、私のふるさとの衰退には歯止めがかからなかった。

桐生は織都と呼ばれる。白瀧姫の伝説によれば1300年にわたって織物の歴史を刻んできた。関ヶ原の戦いで、徳川家康率いる東軍にわずか1日で2410疋の籏絹を献上して絹織物産地としての名を高めて近世産業都市となり、類例をあまり見ないほどの繁栄を始めたときから数えても400年を超す。

そして、織物とは土中に埋まっているものではない。人が身体を使い、工夫を重ね、知恵を絞って生み出すものである。織都の繁栄は各地から様々な人たちを引きつけ、桐生は繊維関連技術が集積する町になった。人の労働と工夫と知恵が生み出す製品は、天然資源のように枯渇することはない。今でも桐生は

「繊維関連のあらゆる技術が集まった、世界でも類例を見ない都市」

と言われる。

二渡さんが生を受け、「FREE RIDE」というバイクライダーのメッカを産み出した桐生とは、そんな町である。