【ボビンサイジング】
それでも、星野治郎さんは桐生一になった実感が持てなかった。もっと高みに上らねばならないと思い続けた。
ボビンサイジングの機械ができたらしいと耳にしたのは1970年頃のことである。それまでのサイジングは、糸を緩く巻いた綛(かせ)納めていたが、それだと一度糸巻き(ボビン)に巻き取らないと、次の工程である整経(経糸を揃える)ができない。
しかし、糊を付け終えた糸をすぐにボビンに巻き取れば工程を1つ省くことが出来、その分工賃も上がるはずだ。
星野さんはこの新型機械に飛びついた。
「全国でも俺が最初じゃなかったかな」
メーカーがある金沢まで日参し、何度も見て触って説明を聞いて発注した。ところが、自分の工場に据え付けたこの機械が満足に動いてくれない。説明書を繰り返し読み、指示通りの作業をしているはずなのに、上手く糊が付いてくれない。ああでもない、こうでもないと試行錯誤を繰り返しているうちに、客が消えていった。星野サイジングから、「高品質」「安定」の2項目がなくなったからである。
「長い付き合いだから」
という情けはビジネスの世界には馴染まないのだ。
ボビンサイジング機の調整を続ける傍ら、全国を飛び回って客を捜し歩くこと1年。幸い、山梨県のメーカーから夜具地、座布団地の注文を取り付けて倒産を免れる一方、星野さんの執念は実り、機械が好調に動き出した。
こうなると話は早い。一度は取引が止まった市内の機屋からも注文が相次ぎ、間もなく機械を3台に増やしたものの注文に追いつけず、やがて自分で考案して機械を自動化したが、
「1年365日、機械を止める間がなかったよ」
星野サイジングは桐生にはなくてはならない会社になった。






戦争が残した荒廃から急スピードで立ち直りを見せた戦後日本で住宅建設はほぼ一貫して伸び続け、1973年には190万5112戸にまで増えた、高度成長の終焉で驚異的な伸びが一服したあとは景気の波にも左右されながら高い水準での上下を繰り返してきたが、リーマン・ショック直後の2009年、前年を30万戸も割り込む78万8410戸に急落した。一時的な落ち込みという見方もあったが、その後は100万戸を回復することはなく、2019年は90万5123戸。国内で人口が減り始めたこともあり、これから住宅着工数が増えるのは望み薄である。