履きやすい靴、とは? クイーン堂シューズ 第1回 生き残り

「商店街の靴屋で最後に靴を買ったのはいつだったろう?」

そうなのである。いま、町から靴屋さんが急速に姿を消している。

1985年、全国に約2万7600店あった靴屋は2021年、5083店舗にまで減った。総務省統計局と通商産業省が実施する「経済センサス」の数字である。わずか40年足らずで4分の1になってしまった。さらに5083店舗は5年前の調査に比べると1124店舗の減少だ。町の靴屋さんの廃業に歯止めがかからない。

原因はいくつかある。まず、大手チェーン店の台頭である。2023年時点で最大手のABC-MARTは全国に1081店舗を展開、2位の東京靴流通センターも507店舗を開いている。この2社だけで全体の3割以上を占める。
オンライン通販の台頭も目覚ましい。Amazon、楽天、ZOZOTOWNなどがサイズ交換、返品対応を充実させて店舗に足を運ばなくても安心して靴が買えるようになった。
それに少子高齢化が追い討ちをかけ、さらに都市部ではテナント料・人件費の高騰が加わる。町の靴屋さんが生き残ることが出来る隙間が年々狭くなっている。

こうした大きな流れは、当然桐生でも起きた。織物で繁栄を極めた時代を持つ桐生には、かつて30を超す靴屋さんが軒を並べた。しかし大手チェーン店の進出、ネット通販の普及という全国に吹く逆風に加えて、桐生には繊維産業の衰退、急速な人口減少という嵐が吹き荒れた。2005年に旧新里村、黒保根村と合併した時は13万2443人だった人口は2025年5月、とうとう10万人を割り込んで9万8224人になった。町の靴屋さんは全国以上の早さで姿を消していった。いま、いわゆる町の靴屋さんはたった3店舗しかない。

ご紹介する「クイーン堂シューズ」は、生き残った3店舗の1つである。桐生市の目抜き通りである本町通のほぼ中央、本町4丁目にある店舗は、間口3m弱、店内は100㎡に足りない。だから店内に展示できるのは200足ほどでしかない。広い店内に所狭しと靴を並べるチェーン店に比べれば品揃えははるかに見劣りする。
ところがこの店、驚くほど商圏が広い。客は桐生市内や隣接するみどり市、伊勢崎市、太田市、栃木県足利市だけでなく、車を使っても1時間以上はかかる高崎市、前橋市、沼田市、埼玉県熊谷市からも、わざわざこの店に靴を求めに来る常連さんが100人以上もいるのだ。

なぜ、こんな地方都市のちっぽけな靴屋に遠路はるばる足を運ぶ客がいるのか?

クイーン堂シューズの4代目、小泉充(たかし)さんが展開するFacebookやインスタグラムへの書き込みを見て、

「ひょっとしたら、そうなのか?」

と閃くものがあった。
書き込みはこんな具合である。

「さすがクイーン堂さん!!履きやすくて素敵な靴が必ず見つかります★」

「快適に歩けるシューズを買いました(^O^)/私の変な足を理解して歩きやすい靴を提供してくれる【クイーン堂シューズ】さんいつもありがとうございます(*^o^*)。ちびっ子な私が嬉しいインソールだし 早速履いて歩いたけど 足がひっくり返る事もなく歩けた!!良かった♪♪」

この店が遠方の客も引き寄せているキーワードは、どうやら

履きやすく、快適に歩ける靴

らしいのだ。

だが、クイーン堂シューズはひとりひとりの足に合わせて靴を作る靴工房ではない。メーカーが大量生産する既成靴を仕入れて販売する靴屋さんである。チェーン店を含めたほかの靴屋さんと同じではないか。それなのに、クイーン堂で売る靴がほかの靴屋で買う靴より履きやすいということがありうるか?

どうにも納得できない。納得するには話を聞くしかない。私は取材を始めた。

写真=クイーン堂シューズ。左から小泉充さん、琛司さん、民子さん

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第23回 伝統と革新

左官日本一を目指して第20回全国左官技能競技大会に出場した野村さんが、石膏の置き引きで失敗したことはすでに書いた(第18回 そして、3位)。だが、転んでもただでは起きないのが野村さんである。広島県三次(みよし)市からわざわざ前橋市に引っ越し、野村さんに弟子入りした宮地健さんが2007年の大会に出ることになると、石膏の4本引きを考え出し、みごと宮地さんに習得させたのだ。

石膏の置き引きは「第17回 3位」で書いたように、平らな台に盛り上げた石膏を型で引いてモールディングを作る技術である。普通は1本ずつ引く。これを4本まとめて引いてしまおうというのだ。

「ええ、大会前にボンヤリと考えていて思いついたのです。大会は制限時間内に課題を完成させなければなりませんので、一度に何本もモールディングを作ることができれば有利になりますから」

弟子が技能五輪に出た時、2本引きしている出場者を見たことがある。型を2つつなぎ、ガイドに沿って引いていた。

「なるほどな」

その工夫ぶりに感心した。宮地さんが大会に出ることになった時、

「2本同時に引けるのなら、4本も引ひけるのではないか?」

と工夫を重ね、で宮地さんに練習させた。無論、最初は上手くいかなかった。置き引きは石膏の固まり具合との闘いである。柔らかい間は型で引いてもひしゃげてしまう。そこにまた石膏を盛り、型で引く。この作業を4本同時に進めるには……。

  4本引きに挑む宮地健さん

水で練った拙稿を置く台を「引き台」という。90㎝×180㎝ほどの大きさだ。2本引きしていた出場者は180㎝の方にガイドを取り付け、2つつなげた型で引いていた。であれば、反対の側にもガイドを取り付けたらどうだ? そしてそれぞれのガイドに沿って、2つつなげた型で引けば、1度に4本のモールディングが出来るはずだ!

大会で宮地さんはみごとに4本引きを実演した。あっという間に課題をこなした宮地 さんは、置き引きに取り組み続ける競技者の中でただひとり、時間をもてあました。関係者はその早技に度肝を抜かれたという。

「私はこの大会にコーチとして参加したのですが、もう1つ工夫したんです」

円柱に漆喰を塗り、そこにレースを押しつけて模様を描くという課題があった。

「普通はレースを円柱に巻きつけるのですが、それだとどうしても継ぎ目が出来ます。この継ぎ目を何とかしてなくすことは出来ないか、と考えて……」

レースを30㎝の幅に切って斜めに巻きつけたらどうか。巻きつけながらレースの柄を継ぎ目で合わせれば、継ぎ目が見えなくなるはずだ。

大会前、13回練習を重ねた。やっと継ぎ目が見えなくなった。

「大会当日はね、宮地君が30㎝幅のレースを円柱に巻きつけ始めると、どっと見物が押し寄せたんです。そりゃあ、ほかの選手はレースを円柱に巻きつけるだけ。ところが宮地君は30㎝幅に切ったレースを上から斜めに巻いているのだから、『こいつ、いったい何を始めたんだ?』と関心を引いたらしいのです」

宮地さんは、みごとに継ぎ目のない模様を円柱に描いた。13回も繰り返した練習が生きたのである。場内にどよめきが起きたのをはっきり覚えている。

だが、宮地さんは2位だった。優勝者とわずか1点差の2位である。

「実質は彼の優勝でした。一部の人にしか知らされていなかった競技条件を彼は知らなかったので大きく減点されてしまったのです。1位との点数差はわずかに1点。あの条件を彼が知っていたら、彼が日本一でした」

野村さんは2021年1月、71歳を目前に野村左官店を長男の卓矢さんに譲った。

「私が父から仕事を受け継いだのは32歳の時でした。息子も30代後半になったので、そろそろ潮時かと」

だが、いまでも頭の中は現役のままである。より美しく、より早く、より作業性がいい仕事の仕方はないか? いくつもの「?」がいつも存在している。

だからだろうか、いまでも難しい仕事は野村さんご指名で来る。2022年夏から秋にかけて沼田市出身の土木技術者、衆議院議員の久米民之助が東京・渋谷に構えていた鉄筋コンクリートの洋館、「旧久米家住宅洋館」が、ゆかりの沼田市に施設された際、左官工事は

「野村さん、あなたにしか出来ない」

と頼み込まれ、2ヵ月かけて仕上げた。群馬県嬬恋村鎌原(かんばら)地区から

「江戸時代に建てられた地区所有の土蔵の修復をしたい」

と声をかえられたのは2021年5月である。9月から11月まで3ヵ月かかった。
そして2023年から2025年にかけて、桐生市本町1,2丁目の重要伝統的建造物群(伝建群)の一角で進む土蔵の修復も野村さんの仕事である。

「ええ、息子に仕事を譲って、私は片付け仕事でもしていようかと思っていたのですが、なかなかそうはいきません」

——身体が空いたら何をしたいですか?

「土で何かを作りたいですね。そうそう、ピザ窯を作って欲しいというお客さんがいるのですが、なかなか手がつけられなくて。それが出来たら、全部土で出来て2,3人が入れる家を作り、宴会をやりたいな、と。それに、土で鳥を作るなんてことも考えています」

どうやら、野村さんは鏝(こて)を手放す気はないらしい。事務所の棚には100本を超す鏝が飾ってある。

「死ぬまで鏝を手放す気はありません」

写真=野村さんの事務所には100を超す鏝(こて)が飾ってある

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第22回 伝統と革新

学びて思はざれば則ち罔(くら)し。 思いて学ばざれば則ち殆(あやう)し

「論語」に残された孔子の言葉である。人から教わるばかりで、自分で考えたり工夫したりしないと力はつかない。すべてを自分流で押し通し、人から学ぼうとしないのは危険この上ない、ということだろう。

筆者には、野村さんはこの孔子の教えを実践してきた左官職人に思える。年長者の叱責を前向きに受け止め(第14回 バカヤロウ!)、全国の優れた左官の技を学び(第19回 どんな日本一に?)、数々の文献に当たって(第16回 研究)知識を蓄えた。それだけではなく、空いた時間に研究、実験を繰り返して(第16回 研究)技を磨いてきた。「学んで」、「思って」を繰り返してきた半生は孔子の言葉通りである。

そんな野村さんは、伝統の技を受け継ぎながら、しかし、現代的な工夫を加えてきた左官職人である。

左官の伝統の技のひとつに「小舞下地(こまいしたじ)工法」がある。竹を格子状に組んだ「小舞」を土壁の下地にする工法である。昔ながらの住宅に住んだことがある方は、「小舞」を目にされたことがあるかも知れない。
だが、野村さんは20年ほど前、この伝統工法に疑問を感じた。竹を組んだ「小舞」を柱と柱の間に渡された「間渡し」と呼ばれる板に縄でくくりつけるだけだから地震などの揺れに弱いのである。
中でも、土蔵が問題だった。屋根のすぐ下の外壁がほかより20㎝ほど厚く、外に張り出して下図のようになっている「破風」といわれるところがある。

この「破風」がたびたび落ちるのである。竹と縄では地震の揺れを受け止めきれないのだ。

土壁は弱い。土蔵の修復に左官を使わない建築会社、設計士が徐々に増え始めた。内装も壁紙が主流になり、左官の仕事は減る一方である。

「ええ、普通の土壁は小舞に塗り込む土の下地さえしっかり作っておけば、そんなに割れたりヒビが入ったりするものではありません。だが、あの破風だけは伝統工法では何ともならなかったのです。

野村さんは考えた。この工法が確立した時代、鉄は貴重品だった。だが、いまは安価に鉄を使うことができる。野村さんは 出っ張り部分に竹の小舞ではなくワイヤーメッシュを使おうと思い立った。竹より鉄の方が強いとは自然な発想だった。そしてワイヤーメッシュと柱をボルトで繋ぐ。こうすれば少々の地震で出っ張りが落ちることはないはずだ。

「伝統工法も革新していかなければ、現代のお施主さんの要求には応えられません」

「鬼瓦の影盛漆喰(かげもりしっくい)」にも、野村さんは一工夫加えた。
影盛漆喰とは鬼瓦を大きく、豪華に見せるため、鬼瓦と棟の接合部分に漆喰を盛り上げた台座のようなものだ。伝統工法では瓦と漆喰を交互に積み上げ、最後に形を整えて作っていた。厚みが25㎝ほどもあり、とても重い。
屋根の上に重いものが乗れば揺れに弱くなるのは力学の基本である。上に乗るものは軽ければ軽いほどいい。野村さんは影盛漆喰の軽量化に取り組んだ。

「はい、スタイロフォームを芯地に使うことを思いつきました。これならはるかに軽くすることが出来ますから」

まずスタイロフォームを必要な形に切断する。スタイロフォームは熱に弱い。影盛漆喰は陽に照らされ続ける場所に置くから、その熱で変質する恐れがある。それを防ぐため表面に樹脂モルタルを塗り、グラスファイバーのネットで全体を覆い、再び樹脂モルタルを塗って固める。それに砂漆喰(漆喰+砂)を塗って建築現場まで運んで屋根に上げ、最後に漆喰で上塗りする。

「こうすると、重量が1/5になりました。それに、早く、安く出来る。伝統工法では現場で屋根に登って1から瓦と漆喰を重ねていくのですが、これはほとんどの作業は家で出来ます。現場では上塗りだけ。いいことばかりなんです」

ものづくり体感教室のための泥だんご

伝統の技に現代の技術を加えて磨き上げる。恐らく、いま伝統の技といわれているものも、何人もの左官が工夫を加えてより作業がしやすく、より仕上がりがきれいで丈夫なものに育て上げてきた結果なのだろう。野村さんは伝統の技をさらに改良して未来の左職人たちに引き継いでいく役割を淡々とこなす。

群馬県下の小学校で開かれる「ものづくり体感教室」にも力を入れてきた。県教育委員会の依頼で県左官工業組合が講師を派遣し、子どもたちに左官という仕事の楽しさ、面白さを身体で知ってもらう狙いだ。左官という仕事を未来につないで行くための基礎工事ともいえる。60歳台までは野村さんが出かけていたが、いまは青年部の若者たちに任せている。

教室で子どもたちの関心を惹きつける道具のひとつに泥だんごがある。土をこねて丸めただんごを用意し、教室で子どもたちに、顔料を加えた石灰クリームを縫ってもらう。乾くのを待って磨くとピカピカに光るだんごが出来上がり、子どもたちは歓声をあげる。

「居湯室には行かなくなりましたが、私にもまだお手伝いできることがあるんじゃないかと思いましてね」

野村さんは毎回、子どもたちの喜ぶ顔を思い浮かべながら、せっせと泥だんごを用意しているのである。

写真=屋根で作業する野村さん。鬼瓦の影盛漆喰が見える

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第21回 最高の職人の仕事 その2

沼田市の旧土岐家住宅洋館は国の登録有形文化財である。関東大震災直後の大正13年(1924年)、土岐章子爵が東京・渋谷に建てた。土岐子爵は最後の沼田藩主、土岐頼知の7男で、東京帝国大学を卒業後、パンの製造販売を始めた。無類のパン好きで、周りの人達は「パンの殿様」と呼んだと伝わる。
旧土岐家住宅洋館は1990年、土岐家にゆかりのある沼田市の沼田公園に移築され、さらに2018年には解体されて同市上之町に移された。この移築工事で左官の仕事を任されたのが野村さんだった。

移築工事は沼田市の建築会社が落札した。その会社から左官工事を任されたのが北関東一の評価を持つ高崎市の左官会社だった。落札から間もなく、この会社の担当者が建物を見に行った。
驚いたのは、天井と壁との突き合わせに取り付けられた廻り縁である。漆喰の蛇腹引きという難しい工法が使われている。天井と壁の突き合わせ部分にまず砂漆喰(漆喰に砂を混ぜたもの)を練り付け、適度に固まったタイミングを見て金型を曳いて形を作り、さらにその上に漆喰を2㎜ほど上塗りして仕上げる手法である。

「これはうちの会社ではでは出来ないわ」

しかし、仕事を請け負った以上、発注主の建築会社に

「できない」

とは口が裂けても言えない。何とかしなければならない。この工法ができる左官を探さねばならない。
まず東京の名高い左官に声をかけた。仕事の内容を説明すると、

「そんな仕事、とてもうちじゃ無理です。でもあそこなら」

というので、その静岡の業者を下請けに使おうとした。見積もりを取ったらかなりの金額だった。高崎の左官会社は、

「これじゃあ赤字になる!」

と突き返した。これでは左官仕事は請けられない、高崎の左官会社は仕事を返上した。

工事開始は目先に迫っている。困り果てたのは沼田市の建築会社だ。一緒に仕事をしていた設計士に相談を持ちかけた。どこかに漆喰の蛇腹引きができる左官はいないものだろうか?
打てば響くように答えが返ってきた。

「これは桐生の野村さんしかできない仕事ですよ」

野村さんはその設計士と長い仕事の付き合いがあった。変わった仕事を発注する設計士だった。ドイツ風にしたい、北フランス風がいい、スペイン風には出来ないか。それだけで具体的な指示がない。漠然としたイメージを語るだけで、あとは材料の選択からデザインまでが野村さん任せ。海外の建築写真などを参考にして造った見本を持って行くと

「あー、これこれ!」

と話がまとまる。野村さんの左官の腕、美的感覚に絶対の信頼を置く設計士だったのだ。

「だからね,野村さん、この仕事が始まった時から、この仕事はあんたにしか出来ないと思っていた。だけど口出しはできないので、建築会社が相談に来るのを待っていたんだよ」

2018年秋、野村さんは「現代の名工」になった。人並み優れた技能を持つ人を厚生労働大臣が表彰して「卓越技能者」と認定する制度である。沼田市の工事を進めている最中に東京のホテルで授賞式が開かれた。68歳での受章である。

「あなたを推薦するから『現代の名工』を受章してくれないか」

と群馬県職業能力開発協会の幹部から打診を請けたのは、実はその10年程前が最初だった。それからも毎年のように話を持ちかけられていた。しかし野村さんは

「左官に肩書きは要らないと思いますので」

と断固として首を縦に振らなかった。全国左官技能競技大会で1位を逃して以来の、それは野村さんの信条である。

だが、この時は押し切られた。

「ねえ、野村さん、いつまで拒否し続けるんだ? 住所と名前だけ書いてきてよ。あんたがもらってくれないと、後の人がもらえないんだよ。欲しい人がいっぱいいるんだ」

そうか、私が固辞し続けると、ほかの人が名工になれなくて困るのか。表彰式場まで足を運んだのは渋々だった。

意に染まない受章ではあった。しかし、それを報じた朝日新聞の記事に意を強くした。

「『最高の職人』めざし 後継育成も」

という見出しがついていたからである。「最高の職人」。まだそんなものになれたとは思わない。だが、自分が目指し続けてきたことは事実だ。それを言葉にしてもらえた。だから

「私の人生、これで良かったのかな?」

という思いが沸き上がり、何だか心が浮き立ったのである。

写真=旧土岐家住宅洋館で作業に当たる野村さん

桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第20回 最高の職人の仕事 その1

「最高の職人」を目指す野村さんはどんな仕事をするのか。

何人もの左官が

「俺には出来ない」

と辞退した仕事を任されたのは2017年のことだ。現場は館林市。ある不動産経営者が、発明で資産をなした祖父から受け継いだ平屋建ての住宅の改築を思い立った。請け負ったのは前橋市の建築会社である。
ところが、難題が持ち上がった。漆喰で塗った壁である。施主は

「いまのこの色を再現して欲しい」

と強く求めた。その壁は陽が当たらないところにあり、幅90㎝、高さ60㎝ほどで、青みがかった黒、とでも表現するしかない色をしていた。その色をそのまま再現しろという。

建築会社はいつも使っている左官に任せた。壁が塗り上がった。その壁が

「何だ、この色は!」

と、施主の怒りを招いたのである。

「あれほど言ったじゃないか。どうしてこんな色に塗る?」

建築会社は震え上がった。この建築会社にとって、施主はマンション建築を継続的に発注してくれる大口顧客である。任された仕事ができなければ新しいマンションの建築を他社に取られるかも知れない……。
あわてて前橋市のほかの左官を現場に呼んだ。その左官は壁を見るなり、

「俺には出来ない」

と逃げ帰った。
新潟に腕のいい左官がいると聞いて問い合わせた。やんわりと断られた。断りながら、この左官店は情報をくれた。

「佐野市に漆喰メーカーがある。そこに相談してはどうか?」

その漆喰メーカーが推薦したのが野村さんである。社長を始め、長年の知り合いだった。

野村さんはどんな仕事も断らない。施主のあらゆる要望に応える。それが左官・野村の信条なのだ。
数人の左官が手に負えなかった現場に出かけ、問題の壁を見た。漆喰に松煙を混ぜ込んだ黒漆喰である。それが長い年月の間に黒が沈んで濃い鼠色になり、さらに青みが加わっていた。
一方、塗りの仕上げは並、と見えた。とすると、問題はこの色か。

「少し時間を下さい」

野村さんは、会社に戻ると色の再現に取り組んだ。あの壁は松煙を加えた黒漆喰だ。10日ほどかけて松煙の混合率を変えた20枚の色見本を作り、現場で施主と一緒に色合わせをした。

「全く違うじゃないか。ほかの左官を連れてこい!」

施主の怒声が飛んだ。

「申しわけありません」

野村さんは深々と頭を下げた。下げながら心に誓った。

(この仕事ができなければ1人前の左官ではない。見てろ、絶対にこの色を出してやる!)

松煙だけではあの色は出ないらしい。であれば紺色の顔料を加えてみよう。1g単位で混合率を変え、A4版ほどの大きさの色見本を150枚ほど作った。見本はない。写真は微妙に色が変わるから使えないのだ。現場で頭に刻み込ませた「色」だけが頼りである。

1ヵ月半ほどかかって仕上げると現場通いが始まった。1度に持参する色見本は20枚ほどである。

「ほら見ろ、この左官には出来ないんだ!」

「何度来ても一緒だ。左官を変えろ!」

行く度に怒声を浴びた。

「ん?」

と施主の表情が変わったのは5回目の訪問だった。

「似てるな」

野村さんの目にもそう見えた。

「悪いが、色見本の角度を少し変えてもらえませんか?」

色は光の当たり具合で微妙に表情を変える。色見本を壁に押し当てていた建築会社の社員が野村さんの指示に従った。

「あ、この色だ。これだ、これでやってくれ!」

施主のゴーサインが、やっと出た。そこまでやって、施工費は20万円。

「それまではずいぶん叱られましたが、最後は『よくできた、よく出来た!』って大変喜んでいただきました。気に入っていただけたのでしょう、それからは門に連なる外壁を『あんたに任せる』と塗らせていただいたり、塀の補修の仕事をいただいたり、可愛がってもらいました。はい、外壁は土佐漆喰の磨き仕上げでやらせてもらいました」

野村さんは「1人前の左官」なのである。

写真=野村さんが作った色見本の一部