ミシンの職人 大澤紀代美さんの3

【こっそりと】
大澤さんが横振りミシンに魅せられ、刺繍職人の道に進んだのは17歳の時だった。近くの刺繍屋さんに弟子入りし、十数人の先輩女工さんに囲まれながら刺繍の技を学び続けた。

だが、学んだのは刺繍の技だけではなかった。十数台の横振りミシンはしばしば調子が狂う。そのたびにミシン職人が呼ばれ、修理をする。ほかの女工さんたちは自分のミシンが修理されている間は辛い仕事から解放される自由時間だ。好き勝手なことをして修理が終わるのを待った。

大澤さんは違った。ミシン職人の修理を食い入るように見ていた。こんな故障が起きたときはどこを見るのか。何をどうすればうまく動くようになるのか。工具が大好きな少女は、やっぱりメカが好きなのだ。それも、修理されているのは人生をかけようと思っている横振りミシンである。仕組みも動作も修理方法も完全にマスターしたい。ミシンの故障は最大の勉強の機会だったのだ。

半年もすれば修理の要領は頭に入る。大澤さんは自分のミシンは自分で修理し始めた。ミシン職人を呼べば時間がかかる。仕事が混み合っていれば2、3日後、ということもある。その間、大好きな刺繍ができない。自分で直せば、使えない時間はずっと短くなるじゃないの!

「みんなに知られないようにこっそりやったの。だって周りはみんな先輩でしょ。2ヶ月もたつと刺繍の出来映えも仕上げる枚数も先輩を追い抜いていた。その上、ミシンの修理まで自分でやるとなると、あの人たちの顔をつぶすし、悪くするといじめにあうかも知れないからね」

大澤さんは腕利きの刺繍職人になっただけでなく、こっそりと働くミシン職人にもなったのである。

【ミシンへの愛】
19歳、大澤さんが刺繍屋さんを退職して独立した。自宅の一部を改造し、10台連結の横振りミシンを入れた。前の職場から2人の女工さんがついてきた。社長は父・藤三郎さん。大澤さんは工場長兼技術部長兼刺繍職人という役回りだ。

油を差す
ここにも油を差す

大澤さんの朝は早い。朝6時には作業場に入る。まず床を丁寧に掃き清める。終わると、全てのミシンに油を差す。ミシンは高速運動を繰り返すパーツが多い。油が切れると金属同士がこすり合いって動作が不安定になる。そればかりか、金属部品の摩耗も起きる。

「弘法筆を選ばず、っていうけど、弘法さんだってちゃんと手入れされてる筆を使った方がいい字を書けるんじゃない? ミシンも同じ。私たちは横振りミシンのおかげで仕事ができているんだから、まず周りを清潔にし、ミシンにちゃんと手入れしてあげるの。私たち刺繍職人のイロハのイだと思うのよね」

それほど気を使っても、経年変化もあれば女工さんの操作ミスもある。不具合は起きてしまう。そうなると、ミシン職人である大澤さんの出番だ。
もう人の目を気にすることはない。大澤さんは幼い頃から集めていた工具を取り出し、できる修理はすべて自分でこなし始めた。

「いつの間にか、ほとんどの修理ができるようになったわ。あ、ミシンを動かすモーターの修理はできないけど」

いま、大澤さんは11台の横振りミシンを持っている。最も古いのは33歳の時に買ったから、もう半世紀も使い続けていることになる。あとの10台も

「みんな古いの」

毎日周りを掃き清めてもらい、油を差してもらい、それでも体調を壊せばすぐに修理してもらえる。大澤さんの愛に包まれた横振りミシンたちは幸せを噛みしめているに違いない。

ミシンの職人 大澤紀代美さんの2

【どぶ板通り】
2022年11月、筆者は大澤さんと一緒に、「スカジャン展」を開催中の横須賀美術館を訪れた。
スカジャンとは、「横須賀ジャンパー」の省略である。戦後間もなく、米海軍横須賀基地に駐留した米軍兵士たちが、鷹や虎、龍など和風の柄や、自分の所属部隊、基地のシンボルをデザインした柄をジャンパーに刺繍させたのが始まりだといわれる。その後、横須賀・どぶ板通りで一般向けの販売も始まって人気が沸騰した。歴代のスカジャンを一堂に集めたのが「スカジャン展」である。

一見、桐生とも大澤さんとも縁がない「スカジャン展」にわざわざ足を運んだのは、会場の一角に「大澤紀代美コーナー」が設けられ、美術館の依頼で大澤さんが貸し出した作品が展示されていたからだ。
大澤さんの作品はスカジャンではない。普通の刺繍である。それなのに、なぜ「スカジャン展」に展示されたのか。

「だってね、名前はスカジャンだけど、そのほとんどは桐生で縫ってたの。あの頃の桐生は和服に刺繍をする人たちがたくさんいて、スカジャンは新しい職人の練習にピッタリだったのよ。私の工場でも随分縫ったわ」

名前はスカジャンだが、Made in桐生。スカジャンを語るには桐生は外せない。桐生の刺繍といえば大澤紀代美をおいてほかにない。それが美術館の判断だった。

大ちゃんと「ドブ板コーバスタジオ」

美術館をひと巡りした私たちは、スカジャンのメッカ、どぶ板通りに足を伸ばした。大澤さんのもとで横振り刺繍を3年間修行した若者が、ここでスカジャン店「ドブ板コーバスタジオ」を開く準備を進めていたからだ。彼を大ちゃん(山下大輔さん)という。

店に入るなり、大澤さんは口を開いた。

「大ちゃん、このミシンじゃ縫いにくいでしょ。ちょっと紙はないかしら」

大澤さんは紙を置いてミシンを動かした。

「ほら、針穴がいくつもできるでしょ? 本当は同じところに針が落ちなきゃいけないのに」

なるほど、小さな針穴が狭い範囲に散らばっている。

「ちょっと、マイナスドライバーある?」

大ちゃんが持ち出したドライバーを手にした大澤さんは釜を取り出した。針も外して何やら調整している。

「ここをもう少しこうすると、バランスが良くなるの。動かしてみて。ね、音も違ってきたでしょう」

確かに、大澤さんが手を入れるまでは何となく濁っていた音が、スッキリした。

弟子が開く店に駆けつけて、まずミシンを調整する。大澤さんはそんな人である。

「だって、いい刺繍をするには、ミシンにちゃんと動いてもらわなくちゃいけないの。刺繍職人は刺繍の腕はもちろん必要だけど、それと同じぐらいミシンに詳しくなって手入れ、修理ができるミシン職人にならなきゃならないのよ」

大澤さんに調子を整えてもらった横振りミシンで、いまごろ大ちゃんは素敵なスカジャンを縫っているはずである。

ミシンの職人 大澤紀代美さんの1

【横振りミシン】
服の仕立てに、ミシンはなくてはならない道具である。趣味と実益を兼ねてミシンを操っている方もいらっしゃるだろう。しかし、ミシンで何故縫えるのかをご存知だろうか?
ミシンの針は先端に糸を通す穴がある。この穴を通った上糸は針が下に下がると糸を伴って布地を突き抜ける。針が上に上がると、糸は布地との摩擦で布地の下にループ状になって残る。目で見えないミシンの下部には「釜」という部品があり、布地の下に残った上糸を引っかけて1回転しながら、釜の中にあるボビンに巻かれた下糸をループの中に通す。実に巧妙な仕掛けで、18世紀にイギリスで発明された。一般的には縫製ミシンと呼ばれ、布地を自動的に送る機構(「送り歯」)や布地を押さえて縫いやすくする「押さえ」が備わり、正確に素早く縫える。
上下運動を繰り返すだけだったミシンの針を左右にも動かす機能をつけ加えたのは、一説では、19世紀半ば、アメリカの機械工、ウォルター・ハントだった。やがて改良が相次ぎ、ジグザグミシン(千鳥ミシン、ともいう)が生まれた。縫い目の幅を前もって調整できるため、ズボンの裾上げや布の端の始末などにいまでも使われている。これが横振りミシンの原型となった。
ミシンで刺繍をするには、縫う布地を自在に動かさなければならない。それには、まずジグザグミシンから「送り歯」「押さえ」を取り外して布地を自在に動かせるようにする。さらにジグザグミシンでは一定だった針の振れ幅を自由に調整できる機構がいる。そんな改良型ミシンを作った人が桐生にいた。大正時代のことというが、残念ながら名前は残っていない。このミシンを「横振りミシン」という。国内繊維産業が盛んな頃は複数社が製造していたが、いま残っているメーカーはJUKIだけだ。
では、「横振りミシン」は何故桐生で発明されたのか? 桐生の刺繍作家、大澤紀代美さんによると、繊維産業で栄えたかつての桐生では大量の帯が織られた。ほかの帯産地と違って桐生の帯は無地のものが多く、それに刺繍職人さんたちが手刺繍で装飾を施していた。すべて手作業だから生産性は低く、出来上がった帯は高価になる。「それを何とかしようと思ったんでしょうね」と大澤さんはいう。ただ、発明家の名前が残っていないのと同じように、この件についての資料も見付かっていない。

【ミシン職人が驚いた】
大澤さんについては「ミシンの魔術師 大澤紀代美さん」で、刺繍を芸術にまで高めた刺繍作家として紹介した。お読みいただいた方もいらっしゃると思う。
今回は、少し違った視点から大澤さんをご紹介する。ミシン職人としての大澤さんである。

あれは、30人ほどの女工さんを使って工房を経営していた20代のころだった。数台のミシンで頻繁に目飛びが起きるようになった。目飛びとは、布地を突き抜けた上糸が下糸と絡まらず、宙ぶらりんに浮いてしまう事故である。
刺繍作家、刺繍職人は刺繍には詳しいが、その道具であるミシンについての知識は浅い。ミシンが故障すれば、専門のミシン職人に修理を頼むのが普通だ。大澤さんは出入のミシン職人さんを呼んだ。

120%ということ 須裁の3

【120%=ファクトリーブランド】
最終製品を持ちたい。自分が創りだした製品で市場と直接に対話をしたい。それは中間製品のメーカー、下請けで仕事をする会社の多くが持つ願いである。
須永さんも例外ではなかった。素材の布は自社の工場で織っている。試作を繰り返して他にはない布を生み出している自負もある。これを最終製品にして消費者に直接届けたい。

夢を持つのは簡単だ。しかし、最終製品を持つということは、在庫を持つことである。いまはアパレルメーカーですら販売不振に悩む。独自ブランドの服を作っても在庫が膨れれば経営は危機に瀕する。

「服はハードルが高いんです。それで、まずリスクが小さい小物から始めよう、と」

準備を積み重ねた。

須裁のファクトリーブランド商品群。

社員が自社開発の生地を使ってバッグや帽子といった小物を作る「須裁ラボ」を立ち上げた。須裁の可能性を広げる研究機関だが、できた商品は「須裁ラボ」ブランドで販売も手がけている。

「ジャカードワークス」は、都市開発会社の女性社長の協力を得て始めた。男女を問わず使えるユニセックス製品、リサイクル繊維などを使ってサステナビリティ(持続可能性)商品が主体だ。まだバッグ類に止まっているが、将来は服も手がけたい。

そして2020年秋、アトリエショップ「Charrm(チャーム)」を工場の一角に開いた。初めての販売店舗である。専属デザイナーは桐生出身の坂入歩未さん。関西のアパレルメーカーでパタンナーとして腕を磨いた坂入さんは、

「日常を過ごす時間を美しくすることで人生はもっと豊かになる」

と、まず「Charrmブランド」のバッグ類をデザインし、販売を始めた。

内外装を白に統一した「Charrm」は、1925年に建った工場と壁1枚で隔てられ、いつ訪れてもガシャガシャガシャガシャというジャカード織機の機音が響く。

Charrmの内装。

「ところで、須裁のファクトリーブランドのショップを何故工場の一角にしたか、わかりますか?」

突然、須永さんから質問を受けた。取材者が取材先から問われるのは異例である。

戦略的な販売店だから、できれば東京の繁華街に出したいところですよね。ひょっとしたら、コストをかけないため? うーん、分かりません。

「お客様に、生地の生産現場を見て欲しいのです」

1枚の布地ができるまでに、どれだけの手間暇、工夫、労力、隅々まで張りめぐらした神経がいるのか。生の機音を聞き、織機の動きを見てもらえば、私たちが織る生地の良さを分かってもらえるはずだ。
須永さんはそう考えたという。それは、私たちは最高の仕事をしているという自負の表れだろう。

だが、わざわざ桐生まで、須裁までどれだけの人が足を運んでくれる?

「手応えが出始めました。営業をかけたわけでもないのに、有力な販売店のバイヤーが来てくれるんです」

いま、須裁のファクトリーブランド商品はネット通販が主だ。店頭に置いている店はまだ東京都内に6店しかない。訪れたバイヤーたちは、ネットで須裁のブランド商品を知ったと口をそろえた。いいものを作り、ネットでの情報発信に力を入れたたまものだろう。
いまの手応えが続けば、須裁の商品を置く店が間もなく10店になり、やがて数十店に増えるはずだ。
須裁オリジナルの服が出回るのもそう遠くないのかも知れない。

120%ということ 須裁の2

電子ジャカードを動かすデータは社内で作る。

【120%=お節介】
2022年秋、チェック柄の織物の注文が来た。といっても言葉によるイメージだけで、具体的な図案はない。イメージを形にし、生地に織り上げるのは須永さんの仕事である。デザイナーの仕事の一部を丸投げされたようなものだ。発注者は、須永さんのセンスに余程の信頼を寄せているのだろう。
任された須永さんは、イメージを元にチェック柄をデザインする。だが、1通りにまとめ上げることはしない。例えば、色の組合せを4通り考えたとすると、1枚の試し織りに4通りのチェック柄を織り出す。幅120㎝の織物だとすると、30㎝ごとに色の組合せを変えるのである。経糸(たていと)は整経屋さんに、30㎝ごとに色を切り換えるように頼む。特殊な整経だから費用はかさむが、4枚の織り見本を織るより遙かに安く済む。緯糸(よこいと)の色の切り替えは社内の意匠士に指示する。

4通りのデザインを作るのはお節介かも知れない。しかし、比較対照できるものがあれば最終判断しやすいはずだと須永さんは考える。
もともとイメージだけによる発注だから、4枚の試し織りをし、4枚分の請求書を書くことも可能なはずである。しかし、

「お客様だって最終判断をしやすいだけでなく、安くあがった方がいいでしょう」

それが須永商法である。

野村證券のある社長が大阪支店長時代、株式市場の変調を見て取った。株価が大きく下がりそうだ。彼は得意先に、株を手放して金を買うよう説得して歩いた。長年の顧客に、野村證券離れを勧めたわけだ。そして間もなく株価は下落した。金に乗り換えて損害を防いだ客たちはそれ以降、彼を絶対的に信用したという。
筆者が現役記者時代。彼を知る人から聞いた話である。ビジネスにおける信用とは、そんな姿で形成されるものではないか。
業種は違う。しかし須永さんの「顧客ファースト」の姿勢は、筆者の目にはその野村證券社長と二重写しになる。

須永さんのお節介は、それだけではない。織り見本を求められれば、顧客の図案をもとに、ある色をトレンド色に入れ換えたり、全体のイメージを手直ししたりしたものを加える。

「口には出さなくても、新しいデザインの布を生み出すときには『本当にこれでいいのか?』と迷っている人は多い。比較対照できるものをお目にかけることで最終選択のお手伝いができないかと」