桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第5回 3度の夕食会

教官たちの試技が終わると、今度は9人の生徒に技能検定3級の実技試験をやらせてみた。1人の持ち時間は1時間である。この間に下地に厚さ1㎝のモルタルを塗る。

訓練生たちが作業を始めた。野村さんは通訳についてもらって会場を歩き回っり、1人1人の作業ぶりを見回った。まだ経験が浅い訓練生だ。みな苦労しているようだ。教官たちですら手こずった実技試験である。そりゃあ難しいだろう。

彼らが一様に戸惑っていたのは、架台の小ささだ。幅60㎝、長さ90㎝。なるほど、この中でまだ慣れない鏝(こて)を思い通りに動かすのは難しいだろう。なかなか平らな面ができなくて思案投げ首、といった顔があちらにもこちらにもあった。そんな顔を見ると野村さんはそばに寄り、手を取りながら丁寧に指導した。

「ほら、君はここに力が入りすぎている」

「平面を出すには鏝を少し斜めにして……」

「出隅の角度を出すには、鏝をこんな風に持とう。定規をあてて塗ると正確な線と角が出るよ」

翌5日目は午前中に1回、そして午後にもう1回、架台に挑ませた。嬉しいことに、3回目はすべての生徒が「合格」』だった。

「それにね」

と野村さんはいう。

「みんな熱心なんですよ。左官の技を何とか自分のものにしてやる、という熱気が生徒たち1人1人から伝わってくるのです。いい体験をさせてもらいました」

教官たち、生徒たちの学習意欲は旺盛だった。日本で年号が明治と改まり、先進国に追い付こうと欧米の進んだ技術を必死に学んで日本の富国強兵を支えた人たちもこんなだったに違いないと思われるほどだった。鏝(こて)を操る野村さんの手先に注いでくる食い入るような視線、野村さんの言葉を一頃も聞き逃すまいとする真剣なまなざし。
ついつい野村さんはいった。

野村さん(中央)主催の夕食会

「これから私は夕食に行きますが、皆さんもいかがですか?」

どうやら昼間だけの講習では彼らの学習意欲を満足させることは出来そうにないと思ったのである。

「それはありがたい」

と数人の教官がついてきた。その場でも彼らは熱心だった。昼間の野村さんの説明で十分理解できなかったところを次々に質問する。勢い、野村さんの説明にも力が入る。
野村さんが持参した日本製の鏝を羨ましがる。昼間、試しに使わせてみたのだった。鋼ででき、中首である鏝はやはり使いやすいらしい。しかし、日本製は高価でとても手に入らない……。

「たった1週間しかいなかったのに、そんな夕食会を3度も持ちました。みんな喜んでくれましてね」

——ほほう、そんな交際費まで出すとは、厚生労働省もなかなか配慮が行き届いてますね。

「とんでもない。渡航費と滞在費は国が出してくれましたが、交際費なんてありません。私のポケットマネーですよ」

身銭を切ってでも日本の、自分の技を伝えたい。野村さんはそんな左官職人なのだ。

日本から技の伝道師を派遣するのは、1つの技術について原則として1カ国1回だけである。だから、カンボジアでの野村さんの仕事は1週間で終わった。さて、あれだけで日本の技能検定制度が現地に根付いただろうか? 左官の技を伝えることができたか? 私は役に立ったのか?

厚生労働省は何も教えてくれない。野村さんがいまでも何となく後ろ髪を引かれる思いを抱え続けているのはそのためかも知れない。

写真=みごとに仕上がった! 左から4人目が野村さん

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第4回 試技

4日目。技能検定制度の説明はこの日の午前中まで続いた。野村さんの出番が来たのはこの日の午後である。実技試験の実技を教えなければならない。

まず、野村さんが模範を示した。

再び図で説明する。

下地_NEW

最初の作業は墨出しである。この厚さまで塗る、という線を周りの木枠に入れる。墨壺という専用の道具を使う。大工さんもやはり墨出しをするが、その線は黒である。左官は赤い線を入れる。

それが済めば塗り始める。しかし、一度に1㎝厚に塗ってはならない。必ず2度塗りをする。1度目は3㎜ほどの厚みにする。これで下地との接着を確保する。2度目はモルタルに含まれる水分が下に均一に行き渡るよう気を配って塗る。

上の図でいうと、A⇒B⇒Cの順に塗る。Aは鏝(こて)さばきが難しいところで、右利きの場合、左下から右上に向かって鏝を動かし、平らな面を作る。
B、Cの平面は「口」の字型に塗る。漢字の「口」の書き順と同じ順で、まず左隅を上から下に塗り、上の隅を左から右、右の隅を上から下に塗って最後に下の隅を左から右に塗る。それができたら「口」の真ん中部分を平らに塗る。
以上は昔から日本の左官職人に伝えられている塗り方だ。研究熱心な野村さんは、違った塗り方も試してみた。だが、やはり伝統の塗り方が最も綺麗に仕上がった。

2度目の塗りは厚みが7㎜ほどである。これで墨出しした高さに合わせる。2回目もA面は左下から右上に鏝を動かし、平面を塗る「口」の順序が同じなのはいうまでもない。

平らに塗るにはコツがある。鏝の一方を少し持ち上げるのだ。両刃の包丁を研ぐ時と同じである。その持ち上げる角度はできるだけ小さい方が綺麗に仕上がる。

そこまでやって見せて、訓練校の教官たち3人にやらせてみた。彼らにとって、日本の技能検定3級の実技試験を体験するのは、もちろん初めてである。だからだろうか、事前に教科書を送り、目の前でやって見せたにもかかわらず。合格レベルに達しなかった人がいた。

日本の左官は鏝だけで平面を出す。しかしカンボジアを含めた多くの国では、平面を出すのに定規のようなものを使うことが多い。とりあえず厚めに塗って、モルタルが固まらないうちにその定規を表面にあてて滑らせ、余分なモルタルを掻き取るのだ。日本のように、表面が真っ平らになることを求めない国民性もあるかも知れない。日本の技能検定3級の実技試験に取り組んだ教官たちにとっては鏝だけで平面を出すのは初めてだったのだろう。上手くできないのが当たり前かも知れない。

「それに、鏝が違うのです。日本の鏝は鋼(はがね)でできていますが、カンボジアを含む多くの国ではほとんどステンレス製です。滑り具合が全く違います。また、握る部分(柄)と鏝の本体を繋ぐ『首』と呼ばれる柱の位置も違います。日本製は柄のほぼ中央に首があって『中首』と呼ばれ、人差し指と中指の間に挟むので力が均等に伝わりますが、多くの国の鏝は『元首』といって柄の一番前に首がある。やってみれば分かりますが、それだと均等に力をかけるのが難しいのです」

結果を見て、野村さんは「コツ」を伝授した。周りを塗る時の注意点、平面を出すための力のかけ方……。野村さんが帰国すれば、いま目の前にいる教官たちがこの「コツ」を訓練生に教えなければならないのだ。通訳を介した説明は隔靴掻痒の感もあったが、できるだけ丁寧に説明したつもりである。

そして教官たちにもう一度やってもらった。嬉しいことに今度は全員が合格点だった。

「さすがに教える立場の人達ですね、飲み込みが早かった」

同時に、3人には採点の仕方を教えた。日本は減点法で採点する。満点の100点から、ミスがあるごとに引き算する。60点以上とれば合格である。減点するポイントも詳しく話した。
だが、カンボジアは加点法が主流という。さて、加点法で採点するには何ができていたら何点加点するかの基準を作らなければならない。これは改めて話し合うしかない。

しかし、教えるべきことは教えた。教官たちは実技も合格した。これで生徒の指導ができるだろう。野村さんは大役の一端をし遂げたと思った。

写真=カンボジアの人たちに3級検定の実技に挑んでもらった

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第3回 開講式

3日目。午前9時から国立ポリテクセンターのエアコンの入った講堂で開講式が始まった。壇上にはカンボジアの政府関係者が十数人並んでいた。恐らく、カンボジア労働職業訓練省の局長クラスなのだろう。よく見ると、日本から来た厚生労働省の若い役人もひな壇の一角に座を占めている。課長補佐クラスか。

野村さんが案内された席は平場の最前列だった。この話を聞きながら筆者は、この日の主役は日本の左官技術を伝道するためにはるばる海を越えてやって来た野村さんのはずで、だとすれば野村さんこそ壇上にいるべきだと思った。筆者の常識はカンボジアの常識ではないようだ。
もっとも、野村さんは全く気にしなかった。単なる式典である。カンボジアとはそんな国か、と思っただけだ。それに、ひな壇には座り慣れていない。平場の方が気楽だ。振り向くと、場内には200人ほどの訓練生が座っていた。すべて20歳前後の男性である。左官という仕事はやはり男の仕事なのか。制服なのだろうか、みな真っ白なシャツに身を包んでいた。この200人は生徒2100人の代表なのだろう。

開講式には地元テレビ局のカメラが入っていた。収録した映像はニュースの時間に3度放映されたとあとで聞いた。カンボジアの人たちが日本からの技の伝道師に寄せる期待は、テレビが開講式をニュースとして取り上げるほど大きいらしい。

式典が始まると、壇上にいた3,4人がそれぞれ短いあいさつをした。それが済むと、日本からやって来た先生として野村さんが紹介されたようだったが、現地語なのでよく分からなかった。野村さんは、

「あなたが紹介されました」

と通訳に促されて立ち上がると、壇上に向かって一礼し、後ろにいる生徒たちにも頭を下げた。現地語は全く分からないので言葉でのあいさつはしようもなかったが、

「何とかご期待に添えるよう、全力を尽くします」

という思いを込めたつもりである。

開講式は3 0〜40分ほどで終わった。野村さんは別室に案内された。待っていたのは左官科の教官1人と建築科の教官2人だった。この人たちがこの国で技能検定実技試験のシステムを作り、実施する段階では採点官になるのだろう。彼らに日本の技能検定の仕方を教えるのが野村さんのミッションなのだ。いよいよ本番である。

野村さんには、日本の左官職人代表としての誇りと、カンボジアの若者たちを立派な左官職人に育てるシステムを根付かせてカンボジアの経済成長を手助けする責任があった。まるで1点差を追う9回裏、2死走者3塁で打席に入る打者のような緊張感と身震い、そして興奮を感じながらその部屋に足を入れた。

中央職業能力開発協会から派遣された職員が日本の技能検定の説明を始めた。

日本では1959年に始まり、合格者には国が「技能士」の認定証を発行する。これまで700万人を超える合格者が出ており、世界中から高い評価を受けている日本のものづくりの技術の分厚い基盤になっている。そんな話から始まり、日本で実施している左官職3級技能検定試験は学科試験と実技試験の2本立てであることを説明し、現地語に翻訳した学科試験の問題も3人に渡した。そして実技試験の進め方、その採点方法など説明は多岐にわたった。
通訳を介しての意思疎通は共通言語での話ができる場合の数倍もの時間がかかる。その上、3人の受講者からは質問が相次いだ。

とうとうその日は野村さんの出番が来ないまま時間切れになった。

写真=開講式での記念写真。野村さんは右から5人目

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第2回 コーナー定規

これから国力を充実させようというカンボジアは、国力の基盤である国内産業を支える力を求めていた。若い技術者を育てねばならない。様々な技術移転を先進国に依頼して国造りに取り組んでいた。
左官職の技術もその1つである。国が豊かになればビルや家屋、マンションなどの建物が続々と建つはずだ。壁を塗り、床を作る左官職人が足りなくなる。左官職人を何としても育てなければならない。カンボジア政府が日本政府に要請し、野村さんを派遣してもらったのはそのためだった。

カンボジアに伝えるのは、日本の技能検定3級の進め方である。3級は最も簡単な試験で、日本では左官を目指す工業高校生も受験する。左官になりたての人でも、1年も仕事をしていればパスできる入門編といえる。技能レベルがまだそれほど高くないカンボジアに伝えるのは、この3級技能検定から始める。

ホテルに1泊した翌12日月曜日の朝、野村さんが向かったのは国立ポリテクセンターという高等職業専門学校だった。300人の職員がいて2100人の生徒が学ぶマンモス校だ。
野村さんたちに託されたのは、日本の技能検定試験の仕組み、進め方、採点法などを教えることだった。技能の底上げを図るには、技能のレベルを客観的に測る仕組みがいる。検定制度ができれば、左官を目指す若者たちは検定合格を目指した体系的な技能習得ができる。

野村さんに与えられた期間は1週間る。初日は下調べに費やした。会場に足を運び、技能試験に使う架台、鏝(こて)などの工具、材料を確認した。いくつもの問題が見つかった。

受験生に科せられるのは、下図のように作られた架台での作業である。架台は外枠が木で作られており、中の階段部分(図では、A、B、Cの面)にモルタル(セメントと砂、水を混ぜたもの)で1㎝厚の上塗りをする。出隅(でずみ=階段で踏み板と蹴込みが作る出っ張り)の角は正確に90度に仕上げ、出隅の直線は真っ直ぐでなければならない。平面はあくまで平らにすることが求められる。

下地_NEW

架台の外形は幅60㎝、長さは90㎝ほど。木枠の中の階段はモルタルでできており、平坦な面の長さはBが30㎝、Cは48㎝、そして階段の高さは6㎝ほどだ。

架台の図面は事前に送っておいた。だからそれらしいものは用意してあった。だが、野村さんの目から見れば。

「ああ、これは架台になっていない」

仕上がりでしかなかった。出隅の線が一直線でない。欠けたりうねったりしていて角度もあやふやだ。受験生はこの下地の上に1㎝厚の上塗りをして出隅の角は一直線に、角度は正確に90度に仕上げることを求められる。だが、下地がこれでは、まだ左官初心者である3級の受験生には難しすぎる試験になってしまう。これでは技能の熟練度を測ることはできない。

日本ではこの直角と直線を正確に出すために、コーナー定規と呼ばれる道具を使う。それも事前に知らせてあったのだが、現地では手に入らず、他の何かで間に合わせたのだろう。

「これでは試験に使えませんねえ」

そういった野村さんはこういうこともあろうかと持参したコーナー定規と鏝(こて)を取り出し、この階段の出隅を修正し始めた。現地が用意した架台は9台あった。9台とも野村さんが修正した。

ふと思いついてカバンからコーナー定規をもう1本取り出した。

「これは日本製ですが、確かタイで作っているので、手に入るはずです。差し上げますから参考にして下さい」

問題があったのは架台だけではない。モルタルも日本では考えられないほど質が悪かった。砂が細かすぎるのである。そして工具も貧弱だった。カンボジアの左官の技能レベルはこの程度らしい。いや、それを自覚しているからこそ、日本の左官技能検定試験を学ぼうというのだろう。出発点は限りなくゼロに近いな。胸の内でそう考えた。

こうして1日目が終わった。

写真=国立ポリテクセンターの人々と。後列右から2人目が野村さん

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第1回 プノンペン

カンボジアの首都プノンペンの国際空港に降り立った1人の日本人を、東南アジア特有の「冬」が迎えた。気温は30℃を越えているだろう。日本では「真夏日」である。だが、空気が乾燥しているのか、風が肌に心地よい。いまカンボジアは1年で一番過ごしやすい乾期である。
空港を出た群馬県桐生市の左官、野村裕司さんは空を見上げた。まだ明るい。ふとひとりごちた。

「この季節、こんな時間だと桐生は夕闇に包まれているが、プノンペンはまだ明るいんだな」

2015年1月11日夕のことだった。

野村さんは海外旅行が好きである。中学生のころから地理の勉強に身が入った。世界各地の地図を開き、

「ここでこれを見て、このルートを通って次の目的地に向かう。あ、これだったらもう1カ所回れるぞ」

と、世界旅行のプランをいくつも立てた。まだ見ぬ風景、写真でしか知らない歴史遺物、顔立ち、風貌、体格、言葉が私たちと違った異国の人々。野村少年の頭には、いつかは行ってみたい、踏みしめてみたい土地への憧れがいつもあった。

その夢が実現し始めたのは、18歳で始めた左官という仕事に慣れ、暮らしが安定してからだった。地図で辿った見知らぬ土地への憧れが、

「世界の左官職人はどんな仕事をしているのだろう? この目で見てみたい。私は世界の左官職人に引けを取らない仕事をしているのだろうか?」

という探究心と重なった。
だから、機会があるたびに海外に出た。同業者の慰安旅行、金融機関が主催する視察旅行、気の合う仲間と出る旅、同じ探究心を持った仲間との目的を持った旅。巡り歩いた国々は30近くにもなる。

カンボジアも、世界遺産のアンコールワットを訪ねたことがある。アンコールワットは石やレンガを積み上げて作られた寺院である。であれば、石と石を繋ぐ仕事、積み上げたレンガの表面をモルタルで飾る仕事、つまり左官の仕事が残っているはずだ。800年以上も前の「左官」はどんな仕事していたのか? それを自分の目で見てみたい。
だから、カンボジアへの旅は、初めてではなかった。

だが、今回の旅は「初めて」だった。

「東南アジアの3つの国から、日本の優れた左官技術を教えて欲しいとの依頼があった。日本を代表する左官職人を派遣して、日本が実施している左官職技能検定の仕方を現地に根付かせて欲しいと頼まれている」

発展途上国の技術の底上げを手伝う援助事業である。依頼主は厚生労働省だった。その依頼を受けた中央職業能力開発協会が日本左官業組合連合会に人選を頼んだ。日本左官業組合連合会は、中央職業能力開発協会が実施している左官職技能検定試験の検定委員として4人を出していて、野村さんもその1人だった。

「野村さん、そんなことができるのはあんたしかいないよ」

野村さんに白羽の矢を立てたのは、日本左官業組合連合会の技術顧問をしている鈴木光さんだ。鈴木さんは埼玉県行田市にあるものつくり大学の客員教授でもあった。いわば左官職人界の「ドン」である。断る術はなかった。いや、むしろ

「行ってみたい!」

と思った。自分の技が発展途上国の役に立つのなら、こんなに名誉なことはないではないか。

だから、今回のカンボジア訪問は物見遊山ではない。研究のための行脚でもない。日本を代表する左官職人としての「公務」の渡航だった。そして、日本の左官の技術が、初めて海を越える旅でもあった。

野村さんはプノンペン国際空港を出ると、成田空港から同行した中央職業能力開発協会の職員と2人、迎えの車に乗り込んで宿舎であるホテルに向かった。
さあ、明日からは真剣勝負である。カンボジアで左官職人を目指す若人たちを育てる検定制度をこの国に根付かせなければならない。

何だかわくわくしている野村さんがそこにいた。