その17 メゾン・エ・オブジェ

話は少し遡る。

コートールド美術館との縁を取り持ってくれた「メゾン・エ・オブジェ」とは、ヨーロッパ最大ともいわれるインテリアとデザインの見本市である。ここに松井ニットが初めて出展したのは2009年のことだった。東京のある会社から突然Eメールが来たのがきっかけである。

日本の製品をヨーロッパに売り込むため、政府がメゾン・オブジェへの出展企業を募っています。私どもは参加企業の募集、調整、取りまとめを任されました。政府の事業なので出展の費用はすべて国が持つことになります。御社に負担は一切かかりません。御社にいい製品と意欲があればぜひ応募していただきたい。

そんな趣旨のEメールだった。募集枠は全国で7、8社だという。
まず敏夫専務が飛びついた。ヨーロッパ、中でもパリはファッションの中心地である。ここで認められれば世界中に認められたことになり、販路は世界中に広がるはずだ。海外ではすでにA近代美術館での販売実績はあるが、アメリカだけでなく、もっとたくさんの国に輸出したい。

商社で働いた経験を生かして営業を担当する敏夫専務の、それは長年暖めてきたプランである。自力で何とかできないかと思い、計画を模索しているところだった。だが、どうしても資金計画で行き詰まっていた。だから、政府が費用を負担して後押ししてくれるのなら、こんなに好都合なことはない。しかも、「メゾン・エ・オブジェ」には世界中のバイヤーがやってくるというではないか。

自分たちがデザインして製造するマフラーに絶対の自信を持つ智司社長に、反対する理由はもちろんない。そう、私たちのマフラーなら不可能ではないはずだ。

すぐに応募した。間もなく承諾通知が来た。松井ニット技研のマフラーにとっては、

「全国で7,8社」

というのも、決して狭き門ではなかった。やはり多くの人が認めるのである。

2人は意気込んで会場のあるパリに乗り込み、割り当てられたブースを飾り付け、開催を待った。

あれは「メゾン・エ・オブジェ」が開幕して何日目だったろう。やはり日本から出店していた人がささやいてくれた。

「ほら、あのブースにいる2人連れ、あれ、プラド美術館のバイヤーだよ」

プラド美術館はスペイン・マドリードにある。1819年に王立美術館として開館し、歴代のスペイン王家の美術品を展示している。収蔵品はゴヤ、ベラスケスなどのスペイン絵画を中心に2万点を超し、世界を代表する美術館の一つである。

その18  プラド美術館

敏夫専務は子どもの頃から絵が好きだった。好きなだけでなく得意でもあり、小中学生の頃は群馬県内の様々なコンテストでいくつもの賞を取った。一時は

「画家になろうかな」

と夢見たこともある。

画家を断念してビジネスの道に進んだ後も、絵画、中でも印象派の絵画が好きで、時間を見繕って遠くスペインまで足を伸ばし、プラド美術館には3度訪れたことがあった。プラド美術館はあこがれの場所だったのだ。

だからだろう。A近代美術館との取引が松井ニット技研を脱皮させ、マフラーメーカーとしての自信が深まるにつれて、

「あのプラド美術館にも松井ニット技研のマフラーを置いてみたい」

と何度考えたことか。

だが、A美術館は向こうが松井ニット技研を見いだしてくれたから始まった縁だった。プラド美術館はまだ、松井ニット技研というマフラーメーカーのことは全く知らないはずだ。どうやって我々の存在を知ってもらったらいいだろう?

これまではそのきっかけすらつかめなかった。だがいま、チャンスが目の間に「立って」いるのではないか? あの人たちがプラド美術館のバイヤーだって!

「私、京都外国語大学を出ています。スペイン語を専攻したので、会話程度だったら出来るんですよね」

敏夫専務の決断は早かった。マドリードからパリまで、プラド美術館のバイヤーがわざわざ来てくれている。これは神が私たちに用意してくれた絶好の機会に違いない。でも、じっとしていたらチャンスは松井ニット技研のブースを通り越してしまうかも知れない。これを掴まなくてどうする!

そう思った時はすでに歩き始めていた。真っ直ぐ2人のところまで進むと、口を開いた。

「Buenas tardes(ブエナス・タルデス=Good afternoon、こんにちは)」

振り向いてくれた2人に、敏夫専務は言葉を重ねた。

「私どもは日本の松井ニット技研と申します。このカタログに載せているようなマフラーを製造する会社です。私たちのデザインは美術関係の方々に高く評価されており、ニューヨークのA近代美術館のショップでは5年連続して売り上げ1位を続けています。よろしかったら私どものブースをご覧いただけませんか? 私どものマフラーは編み方にも特徴があります。是非手にとって見てください」

これがプラド美術館とのfirst contactだった。

これも、A近代美術館との契約違反である。敏夫専務は契約無視の常習犯となった。しかし、その罪はすでに叱責を受けたことで消えているのではないか?

いずれにしても、これはやはり神が用意したチャンスだったらしい。その時、何かが始まったのである。

写真:プラド美術館

その19  絵画をマフラーに

長年の思いを込めた敏夫専務の話に、2人は興味を持ってくれたようだった。

「そりゃあ、東洋人が突然スペイン語で話しかけてくるし、話を聞くと日本人だという。1549年にはスペインからフランシスコ・ザビエルが日本に来てキリスト教を伝えているでしょう。彼らにとって日本は何かと縁がある国ですよね。それに、どういうわけかA近代美術館にマフラーを納めているマフラーメーカだともいう。きっと物珍しかったんじゃないですかね」

2人は気さくに名刺交換に応じてくれた。年かさの男性はミケル・ガライさん。プラド美術館の重役だった。同行の女性はクリスティーナ・アロヴィセッティさんといった。総務部長兼バイヤーと名刺には書いてあった。

敏夫専務に案内されて松井ニット技研のブースに足を運んだ2人は、展示しているマフラーを熱心に見てくれた。そばに立って説明を続ける敏夫専務の口から、これまで考えたこともなかった言葉が飛び出した。

「当社は、プラド美術館にある絵画をイメージしたマフラーをデザインし、製作することもできます。たくさんの名画を所蔵されているプラド美術館でそんな企画を立てられてはいかがでしょう?」

兄の智司社長とそんな打ち合わせをしたことはない。事務所で交わす雑談のついでに出たこともない。突然閃いたアイデアだった。だから、もちろん独断専行である。

敏夫専務の話すスペイン語は、智司社長には一言も分からなかった。しかし、敏夫専務がプラド美術館にした提案を後で聞いても違和感は持たなかった。

「そんなことはやったことがないぞ、とは思いましたよ。でも、マフラーのデザインではいろんな絵画の色使いを参考にすることはよくありました。だから、絵画のイメージをマフラーに移し替えるということもやってできないことではないだろう、と」

「メゾン・エ・オブジェ」が終わり、桐生に戻ってからも敏夫専務は定期的にプラド美術館の2人にEメールを出した。新しく起こしたデザイのマフラーを写真に撮って添付したこともある。A近代美術館が認めた松井ニットのデザイン力をプラド美術館にも認めて欲しかった。

翌年の「メゾン・エ・オブジェ」にもプラド美術館の2人はやってきた。

「これで注文が取れる!」

と期待したが、話はそこまでは進まなかった。次の年の「メゾン・エ・オブジェ」にも2人は足を運んでくれた。親密さは増したが、商談への進展はない。

「やっぱり狭き門なのかなあ。プラド美術館だもんなあ」

敏夫専務の中で弱気の虫がうごめき始めた。

写真:フランシスコ・ザビエル

その20  初注文

敏夫専務が弱気の虫を抱えたまま2011年の夏を迎えた。事務所のパソコンを立ち上げると、珍しくクリスティーナさんから英文のEメールが入っていた。読み始めた敏夫専務の心臓の鼓動が早まった。

「今年の11月から印象派の絵画を集めた企画展を開催します。ついては、写真で添付している絵画のイメージをマフラーにしてもらえませんか。マフラーができたら、とりあえず見本の現物を送って下さい」

喉から手が出るほど欲しかったプラド美術館からの誘いだった。狭き門が開きかけたのである。

敏夫専務は逸る心を抑えて添付されている写真を開いた。どちらも風景画である。1枚はフランス印象派の巨匠モネ作「モンジュロンの池」、もう一枚はドイツ・ロマン派のフリードリッヒが描いた「山の朝」だった。2枚ともロシア・サンクトペテルブルクにあるエルミタージュ美術館から借り出して展示する予定の絵だと書いてあった。

デザインは智司社長が引き受けた。営業トークとはいえ、

「絵画をイメージしたマフラーをデザインできる」

と敏夫専務が宣言したのである。やらねばならない。しかも、失敗は許されない。プラド美術館の失望を買うようなマフラーを送ったら、開きかけた狭き門は再び閉じてしまう。そして、松井ニット技研の前で二度と開くことはないだろう。

送られて来た2枚の絵画の基軸になっている色は、濃淡は違うが緑である。この緑をどう生かして使うかがポイントだ。2週間ほどかけて最初のデザインを仕上げた。何度も

「これでいいだろうか?」

と2人でにらめっこした後、工場で織り上げ、祈るような気持ちでプラド美術館に送り出した。

間もなく、Eメールで反応が戻ってきた。

「素晴らしい!」

最初の一つのフレーズで、2人は胸をなで下ろした。しかし、文面はさらに続いていた。

「だが、ここをグラデーションにした方がいいと思う」

作り直してプラド美術館に発送する。そのたびに注文がついた。

「もう少し薄い色が使えないか」

「縦縞の幅をもう少し狭く」

プラド美術館とのやりとりは4、5回に及んだ。プラド美術館も松井ニット技研も満足できる2本のマフラーが完成したのは企画展開催が目前に迫った10月中旬のことである。

「それぞれ500本という注文だったのですが、それからではとても生産が間に合わず、とりあえず150本ずつにしてもらいました」

と智司社長は語った。

絵画のイメージを写し取った、恐らく世界で初めてのマフラー300本が段ボール箱に詰められ、桐生からマドリードへの旅に出た。

写真:フリードリッヒ「山の音」をイメージしたマフラー。

その21  浮世絵展

プラド美術館は、群馬県桐生市にあるちっちゃなマフラーメーカー、松井ニット技研が創り出したデザインのマフラーに心から満足したようである。

「海外のバイヤーは、まず相手を疑ってかかるのが常識です。だから、注文は少量から始まります。最初の取引で500本を2組、合計1000本などというのは、私が知る限り異例です」

と敏夫専務が語るのもそれを伺わせる。

翌2012年には、さらなる驚きがやってきた。1月、パリの「メゾン・エ・オブジェ」会場を訪れたクリスティーナさんが、ショールの製作を頼んできたのだ。前年つくったマフラーによほど満足していなければあり得ないことである。

話はこうだった。

その年の6月12日から10月6日まで、日本とスペインの交流400年を記念して日本の浮世絵展を開く。ついては、この企画展に出す浮世絵をイメージしたコットンのストールを2種類作ってもらいたい。

クリスティーナさんは27枚の浮世絵のコピーを持参していた。このうちの2枚を松井ニット技研で選び、そのイメージを写し取ったショールが欲しいという。

2人が27枚から選び出したのは、歌川豊国の美人図と、五粽亭広貞の「中村歌右衛門の工藤祐経」だった。27枚を入念に見比べてこの2枚に決めたのは色使いのあでやかさが決め手だった。

智司社長は早速デザインにかかり、2月下旬、今回は試作品を携えてプラド美術館を訪れた。担当者を前に試作品を取り出すと、

「この工藤祐経のショールに使ってある色は、もとの浮世絵の色と違うではないか」

とクレームがついた。智司社長の計算通りである。こんなクレームがつくことを織り込んで、元の絵とは違う色を選んでいたからだ。

早速説明を始めた。

2枚の浮世絵は摺(す)られてから時代がたっており、色が褪せている。五粽亭広貞がこの浮世絵を描いた頃、舞台を照らす灯りはロウソクしかなかった。工藤祐経は当時の役者である。着ていた衣装がいま目の前の浮世絵にある色だとしたら、ロウソクの照明で照らされた舞台で色が映えるはずがない。ロウソク照明の舞台で映えない色を舞台関係者が使うはずはなく、浮世絵の色も舞台衣装の色を写したはずだから、手元にある浮世絵の褪せた色とは違っているはずだ。中村歌右衛門の袴の茶は日本でいう「団十郎茶」、着物の青は「納戸色」、美人の服の紫は「京紫」でなければならない。

「いま手元にある浮世絵の色に忠実ではないかも知れません。でも、私の感性を通した日本の色を使いたいのです」

写真:プラド美術館での智司社長。