シワが描き出す美 大東プリーツの3

【技を育てる】
父・健二さんはふるさと栃木県宇都宮市を出て東京の繊維問屋に勤めた。会社が桐生にプリーツ加工専門工場を作り、選ばれて新工場の長となった。サラリーマン暮らしに見切りを付けて独立、身につけたプリーツ加工技術を活かして大東プリーツを創業したのは1979年である。

プリーツ加工業は装置産業である。1台のプリーツ機で出来る柄には限りがある。だから、より多くの加工機を持つのが成功への方程式となる。

「プリーツ機1台が国産でも1000万円内外、ドイツ製になると2000万円から3000万円もします。最後の仕上げに使う真空窯も随分高価なもので、創業資金として億単位の金がかかったのではないでしょうか」

(プリーツの仕上げに使う真空窯)

創業間もない健二さんは工場での作業が一段落つくと家を飛び出して営業に走り回った。おちおち家で夕食の膳を囲む暇もないほど時間に追われる父の姿を、範泰さんはいまでもありありと思い起こすことが出来る。

ちょうどその頃範泰さんは東京の私立大学に進学した。桐生に戻るたびに忙しく働く父の姿は目にしたが、大学とは人生のオアシスの時期である。自分の青春を謳歌することに忙しく、父の仕事を顧みるゆとりはなかった。やや酷な言い方をすれば、ノーテンキな学生生活に浸りきっていた。

「そもそも、プリーツ加工なんて仕事を自分でやろうなんてまったく考えていませんでしたから」

大学1年の夏休み、帰省した範泰さんを父の命令が待っていた。岩手県水沢市(現奥州市)にあるプリーツ機のメーカーに研修に行って来い、というのである。
もともと好きではない仕事である。思い描く人生プランに、自分がプリーツ加工をしている姿はない。

「それなのに、何でこんなことを俺がやんなくちゃいけないんだ? って不満タラタラでした」

それでも、授業料と東京での生活費は父に面倒を見てもらっている。逆らっては快適な学生生活を続けることは出来ない。渋々、数週間の修行の旅に出た。

古い機械のメンテナンスを手伝わされ、合間にはプリーツ機の細かな調整の仕方をたたき込まれた。子どもの頃から機械いじりは好きだったから、少し興味が湧いてきたのは事実である。でも、父の仕事を継ごうなどとは夢にも思わなかった。だから、大学を卒業すると東京の婦人用フォーマルウエアのメーカーに就職した。毎日最新のファッションに触れ、営業に回り、それなりに実績も積み、すっかり東京に慣れ親しんだ。

シワが描き出す美 大東プリーツの2

【大東プリーツの技】
きっかけは面白半分だった。だが、プリーツ機からたまたま出てきた柄は、何年もプリーツ加工をしてきたプロの目に新鮮に映った。

「なんか面白いな、って思ったんです。見たこともない柄が出来ていたんで」

まだ熱ムラが取れていないプリーツ機が産み出した柄は、佐藤さんがコントロールしたものではない。いわば、人の手が及んでいない世界から突然出てきたものだ。このプリーツ機、いったいどんな力を秘めているんだ?
それから毎回、工場にある不要な生地を熱取りに使うようになった。何度も繰り返すうち、

「これは商品になりそうだ!」

という柄がプリーツ機から出てきた。

「この縦のプリーツに、こんな横のプリーツを組み合わせたら……」

試行錯誤が続いた。数十回も繰り返しているうちに、あの、アラベスクのようなプリーツ柄「エスニック・プリーツ」が少しずつ形になってきた。2015、6年のことである。

だが、佐藤さんは一点ものの美術品を作る芸術家ではない。量産を原則としたプリーツ加工業の経営者である。たまたまプリーツ機の加熱装置に熱ムラがある「不安定」な間に素晴らしい柄が生まれただけでは自己満足は出来ても仕事にはならない。同じ柄を安定してできるようにならないと商品には出来ないのでる。
プリーツ機が勝手に産み出した柄を、自分のコントロール下で量産しなければならない。機械任せの「不安定」を、人の手による「「安定」に変えなければならない。
加熱温度を工夫し、温度感知センサーの数値を何度も変え……。プリーツ機と夜を徹して語り合うような日々が続いた。

シワが描き出す美 大東プリーツの1

【プリーツ】
衣服の折り目、ひだのこと。セーラー服のスカートやスーツのズボンを思い浮かべていただければよい。プリーツがなければ間の抜けた姿になる。ドレスなどにも使われ、華やかな立体感を演出し、あわせて動きやすくするのが目的である。
大東プリーツは「薬剤を使わず出にできる生地なら、頼まれてできないプリーツ加工はない」という熱可塑性繊維のプリーツ加工専門会社である。それだけでなく、独自に工夫して産み出したプリーツ加工をした生地をアパレルメーカーに納めるデザイン会社の一面もある。

(大東プリーツオリジナルの「エスニック・プリーツ」)

【少年の好奇心】
まず、この写真のプリーツ加工をご覧いただきたい。大東プリーツを経営する佐藤範泰さんのオリジナルである。「エスニック・プリーツ」という。ピシッと鋭いラインになったプリーツ、緩やかな膨らみのプリーツ、優雅なカーブを描くプリーツが幾層にも組み合わされ、精緻を極めたアラベスクの世界に誘い込まれる気がする。生地を変え、色を変えてアパレルメーカーに随分売れた。

思わず見とれてしまうようなこの複雑精妙なプリーツ柄はどのように産み出されたのか?

「偶然が重なったといえばいいですかね」

薬品を使わない大東プリーツは熱で変形する服地を専門にする。ウールや綿など熱をかけても一時的にしかプリーツが出来ない生地は

「使っているうちにプリーツが取れちゃうけどいいですか?」

と必ず断ってから引き受ける。

糊付け 星野サイジングの3

【需要減】
いま糸のメーカーは、糊付けしなくても使える糸の開発に余念がない。かつては糊がなければ切れやすくて使えなかった綿糸も、いまでは糊付けは要らなくなっている。サイジングの需要は右肩下がりで減り続け、

「もう桐生には、あと1軒しかサイジング屋さんはありません」

と浩芳さんはいう。事業環境は悪化の一途である。だからこそ、一緒に整経もできるスラッシャー・サイジング機を入れて仕事量の確保を図ったのだが、需要減の勢いはそれを上回っていた。

何とかしなければ。浩芳さんは業界の慣行を考えた。糸は5、600gから5㎏ほどを巻いたボビンで売られている。1つのボビンに巻かれた糸の長さが経糸の長さになり、数万mにもなる。しかし、そんなに大量の経糸を使う機屋さんは近傍には存在しない。だから必要な長さに切り分けて小さなボビンに一度巻き取る手間をかけないとサイジングも整経もできない。その分コストがかさむ。

「だったら、よく使われる糸を私が買い、一度に数万mをサイジング、整経しておいて、機屋さんが必要な長さに小分けして売ればいいのではないか?」

と浩芳さんは思いついた。幸い、スラッシャー・サイジング機は大量処理が得意である。その得意技を活かせば機屋さんに喜ばれるのではないか?
桐生は多品種少量生産を特徴とする。この智恵で、浩芳さんは新しい得意先を沢山掴むことができた。

糊付け 星野サイジングの2

【ボビンサイジング】
それでも、星野治郎さんは桐生一になった実感が持てなかった。もっと高みに上らねばならないと思い続けた。

ボビンサイジングの機械ができたらしいと耳にしたのは1970年頃のことである。それまでのサイジングは、糸を緩く巻いた綛(かせ)納めていたが、それだと一度糸巻き(ボビン)に巻き取らないと、次の工程である整経(経糸を揃える)ができない。
しかし、糊を付け終えた糸をすぐにボビンに巻き取れば工程を1つ省くことが出来、その分工賃も上がるはずだ。
星野さんはこの新型機械に飛びついた。

「全国でも俺が最初じゃなかったかな」

メーカーがある金沢まで日参し、何度も見て触って説明を聞いて発注した。ところが、自分の工場に据え付けたこの機械が満足に動いてくれない。説明書を繰り返し読み、指示通りの作業をしているはずなのに、上手く糊が付いてくれない。ああでもない、こうでもないと試行錯誤を繰り返しているうちに、客が消えていった。星野サイジングから、「高品質」「安定」の2項目がなくなったからである。

「長い付き合いだから」

という情けはビジネスの世界には馴染まないのだ。

ボビンサイジング機の調整を続ける傍ら、全国を飛び回って客を捜し歩くこと1年。幸い、山梨県のメーカーから夜具地、座布団地の注文を取り付けて倒産を免れる一方、星野さんの執念は実り、機械が好調に動き出した。
こうなると話は早い。一度は取引が止まった市内の機屋からも注文が相次ぎ、間もなく機械を3台に増やしたものの注文に追いつけず、やがて自分で考案して機械を自動化したが、

「1年365日、機械を止める間がなかったよ」

星野サイジングは桐生にはなくてはならない会社になった。