その18  プラド美術館

敏夫専務は子どもの頃から絵が好きだった。好きなだけでなく得意でもあり、小中学生の頃は群馬県内の様々なコンテストでいくつもの賞を取った。一時は

「画家になろうかな」

と夢見たこともある。

画家を断念してビジネスの道に進んだ後も、絵画、中でも印象派の絵画が好きで、時間を見繕って遠くスペインまで足を伸ばし、プラド美術館には3度訪れたことがあった。プラド美術館はあこがれの場所だったのだ。

だからだろう。A近代美術館との取引が松井ニット技研を脱皮させ、マフラーメーカーとしての自信が深まるにつれて、

「あのプラド美術館にも松井ニット技研のマフラーを置いてみたい」

と何度考えたことか。

だが、A美術館は向こうが松井ニット技研を見いだしてくれたから始まった縁だった。プラド美術館はまだ、松井ニット技研というマフラーメーカーのことは全く知らないはずだ。どうやって我々の存在を知ってもらったらいいだろう?

これまではそのきっかけすらつかめなかった。だがいま、チャンスが目の間に「立って」いるのではないか? あの人たちがプラド美術館のバイヤーだって!

「私、京都外国語大学を出ています。スペイン語を専攻したので、会話程度だったら出来るんですよね」

敏夫専務の決断は早かった。マドリードからパリまで、プラド美術館のバイヤーがわざわざ来てくれている。これは神が私たちに用意してくれた絶好の機会に違いない。でも、じっとしていたらチャンスは松井ニット技研のブースを通り越してしまうかも知れない。これを掴まなくてどうする!

そう思った時はすでに歩き始めていた。真っ直ぐ2人のところまで進むと、口を開いた。

「Buenas tardes(ブエナス・タルデス=Good afternoon、こんにちは)」

振り向いてくれた2人に、敏夫専務は言葉を重ねた。

「私どもは日本の松井ニット技研と申します。このカタログに載せているようなマフラーを製造する会社です。私たちのデザインは美術関係の方々に高く評価されており、ニューヨークのA近代美術館のショップでは5年連続して売り上げ1位を続けています。よろしかったら私どものブースをご覧いただけませんか? 私どものマフラーは編み方にも特徴があります。是非手にとって見てください」

これがプラド美術館とのfirst contactだった。

これも、A近代美術館との契約違反である。敏夫専務は契約無視の常習犯となった。しかし、その罪はすでに叱責を受けたことで消えているのではないか?

いずれにしても、これはやはり神が用意したチャンスだったらしい。その時、何かが始まったのである。

写真:プラド美術館

その19  絵画をマフラーに

長年の思いを込めた敏夫専務の話に、2人は興味を持ってくれたようだった。

「そりゃあ、東洋人が突然スペイン語で話しかけてくるし、話を聞くと日本人だという。1549年にはスペインからフランシスコ・ザビエルが日本に来てキリスト教を伝えているでしょう。彼らにとって日本は何かと縁がある国ですよね。それに、どういうわけかA近代美術館にマフラーを納めているマフラーメーカだともいう。きっと物珍しかったんじゃないですかね」

2人は気さくに名刺交換に応じてくれた。年かさの男性はミケル・ガライさん。プラド美術館の重役だった。同行の女性はクリスティーナ・アロヴィセッティさんといった。総務部長兼バイヤーと名刺には書いてあった。

敏夫専務に案内されて松井ニット技研のブースに足を運んだ2人は、展示しているマフラーを熱心に見てくれた。そばに立って説明を続ける敏夫専務の口から、これまで考えたこともなかった言葉が飛び出した。

「当社は、プラド美術館にある絵画をイメージしたマフラーをデザインし、製作することもできます。たくさんの名画を所蔵されているプラド美術館でそんな企画を立てられてはいかがでしょう?」

兄の智司社長とそんな打ち合わせをしたことはない。事務所で交わす雑談のついでに出たこともない。突然閃いたアイデアだった。だから、もちろん独断専行である。

敏夫専務の話すスペイン語は、智司社長には一言も分からなかった。しかし、敏夫専務がプラド美術館にした提案を後で聞いても違和感は持たなかった。

「そんなことはやったことがないぞ、とは思いましたよ。でも、マフラーのデザインではいろんな絵画の色使いを参考にすることはよくありました。だから、絵画のイメージをマフラーに移し替えるということもやってできないことではないだろう、と」

「メゾン・エ・オブジェ」が終わり、桐生に戻ってからも敏夫専務は定期的にプラド美術館の2人にEメールを出した。新しく起こしたデザイのマフラーを写真に撮って添付したこともある。A近代美術館が認めた松井ニットのデザイン力をプラド美術館にも認めて欲しかった。

翌年の「メゾン・エ・オブジェ」にもプラド美術館の2人はやってきた。

「これで注文が取れる!」

と期待したが、話はそこまでは進まなかった。次の年の「メゾン・エ・オブジェ」にも2人は足を運んでくれた。親密さは増したが、商談への進展はない。

「やっぱり狭き門なのかなあ。プラド美術館だもんなあ」

敏夫専務の中で弱気の虫がうごめき始めた。

写真:フランシスコ・ザビエル

その20  初注文

敏夫専務が弱気の虫を抱えたまま2011年の夏を迎えた。事務所のパソコンを立ち上げると、珍しくクリスティーナさんから英文のEメールが入っていた。読み始めた敏夫専務の心臓の鼓動が早まった。

「今年の11月から印象派の絵画を集めた企画展を開催します。ついては、写真で添付している絵画のイメージをマフラーにしてもらえませんか。マフラーができたら、とりあえず見本の現物を送って下さい」

喉から手が出るほど欲しかったプラド美術館からの誘いだった。狭き門が開きかけたのである。

敏夫専務は逸る心を抑えて添付されている写真を開いた。どちらも風景画である。1枚はフランス印象派の巨匠モネ作「モンジュロンの池」、もう一枚はドイツ・ロマン派のフリードリッヒが描いた「山の朝」だった。2枚ともロシア・サンクトペテルブルクにあるエルミタージュ美術館から借り出して展示する予定の絵だと書いてあった。

デザインは智司社長が引き受けた。営業トークとはいえ、

「絵画をイメージしたマフラーをデザインできる」

と敏夫専務が宣言したのである。やらねばならない。しかも、失敗は許されない。プラド美術館の失望を買うようなマフラーを送ったら、開きかけた狭き門は再び閉じてしまう。そして、松井ニット技研の前で二度と開くことはないだろう。

送られて来た2枚の絵画の基軸になっている色は、濃淡は違うが緑である。この緑をどう生かして使うかがポイントだ。2週間ほどかけて最初のデザインを仕上げた。何度も

「これでいいだろうか?」

と2人でにらめっこした後、工場で織り上げ、祈るような気持ちでプラド美術館に送り出した。

間もなく、Eメールで反応が戻ってきた。

「素晴らしい!」

最初の一つのフレーズで、2人は胸をなで下ろした。しかし、文面はさらに続いていた。

「だが、ここをグラデーションにした方がいいと思う」

作り直してプラド美術館に発送する。そのたびに注文がついた。

「もう少し薄い色が使えないか」

「縦縞の幅をもう少し狭く」

プラド美術館とのやりとりは4、5回に及んだ。プラド美術館も松井ニット技研も満足できる2本のマフラーが完成したのは企画展開催が目前に迫った10月中旬のことである。

「それぞれ500本という注文だったのですが、それからではとても生産が間に合わず、とりあえず150本ずつにしてもらいました」

と智司社長は語った。

絵画のイメージを写し取った、恐らく世界で初めてのマフラー300本が段ボール箱に詰められ、桐生からマドリードへの旅に出た。

写真:フリードリッヒ「山の音」をイメージしたマフラー。

その21  浮世絵展

プラド美術館は、群馬県桐生市にあるちっちゃなマフラーメーカー、松井ニット技研が創り出したデザインのマフラーに心から満足したようである。

「海外のバイヤーは、まず相手を疑ってかかるのが常識です。だから、注文は少量から始まります。最初の取引で500本を2組、合計1000本などというのは、私が知る限り異例です」

と敏夫専務が語るのもそれを伺わせる。

翌2012年には、さらなる驚きがやってきた。1月、パリの「メゾン・エ・オブジェ」会場を訪れたクリスティーナさんが、ショールの製作を頼んできたのだ。前年つくったマフラーによほど満足していなければあり得ないことである。

話はこうだった。

その年の6月12日から10月6日まで、日本とスペインの交流400年を記念して日本の浮世絵展を開く。ついては、この企画展に出す浮世絵をイメージしたコットンのストールを2種類作ってもらいたい。

クリスティーナさんは27枚の浮世絵のコピーを持参していた。このうちの2枚を松井ニット技研で選び、そのイメージを写し取ったショールが欲しいという。

2人が27枚から選び出したのは、歌川豊国の美人図と、五粽亭広貞の「中村歌右衛門の工藤祐経」だった。27枚を入念に見比べてこの2枚に決めたのは色使いのあでやかさが決め手だった。

智司社長は早速デザインにかかり、2月下旬、今回は試作品を携えてプラド美術館を訪れた。担当者を前に試作品を取り出すと、

「この工藤祐経のショールに使ってある色は、もとの浮世絵の色と違うではないか」

とクレームがついた。智司社長の計算通りである。こんなクレームがつくことを織り込んで、元の絵とは違う色を選んでいたからだ。

早速説明を始めた。

2枚の浮世絵は摺(す)られてから時代がたっており、色が褪せている。五粽亭広貞がこの浮世絵を描いた頃、舞台を照らす灯りはロウソクしかなかった。工藤祐経は当時の役者である。着ていた衣装がいま目の前の浮世絵にある色だとしたら、ロウソクの照明で照らされた舞台で色が映えるはずがない。ロウソク照明の舞台で映えない色を舞台関係者が使うはずはなく、浮世絵の色も舞台衣装の色を写したはずだから、手元にある浮世絵の褪せた色とは違っているはずだ。中村歌右衛門の袴の茶は日本でいう「団十郎茶」、着物の青は「納戸色」、美人の服の紫は「京紫」でなければならない。

「いま手元にある浮世絵の色に忠実ではないかも知れません。でも、私の感性を通した日本の色を使いたいのです」

写真:プラド美術館での智司社長。

その22  プラド美術館の敬意

東洋の端っこにある島国のちっぽけなマフラー屋が、何という生意気な口をきく、と怒りの声が戻って来るかと覚悟していた。だけど、どれほど生意気に聞こえようと、日本の浮世絵は日本人の美意識が生み出したものだ。日本の歴史と美意識が全身に染みついた日本人でなければ分からないところだってあるだろう? 怒鳴りつけられたら、そんな反論をしてやろうと計算までしていた。

ところが、戻って来たのは全く逆の反応だったのである。

「なるほど、いわれてみればその通りです。あなたのおっしゃることの方が筋が通っている」

通訳を通してのもどかしい話し合いだったが、プラド美術館の担当者は智司社長の言うことをきちんと理解してくれた。それだけでなく、賞賛までしてくれたのである。プラド美術館は正論が通じる世界だったのだ。

話し合いが一段落すると、すぐにそれぞれ200本の注文もらった。取り付ける布製のネームには、松井ニット技研がプラド美術館の依頼で制作したと明記することが許された。それだけでなく、紙のタグには『松井ニット技研製作』の文言に加え、「納戸色」「京紫」の説明をスペイン語、英語、日本語で入れることも決まった。デザイナーとしての智司社長の見識を、このショールを手にする人に分かってもらおうというのだ。

破格の扱いである。いや、松井ニット技研への敬意すら感じ取れる対応ともいえる。

智司社長はこの時、ちょっとした悪戯を仕掛けていた。ジャケットの下に着込んだ黒いハイネックのセーターの襟から少しだけ出るように、松井ニット技研で作っているネックウォーマーを着用していたのだ。ネックウォーマーもマフラー同様の畝織りで、カラフルな色を縦縞に組み合わせたオリジナル商品である。

「プラド美術館の担当者たちは、このネックウォーマーに気づいてくれるだろうか?」

そんな狙いはズバリと当たった。テーブルを囲んでいた一人が

「その、あなたの首からのぞいているのは何ですか?」

と聞いてきたのである。智司社長が、これは松井ニット技研でつくっているネックウォーマーであり、色使いが違うネックウォーマーもたくさんある、と説明すると、

「欲しい。いや、それもプラド美術館のショップで売りたい」

と声を大きくした。

狙い通りの注文を取り付けた智司社長はいう。

「さすがに世界に冠たる美術館に勤める人は感性が鋭い。一目でネックウォーマーの魅力に気がついてくれました」

写真:浮世絵を写し取ったショール。