
独学で伝統の技を越えた、桐生のからくり人形師。既存の枠に囚われない「遊びの虫」を武器に、伝説の機織神「白瀧姫」や伝統人形を次々復元。病を抱えながらも、常に「本物」と「驚き」を追求し続ける不屈の職人魂。(全20回)
読んでみませんか?
機織神・白瀧姫が守る「織都」桐生。かつて国家予算の1割を稼いだ街で、佐藤さんは独学でからくり人形を極めた。世界初「実際に布を織る白瀧姫」まで創り出す。
「形だけ機を織るように見えればいい」当初はそう考えていた。だが、からくり人形師の魂がそれを許さない。木や竹という伝統素材のみで、世界初「実際に布を織る白瀧姫」を生み出すための、夜を徹した挑戦が始まる。
滑車の穴にあえて「遊び」を作る。その独自の工夫が、人形に人間らしい柔らかな動きを宿らせた。観客のカメラに顔を向け、ポーズを決める白瀧姫。からくり人形師・佐藤貞巳が仕掛けた、驚きと感動の「魔法」の正体に迫る。
織機のミニチュアも完成し、準備は整った。だが「織っているフリ」に満足できない。不可能と思われた「杼(ひ)を飛ばして本当に布を織る」仕組みへ挑戦する。
「本当に布を織る」とTV記者に公言した。彼を救ったのは、ニュースで見たリニアモーターカーだった。磁石を使い、試行錯誤の末に「杼」を飛ばすことに成功。えびす講の初日、白瀧姫が桐生の地で布を織り始めた。
秋田の農家に生まれ、「文武両道」のガキ大将だった。墓地の卒塔婆でスキー板を作り、廃材で灯台を光らせる。少年の溢れる好奇心と図画工作への情熱が、後に「からくり人形」へと結実する。
「農作業から逃げたい」一心の15歳は足利で時計屋へ弟子入りする。だが待っていたのは、過酷な雑用と先輩職人からの激しいいじめだった。傷だらけになりながらも自分の道を探し続ける。
修行5年目、雑用といじめに耐えかねて二度の「夜逃げ」を試みるも即座に連れ戻される。さらに店主の娘の婿候補という予期せぬ計画を知り、ついに決別を決意。自由を求め東京へ、そして再び足利の整備工場へ。
「祭りの街・桐生」に惹かれ、清水時計店へ。宝石担当として信頼を得ると、眠っていた遊び心が動き出す。前例のない「動く七夕飾り」を提案して予算を獲得。からくり人形師としての第一歩を桐生で踏み出した。
宇宙への関心が高まる時代。高さ9mの「ロケット打ち上げからくり」を製作。火花を散らし上昇する迫力の仕掛けは大人気となり、東電の制止を押し切り連日稼働。見事「知事賞」に輝く。
アーケードを海に見立てた真珠採取や、観客参加型の「金龍銀龍」。佐藤さんのからくりは街の伝説に。圧倒的な集客力が昭和53年に店を北関東売上トップへと導く。遊び心と独創性が、ビジネスの場でも成果を生む。
理不尽な叱責に職を辞し、宝石商として独立。そして、江戸時代から桐生に息づく「竹田からくり」の歴史へと繋がる。伝統のからくり人形芝居が、やがて1人のからくり人形師と運命的な再会を果たす前触れ。
蔵に眠っていた伝統のからくり人形。長年の放置で動かなくなった姿を目にし、探求心が燃え上がる。2体の人形を持ち帰り、独学で培った技術を武器に、妻と共に「動かない歴史」を蘇らせる修復作業が幕を開けた。
麻縄やゴム紐を駆使し、半年がかりで曾我兄弟を修復。すると、市内の蔵から次々と古の人形が発見される。その数、実に48体。お焚き上げ寸前で救い出された名品もあり、桐生の伝統を絶滅の危機から救い出す。
復活公演が話題を呼び、保存か上演かという難題が浮上する。文化財を守るため「レプリカ製作」を決意。修復と並行し、10年で37体もの人形を自作。「本物を超える動き」を実現する。
「斬られて倒れるだけでは味気ない」と、敵役が悶え苦しむ動きや縄梯子の投擲など独自の改良を次々加える。スプリングや真綿を駆使し、物語の余韻まで描くレプリカ37体。その「本物を超えた」躍動感を生み出した。
浅草公演の依頼。「簡易舞台では桐生の恥」と12畳の大舞台を主張するが、保存会は移動用舞台で上演。誇りを汚され、長年心血を注いだ会を去る。。
江戸博やトヨタ産業技術記念館での絶賛、そして屋根が飛ぶほどの強風下で人形を抱き守った熱狂の公演。数々の伝説があるが、保存会を去った今、自ら生み出した37体の人形に触れることすら叶わない。
保存会あからは離れたが、桐生西宮神社の「えびす講」で新作を次々発表。鯛を釣るえびす様や面が入れ替わる源頼朝など、独自の仕掛けで20万人の観衆を魅了する。
「生かされているなら、面白いことを」。次の標的は、江戸からくりの最高峰「弓曳童子」だ。いまの動作は不自然と、右手で弦を引く独自の構想を練る。74歳、心臓の病を抱えながらも、夢は最高傑作へと向かう。

1日20時間の修行と左目の失明を乗り越えた「現代の名工」。横振りミシンを自在に操り、肖像画や背景まで埋め尽くす刺繍画を創出。世界のデザイナーを魅了する。針を絵筆に替えて「美」を紡ぎ続ける唯一無二の刺繍作家である。(全21回)
読んでみませんか?
刺繍職人として初の「現代の名工」や黄綬褒章に輝いた。「内職」と軽視された横振りミシン刺繍の芸術性を、パリ個展などで世界に知らしめた。17歳でミシンに絵心の光を見、いまも刺繍の地平を切り拓き続ける。
1972年、国交正常化目前の中国へ、大澤さんが縫い上げた周恩来総理の肖像刺繍が贈られた。「本質」を写し取った一作は総理を感動させ、返礼に貴重な両面刺繍が届いた。
「自分だけの作品」を求め、19歳で肖像刺繍に挑む。光の当たり方で色を変える瞳や髪の流れを糸で再現する技を確立。王貞治や田中角栄など、人物の本質まで縫い上げる技が評判を呼び、国内外の著名人へ贈られる。
大澤さんは背景まで刺繍で仕上げるの。糸の方向や生地の張り方が少しでも狂えば段差が生じる難作業だが、19歳からこの独自の挑戦を始めた。広大な空間を色彩豊かなグラデーションで埋め尽くす技は唯一無二である。
1970年代、世界的なデザイナーのエマニュエル・カーンから刺繍の依頼が届く。日本の生活習慣に合う緻密なカットワークを開発。パリの伝説的職人ルサージュとも共鳴し、超一流デザイナーから頼られる存在となった。
小西良幸氏や山本寛斎氏ら、日本を代表するデザイナーから「君にしかできない」と頼られ、パリや東京のコレクションを支えた。難解なコンセプトを卓越した技と感性で具現化し、刺繍を芸術の域へ押し上げた。
1976年、大手町での「国際アート展」。招待されて出向くと、会場を独占する自身の作品群と、琴や茶の湯、そして各国の外交官たちだった。左目の視力を失いながらも、仏像に託した「やさしさ」が海を越え、世界に認められた初の個展となった。
1993年、刺繍糸メーカーらの支援でパリ個展を開催。ルサージュら世界の巨匠と交流しつつも、自身の会場よりルーブル美術館へ日参する。権威に執着しない彼女が、群馬県庁での個展で最も誇ったのは、教え子たちが手作りしたイーゼルだった。
織物の街・桐生の豪商の長女として、乳母日傘で育った。厳格な母の躾に抗う奔放さを見せる一方、5歳で料亭の女将を唸らせるほど人の心に寄り添う機転も。豪奢な「美」に溢れた環境が類まれな感性を育んでいく。
人形遊びより工具や野球に熱中した少女時代。書生の芸大生からデッサンの基礎や光影の表現を学ぶ英才教育を受けたが、学校では常に「自己流」を貫いた。型にはまることを拒み、己の感性のみを信じて突き進む姿勢が、のちの独創的な作品群の礎となる。
中学で「大将」と呼ばれ、不良すらなだめるカリスマ性を発揮した大澤さん。父譲りの親分肌と母譲りの感性を備えた少女は、中学2年で「学歴は不要」と断言。画家やデザイナーの夢を叶えるべく、高校進学を捨てる。
17歳の春、嫌々訪れた刺繍屋で運命が変わる。生地に絵が浮かび上がる様に魅了され、ミシンを「絵筆」と直感。「これでいい絵を描く」と心に決め、翌日から始業2時間前に出勤しミシンを磨き上げる、
「技は盗むもの」という職人の世界で、1日20時間ミシンと向き合った。持ち前の絵心と執念で、わずか2ヶ月で先輩を抜きトップの座に就く。夢の中でもミシンを操り、虎の目に命を吹き込む方法を追求し続けた。
19歳で独立し、父を社長に20人の女工を率いる現場責任者となった。事業は急成長するが、注文通りの「お仕着せ」を縫う日々に葛藤が深まる。睡眠時間を削り、世界初の試みである「肖像刺繍」へと踏み出した。
経営重視の父と作家性を求める大澤さんの溝が深まる中、不渡りや負債が発覚。絶望の中で現場を放り出し、自身の作品作りに没頭する。1972年、父の急逝で会社は解散。最大の試練と崖っぷちに立たされた。
家も財産も失い、母と2人での再出発。愛機「GOLD QUEEN」を手に腕一本で生き抜こうとしたが、3つ目の不幸が襲う。左目の網膜炎。8万人に1人の難病は、色彩の天才から視界を奪い「失明」の宣告を突きつけた。
左目の治癒は絶望的、右目さえも失明の危機。母を支える唯一の手段を失う恐怖から自死を考え悩み抜いた。だが、「両目がダメになるまで」と決断を先送りし、難病の研究に協力しながら光を繋ぐ過酷な闘いに。
失明の恐怖と戦いながら「自分には刺繍しかない」と心の底から納得する。そこへ届いた、新設の児童養護施設の「悲母観音」の依頼。医師に固く禁じられたミシンへの執着と、園長の熱意。命を削る新たな挑戦へ。
失明の覚悟で「悲母観音」の制作に没頭。禁じられたミシン作業に右目が悲鳴を上げるが1年かけて大作を完成させる。すると奇跡的に病状が回復。死の淵から生還した彼女は、「刺繍作家」へと完全に転生を遂げた。
画業60年を超えてなお「もっと縫いたい」と渇望する大澤さん。現在は後進の育成に心血を注ぎ、500人以上の教え子に技術とミシンへの愛を伝えている。「私を追い抜く子が出てほしい」と願いつつ、自らもさらなる高みを目指して針を動かし続ける。
メディアの寵児として多くの著名人と交流し、力士の化粧回しや神社の奉納画も手がけてきた。中でも「えびす様」の刺繍には、幼い頃に父と歩いたえびす講の温かな記憶が宿る。彼女の作品は、時代を彩るスターから故郷の神事まで、広く深く愛され続けている。

鉄を叩き続けて70余年。全国でも希少な古来の「鍛接法」を守り抜く野鍛冶。ブランドや肩書きに背を向け、現場の使い手が求める「一生モノの切れ味」を追求。亡き息子の魂と共に火床に向かう。(全10回)
読んでみませんか?
鉄を鍛え続けて70余年。小黒さんの手には、火傷の跡と黒い鉄粉が刻まれ、指は槌を握る形のまま曲がっている。刃物産地ではない桐生で孤高の技を磨き、名だたる専門家たちが絶大な信頼を寄せる。その「手」が語る鍛冶職人を追う。
鉄と鋼を叩き合わせる古来の技法「鍛接」を貫く小黒氏。量産可能な複合材が普及する中、あえて手打ちに拘るのは、圧倒的な「切れ味の持続性」を信じるからだ。全国でも希少となった最高級の打刃物を生み出すその技は、70年の経験に裏打ちされている。
14歳で刃物の本場・三条へ修行に出た。厳しい徒弟生活で難度の高い鎌作りを習得し、20歳で桐生にて独立を果たす。しかし、1人で炉に向き合う中で直面したのは、師の不在という壁だった。数多の失敗作を捨てながら真の職人への道を歩み始める。
「良く切れ、長く持つ」と評判を呼んだ小黒さんの鎌。その技は農具から山仕事の道具、特殊な特注品へと広がり、全国に熱烈なファンを生んだ。機械化が進む現代でも、1人ひとりの使い勝手に寄り添う「野鍛冶」は、盆正月も休まず鉄を鍛え続ける。
鉄と鋼を一体化させる「仮付け」から、鉈の形へ追い込む「火造り」まで。温度を見極め、自家製の鍛接剤を用い、スプリングハンマーで不純物を叩き出す。理想の切れ味を求め、鉄の分子配列までも整える緻密な工程。ようやく掴んだ熟練の勘が宿る。
刃物の命を決める「焼き入れ」。小黒さんは温度計に頼らず、夕闇の中で鋼が放つ「夕焼け色」だけを信じて急冷の時を待つ。数値化できない熟練の勘が、折れず曲がらず、驚異の切れ味を持つ「本物の道具」を生む。
唯一の弟子として跡を継いだ愛息・充さん。伝統的な技に加え、鉄の造形作家としても類まれな才能を開花させた。しかし1999年、44歳の若さで急逝。小黒さんは「手順間違い」と愛息の死を悼み、遺された作品を形見として店に飾る。
2015年、小黒さんのもとに1人の医大生が現れる。趣味の範疇を超えた熱意に、弟子を取らぬはずの小黒さんも心を開き、技を伝授。最新機器さえ凌駕する「職人の勘」に魅せられた若者は、医師として働きながらも伝統を継ぐ決意を固める。
著者が小黒氏と出会ったきっかけは、医大生・斉藤さんの熱心な紹介だった。取材を通じその技に惚れ込み特注したナイフ。「使ってほしい」と代金を受け取らない小黒さんにし、著者は愛飲の銘酒を贈った。
遠方から評判を聞きつけ、小黒さんの包丁を求めてやってくる料理人たち。ブランド品より安価なため、稀に価値を疑う客もいるが、「多くの人に使ってほしい」と価格を上げない。肩書きや値段にではない道具の「真価」を知る人を支え続ける。

「現代の名工」として伝統の漆喰技法を極め、東南アジア諸国で技術伝承に尽力。1g単位の色合わせや新工法の開発など、飽くなき探求心で左官の可能性を広げる。後進育成を天命とし、鏝一本で世界を繋ぐ。(全23回)
読んでみませんか?
2015年、桐生の左官・野村裕司さんはカンボジアの地に立った。物見遊山ではなく、日本の左官技術と検定制度を現地に根付かせる「公務」。少年時代からの異国への憧れと職人としての探究心を胸に、日本代表としての真剣勝負が幕を開ける。
カンボジアの職業専門校で、左官技能検定の導入に挑む。しかし、用意された架台は精度が低く、道具も材料も劣悪だった。野村さんは持参した日本製の定規を手に自ら架台を修正。日本の技術を伝えるための土台作りが始まった。
国を挙げた期待の中、左官技術伝習の開講式が挙行された。日本代表としての誇りを胸に、現地の教官らへ技能検定制度の講義を開始。通訳を介した慣れぬ意思疎通に時間を費やし、実技指導を前に初日を終える。
実技指導に臨む野村さん。鏝一本で正確な平面を出す日本伝統の「口の字」の塗り方を伝授する。道具の構造も使い方も異なる現地の教官らに丁寧にコツを指南。二度目の試技で全員を合格レベルへ導いた。
熱心な生徒ら全員を合格へ導いた野村さん。指導は昼間だけではなく、自費で夕食会を3度も開き、夜更けまで技術を語り合った。単なる講師を超えた「技の伝道師」。カンボジアの若者に希望の灯を灯した。
異例の4度にわたるラオス派遣。野村さんは、治安が良くのんびりとしたお国柄に惹かれつつ、遅刻常習犯の大学講師を叱る。しかし彼らの学習意欲は貪欲で、政府職員の強い要望が原則を曲げ、再招聘を実現さたのだった。
日本の検定内容が現地のニーズと乖離していることに気づく。レンガ積みが主流のラオスに合わせ、自立式の壁を塗る独自の実技課題を考案した。揺れる架台や延びない材料などの難題も、現地の海藻を混和剤に活用する工夫で克服。「ラオス型試験」を完成させた。
ラオスの建築現場で、現地の女性職人と壁塗り競争を挑まれた野村氏。延びの悪い未開拓のモルタルに苦戦する中、スピード重視の現地流に惜敗を喫する。しかし、精度を追求した日本流の仕上がりは称賛を集めた。勝負を超え、職人同士が技をぶつけ合った清々しい「交流戦」となった。
日本まで技術を学びに来た熱心な工務店社長へ、自費で攪拌機を贈りその志に応えた。損得抜きで技術と真心を分かち合った日々。4度の訪問を重ねたラオスは忘れ得ぬ特別な国となった。
左官になる気は全くなかった。家業の苦労を目の当たりにし、憧れたのは喜劇役者の堺駿二。高校時代はコント作りに没頭、本気で芸能界入りを画策する。芸人の道へ半ば足を踏みかけた夢多き少年は、いかにして左官の道へと戻ったのか。
卒業前。喜劇役者の夢と長男の責任の間で揺れる野村さん。決断を先延ばしにするための大学受験に失敗し、ついに「左官になる」運命を受け入れる。18歳の春、現実から逃げ場を失ったまま踏み出した第一歩は、葛藤に満ちた望まぬ門出だった。
働き始めた野村さんを待っていたのは、砂埃にまみれる過酷な下準備の日々。仕事に誇りを持てず、同級生の女子を避けて隠れるほど屈折していた10代。唯一の救いは、愛車N360でのドライブと親友との時間だった。
負けず嫌いな性格から職業訓練校へ。しかし、22歳の時に居眠り運転で重大な正面衝突事故を起こしてしまう。被害者や家族へ深々と頭を下げる父の姿を目の当たりにし、己の過ちを猛省。償いとして、逃げ続けてきた左官の道で頂点を目指すことを誓った。
手抜きをせず基本を貫く仕事が「野村はいい仕事をする」と評判を呼ぶ。自信を深めた頃、恩人・小林社長から「雨でも現場へ行き、客へ断りを入れるのが職人だ」と叱責を受ける。腕だけでなく、客の想いに応える「誠実さ」こそが看板の根幹だと学ぶ。
「一芸に秀でろ」という恩人の言葉を胸に、左官一筋の道を邁進する。その誠実な仕事ぶりは施主から娘の縁談を申し込まれるほどの信頼を得た。青年大学で教養を深め、趣味のバドミントンを通じて最愛の妻とも出会う。
「一芸に秀でる」ため材料の研究に没頭する。最高級の石灰や希少な聚楽土を求め京都へも足を運び、独自の配合を模索。100冊を超す専門書を読み込み、現場の土を活かす創意工夫を重ねた。
32歳で左官技能競技の全国大会出場を決めた。県3位だった2年前の雪辱を誓い、仕事の傍ら研究した成果をぶつける好機を得る。漆喰や石膏装飾など、現代建築では稀な最高難度の技が求められる過酷な舞台。父に店を預け、「日本一」へ向けた猛特訓が始まった。
全国大会に挑んだが、不測の事態と水温の差による石膏の不具合に苦しみ、結果は3位。悲願の日本一は逃したが、競技の「受験秀才」ではなく、現場で施主の役に立つ真の技術者を目指す覚悟を固める。
全国の「名人」を訪ね歩いた。風土が生んだ多様な技に触れる中で、1人の名人を目指すのではなく、後進を育て組織として「日本一」を目指す決意を固める。挫折を謙虚な学びに変えたこの転換点こそが、後に世界へと広がる技術伝承の原動力となった。
難しい漆喰の色再現を求められ、多くの職人が辞退した現場に挑んだ。150枚に及ぶ色見本を作り、何度も怒声を浴びながら1g単位の配合を試し続けた。ついに施主から「この色だ」と認められた瞬間、信頼は確固たるものへ。
文化財移築に伴う難工事「漆喰の蛇腹引き」。名だたる業者が断る中、野村氏は絶対の信頼を受け、その技を発揮する。長年固辞し続けた「現代の名工」も、後進の道を拓くために受章。ついに「最高の職人」として公に認められる至時を迎えた。
伝統の「小舞下地」に鉄素材を導入し、影盛漆喰を軽量化するなど、古来の技に現代の知恵を融合させ進化させてきた。技を磨くだけでなく、次代を担う子供たちのために「泥だんご」を作り続ける。
弟子に伝授した「4本引き」や継ぎ目のない装飾技法で、リベンジを果たした。一線を退いてもなお、文化財修復の指名は絶えず、頭の中は常に新技術への探求心で溢れている。生涯現役を誓い、鏝を握り続けるその手は、これからも土に新たな命を吹き込み続ける。

郷土史家。桐生新町に点在する稲荷の配置から、町立ての背後にある徳川家康と天海僧正の壮大な設計図を解読。独自のフィールドワークで、桐生が日光へ至る「聖なる入口」であることを提唱する。(全18回)
読んでみませんか?
森村秀生さんは、桐生新町の町立てが他と変わらぬ普通のものだとする説に異を唱える。独自の調査から、この町は家康を祀る日光への入口として作られたと確信した。
家業を継ぐはずが、父の四十九日に廃業を決意。好きな道へと骨董屋を開くが、愛着から品を売れず店は閑古鳥が鳴く。そんな折、近隣の郷土史家に誘われ歴史探索の道へ。
旧桐生新町を歩き倒し、約60もの古い稲荷を発見。それらが町の外郭に45間間隔で規則的に並んでいる法則を突き止めた。町立て時の測量目印だったとの確信を得る。
森村さんは、稲荷が土地神として広まった江戸初期の流行に着目。町立て責任者の信仰も重なり、お稲荷さんが境界杭の役割を果たしたと結論づけ、町の設計図を復元した。
町立ての法則に従わない18基の稲荷を地図上で繋ぐと、天満宮と常祇稲荷を結ぶ斜めの直線が現れた。伝承では神々の通り道とされるが、その真の目的に疑念を抱く。
斜めの線の謎を追う。町立ての責任者・大久保長安が死後、不正の疑いで一族断絶、遺体は晒し者にされたと知る。恩人の汚名を晴らすため、事件の裏側を探り始めた。
古書『大久保武蔵鐙』を解読し長安の足跡を追う。八王子の産千代稲荷神社で、長安が主君の子の成長を願いお稲荷様を祀った事実を掴み、桐生との繋がりに確信を得た。
行き詰まり、視点を徳川家康へ。市内の栄昌寺に、家康の遺骨が日光遷座の際に止宿したとの伝承と、天海僧正ゆかりの品が残ることを突き止め、研究に光が差す。
隣町の寺にも天海僧正が家康の分骨を運んだとの伝承が残っていた。かつての切り抜きが今、研究の鍵として蘇る。森村さんは直感を信じ、膨大な資料の海へと漕ぎ出していく。
膨大な資料を整理するため、独自の歴史年表を作成。家康の神格化や町立ての経緯を打ち込み、桐生新町町だてが一役人の手による規模ではないと確信を深めていく。
世良田東照宮を訪れ、パンフレットに記された久能山から日光を結ぶ「不死の道」を知る。その直線が、桐生の町に現れた謎の斜めの線と重なることに気づき、愕然とする。
久能山と日光を結ぶ「不死の道」を地図に引くと、桐生の町に現れた斜めの線とほぼ並行した。10mの僅かなズレに新たな謎を見出すも、森村さんは独自の確信を深めていく。
家康を「権現」という神へ変えた天海僧正の教え、山王一実神道に着目。国会図書館から取り寄せた秘伝の文献を自ら現代語訳し、家康の目指した死後の世界観を読み解く。
秘教ゆえに教義が謎に包まれていた山王一実神道。最新の研究書に出会い、家康が死してなお「常に現れ権勢を示す」東照大権現として、天皇や天照大神をも凌ぐ絶対的存在に昇華された背景を確信する。
家康の遺体を運ぶ遷座の旅を分析し、川越での異例の長期滞在と勅使の帰京に着目。川越の喜多院こそが、家康が「神」へと変化する儀式が行われた地だと喝破した。
表の行列をよそに、天海は家康の遺骨を奉じ裏街道を進んだという。深谷、桐生、大間々の寺に残る「葵の紋」や伝承を繋ぐと、そのルートは「不死の道」と見事に重なった。
鹿沼での謎の4日間は、山路をゆく天海を待つ待機時間だった。家康の遺骨は不死の道に沿い男体山頂を経て、下山後に本隊と合流。森村さんは遷座の隠された全貌を解明した。
町立て技術者の動静から創生期を特定。森村さんは桐生を、家康が神として日光へ入るための「聖なる入口」と定義した。20年にわたる探究は一つの結実を迎える。

東海大学工学部で学んだ設計思考と、ロンドン・パリで磨いた芸術性を融合させたデザイナー。世界初の刺繍の珠「スフィア」を開発し、桐生の老舗・笠盛で「000」ブランドを確立した。(全21回)
読んでみませんか?
刺繍ジュエリー「000(トリプル・オゥ)」の生みの親、工学部出身で数学に強い異色の経歴が「糸の珠」を可能にした。工学とデザインの融合が、刺繍を塗り替えた。
パリの展示会で糸と貴金属が響き合うジュエリーに衝撃を受ける。ケミカル刺繍による自社製品がシャネル等に採用される中、さらなる飛躍のため、刺繍界の非常識である「立体的な珠」の実現へと動き出す。
下請け脱却を目指し誕生した「000」。当初はクッションも展開したが、需要の限界を受け「本業の刺繍」への集中を決断。退路を断ち、刺繍アクセサリー1本で勝負に出る。
顧客の「毎日使えるものがほしい」という声から、片倉さんは究極にシンプルな「刺繍の真珠」を構想する。刺繍界では不可能とされる立体的な「珠」の制作。退路を断った職人たちは、ゼロからの挑戦を決意する。
「000」の原点「DNA」開発時、理想の張りと光沢を持つ糸はなかった。既成概念を捨て、糸商の助言を得て独自の「たすき撚り」を導入。試作を重ね、刺繍界の常識を超えた「アクセサリー専用の糸」を創り出す。
父の教え「すべての可能性を試せ」を胸に、は刺繍による「珠」の立体化に挑む。直線の糸をどう重ねるか。数学の「円は無数の接線の集合」という概念をヒントに、プログラム担当と夜を徹して計算と試作を繰り返した。
算盤玉のように歪む形状を、物理の「アーチ構造」を応用した糸の噛み合わせで克服。展示会直前、ついに2本の糸だけで自立する立体的な「珠」が完成した。思わず漏れた「できちゃった」の一言。
世界初の刺繍の珠「スフィア」が誕生。糸の強みである「色」を追求し、さらに留め具をどこでも固定できる設計にすることで、ネックレスから「長さ」の制約を解放。ブランド不朽のベストセラーに。
2013年の展示会で、主催者選出の目玉ブースで「スフィア」を発表。刺繍を3次元へ進化させた圧倒的な美しさはバイヤーを熱狂させ、注文が殺到した。成功に湧く中、「より大きな珠」への要望を聞く。
最大級の真珠に匹敵する13㎜の珠に挑戦。住宅建築の「基礎」に着想を得て、中心に空洞を作ることで立体の安定に成功した。技術刷新を重ねる「スフィア」は、歩留まりも劇的に向上。
長く愛用してもらうため、有志と「洗う研究室」を発足。汚れを研究し、防汚性に優れた糸を同開発した。「伝えた」で終わらせず、ユーザーの手入れの悩みまで解決を試みる
高校時代、友人の影響で原宿に通い詰めた。限られた小遣いで古着の知識を吸収し、大学ではデザイナーズブランドに傾倒する。当時は無自覚だったが、この日々が、将来のデザイナーへの一本道となっていた。
大学時代、米国旅行で異文化に触れ「海外で暮らす」選択肢を得た。憧れの英国文化に導かれ、ロンドンでデザインを学ぶ決意を固める。父も「お前の人生だ」と背中を押し、工学からファッションの世界へ飛び出した。
ロンドンで英語検定を突破し芸術大学へ。必修講座で「テキスタイル自体をデザインする」面白さに目覚める。工学の知識と美術を融合させる指針を得て、5つの図書館を巡る「勉強の虫」に。
スイスの名門生地メーカーの社長に直談判し、異例のインターンを勝ち取ったん。世界最高峰の現場でテキスタイルをデザインし、ブラジルのデザイナーに作品が採用される。プロのデザイナーとしての第一歩を異国の地で踏み出した。
ヤコブ社の支援を受け、レーザーカットを駆使した大胆な卒業制作を完成させる。最高評価を得てロンドン芸術大学を卒業。作品は大学に買い上げられ、新聞でも紹介された。次なる舞台「パリ」へと旅立つ。
パリで名門ドミニク・シロに採用される。緻密な仕事が評価され、パリコレの最後を飾るウエディングドレスのケープ制作に抜擢。成功を収めるが、ビザの壁に阻まれ、志半ばで帰国を余儀なくされる。
ロンドンの美術館で衝撃を受けたテキスタイル作家・新井淳一氏を訪ね、桐生へ。新井氏のプロジェクトを無給で手伝いながら、桐生の高度な技術と職人たちの熱量に触れる。
新井氏は、高度な技術を裏に隠し、懐かしくも新しい美を創る「織りの達人」だった。科学への飽くなき探求心と、民族衣装や人形劇まで血肉とする多才な巨人の姿。その哲学に触れた経験が、片倉さんの根幹を形作った。
桐生の文化に可能性を感じ、稀な設備を持つ「笠盛」の門を叩く。倒産危機の最中にあった笠原社長との出会いを経て、2005年に入社。スイスのヤコブのように、地方から世界へ。ブランド「000」への道が始まった。
マネージャーとなり、自身の歩みを綴った「私の人生を変えた人」を社内配信し始めた。一流メゾンへの突撃を教わった友人や恩師の言葉を共有することで、仲間の個性を引き出し、組織全体の創造性を高めようとする新たな挑戦が続いている。

桐生の生花店「花清」3代目。華道「草心古流」の家元。29歳でフラワーデザインの内閣総理大臣賞を受賞し日本一に輝く。挫折を糧に後進育成へ尽力し、群馬のフラワーデザイン界を底上げした。(全16回)
読んでみませんか?
桐生の生花店「花清」の近藤創さんは、29歳でフラワーデザインの全国大会を初出場で制した。県代表を託され、事務用品のカタログから着想を得た「ボトルシップ」のような独創的アイデアで、最高栄誉の内閣総理大臣賞に輝いた。
大会に向け、人工的な華やかさと朽ちゆく自然の対比をコンセプトに。深夜まで花と格闘し、デザインを何度も見直す日々。眼力と技術がせめぎ合うスランプを乗り越え、納得のいく表現に辿り着いたのは大会直前だった。
夜行列車で秋田へ。スーツ姿で競技に臨んだ。緻密な時間配分と圧倒的な構成力で、初出場で内閣総理大臣賞を受賞。審査員からは、誰をも魅了する完璧な色の組合せを使いこなした手腕を「狡い」とまで称賛された。
桐生の織物文化が支えた生花店「花清」で祖父から「3代目」と呼ばれ育った。中学1年の元旦、突然床の間の花を託される。正式な修業前ながら、日常的に目にしてきた父や祖父の技を頼りに、初の活け花に挑む。
中1生の元旦、記憶を頼りに松の「矯め」に挑み、合格点を得る。これを機に「3代目」として正式な修行を開始。1種類の木で老木の姿を写し取る古流の技を学び、以後、家の正月の花を任される。
織物産業の陰りで活け花需要が減る中、父は個人消費を見据えたフラワーデザインへの転換を決断。大学2年の夏、近藤さんに、未経験のフラワーデザインコンテストへの出場を促し、「花清」の新たな歴史が動き出す。
大学2年、初挑戦のフラワーデザインコンテスト。父は「お前の作品の方がいい」と息子の作を店代表として出品し、見事全国2位に輝く。
大学3年、東京の養成学校へ。後に妻となる祐子さんと共に学ぶ近藤さんは、校長から後継者に指名される。中央での華々しい道に揺れるが、桐生の「花清」を継ぐ3代目としての道を選んだ。
大学卒業後、妻・祐子さんと共に「花清」を支える。過酷な東京仕入れと数多くの注文をこなす傍ら、コンテストに挑み続けるが、上位入賞止まりで優勝に届かない。「無冠の帝王」と揶揄される日々に。
「基本という壁」に閉じこもっていた自分に気づいた時28歳。教科書通りの美しさを捨て、華道の伝統と自由なフラワーデザインを融合させる挑戦を始めた。29歳、ついに内閣総理大臣賞という栄光を掴み取る。
32歳で花キューピットの最年少指導員に。全国を回り、自身の感性を言語化して伝える講習会で多くの刺激を受ける。しかし、指導者として充実する一方で、プレーヤーとしては優勝から遠ざかる日々に、自問し始める。
ドイツデザインに傾倒し、花を主役とした「自然の姿」を追求する。だが時代は、花を素材として扱うモダンアート的な作風へ。新しい潮流に抗う中で再び「無冠」に陥るが、自身の美学で世界一を目指す決意を固める。
1989年の東京大会で村松文彦氏が世界一となり、近藤さんは30代での世界制覇を誓う。日本代表最有力候補として臨んだ初のアジアカップ。運営の不備やルールの違いに戸惑いながらも日本人最高位の2位に輝き、いよいよ世界予選へと挑む。
1997年世界大会への切符を賭けた日本予選。確信に近い自信を持って臨むも、直前の大会での不振に動揺し、結果は2位。世界一への夢を断たれ深く挫折するが、この敗北が鼻高々だった自分を変え、人生をより豊かにする転機となった。
近藤さんは指導員を退き、地元群馬の底上げを決意する。自分1人が強いだけでは文化は育たない。「仏作って魂入れず」の現状を打破すべく、自分を脅かすほどの後進を育てるため、地元の基盤作りに心血を注ぎ始めた。
月例講習会を続け、10年以上の歳月をかけて群馬から全国入賞者を輩出。次男へもバトンを繋いだ。2018年に役職を退くも、その感性は今も作品に宿る。父の雅号を継ぐべく「創」と名を改め、一介の花屋として、不変の美を追求し続けている。