やっと鏝(こて)を握らせてもらったのは1年ほど下働きを続けてからだった。といっても、左官の技の華である仕上げ塗りなどさせてもらえるはずもない。工事が終われば見えなくなる下塗りが野村さんに与えられた仕事だった。砂ふるい、材料の攪拌に比べれば多少は左官らしい仕事ともいえる。だが、嫌いな仕事である。まったく面白くない。
現場では
「早く夕方になってくれ」
と願い続けた。
朝、目が醒めた時に真っ先に頭の浮かぶのは
「雨が降ってないか?」
である。相変わらず鬱々とした日々が続いた。
野村さんは負けず嫌いである。子どものころから何でも1番を目指した。勉強、運動会、校内マラソン大会、図画工作、喧嘩……。残念ながら1番になれたことは少なかったが、だが、1番になろうと努力はした。最もがんばったのは、喜劇役者を目指して様々なギャグを考え続けた高校時代である。真面目に喜劇役者の頂点を目指した。あのころは頭の中がギャグだらけだった。
そして反抗心も強かった。人に従うのが嫌いだ。自分は自分であり続けなければならない。だから子どものころは協調性に欠けた男の子だった。そんな野村さんは友だちから見れば扱いにくかったのだろう。一時、近所では誰も遊んでくれなくなった。
鬱々とした暮らしの中で、突然、そんな生まれ持った性格が表面に顔を出した。きっかけはやっと鏝を持ち始めた昭和45年(1970年)4月、すぐ近くに新しく事業内高等職業訓練校(現在の桐生高等技能専門校)が開校したことである。大工、鳶(とび)、左官などの技術を教えるという。
「嫌がっても、逃げても、俺は左官職人になるしかない。だったら、左官の世界でもトップを目指すべきではないのか? 先ずは左官の技を1から学ばねば1番にはなれないのではないか? 俺は負けるのが嫌いだ。この職業訓練校に通おう!」
突然の思いつきだった。野村さんは夜間部の入学手続きを取った。週2回、仕事を終えてからここに通い始めた。第1期生である。野村さんが変わり始めた。
「でも、いま考えると、まだ中途半端でした。本当に心が定まったのは22歳になってからでした」
22歳の野村さんは大きな交通事故を起こしてしまう。草野球チームの仲間と車4台を連ねて白樺湖へキャンプに行った時のことだ。
テントを張り終えると、誰言うともなく近くの街に遊びに行くことになった。車2台で出かけるという。
その日、野村さんは疲れていた。どうしようもなく眠い。1週間ほど残業が続いたせいだ。
「野村、お前は眠そうだ。残って寝ていろよ」
友の1人が気遣ってくれた。だが、野村さんは若かった。ついつい突っ張った。
「いや、俺も行く」
当時の野村さんの愛車は買ったかりのトヨペット・コロナだった。まだ6000㎞しか走っていないバリバリの新車である。見栄があった。町に行くなら新車がいい。だが、友人たちは新車には触りたがらない。
「いいよ、俺が運転する」
キャンプ場を出て片側1車線の道を走った。
「ああ、左カーブだな」
と思ったことまでは記憶にある。だが、記憶はそこで途切れ、次の記憶は車がつぶれる音と、体中を襲った痛みだった。
居眠りをしてしまったのだ。野村さんの車は左カーブを直進してしまった。反対車線を走ってきた山梨県庁職員の車と正面衝突したのである。相手の車の助手席に乗っていた息子さんが頭部陥没骨折の重症を負った。野村さんも上の前歯が3本折れた。
「幸い、亡くなった方はおられませんでしたが……」
職員が大事故に遭った山梨県は聴聞会を開いた。野村さんをともなってその聴聞会に出席し、事故に巻き込まれた方々に謝罪して回ったのは、父・角尾さんだった。
「事故に巻き込んでしまった方々はもちろん、親や友人にとてつもない迷惑をかけてしまいました。それに深々と頭を下げる父の姿が脳裏に刻み込まれました。とても許してもらえることではありませんが、何故か、せめて左官という仕事を一所懸命にやらなければ、迷惑をおかけたした皆さん、そして父へのお詫びは出来ないという気がしまして」
野村さんは、今度こそ左官の1番にならねばならないと自分に言い聞かせた。そうでなければ、事故で迷惑をかけた人達へ申し訳が立たないではないか……。
写真=野村さんの記憶によると、これが愛車のトヨペット・コロナ