「星」にかける 高橋デザインルームの3

【遊び】
商用でヨーロッパに行ってきたという問屋さんから

「これ、お土産」

と紙包みをもらったのは、日本が2度の石油危機からようやく脱しようかという頃だった。開けてみると、有名なゴブラン織りのタペストリーだった。ゴブラン織りは15世紀、パリのゴブラン家が始めた。緯糸(よこいと)を織り幅全体に通さず、紋様の部分だけに使って多様な絵柄を表現する特殊な織り方だ。使われている糸は太く、分厚い織物である。17世紀から18世紀にかけてフランスに君臨したルイ14世はゴブラン工房を買収、外貨を獲得するための戦略商品に育てた。

タペストリーは部屋の装飾品である。普通なら壁に掛けて楽しむ。しかし、高橋さんはちょっと違った。初めて目にする織物に、

「どんな織り方をしてるんだろう?」

と興味を惹かれてしまったのだ。思い立ったら止まらない。意匠紙を引っ張りだし、せっかく頂いたゴブラン織りを拡大鏡でのぞき込みながら1本1本ほぐし始めたのである。

「なるほど、こんな織り組織を使っているのか」

使われていたのは経糸が5色、緯糸が3色に加え、緯糸がばらけるのを抑えるためにほとんど透明に近い糸が使われていた。その織り組織を、高橋さんは意匠紙に書き写し始めた。絵柄も写し取ったのはもちろんである。
(もっと美しい画像を見たい方は右をクリックして下さい。ゴブランのコピー_NEW

流石にフランス伝統の織物である。織り組織は複雑を極めた。それを1つ1つ写し取る。頼まれ仕事を終えた後の作業だったとはいえ、完成までに5、6年もかかってしまった。

ここまで作業が進めば、

「この意匠図で、本当にこの織物が織れるのだろうか?」

と考えるのは人情だろう。高橋さんは知り合いの機屋さんに

「織ってもらえないか」

と頼んでみた。だが、フランスで織り上げられたこのゴブラン織りを織れる織機を持った機屋さんはいなかった。長年かかって意匠図、組織図を書き上げたのに、高橋さんのゴブラン織りコピープロジェクトは、お蔵入りにするしかなかった。

一度は断念した。しかし、

「何とかならないか?」

という思いは、喉に引っかかった魚の小骨のようにしつこく、なかなか取れてくれなかった。

「そうか、桐生でも織れるような意匠紙を描けばいいんだ」

と思いついたのは2004年のことだ。今度はコンピューターが使える。絵柄をコンピューターに読み込み、オリジナルとは違う織り組織を入力した。緯糸を8色使い、45色を表現する。使った織り組織は360にも上った。出来上がると、機屋さんに織ってもらった。

これが高橋さん作のゴブラン「風」織りである。本物を写し取ったのだから絵柄は全く同じ。しかし、筆者の目には「風」の方が本物より美しく、鮮明に見えた。
2枚の写真は、同じ日に、同じカメラで撮り、Mac付属のソフト「写真」で鮮明度などを全く同様に上げたものである。
(これも美しい画像をご覧になりたい方は、右をクリックしてくっださい。高橋作

余りの違いに、思わず聞いてみた。

——このフランス産のゴブラン織りは日に焼けて褪色してはいませんか?

いえ、きちんと仕舞っていますので、いただいたときと同じ色です」

高橋さんはこともなげに言った。

「星」にかける 高橋デザインルームの2

【手織色留袖】
その注文が、高橋デザインルームの高橋宏さんに舞い込んだのは1980年前後だったと記憶する。

「何でも、屏風の絵を留袖にするんだそうだ。あんた、星紙(意匠紙)をやってくれんかね」

話を持ち込んだのは意匠屋仲間である。反物(和服の生地)の意匠を得意としている人だった。高橋さんは洋服地などになる広幅専門で、幅が狭い反物はやったことがない。留袖にするのなら反物だろう。それを、なぜわざわざ私に? 自分で引き受ければいいじゃないか。だが、高橋さんは交渉ごとが得意ではない。あれこれ言ってはみたが押し切られた。

紅花屏風の一部

詳しい話を聞いて驚いた。留袖の紋様にするのは幕末の狩野派の画家、青山永耕の作「紅花屏風」で、山形県の有形文化財に指定されている。最上紅花は江戸時代の山形県の特産で、屏風絵は紅花の生産から流通までの過程を描いたものだ。それをもとに京都の図案家が図案に起こし、米沢市に伝わる高級織物「無双絵羽織」の唯一の伝承者・戸屋優さんがジャカード織機も使いながら手織りするのだという。そんな超一流の技の持ち主が力を合わせる事業に私が参画する?
身が引き締まった。

前回書いたように、織物の柄は同じものを繰り返すことがほとんどだ。だが、元が屏風絵だから繰り返しは1回もない。

「これは大変なことになった」

と思う。それに、日頃注文を出してくれる機屋さんの仕事もこなさねばならない。勢い、屏風絵の意匠紙づくりは日常的な仕事を終えた夜になる。まだ意匠の世界にコンピューターが入る前である。受け取った図案を投影機で意匠紙の上に拡大投写し、1マスずつ写し取っていく……。

「人が40人ほどいる細かな図案でね。ええ、休みも何もあったものじゃない。ほとんど徹夜続きで」

高橋さんが作った意匠図の一部

1着分の意匠紙を仕上げるのに1年かかった。高橋さんの意匠紙を元につくられた紋紙は6万6000枚に上った。1枚ずつ積み上げれば約4.5mの高さになる。しかも、高橋さんが引き受けたのは2着分。紋紙を積み上げれば3階建ての住宅の屋根の高さだ

戸屋さんは3年がかりで織り上げた。1985年9月、東京・銀座のギャラリーで織り上がった留袖の展示会が開かれた。高橋さんが招待されたのは言うまでもない。

「あの留袖は売るつもりはないということでしたが、買うとしたらいくらするんでしょうね。1000万円? 2000万円? 私には分かりませんが」

「星」にかける 高橋デザインルームの1

【意匠】
広辞苑第三版は、「意匠」を
・工夫をめぐらすこと。趣向。工夫。・美術・工芸・工業品などの形
・模様・色またはその構成について、工夫をこらすこと。また、その装飾的考案。デザイン。
と説明している。しかし、広辞苑編纂者の調査は繊維の世界までは及ばなかったようで、繊維業界でいう「意匠」は、この定義からややはみ出す。
織物の世界の「意匠」は、デザイン画(「図案」という)を、織機で織れる組織図に変換することをいう。外観、内装のイメー画をもとにビルの設計図を描く建築設計士に似た仕事ともいえる。

左の図のように、織物の柄は同じものが繰り返されることが多い。図案はその1単位、この図でいえば罫線で囲まれた1つのマスを描いたものだ。
意匠屋さんは1単位の図案を受け取ると、その上に透明のパラフィン紙を置き、図案の四隅に印をつける。そしてこれを折りたたんで筋目をつける。図案の上に罫線を乗せるのである。

次に、図案の4倍ほどある罫紙(「意匠紙」という)に、パラフィン紙の罫線を頼りにこの図柄を写し取る。パラフィン紙の1つのマス目に

左のような線があったら、意匠紙の該当するマス目に同じ線を描き込む。マス目を頼りに図案の拡大図を描くわけだ。出来上がったものを「前図」という。「前図」は線描画で、まだ色は付いていない。

一徹 喜多織物工場の3

【化学少年】
喜多さんは「凝り性」である。1つのことを始めると、まるで取り憑かれたかのように熱中してしまう度合いが並外れている。

機屋の長男に産まれたから、いずれ繊維関係の仕事をするのだろうと桐生工業高校紡織科に進んだ。だが、繊維関係ではもっぱら染め屋さんの領分である化学に取り憑かれる。部活動で化学部を選ぶと代々染め屋という友人ができ、

「2人で、文化祭での研究発表用に桐生川が染色に及ぼす影響を研究しよう」

と話がまとまった。

織都桐生は全盛期。市内東部を流れる清流、桐生川には友禅流しをする染め屋さんの姿が絶えなかった。染まっては困る所に糊を置いて染める友禅染では、染め上がれば糊を洗い落とす。その作業が友禅流しである。

ちょうど1年間、1日も欠かさずに桐生川で水を汲み、分析した。

「俺どんな結論を導き出したのかはもう忘れちまったけど、あれですっかり化学が好きになってね。よし、高校を出たら東レや帝人など、化学繊維を作っている会社に入ろう、必要だったら大学にも行こう、と思い始めたんだよ」

だが、家の事情が許さなかった。喜多織物工場を創業した父・英太郎さんは人望があり、いつしか同業者たちのリーダーに担ぎ上げられて家業に割く時間がなかなか取れなくなっていた。

「卒業したら家の仕事を手伝ってくれ」

となったのも、やむを得なかった。
決して本意ではなかったが、喜多さんが志望通りに東レや帝人に入っていたら、喜多織物工場が産み出す最高級の紗織り、絽織りは存在しなかった。何が幸いするか。人生とは先が見通せないから面白い。

 【紗織り】
知り合いの機屋さんから

喜多織物工場は広幅の紗を織る。

「広幅の紗織りをやってもらえないか」

と頼まれたのは、喜多さんが30歳になろうかというころである。それまでの喜多織物工場は広幅の生地を織っていたが、紗織りはやったことがない。しかも、幅40㎝ほどの着尺ならともかく、難しさが数倍の広幅だという。
戸惑う英太郎さんに

「やってみようや」

と言ったのは喜多さんだった。広幅の紗織り。難しいといわれるが、なーに、やっている機屋さんがあるじゃないか。学校の授業で教わった記憶がある。あの教科書を引っ張り出せば何とかなるはずだ。
それまでも捌ききれないほど注文はあった。だから、あえて不慣れな紗織りを引き受ける必要はなかった。それでも、

「やってみたい」

と思ったのは、いつしか育っていた、仕事を極めたいという「凝り性」が頭をもたげたからかもしれない。

一徹 喜多織物工場の2

【古い】
喜多織物工場には8台の織機がある。最新型の高速織機は1台もない。導入する金が惜しいのではない。高速織機なら生産性が数倍に跳ね上がることも知っている。

ところが。

「この、古い織機じゃなきゃあ織れないんだよ、私の紗織り、絽織りは」

どんなものでも、ゆっくりとこすり合わせればたいした変化は起きないが、こすり合わせる速度が上がると熱を持ち、傷が付く。何度も糸同士がこすれ合うもじり織りでは、高速織機では糸が切れやすくなるのはたやすく分かる。切れなくても、糸に傷がついて毛羽が立つ。どちらも生地の傷につながる。

その上、高速織機は織り上がった生地を高速で巻き取っていくから経糸に強いテンションがかかる。通した緯糸を櫛の歯のような筬(おさ)で締める「打ち込み」にも強い力がかかる。

「それで、高速織機を使うと仕上がった生地が固くなっちゃって風合いが損なわれるんだな」

新しいものが全ての面で優れているとは限らないのだ。

喜多織物工場が「最新型」でないのは織機だけではない。
「紗織り」の解説に引用した工業高校用の教科書は昭和30年(1955年)に出版されたものだ。その教科書では、もじり織りには「もじり綜絖」を使うと書いている。だから解説にもそう書いた。
ところが喜多織物工場に関する限り、この解説は誤りである。喜多さんは、もじり綜絖は使わない。
いや、一度は、

「最新式」

の言葉に惹かれて購入し、工場の織機にセットして使ったことがある。だが、

「これは使えないわ」

とやめてしまった。やめて、古い伝統的な手法に戻った。

金属で出来た「もじり綜絖」は厚みがある。それを綜絖に取り付けるから、経糸同士の間隔が広がってしまう。織り上がってみれば密度が薄い、等級が下がる紗織り、絽織りにならざるをえない。喜多さんは、それを嫌った。

代わりに使うのはふるいの糸、ふるいの板、ふるいの棒の3点セットである。「もじり綜絖」が世に出るまで使い続けられた伝統的な手法だ。金属の代わりに糸を使うから経糸の間隔を極限まで縮めて密度の濃い紗織り、絽織りを仕上げることができる。

織機と手法。二つの「古さ」が最高級の紗織り、絽織りを産み出す。