桐生の左官、海を越える 野村裕司さん  第6回 遅刻常習犯

カンボジアでの野村さんの仕事は2015年1月17日午前中に終わった。その日の午後、野村さんはプノンペン国際空港を飛び立った。だが、目的地は日本ではなかった。ミャンマー最大の都市、ヤンゴンである。18日〜24日まで、この国にも左官職の技能検定制度を伝える。大変な強行軍である。

ヤンゴンで1週間の務めを果たした野村さんは、24日に帰国した。2週間ぶりの日本だった。しかし席が温まる間はなかった。わずか1週間後の2月1日にはラオスの首都、ビエンチャンのワットタイ国際空港に向かって成田から飛び立ったのだ。日本の左官職技能検定制度を伝授する3つ目の国である。

そして、ラオスは忘れられない国になった。なんとその後、10月12日〜17日、翌2016年10月12日〜15日、2017年1月22日〜30日と、合計4回も左官の技の伝道師として招かれたのである。
前回も書いたように、厚生労働省の原則は、1つの技術伝道は1カ国で1回だけ、だった。ところがラオス政府が繰り返し、

「もっと日本の技を知りたい。講師を派遣して欲しい」

と頼み込んできたと聞いた。原理原則を墨守するのが常の官僚も、あまりの懇願ぶりに原則を曲げたらしい。
となれば、

「野村さん、そんなことができるのはあんたしかいないよ」

なのである。ほかに代わりうる人がいなかった。

いや、野村さんがラオスを忘れられなくなったのは4度も招かれたためだけではない。その国民性に強く惹かれたのである。

まず治安が良かった。例えばカンボジアでは到着した日の夜、もう1人の講師として招かれていたデンソーの社員に同行していた中央職業能力開発協会の女性職員がショルダーバッグをひったくられた。

1970年代、この国で政権を握ったポル・ポト派は強引に原始共産社会の樹立を目指し、そのため干魃、飢餓、疫病、虐殺などで100万人から200万人の国民が犠牲になった。
筆者はその虐殺のありさまを映画「キリング・フィールド」で見て暗澹たる気持ちになった。虐殺現場で米兵が持っていた携帯ラジオから流れたポール・マッカートニーの「Band on the Run」が耳に入った瞬間、この虐殺は過去の出来事ではない、筆者が日本で安穏と生きていた時に起きていたことだ、と強く思い知らされ、打ちのめされたのだった。
カンボジアにはその殺伐とした空気がまだ残っているのか。

ショルダーバッグには40万円ほどの滞在費とパスポートが入っていた。

「おかげで翌朝、その女性職員は日本大使館に出向いてパスポートの再発行手続きをしなければならなくなり、開講式には間に合いませんでした」

だが、ラオスではそんな心配はなかった。夜1人で歩いても何の心配もなかった。

「それにね、何となくのんびりした国なんですよ、ラオスは」

初日、野村さんは毎日朝8時か8時半から始めようと提案した。まさか4度もこの国に来るとは思ってもいなかったので、限られた滞在期間を有効に使いたかった。
だが、どうしても受け入れてもらえない。

「いや、遠くから来る人もいるので、朝は9時から、終わりは午後4時にしてもらわなければ困ります」

やむなく、ラオスのルールに従った。生徒は8人。会場となった訓練校の教官、大学教授、左官職人、ほかの職業訓練校の教官などである。
その中に1人だけ、毎朝遅刻してくる生徒がいた。大学の講師だという。あまりのことに数日して

「何故毎日遅刻を?」

と聞いた。すると

「いや、渋滞がひどくて」

思わず、

「だったら、もう少し早く家を出たらいいでしょう!」

と叱った野村さんだが、しかし、この小太りの大学講師、何とも憎めない。おっとりしていて悠揚迫らぬ大人の風がある。いつも笑みをたたえ、嫌みを言われてもほほえみで返す。とにかく人柄がいい。叱りながら野村さんは、

「いまの日本ではお目にかかれなくなった人物だな」

と嬉しくなってしまったのだ。

中央、ブルーのポロシャツの男性が通訳。その右に野村さん

後に、日本の講師の再招聘を強く主張したのは、8人の生徒の1人、通訳を務めながら野村さんに左官の技を学んだ政府職員だと聞いた。そういえば1回目のラオス滞在の最終日、教室で

「1回だけじゃ学びきれない。何とかして日本を参考に自分たちの左官職人育成ステムを作りたい。2回でも3回でも来てもらわないと」

と彼がいっていたのを思いだした。

「ラオスの人ってのんびりしているようで、実は貪欲なんですよ。それもラオスに強く惹かれた理由のひとつですね」

ラオスでも野村さんが生徒たちをポケットマネーで夕食に誘い、昼間の授業の補習を続けたのはいうまでもない。

写真=黄色いTシャツが遅刻常習の大学講師。左から2人目が野村さん

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