「桐生の職人さん」中断のお知らせ(上)

前回の周敏織物で、長く続けてきた「桐生の職人さん」の連載を中断します。

前回までで32社・人の桐生の「技」をご紹介してきました。八方手を尽くして取材したつもりですが、これが桐生の「技」のすべてかといわれると心許ないところがあります。私の目が届かなかったところに、まだまだ技が潜んでいるのではないか? との思いが残ります。そのため「終了」ではなく「中断」とし、これから先、ご紹介したい技に出会えたらその都度取り上げることにします。

「桐生の職人さん」の連載では2つの誤算がありました。
1つは、取材先の探し方です。
桐生に生き続けている織物の技を桐生市役所も把握していないことは「はじめに」で書いた通りです。そのため、新聞記者時代の人脈を頼って探し始めました。
当初は楽観的でした。長年繊維で生きてきた町です。最初の取材先にたどり着けば、あとは

「あなたがご存知の優れた職人さんを紹介して下さい」

とお願いするだけで、いくらでも糸を繋いでいけると思ったのです。

ところが実際に取材を始めてみると、私の楽観はみごとに裏切られました。糸がつながらない。皆さん、さすがに同業の知り合いはあるのですが、業種の垣根を越えた横のつながりが職人さんたちには皆無に近かったのです。日々の仕事をこなせばよい。自分の仕事の垣根から外に出る必要はない、というのが職人さんたちで、仕事の発注先、受注先さえ知っておけば仕事には十分。

「俺と違う仕事をしている仕事の名人といわれてもねえ……」

もちろん、取材先に紹介して頂いた技もいくつかは取り上げました。しかし、ほとんどは記者時代の知り合いに頼るしかありませんでした。

「漏れがあるのではないか?」

という懸念が消せないのはそのためです。だから「中断」します。

2つ目は取材の難しさでした。
織物、編み物は私たちの暮らしになくてはならないものです。裸で外に出ることができない以上、毎日身につけます。ありふれた、どこにでもあるものなのです。そのため、

「いってみれば、ローテク(Low Technology)の世界だろう。繊維に関しては素人の私にだって取材できるはずだ」

と、簡単に考えていました。だって、縦横の糸を交互にくぐらせれば布になるし、糸を絡み合わせれば編み物になるではありませんか。
ところが、実際に取材を始めてみると、それは筆者の勝手な思い込みであったことが次々と明らかになりました。

例えば、紗織り、絽織の喜多織物工場です。かつて工業高校で使われた教科書まで見せて頂き、織り上がった紗織り、絽織の構造は理解できました。ところが、なぜこんな構造を織機で織ることが出来るのかがどうしても分からない。
喜多正人社長は、私の目の前で

「ほら、これを綜絖(そうこう)に取り付ける。綜絖が引き上げられると、ここが上に上がるからこれがこうなって……」

と懸命に説明してくださるのだが、わからない。頭に入らない。なぜもじりができるのか……。

高橋デザインルームでも同じ思いを抱きました。
社長の高橋宏さんは図案を織り組織にする意匠屋さんです。生地の表面に出す糸、その下に敷く糸、下に隠す糸、それを固定するために回す糸。その構造を設計する仕事です。
高橋さんは、それをどうやって設計するのか、熱を込めて説明してくださいました。だが、分からない。分かりたいからいろいろな質問をしました。丁寧に答えていただきました。それでも理解できない。どうしてこんな設計ができるのだろう? 織り上がりが何故こんな布になるのだろう?
高橋さんの学歴は中学卒です。向学心は人一倍ありましたが、家庭の事情が進学を許しませんでした
筆者は大学卒です。それなのに、高橋さんの頭の中で構築される設計図が理解できない。お話を伺ううちに、大卒という学歴が恥ずかしくなりました。学歴で人を区別するのは間違いです。

他の取材先でも同じ思いを持ちました。とんでもない世界の取材を始めたものだと何度も後悔しました。

原稿は、自分が理解した範囲内でしか書けません。32編のレポートは、筆者が理解できたと思えた範囲内でしか書けませんでした。だとすれば、私は桐生の職人さんたちの技を、お読み頂いている方々にどこまでお届けできたのだろうか? と考えざるを得ません。
これが誤算の2つ目です。

金襴を現代に 周敏織物の3

【DNA】
周敏織物の周東拓哉専務は初対面の時、薄いブルーのシャツを着て現れた。筆者だってブルーのシャツぐらい持っている。しかし、私のシャツとどこか違う。
よくよく見ると、ボタンだった。普通使われる白っぽいボタンではなく、ブルーグレーである。それだけでも洒落た色の取り合わせだが、さらにそのボタンの裏を見ると濃い藍色だった。

「お洒落なシャツですね」

と声をかけると、

「そうですか。うーん、でもこのボタンがついていなかったら、このシャツは買いませんでしたね」

という答が戻ってきた。なるほど、専務も色の取り合わせにはこだわりがあるらしい。父から引き継いだDNAなのか。

父・通人さんと違い、拓哉専務は自ら後継者の道を選んだ。大学を出ると4年間、京都の問屋に勤め、繊維についての知識を蓄えた。

「問屋ですから、全国各地の織物が集まってきます。はい、見るだけでもずいぶん勉強になりました」

倉庫には常に1000色以上の糸が揃う。

いま、注文を受けた金襴の色のデザインは、ほとんど拓哉専務が受け持つ。1000以上もある在庫の色は総て頭に入っている。さて、この図柄を金糸、赤、緑、茶、グレーで描くのなら、どの金、どの赤、どの緑、どの茶、どのグレーを選べばいいか?
毎日が色との格闘である。

「実は、私、赤という色が苦手なんです。ほかの色だと、一番いい色目の糸を選ぶのにそれほど苦労はしないんですが、赤だけはどれにするか、いつも迷ってしまう。ひょっとしたら、私は赤が嫌いなのかも。でも、父にも相談はしません。頼っていたらいつまでたっても苦手なままですから。はい、ただいま赤を研究中というところです」

——でも、いくつもある同系統の色から、「これだ!」という色を選び出す技って、どうやって身につけるんですか?

「そうですね。4年間の問屋時代にたくさんの織物を見たことが生きているような気がします。それに、うちは機屋です。迷ったら試しに織ってみる。そんな自由がききますからね。ずいぶん無駄も出しましたが」

多くの取引先が認める周敏織物の優れた色使いはきっちりと受け継がれている。

金襴を現代に 周敏織物の2

【佐賀錦】
佐賀の特産に「佐賀錦」という織物がある。特殊な和紙に金銀の箔を貼り、上下をそれぞれ3㎝ほど残して細かな切れ目を入れて糸のようにする。その間に「あばり」といわれる道具を使って色とりどりの緯糸(シルク)を通して織り上げる。
材料が高価な上、織る工程も総て人手によるから、極めて高額な布となる。帯地や財布、鞄などに使われる。

「高くてなかなか手が出せない佐賀錦を、もっと身近なものに出来ないか?」

と問屋さんが考えたのかどうかは、今となっては分からない。佐賀錦と同じように経糸に金糸を使った織物の注文が周敏織物にきたのである。安くするのだから、金箔を貼った和紙の代わりに金箔を蒸着したポリエステルフィルムを使う。しかも、

「折角だから、緯糸にも金糸を使いたい」

と注文主はいった。こちらも、もちろんフィルムである。

たいして難しい仕事ではない。当初周東敏夫さんは気楽に考えたらしい。ところが、織機を動かし始めて頭を抱えた。経糸としてフィルムを設置すると、織っている間にフィルムがよじれるのである。1箇所でもよじれてしまえばそこだけ光の反射具合が変わり、素人にも分かる織物の傷になってしまう。
糸のように細く、ミクロン単位の薄さのフィルムがよじれないようにする手はないか? 周東敏夫さんは、知っている限りの技を使ってみた。だが、金色のフィルムはまるでいたずらっ子だった。周東敏夫さんの努力をあざ笑うかのようによじれてしまった。

よじれ防止装置。仕組みはよく分からない。

「結局ね、父は経糸が絶対によじれない装置を、自分で工夫して作ってしまったんです。そこまで行き着くのに2、3年はかかったようです」

と周東通人社長はいった。

暴れてどうしようもなかった細くて薄いフィルムをなだめる装置。それはいったいどんな仕組みなんでしょう?

「いや、これは企業秘密でして。それほどややこしいものじゃないから、公開したらマネをされる恐れがあるんでね」

以来、周敏織物は金糸、銀糸を使ったどんな織物でも自家薬籠中のものにしてきた。金襴は周敏織物の得意技である。

ここまで書いて、ふと疑問が湧き出た。周東敏夫さんが織ったのは佐賀錦ではないのでは?
と疑問をぶつけたら、即座に周東通人社長から回答が跳ね返ってきた。

「いや、フィルムの代わりに、金箔を貼った和紙を細く切って経糸にすれば佐賀錦が織れます。父は佐賀錦の機械化に成功したのだと思っています」

金襴を現代に 周敏織物の1

【金襴(きんらん)】
「金襴緞子(きんらんどんす)の帯締めながら、花嫁御料はなぜ泣くのだろう~」
と歌う唱歌「花嫁人形」はある程度の年代以上の方の記憶にこびり付いているに違いない。「金襴」は金糸を使って模様を織りだした布地、「緞子」とは厚地の絹織物のことで、どちらも高額なため、「金襴緞子」は高価な織物の意味でも使われる。
「金襴」は中国・宋の時代に、金箔を張り付けた紙を細く切った金箔糸(「平金糸」という)を緯糸(よこいと)として織り込む技術が開発されて始まり、明の時代に全盛期を迎えた。紙の片側に金箔を張り付けるのだから、反対側は単なる紙である。先染めされた糸ならどこが布地の表に出ようと同じ色だが、金箔糸の裏側が布地の表に出ると単なる紙の色になってしまう。だから金箔糸で模様を描くには、金箔糸は絶対によじれてはならず、高度な技が必要とされた。のちに、糸に金箔を巻きつけた撚金糸(ねんきんし)も開発された。
日本には入宋した禅僧が持ち帰った袈裟や書画の付属品として鎌倉時代に伝わった。室町時代になると交易品として盛んに輸入されるようになる。室町も末期なると明から渡来した技術者の指導を受けて堺で国内生産が始まり、やがて京都・西陣で盛んに織られるようになった。僧侶の袈裟、仏壇に敷く打敷(うちしき)など宗教関連の用途のほか、帯、能衣装、人形の衣装、七五三用の雪駄、掛け軸、お守り袋などに広く使われた。
いまの金襴に使われる金糸は、多くがポリエステルのフィルムに金箔を蒸着したものだ。用途も生活習慣に合わせて広がり、ネクタイ、バッグ、ストール、アルバムの表装などにも用いられている。また、おもに輸出用としてテーブルセンターなどとしての需要もある。

【先駆者】
金襴の織元である周敏織物にはいま、自社工場15台、外注先19台、併せて34台の織機がある。うち22台(自社工場12台、外注先10台)を、高速で布を織るレピア織機が占めている。

普通の織機は、ジャカードからの指令で綜絖(そうこう)が上下して出来た経糸(たていと)の隙間を杼(ひ=シャトルともいう)が走って緯糸(よこいと)を通す。杼を打ち出して経糸の間を走らせるため、杼は一定以上の重さがなければならない。また往復運動になるから、高速化には限度があった。

左右から出て来るレピアは中央で出会う

機屋は、いうまでもなく製造業である。製造業である以上、生産効率の向上は常に頭にある。もっと早く織れないか。だから杼を使う織機も高速化は図られてきたが、この課題を解決したのがレピア織機だ。
レピア織機に杼はない。織機の両側に、刀の先のような形をした「レピア」と呼ばれる部品があり、片側のレピアが緯糸をつかんで織機の中央部まで走る。反対側から出て来たレピアがこの緯糸を受け取って元の場所に戻る。この繰り返しで布を織る。普通の織機に比べれば、布を織る速さは数倍に上がる。
もちろん、いいことばかりではない。普通の織機に比べれば高価なのである。

縫製業→ブランドメーカー ナガマサの3

【素人】
東京の繊維問屋、桐生の縫製会社を経て、父・正さんが「長正商事」を興したのは昭和40年前後だった。長谷川博さんはその次男である。

「そもそも兄がいますし、家業を継ごうなんて思いもしなかった。大学を出たら広告代理店の仕事をしたかったんです」

ところが、就職活動で訪れた東京のアパレルメーカーのショールームが人生を変えた。

「ディスプレーされた服が何とも格好良く見えて。よし、この会社に入ろうと広告代理店コースを捨てました」

仕事は営業。入りたくて入った会社である。最初は楽しかった。ところが3、4年たつと違和感を感じ始めた。

「時折帰省すると、なんかホッとするようになったんです。あ、私、都会生活に疲れている。そもそも都会暮らしに向いていないんだと」

5年で会社を辞め、桐生に戻って家業を手伝い始めた。だが、戻ってきた次男を見て、父・正さんはいい顔をしなかった。

「日本ではそろそろ縫製業は成りたたなくなっている。お前はまだ若い。なんでこの仕事に入るんだ?」

父の話は聞き流した。長谷川さんには勝算があったのだ。東京で働いた5年でアパレル界にネットワークがある。それを活かせば何とかなる。

正さん会社を閉じる準備を始めた。博さんは営業に回った。思った通り、ネットワークは活きた。取れた仕事は父の会社ではなく、外注先に廻した。「長正」の名前を出すと、どこも喜んで引き受けてくれた。順調な滑り出しである。

「博さん、こんなの縫えないよ」

そのうちクレームが出始めた。そんなことはないだろ? ミシンがあれば何でも縫えるはずだ。

「あんた、縫製を知らないのか? こりゃあ縫えないんだよ」

考えてみれば、自分は縫製という仕事をしたことがない。だから、縫えないという職人さんを説得する言葉を持っていない。

「縫製を覚えよう」

父の工場で働いていたベテランの職人さんに弟子入りした。なるほど、縫製とはこのような仕事かと知ったのは、この時が初めてである。

「確かに、厚物、薄物、布帛、カットソーなどそれぞれに専門のミシンがあって、裁断の仕方によっては縫えないところもあるって初めて知りまして」

それが分からなかったから、アパレルから頼まれれば何でも引き受けていた。これでは外注先に

「これ、縫えない」

といわれても仕方がない。

「当時の私は、ミシンが1台あればどんな縫製でもできる、と思っていた素人に過ぎなかったわけです」

外注先を説得するために始めた縫製が、いつしか面白くなった。やがて父・正さんは会社を閉じた。2009年、長谷川博さんは自分の会社「ナガマサ」を起業して自前の工場を持った。