桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第12回 不死の道

森村さんはなんだかワクワクしていた。逸る心をなだめながら自宅に戻ると、桐生信用金庫に貰った関東の大きな地図を引っ張りだした。1mの長い物差しを取り出して久能山と日光の男体山を結ぶ線を引いてみた。久能山—富士山—世良田(太田市)—茶臼山頂上(桐生市)—半月峠(日光市)—男体山(日光市)。不死の道は確かに桐生の上を通る。

「桐生新町に浮かび出た斜めの線は、不死の道の一部だったのではないか?」

不死の道。それは、私は死後「八州之鎮守」、つまり八州を守る神になると遺言した徳川家康の魂が、東照大権現という神になるために通ったとされる道である。桐生はその道の下にあり、お稲荷さんがいまでもその道を守っている! やっぱり桐生は、徳川家康が特別な町として町立てを命じたのだ!

だが、興奮が冷めて冷静になると,違ったことが気になり始めた。森村さんが桐生新町に見出した斜めの線が不死の道だとすると、たくさんの辻褄(つじつま)が合わないことが出てくるのだ。

前回紹介した徳川家康の遺言は、亡くなる年の4月2日、本多正純、天海僧正、金地院崇伝に伝えたものである。家康が自分の死後について、まず久能山に葬り、1年後に日光に遺体を遷せと命じたのは、この遺言が初めてだというのが定説だ。それを覆す史料は見つかっていない。
一方、桐生新町の町立ては最も早い説では天正11年(1583年)、最も遅い説でも慶長10,11年(1605,6年)といわれている。桐生新町にお稲荷さんで斜めの線を描いたのは町立てと同時だったとしか考えられないから、それまでには家康と天海僧正の間で家康死後の計画がまとまっていなければならない。最も遅い慶長10,11年説を採ったとしても、遺言はその約10年後である。家康死後の計画に従って桐生新町の町立てが行われたとは考えにくいのではないか?

いや、遺言とは単なる形式である。家康は早くから自分が死んだ後のことまで考え抜いており、口にしたり文字にしたりはしないまま、死後の計画を実施していたと考えることもできる。関ヶ原の戦に勝利を収めたのが1600年。1603年に征夷大将軍になった家康は、わずか2年後の1605年、将軍位を秀忠に譲って大御所と呼ばれるようになった。この時期からいずれは訪れる自分の死を見つめ、自分の死後も徳川幕府、日本が安泰であり続けるにはどうしたらいいのかを考え始めたのかもしれない。

だが、家康は60代半ばである。大御所になったとはいえ、大阪城には豊臣秀頼がいた。家康はまだ天下を掌中にしていない。徳川家の安泰のためには現世でやるべきことが残っている。そんなに早くから、自分は死んだ後で神となって徳川家と天下の泰平を守るという計画を立て、神になるための準備を密かに桐生新町の町立てに反映させたのか?
家康は自ら漢方薬を調合するなど人一倍健康に気を配ったと伝わる。またこの頃は盛んに鷹狩りを催している。鷹狩りとは軍事演習の一環で、かなり体力を使う。つまり、健康には自信があったはずだ。その家康が、こんなに早く死後の準備を始めただろうか?

考えれば考えるほど泥沼に沈んでいくようだった。

迷った時は体を動かして頭を切り替えるに限る。実証すればいいのだ。森村さんは久能山から日光までの2万5000分の1の地図を手に入れた。これに「不死の道」を書き入れた。物差しを当て、慎重に赤のボールペンで久能山から日光・男体山まで線を引く。富士山を横切り世良田東照宮を経て茶臼山(桐生市)の頂上を越えた赤い線は、桐生天満宮の上を通っているように見えた。
勢いづいた森村さんは、さらに精密な1万分の1の地図で、確実に不死の道に重なった茶臼山の頂上から平井の山(桐生市梅田町)まで線を引いた。ところが、桐生新町に浮かび出た謎の斜めの線は不死の道とは一致せず、「不死の道」から10mほど西にずれていたのだ。だが、ほぼ平行して走っている。

12.平行線_NEW_0001

上が桐生新町に現れた斜めの線。久能山から男体山に引いた不死の道と平行している。

「真っ先に思いついたのは当時の測量技術の問題です。正確な測量ができなかったのではないか、と。しかし、久能山と男体山は一直線に結ばれ、その線上に世良田東照宮、茶臼山の頂上があります。茶臼山の頂上には八王子の碑まであるのです。八王子といえば桐生新町の町立ての責任者だった大久保長安が治めた地です。ここを正確に通っている。だから、技術の問題とは考えにくい。でも、桐生新町の斜めの線は不死の道に平行しています。何らかの意味があるはずです」

その意味とは何なのだろう? 頼れる史料がなく、考えても解明できないのなら、セレンディピティを待つしかない。いつかきっと、その答えは思いもかけなかったところから顔を出してくれるに違いない。
森村さんは楽天家なのである。

写真:茶臼山の頂上にある八王子の碑=森村さん撮影

桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第11回 世良田東照宮

徳川家康が亡くなったのは元和2年(1616年)4月17日である。恐らく自分の死期を悟っていたのだろう、家康は4月2日、本多正純、天海、金地院崇伝を呼び、遺言を伝えた。

「一,一両日以前、本上州(本多正純)、南光坊(天海)、拙老(崇伝)御前へ被為召、被仰置候は、御終候はゝ、御躰をハ久能へ納、御葬禮をハ増上寺ニて申付、御位牌をハ三州(三河)之大樹寺ニ立、一周忌も過候て以後、日光山ニ小キ堂をたて、勧請し候へ、八州之鎮守に可被為成との御意候。皆々涙をなかし申候」(金地院崇伝の「本光国師日記」より)

2代将軍徳川秀忠はこの遺言に従い、日光に小さな堂を建てて日光東照宮を創建、元和3年4月、家康の遺体を久能山からここに遷した。
現在の壮麗な日光東照宮を作ったのは3代将軍家光である。家光が「小キ堂」という遺命に背いてまで建て替えたのは、祖父家康を厚く敬ったためだろう。
こうして不要になった日光東照宮の古い社殿は、新田氏の開祖、新田義重の居館跡といわれる上野国世良田(いまの太田市世良田町)に移された。徳川家康は新田氏につながる世良田氏の末裔を自称しており、世良田氏はこの地を本拠地としていた。いわば家康ゆかりの地に古社殿が移されたのである。寛永21年(1644年)のことだ。
ここを「世良田東照宮」という。

「悦子さん、世良田東照宮までドライブしてみようか」

森村さんが妻の悦子さんに声をかけたのは、新型コロナウイルスの騒ぎが始まるずっと前だったから、2015年前後のことである。
世良田東照宮は子供の頃から知っていた神社である。徳川家康が祀られていることも知識としてあった。

「いまは参拝客もずいぶんあるようですが、あのころはすっかり寂れていましてね」

その世良田東照宮に行ってみようと思い立ったのは、懸命に徳川家康を調べていたからだろう。といっても、この神社で何か新しい発見があると期待したわけではない。ただ、何となく行ってみたくなっただけである。

駐車場に車を止め、参道を歩く。世良田東照宮は重要文化財の固まりである。日光東照宮奥社拝殿として造営された「拝殿」、日光東照宮奥社拝殿の前にあった「唐門」、左甚五郎作、狩野探幽彩画の彫刻「巣籠りの鷹」がある「本殿」、日本一の大きさを誇る「鉄灯籠」。境内を巡り、宝物保管陳列所でこれも重要文化財である太刀などを見た。寛永13年(1636年)、後水尾上皇が日光東照宮に奉納したといういわれのある太刀で、鎌倉時代末期の刀工、了戒が鍛えた名刀だ。

見物が一段落すると、お守りなどを売っている案内所で手渡されたパンフレットに目が行った。「世良田東照宮のご案内」とあり、由来や御祭神、祭事などがまとめられている。
何の気なしにパンフレットをながめていた森村さんの目が、左下に描かれた地図に吸い寄せられるまでに時間はかからなかった。本州の中央部を描いた地図上に、久能山から富士山、世良田を通って日光の男体山まで直線が引かれ、「不死の道」と書かれていた。略図なのでよく分からないが、森村さんは直感した。

11.不死の道_NEW


「この不死の道、桐生新町に浮き出た謎の斜めの線と重ならないか?」

あわてて解説文を読んだ。

久能山に祀られた一説
久能山の西方一直線上には薨去した駿府城、母親「お大の方」が子授け祈願した鳳来山(東照宮)、生誕の地、岡崎(東照宮)が東西一直線上に並んでおり、家康公の墓所である神廟は西を向いて建っています。これは太陽が東から西に沈む。そして、再び東に再生する、つまり,久能山にお祀りすることは、人として没した家康公が、「太陽」の如く、ふたたび「神」として再生するための葬送の地であったのです。

 日光山に祀られた一説
〇政治の中心、江戸から日光は宇宙の中心と考えられた北極星(宇宙を主宰する神=天帝の宮殿があると信じられた)・真北の方角にあります。このことは、東照宮は宇宙の中心軸線上に祀られたことになり、その神格は「宇宙を主宰する神」と一体化されたことを意味しています。
〇久能山の神殿は北北東を背にして建ち、その背後には富士山、更に延長すると世良田、そして日光に至ります。これは久能山に神として再生された家康公が富士(不死)の山を越えて永遠の存在となり、遠祖の地を通り、宇宙の中心軸線上に鎮まったと言うことです。

読み終えた森村さんはホッと息をついた。

「私、大変なことを見つけてしまったのかも知れない」

写真:世良田東照宮

桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第10回 年表にまとめて整理した

頭の中の麻婆豆腐を何とかしなければならない。

「それでね、それまでに知ったことをなんとか整理してみようと思ったんです」

家康、天海、大久保長安、それに桐生に関する詳細な関連年表を作ったのである。資料として使ったのは

・桐生市人物辞典
・太田市歴史年表
・桐生市略史
・国立歴史民俗博物館研究報告
・資料で読み解く群馬の歴史
・桐生市歴史年表
・享和2年覚書帳
・今泉村古事談
・日本史総合年表
・岩波・日本史事典
・慈眼大師天海年表

である。
これらを元に、天文5年(1536年)から寛政11年(1799年)までの、桐生と徳川家康、徳川家、天海僧正、大久保長安につながる史実を、扱い慣れないパソコンに打ち込んだ。小さな文字で10ページにまとめたのである。

天文5年————1536  天海生る  1—108歳
天文11年———1542   松平竹千代(家康)生る  1—75歳

と始まるこの年表の山場は、筆者の見るところ、見所は2つである。桐生新町の創生、そして家康の死に始まる家康の神格化である。その2つの部分を紹介しよう。

まず、桐生新町の町立てが行われたといわれている頃の年表である。

慶長10年 1605  

 

4月

 

家康(64)。林信勝(羅山)を諮問し、神龍院梵舜に神道を問う。「梵舜こそが人が神になれる」の方法を知る人物であった。——秀吉を神へと変えた人物である。

※徳川氏の系図を、新田氏の系図に繋げる作業に梵舜がかかわったといわれている。

天海年表

大久保長安の命により、大野八右衛門・初鹿野加右衛門が桐生新町創生す、と記載あるが、記載の年期は信じ難し。新町完成ではなく、町創りが始まったことであろう。

桐生新町が,八王寺町・青梅町・桐生新町と次々に創られてきた事実。桐生新町の規模の大きさを考えると、一地方役人の為せる町創りと思われない。大久保長安の桐生新町に対する設置理由は、三町とも絹産業の地であるが、共通の理由とは限らない。桐生に関しては、山王一実神道との関係が観える。

少し解説を加えれば、「神龍院梵舜」とは戦国時代から江戸時代初期にかけて生きた神道家である。吉田神道を受け継ぐ吉田家の次男として生まれた。豊臣秀吉を祀った「豊国神社」の創立に兄の吉田兼見と尽力し、徳川家康が死去した際は葬儀を任された。
初鹿野加右衛門は、桐生新町の町立ての実務を取り仕切った技術官僚である。

次は家康が死ぬ前後の年表である。

元和2年 1616 1月24日 天海、喜多院を発つ。家康の病平癒祈願のため。
1月27日 天海、駿府到着す。
4月4日 崇伝より、京都所司代、板倉勝重に家康の遺言が伝えられた。
4月17日 家康死す。74歳。

家康の遺体をその日のうちに久能山に埋葬する。

※家康公の神号を「大明神」にするか、「権現」にするかの論争があった。神龍院梵舜・金地院崇伝は「大明神」を主張し、天海は家康公が生前から天台宗に深い理解を示していたことから、山王一実神道の立場から「権現」を主張した。論争の末に天海は「豊国大明神(秀吉)の子孫はどうなったか」と問われたため,結局「権現」になったのだという。

日本大権現、威霊大権現、東光大権現、東照大権現の4つの候補が挙がり、幕府により「東照大権現」が選ばれることになる。

森村さんが作ったのは単なる年表ではない。これまでの研究成果で生まれた「森村史観」によるコメントが加わった独特な年表だった。

だが、桐生新町に走る斜めの線の謎は、まだ解けていない。

写真:森村さんが作った年表

桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第9回 セレンディピティ

森村さんの資料庫にはもう1つ、新聞の切り抜きが保存してあった。郷土史研究家の清水義男さんが連載していた「大間々町の民話」である。日付も紙名も書き込むのを忘れたから、いつ、どの新聞に掲載されたかは不明だ。
見出しは

天海僧正の腰掛け岩

とある。大間々町は、桐生の隣、みどり市大間々町である。
その大間々町に天台宗恵明山正教院 覚成寺という寺がある。紹介されていたのは、その寺に残る言い伝えだった。その記事の冒頭をそのまま書き写そう。

「みすぼらしい姿の坊さんが『旅の僧』と名乗って、覚成寺という天台宗のお寺に一晩厄介になった。それにもかかわらず、寺では下にもおかず手厚くもてなした。翌朝、出立を前にして坊さんは,ご住職に
『旅の僧などと申して身分を偽り、誠に合いすみませなんだ。何を隠しましょう。拙僧は初代将軍の故・徳川家康公の分骨をお守りして、日光東照宮へ向かう途中の、天海と申す者でございます。この乞食の姿は,家康公の分骨を奪おうと企てる輩(やから)の目を眩(くら)ますための拙僧の謀(はかりごと)でございます。
このたびの思いもよらぬ厚遇に預かり、感謝のほかはありませぬ。身分を偽ったことをお詫び申しますとともに、昨夜来の温かいおもてなしに心から感謝申し上げまする』
と感謝の言葉を述べた」

      覚成寺

森村さんは「セレンディピティ」という言葉が好きである。恥ずかしながら筆者はこの言葉を森村さんの口から初めて聞いた時、意味が分からなかった。何とかその場をやり過ごし家に戻って調べてみると。「思いも寄らなかった偶然がもたらす幸運」という意味とあった。森村さん、難しい言葉を知っていますね。

「だって、私の桐生史研究はセレンディピティの繰り返しですから」

この記事を切り抜いた時は、

「へえ、そんなこともあったのか」

程度の軽い気持ちだった。天海僧正といえば、日本史を少しかじった人なら必ず出会う有名人だ。徳川家康のブレーンだったともいえる僧侶である。その天海僧正が桐生の近くに逸話を残している。これは切り抜いておかねば。

だが、桐生新町に現れた謎の斜めの線を解明しようと徳川家康の研究を始め、栄昌寺から寺院明細帳にたどり着いた。すると、数年前に切り抜いておいた新聞記事が大きな意味を持って蘇ってきた。これもセレンディピティのひとつだろう。

「それでね、桐生新町の町立てには、徳川家康、天海僧正がからんでいたのに違いない、と直感したのです」

その上、徳川家康の死の1年後、亡骸が久能山から日光に遷されたことは有名な史実だ。家康は久能山から日光に遷ることで「東照大権現」という神になった。
だが、天海僧正が家康の亡骸を、桐生、そして隣の大間々町を通って日光に運んだと、2つの寺の言い伝えはいっている。そんなことがあり得たのだろうか?

面白い。森村さんは徳川家康について書かれた20数冊の専門書を読みふけった。
それに天海僧正も調べなければならない。桐生市の図書館を通じて国会図書館に問い合わせ、天海僧正関連の書籍の目録を送ってもらい、必要だと思った本のコピーを取り寄せた。
森村さんの家に、資料が山積みになった。あれを読み、これを読む。だが、同じような研究をされた方には想像していただけると思うが、頭に知識を押し込みすぎると、頭が混乱する。森村さんも混乱した。
筆者が奉職していた新聞社の仲間は、このような状態を

「頭が麻婆豆腐になっちゃった」

と表現した。森村さんの頭も麻婆豆腐になった。

写真: 覚成寺に残る天海僧正の腰掛け岩=森村さん撮影

桐生を誇りたい! アマチュア史家・森村秀生さん 第8回 徳川家康に挑む

桐生新町は荒地の中に突然現れた。いったい何の目的があって、こんな町を作ったのか。桐生新町を斜めに突っ切る謎の線は、桐生新町誕生の経緯を解き明かす鍵ではないのか? 桐生の大恩人である大久保長安はなぜ極悪人とされるようになったのか?
研究が進むにつれて、知りたいことはどんどん増えた。だが、ゴールに近づいている実感はない。私は同じ場所でウロウロと回転運動をしているだけではないのか? 一歩も前に出ることができていないのではないか?

森村さんは研究の方向を探り直した。直接調べて結果が得られないのなら、少し遠回りをしてみようと、徳川家康に向き合ったのである。
考えてみれば、大久保長安が桐生新町の町立ての責任者であったとしても、家康の意向を無視してそんなことが出来るはずがない。家康が命じたのか、長安が提案して家康の承認を得たのかは分からないが、渡良瀬川と桐生川に挟まれた扇状地に縄入れをして新しい町を作るというのは、家康の意向が強く関係しているはずだ。家康はなぜ、ここに町を作ろうと思ったのか?

家康、家康……。
ふと思い出したことがあった。桐生市横山町2丁目に栄昌寺という天台宗の寺がある。あの寺は徳川家の紋章である葵のご紋の使用を許された由緒正しい寺であると住職に聞いた記憶が蘇ったのだ。あの寺は家康に何かのゆかりがあるのか?
図書館に走った。あれこれ調べているうちに明治12年(1879年)に群馬県が調べたという寺院明細帳にぶつかった。栄昌寺の項を見た。

本尊:阿弥陀如来
由緒:寛永6年(1629年)10月開山覚盛和尚創立

さらに読み進んで、森村さんは思わず歓声を上げた。境内には御堂が2つあり、その1つ「権現堂」は

本尊:徳川家康公

とあるではないか。家康を本尊とする寺が桐生にあったのだ。
そして由緒まで読み進んで、歓声は驚きに変わった。

由緒:寛永六年東京上野東叡山天海僧正、徳川家康公ノ御遺骨ヲ久能山ヨリ日光山エ移シ奉ラント栄昌寺ニ止宿シ、家康公天海對顔ノ画幅ヲ授附セリ、依テ栄昌寺開山覚盛堂宇ヲ創立ス

徳川家康の遺骨が栄昌寺に止宿した?

栄昌寺で森村夫妻

いや、これは同時代に書かれた歴史の1次資料ではない。260年も後になって書かれた記録である。それに、家康の亡骸が日光に遷されたのは元和3年(1617年)のことだ。時代がずれている。
しかし、寺院明細帳は少なくとも群馬県という公の機関が聞き取り調査した記録である。栄昌寺の関係者が根も葉もないことを答えるはずはない。伝承は確かにあった。が、260年という時間が勘違いを引き起こしたとも考えられる。

「そういえば」

森村さんの記憶庫から、また1つ記憶が頭をもたげた。地元紙桐生タイムスに載った記事である。確か栄昌寺に、天海僧正の袈裟が残されていて、しばらく前に初めて公開されたのではなかったか?

森村さんはお稲荷さんの調査を始めるずっと前から桐生の歴史に関心を持ち、気になる記事は切り抜いて保管していた。保管箱を開く。あった!

「天海僧正の袈裟」初公開
栄昌寺の寺宝、専門家ら見学

という見出しがついた記事は、2012年7月3日の1面をほぼ埋めていた。天海僧正の袈裟、燕尾帽、それに渡辺崋山が模写したといわれる「家康僧正正対座之図」の写真もついている。
記事によると、栄昌寺は上野寛永寺の様式に従って建てられた寺で、本堂のほか池を配して弁財天をまつり、三ツ葉葵の紋を付けた権現堂もある。袈裟は正式には「七条袈裟」というらしく、濃緑の紗織の地に軍配と松が金箔で折り込んであるとあった。

「そうか。図書館で見つけた寺院明細帳の記述には、こんな裏付けがあったのか」

自分でもその袈裟と燕尾帽を見てみたいと思った。だが、残念なことに公開の予定はないという。
それでも森村さんは、自分の歴史研究に一条の光が差してきたような気がした。

写真:栄昌寺にある葵のご紋