SDGs 岡田和裁研究所の3

【共衿の回し掛け縫い】
東京で和裁の基礎を身につけて戻った成雄さんは、桐生に戻ると両親、なかでも五三さんからより高度な技をみっちり仕込まれた。全国でも最高ランクの和裁士で、技術のすべてを公開して多くの後進を育ててきた五三さんの教えは厳しかった。縫い上げて

「これでいい」

と思っても、五三さん目に不充分に映ったものは

「直せ」

と突き返された。五三さんの審査を通るまで裁縫仕事が続く。時計の針が12時を回ることが当たり前の日々が続いた。

「お前は、やがては私の後継者として岡田和裁研究所を率いる。技でも人の器量でも抜け出なければならない」

という愛の鞭だったのだろう。おかげで技はメキメキ上達した。それを見て安心したのだろう。五三さんは数年後、岡田和裁研究所を成雄さんに任せ、少し離れたところに和裁教室を開いて経営し始めた。

成雄さんはこんな姿勢で運針を続ける

五三さんは指折り数えられる和裁の名人であり、改革者である。父の技をひたすら守り伝えていく、という生き方も成雄さんには可能だったはずだ。それでも和裁の名人と呼ばれるには十分だったろう。
だが、優れた職人は止まることを拒む。今を越えようという意思を職人魂という。

成雄さんが現代の名工に選ばれたのは「共衿(ともえり)の回し掛け縫い」という新しい技法を開発したからである。

和服を楽しまれている方々は、衿が二重になっていることをご存知のはずだ。衿は着物の中でも一段と目立つ場所にある。ところが、汗や化粧で汚れやすい場所でもある。だから、地衿と呼ばれる衿本体の上に、地衿と同じ生地で少し短い共衿をつける。汚れれば共衿を取りはずしてそこだけ洗えばよい。和服の知恵である。

目立つ場所だから、縫い目を見せてはならない。だからそれまで、共衿の端を少し折って地衿の上に置き、折り込んだ部分と地衿を縫い付けていた。針は共衿の下に隠れて見えないから、指先の感覚と勘だけが頼りの難しい縫い方だ。熟練者でも針が斜めに入る「流れ針」や、共衿の上に糸が出てしまう「白針」という失敗をしがちだった。

「こうしたら簡単に縫える」

と思いついたのは、第1回技能グランプリへの出場を考えていた昭和57年(1982年)のことだった。

「裏返して縫えばいいじゃないか」

布で袋を作る事を考えていただきたい。1枚の布を2つに折り、両端を縫えば袋になる。この時、表地を外にして縫う部分を折り込み、折り込んだ部分を縫うのと同じ作業がそれまでの共衿の縫い付けだった。
しかし、裏地を外にして両端を縫い、縫い終わったらくるりとひっくりかえせば縫い目は見えない。共衿も同じ縫い方にすればいい。これなら、運針の基本さえできていれば、誰でも共衿をつけることができる。

恵子さんは近くの小学校で和裁を教えたことも。

あとで解釈すれば簡単なことかも知れない。だが、1000年を越える和服の歴史で、成雄さんが初めて考えついた画期的な技なのだ。
こうして成雄さんは、五三さんに続いて現代の名工に選ばれた。同じ和裁士として研究所の運営に力を合わせてきた妻恵子さんの力添えがあったのはもちろんのことだ。

SDGs 岡田和裁研究所の2

【美容仕立て】
後継者の育成法を根底から刷新した五三さんである。和裁の技にも数々の改革を編み出したのは不思議ではない。針を持ちながら、より速く縫え、仕立て上がりが美しく、身につけて優美な和服にするにはもっといいやり方があるはずだ、と考え続け、アイデアが浮かぶとやってみた。こうして五三さんが新しく産み出した技は数十に上る。

中でも特筆すべきは「美容仕立て」である。

洋服は体型に合わせて仕立てるが、和服は体型に応じて着付ける。それが当たり前だった。だから和裁の採寸は大雑把で、例えばふくよかな女性用は男性用の寸法で済ませていた。それで長すぎればたくし上げて紐で縛り、帯で隠す。横幅が大きすぎれば脇の部分をたくし込んで帯で強く締め付ける。どうしても着崩れが起きやすいが、

「和服はそんなもの」

と誰もが思って疑わなかった。

だが五三さんは、

「和服も体型に合わせれば、より美しく装うことができ、体の動きも楽になるはずだ」

と考えた。戦後急速に普及した洋服からの影響もあったのかもしれない。

美容仕立ての採寸表

五三さんは伝統という強固な殻から和服を救い出し、新しい美を和服にもたらそうと考えたのである。コルセットなどからの締め付けから女性の体を解放することとファッション性の両立を目指したといわれるデザイナー、ココ・シャネルに通じる哲学を、五三さんは自力で構築した。和裁にかけた熱意の成果である。

美容仕立ての研究は戦後間もなくスタートし、形になったのは昭和40年(1965年)のことだ。採寸はバスト、ヒップ、身長、裄(ゆき)、首回り、褄下(つました=衿の先から裾までの長さ)と多岐にわたる。これらを数値化して表にまとめた。依頼主の体型を採寸すれば、その人に最もフィットした和服を仕立てられるようにしたのである。

(こちらから、pdfで採寸表を見ていただけます。美容仕立て_NEW

しかも、五三さんは「美容仕立て」を含む自分の技をすべて公開した。文書にまとめたものもある。講演を依頼されれば演壇に立ち、技術指導を求められれば喜んで教えた。いまでは「美容仕立て」は全国に広がり、和裁の基本技術の1つである。

いまでも使われている教科書

昭和50年代、労働省認定の和裁教科書「和服裁縫」上下2巻と別巻を、編集委員長として7年がかりでまとめ上げたのも五三さんである。いまでも全国の和裁教習所で入門者から習熟者にまで広く使われているのは、基本から高度な技まで、五三さんが学び取り、開発してきた技術の総てが注ぎ込まれているからだろう。

SDGs 岡田和裁研究所の1

【和裁】
和服を仕立てる一連の工程である。かつて和服は反物の状態で販売され、それを自宅で仕立てるのが一般だった。そのため、第2次世界大戦前までは和裁は女子教育の必須科目だった。しかし、敗戦後は生活全般が洋風化して和服が日常着ではなくなったため家庭内での和裁はほぼ途絶え、いまでは専門職になっている。
反物は通常、幅9寸5分(約36㎝)、長さ3丈(じょう=約12m)で販売される。これで大人の女性の着物1着分である。
仕立てるには反物を裁断しなければならないが、体の線に沿うように曲線を使って立体裁断する洋服と違い、和服のパーツは総て長方形である。そのため型紙はなく、布目に合わせて総て直線に切断する。体が小さくて布が余る場合も一切切り落とさずに縫い込んでおく。成長に伴って着物が小さくなれば仕立て直して大きくなった体に合わせる。つまり、曲線に裁断する洋裁では無駄な端切れが出るが、和裁では捨てる布は全くない。衣服に関する究極のエコシステムである。
世界はいまの時、SDGs(Sustainable Development Goals=持続可能な開発目標)を求めている。ファッション、衣服は時代の要請を写し取って変わってきた一面がある。無駄を一切出さない和服、和裁のシステムが脚光を浴びる時期がやがて来るのではないかと筆者は考えるが、いかがだろう?
希にミシンを使うこともあるが、基本は手縫いである。和服はかつて、縫い目をほどき、パーツの状態にして洗濯した。ミシンの縫い目はほどきにくい。手縫いはその名残ともいえる。また、布を大事にするための仕立て直しをシステムに取り込んでいる和裁では、縫い目が容易にほどけなければならないことも手縫いの理由である。
縫い目をできるだけ見せない技を使うのも和裁の特徴とされている。

【先代】
岡田和裁研究所を語るには、古い話から始めなければならない。

故・岡田五三(ごぞう)さんがこの研究所を創立したのは、昭和17年(1942年)のことだ。群馬県吾妻郡に生まれ、6歳で岡田流裁縫術の創始者で名人と称されたおじ、桐生の岡田長太郎さんの養子になった。おじが経営する岡田裁縫塾の生徒として厳しい修行が始まったのは昭和6年(1931年)、14歳の時である。「目で見て、頭で覚える」のが職人の技の伝承だった時代、五三さんは大事だと思ったことはトイレでメモし、みなが寝静まる夜中に清書し手残した。文字に起こすとは、断片的な知識の間に論理というロープを張り巡らして知識を体系化することである。この努力が後に和裁に改革を起こす基礎になったことは疑いない。

「星」にかける 高橋デザインルームの3

【遊び】
商用でヨーロッパに行ってきたという問屋さんから

「これ、お土産」

と紙包みをもらったのは、日本が2度の石油危機からようやく脱しようかという頃だった。開けてみると、有名なゴブラン織りのタペストリーだった。ゴブラン織りは15世紀、パリのゴブラン家が始めた。緯糸(よこいと)を織り幅全体に通さず、紋様の部分だけに使って多様な絵柄を表現する特殊な織り方だ。使われている糸は太く、分厚い織物である。17世紀から18世紀にかけてフランスに君臨したルイ14世はゴブラン工房を買収、外貨を獲得するための戦略商品に育てた。

タペストリーは部屋の装飾品である。普通なら壁に掛けて楽しむ。しかし、高橋さんはちょっと違った。初めて目にする織物に、

「どんな織り方をしてるんだろう?」

と興味を惹かれてしまったのだ。思い立ったら止まらない。意匠紙を引っ張りだし、せっかく頂いたゴブラン織りを拡大鏡でのぞき込みながら1本1本ほぐし始めたのである。

「なるほど、こんな織り組織を使っているのか」

使われていたのは経糸が5色、緯糸が3色に加え、緯糸がばらけるのを抑えるためにほとんど透明に近い糸が使われていた。その織り組織を、高橋さんは意匠紙に書き写し始めた。絵柄も写し取ったのはもちろんである。
(もっと美しい画像を見たい方は右をクリックして下さい。ゴブランのコピー_NEW

流石にフランス伝統の織物である。織り組織は複雑を極めた。それを1つ1つ写し取る。頼まれ仕事を終えた後の作業だったとはいえ、完成までに5、6年もかかってしまった。

ここまで作業が進めば、

「この意匠図で、本当にこの織物が織れるのだろうか?」

と考えるのは人情だろう。高橋さんは知り合いの機屋さんに

「織ってもらえないか」

と頼んでみた。だが、フランスで織り上げられたこのゴブラン織りを織れる織機を持った機屋さんはいなかった。長年かかって意匠図、組織図を書き上げたのに、高橋さんのゴブラン織りコピープロジェクトは、お蔵入りにするしかなかった。

一度は断念した。しかし、

「何とかならないか?」

という思いは、喉に引っかかった魚の小骨のようにしつこく、なかなか取れてくれなかった。

「そうか、桐生でも織れるような意匠紙を描けばいいんだ」

と思いついたのは2004年のことだ。今度はコンピューターが使える。絵柄をコンピューターに読み込み、オリジナルとは違う織り組織を入力した。緯糸を8色使い、45色を表現する。使った織り組織は360にも上った。出来上がると、機屋さんに織ってもらった。

これが高橋さん作のゴブラン「風」織りである。本物を写し取ったのだから絵柄は全く同じ。しかし、筆者の目には「風」の方が本物より美しく、鮮明に見えた。
2枚の写真は、同じ日に、同じカメラで撮り、Mac付属のソフト「写真」で鮮明度などを全く同様に上げたものである。
(これも美しい画像をご覧になりたい方は、右をクリックしてくっださい。高橋作

余りの違いに、思わず聞いてみた。

——このフランス産のゴブラン織りは日に焼けて褪色してはいませんか?

いえ、きちんと仕舞っていますので、いただいたときと同じ色です」

高橋さんはこともなげに言った。

「星」にかける 高橋デザインルームの2

【手織色留袖】
その注文が、高橋デザインルームの高橋宏さんに舞い込んだのは1980年前後だったと記憶する。

「何でも、屏風の絵を留袖にするんだそうだ。あんた、星紙(意匠紙)をやってくれんかね」

話を持ち込んだのは意匠屋仲間である。反物(和服の生地)の意匠を得意としている人だった。高橋さんは洋服地などになる広幅専門で、幅が狭い反物はやったことがない。留袖にするのなら反物だろう。それを、なぜわざわざ私に? 自分で引き受ければいいじゃないか。だが、高橋さんは交渉ごとが得意ではない。あれこれ言ってはみたが押し切られた。

紅花屏風の一部

詳しい話を聞いて驚いた。留袖の紋様にするのは幕末の狩野派の画家、青山永耕の作「紅花屏風」で、山形県の有形文化財に指定されている。最上紅花は江戸時代の山形県の特産で、屏風絵は紅花の生産から流通までの過程を描いたものだ。それをもとに京都の図案家が図案に起こし、米沢市に伝わる高級織物「無双絵羽織」の唯一の伝承者・戸屋優さんがジャカード織機も使いながら手織りするのだという。そんな超一流の技の持ち主が力を合わせる事業に私が参画する?
身が引き締まった。

前回書いたように、織物の柄は同じものを繰り返すことがほとんどだ。だが、元が屏風絵だから繰り返しは1回もない。

「これは大変なことになった」

と思う。それに、日頃注文を出してくれる機屋さんの仕事もこなさねばならない。勢い、屏風絵の意匠紙づくりは日常的な仕事を終えた夜になる。まだ意匠の世界にコンピューターが入る前である。受け取った図案を投影機で意匠紙の上に拡大投写し、1マスずつ写し取っていく……。

「人が40人ほどいる細かな図案でね。ええ、休みも何もあったものじゃない。ほとんど徹夜続きで」

高橋さんが作った意匠図の一部

1着分の意匠紙を仕上げるのに1年かかった。高橋さんの意匠紙を元につくられた紋紙は6万6000枚に上った。1枚ずつ積み上げれば約4.5mの高さになる。しかも、高橋さんが引き受けたのは2着分。紋紙を積み上げれば3階建ての住宅の屋根の高さだ

戸屋さんは3年がかりで織り上げた。1985年9月、東京・銀座のギャラリーで織り上がった留袖の展示会が開かれた。高橋さんが招待されたのは言うまでもない。

「あの留袖は売るつもりはないということでしたが、買うとしたらいくらするんでしょうね。1000万円? 2000万円? 私には分かりませんが」