確認、確認、確認 今泉機拵所の2

【見よう見まね】
家業を手伝い始めたのは中学3年の頃だった。当時の今泉家には広い田畑もあった。機拵えを手伝い、仕事に空きができると百姓仕事に精を出す。今泉さんの職業生活はそんな始まり方をした。

「百姓仕事の方が良かったよ。だってお日様が隠れると仕事が終わる。あとは風呂に入って飯を食えば1日終わり。機拵えの方は夜の10時頃まで続くからねえ」

とはいえ、主な仕事は機拵えである。父母、兄姉と一緒に作業場に入る日の方が圧倒的に多かった。

仕事はまず、機屋さんに渡された設計図を読むことから始まる。何本のワイヤリューズがあるジャカードを使うのか。織る布の幅はどれほどか。その横幅の中で紋様の繰り返しは何回か。

紋様の繰り返しが8回なら、ワイヤリューズの先に付くナス管1つから8本の通じ糸が下がる。4本の通じ糸をちょうど真ん中で束ねてよじり、結んで輪っかを作る。よじるのは輪っかの部分で通じ糸がばらけないようにするためだ。その上、ここをニスで固める。1008本のワイヤリューズが出ているジャカード用なら、1008組の通じ糸の束を作る。

この器具がジャカードの代わりになる

作業所には、1008本のワイヤリューズとナス管が出ている器具が天井近くに設置してある。ジャカードの代わりである。この1008本のナス管に、用意した通じ糸の束を引っかけていく。
それが終われば、1008×8=8064の穴が空いた目板に、通じ糸を1本ずつ通す。最も神経を使う作業工程である。

ナス管からは左右に4本ずつ通じ糸が出ている。この4本が絡まっていると、織機での1分回に数百回の上下運動で糸同士がこすれあって切れてしまう恐れがある。

さらに、通す目板の穴を1箇所でも間違えれば、ジャカードからの司令が違った綜絖に伝わることになる。ジャカードは経糸Aを引き上げよ、と指令を出すのに、実際に引き上げられるのは経糸Bになってしまっては、布は織れない。

正確さ。それが機拵えという仕事のAでありZなのだ。

だから、今泉さんに聞いてみた。

——仕事を始めた頃、お父さんからは、「間違えちゃいけない」って、随分しつこく言われたでしょ。怒鳴られたりしませんでした?

今泉さんはひょうひょうと答えた。

「いや、仕事は何にも教えてくれなかったね。私に任せっきり。自分も見よう見まねで始めたから、私も勝手に覚えるだろう、と思ってたんじゃないかな。もともと単純な仕事だしね」

確認、確認、確認 今泉機拵所の1

【架物(かぶつ)】
布の模様を自動的に織り出すジャカード織機の司令塔は、織機の最上部に取り付けられたジャカードである。ジャカードは紋紙の穴を読み取り、どの経糸(たていと)を引き上げるのかの指令を次々に出し続ける。
だが、ジャカードがいくら指令を出しても、それを織機に伝える仕組みがなければ意味がない。この、ジャカードが出す指令を織機に伝える仕組みを「架物」という。
広辞苑第三版で「かぶつ」を探すと、「下物」「果物」「貨物」しかなく、「架物」は出て来ない。
ネットで検索すると1件だけヒットした。桐生市のホームページに「桐生織物の製造工程」があり、その11番目の工程「機拵(はたごしらえ)」の解説に「架物」が登場するだけで、他にはない。毎日布で体をくるみながら、その布が出来る過程には余り関心を払わないからだろうか。耳慣れない言葉である。
ジャカードには普通、1008本の「ワイヤリューズ」と呼ばれる針金が下がっていて、その先にJ字型の「ナス管」が付いている。大型の本板ジャカードと呼ばれるものはワイヤリューズが約1300本に増える。

薄茶色の通じ糸、通じ糸に結びつけられるのを待つ綜絖。今泉さんの仕事場は色彩あざやかだ

この「ナス管」に引っかける「通じ糸」と呼ばれる糸が「架物」の本体である。いまでは日本で「通じ糸」に使う糸を製造するところはなくなり、全てスイスからの輸入に頼っている。撚り糸と、価格がその3倍はする組紐の2種類がある。撚り糸は伸びやすく、組紐は伸びにくい。経糸(たていと)を上下に分ける綜絖(そうこう)へジャカードの動きを正確に伝えるには「通じ糸」は伸びないにこしたことはない。しかし、どちらを選ぶかは「架物」を発注する機屋さんの選択である。
織物は繰り返しの絵柄が多い。例えば幅120㎝の織物で、同じ絵柄が横に8回繰り返されるとする。その場合、1つのナス管に8本の「通じ糸」が取り付けられ、「目板」と「呼ばれるたくさんの穴(ジャカード全体から下がる通じ糸の数と同じであることはもちろんである)があけられた板の穴を通して綜絖の上につけられたカタン糸に結びつけられる。これでジャカードからの1つの司令で8回繰り返す絵柄が一度に織れるようになる。

目板の穴に通す通じ糸は絶対に間違ってはならない

この穴に通す通じ糸を1本でも間違えると織柄に傷が出来る。1008本のナス管に8本ずつの通じ糸が下がれば総数は8000本を越す。絶対に間違わないように糸を導く仕事は神経が張り詰める。
また、通じ糸をカタン糸に結ぶ際、1回結びにすると通じ糸の先端が上を向く。綜絖が上下しているうちに、この上を向いた先端が隣の経糸を持ち上げてしまう事故が起きることがある。2回結びにすれば糸の先端を下に向けることが出来るが、時間が3倍はかかってコストが上がる。収縮チューブで結び目を覆えばもっと安全だが、コストがさらに跳ね上がる。安全をとるか、安さをとるかも機屋さんにかかっている。
織機に取り付けたとき、綜絖はきっちり同じ高さに揃わなければならない。「架物」を作る仕事を機拵え(はたごしらえ)というが、通じ糸の長さ調整して綜絖を並べるのは機拵えさんの腕の見せ所だ。
機拵えさんは作業場で作った「架物」を注文主の機屋さんに持ち込み、織機に設置する。現地で通じ糸の長さを最終調整するのはいうまでもないが仕事はそれだけでは終わらず、設置した綜絖1本1本に経糸を通し、さらに緯糸を手前に寄せる櫛のような形の筬(おさ)の羽の間を通して完了する。

SDGs 岡田和裁研究所の3

【共衿の回し掛け縫い】
東京で和裁の基礎を身につけて戻った成雄さんは、桐生に戻ると両親、なかでも五三さんからより高度な技をみっちり仕込まれた。全国でも最高ランクの和裁士で、技術のすべてを公開して多くの後進を育ててきた五三さんの教えは厳しかった。縫い上げて

「これでいい」

と思っても、五三さん目に不充分に映ったものは

「直せ」

と突き返された。五三さんの審査を通るまで裁縫仕事が続く。時計の針が12時を回ることが当たり前の日々が続いた。

「お前は、やがては私の後継者として岡田和裁研究所を率いる。技でも人の器量でも抜け出なければならない」

という愛の鞭だったのだろう。おかげで技はメキメキ上達した。それを見て安心したのだろう。五三さんは数年後、岡田和裁研究所を成雄さんに任せ、少し離れたところに和裁教室を開いて経営し始めた。

成雄さんはこんな姿勢で運針を続ける

五三さんは指折り数えられる和裁の名人であり、改革者である。父の技をひたすら守り伝えていく、という生き方も成雄さんには可能だったはずだ。それでも和裁の名人と呼ばれるには十分だったろう。
だが、優れた職人は止まることを拒む。今を越えようという意思を職人魂という。

成雄さんが現代の名工に選ばれたのは「共衿(ともえり)の回し掛け縫い」という新しい技法を開発したからである。

和服を楽しまれている方々は、衿が二重になっていることをご存知のはずだ。衿は着物の中でも一段と目立つ場所にある。ところが、汗や化粧で汚れやすい場所でもある。だから、地衿と呼ばれる衿本体の上に、地衿と同じ生地で少し短い共衿をつける。汚れれば共衿を取りはずしてそこだけ洗えばよい。和服の知恵である。

目立つ場所だから、縫い目を見せてはならない。だからそれまで、共衿の端を少し折って地衿の上に置き、折り込んだ部分と地衿を縫い付けていた。針は共衿の下に隠れて見えないから、指先の感覚と勘だけが頼りの難しい縫い方だ。熟練者でも針が斜めに入る「流れ針」や、共衿の上に糸が出てしまう「白針」という失敗をしがちだった。

「こうしたら簡単に縫える」

と思いついたのは、第1回技能グランプリへの出場を考えていた昭和57年(1982年)のことだった。

「裏返して縫えばいいじゃないか」

布で袋を作る事を考えていただきたい。1枚の布を2つに折り、両端を縫えば袋になる。この時、表地を外にして縫う部分を折り込み、折り込んだ部分を縫うのと同じ作業がそれまでの共衿の縫い付けだった。
しかし、裏地を外にして両端を縫い、縫い終わったらくるりとひっくりかえせば縫い目は見えない。共衿も同じ縫い方にすればいい。これなら、運針の基本さえできていれば、誰でも共衿をつけることができる。

恵子さんは近くの小学校で和裁を教えたことも。

あとで解釈すれば簡単なことかも知れない。だが、1000年を越える和服の歴史で、成雄さんが初めて考えついた画期的な技なのだ。
こうして成雄さんは、五三さんに続いて現代の名工に選ばれた。同じ和裁士として研究所の運営に力を合わせてきた妻恵子さんの力添えがあったのはもちろんのことだ。

SDGs 岡田和裁研究所の2

【美容仕立て】
後継者の育成法を根底から刷新した五三さんである。和裁の技にも数々の改革を編み出したのは不思議ではない。針を持ちながら、より速く縫え、仕立て上がりが美しく、身につけて優美な和服にするにはもっといいやり方があるはずだ、と考え続け、アイデアが浮かぶとやってみた。こうして五三さんが新しく産み出した技は数十に上る。

中でも特筆すべきは「美容仕立て」である。

洋服は体型に合わせて仕立てるが、和服は体型に応じて着付ける。それが当たり前だった。だから和裁の採寸は大雑把で、例えばふくよかな女性用は男性用の寸法で済ませていた。それで長すぎればたくし上げて紐で縛り、帯で隠す。横幅が大きすぎれば脇の部分をたくし込んで帯で強く締め付ける。どうしても着崩れが起きやすいが、

「和服はそんなもの」

と誰もが思って疑わなかった。

だが五三さんは、

「和服も体型に合わせれば、より美しく装うことができ、体の動きも楽になるはずだ」

と考えた。戦後急速に普及した洋服からの影響もあったのかもしれない。

美容仕立ての採寸表

五三さんは伝統という強固な殻から和服を救い出し、新しい美を和服にもたらそうと考えたのである。コルセットなどからの締め付けから女性の体を解放することとファッション性の両立を目指したといわれるデザイナー、ココ・シャネルに通じる哲学を、五三さんは自力で構築した。和裁にかけた熱意の成果である。

美容仕立ての研究は戦後間もなくスタートし、形になったのは昭和40年(1965年)のことだ。採寸はバスト、ヒップ、身長、裄(ゆき)、首回り、褄下(つました=衿の先から裾までの長さ)と多岐にわたる。これらを数値化して表にまとめた。依頼主の体型を採寸すれば、その人に最もフィットした和服を仕立てられるようにしたのである。

(こちらから、pdfで採寸表を見ていただけます。美容仕立て_NEW

しかも、五三さんは「美容仕立て」を含む自分の技をすべて公開した。文書にまとめたものもある。講演を依頼されれば演壇に立ち、技術指導を求められれば喜んで教えた。いまでは「美容仕立て」は全国に広がり、和裁の基本技術の1つである。

いまでも使われている教科書

昭和50年代、労働省認定の和裁教科書「和服裁縫」上下2巻と別巻を、編集委員長として7年がかりでまとめ上げたのも五三さんである。いまでも全国の和裁教習所で入門者から習熟者にまで広く使われているのは、基本から高度な技まで、五三さんが学び取り、開発してきた技術の総てが注ぎ込まれているからだろう。

SDGs 岡田和裁研究所の1

【和裁】
和服を仕立てる一連の工程である。かつて和服は反物の状態で販売され、それを自宅で仕立てるのが一般だった。そのため、第2次世界大戦前までは和裁は女子教育の必須科目だった。しかし、敗戦後は生活全般が洋風化して和服が日常着ではなくなったため家庭内での和裁はほぼ途絶え、いまでは専門職になっている。
反物は通常、幅9寸5分(約36㎝)、長さ3丈(じょう=約12m)で販売される。これで大人の女性の着物1着分である。
仕立てるには反物を裁断しなければならないが、体の線に沿うように曲線を使って立体裁断する洋服と違い、和服のパーツは総て長方形である。そのため型紙はなく、布目に合わせて総て直線に切断する。体が小さくて布が余る場合も一切切り落とさずに縫い込んでおく。成長に伴って着物が小さくなれば仕立て直して大きくなった体に合わせる。つまり、曲線に裁断する洋裁では無駄な端切れが出るが、和裁では捨てる布は全くない。衣服に関する究極のエコシステムである。
世界はいまの時、SDGs(Sustainable Development Goals=持続可能な開発目標)を求めている。ファッション、衣服は時代の要請を写し取って変わってきた一面がある。無駄を一切出さない和服、和裁のシステムが脚光を浴びる時期がやがて来るのではないかと筆者は考えるが、いかがだろう?
希にミシンを使うこともあるが、基本は手縫いである。和服はかつて、縫い目をほどき、パーツの状態にして洗濯した。ミシンの縫い目はほどきにくい。手縫いはその名残ともいえる。また、布を大事にするための仕立て直しをシステムに取り込んでいる和裁では、縫い目が容易にほどけなければならないことも手縫いの理由である。
縫い目をできるだけ見せない技を使うのも和裁の特徴とされている。

【先代】
岡田和裁研究所を語るには、古い話から始めなければならない。

故・岡田五三(ごぞう)さんがこの研究所を創立したのは、昭和17年(1942年)のことだ。群馬県吾妻郡に生まれ、6歳で岡田流裁縫術の創始者で名人と称されたおじ、桐生の岡田長太郎さんの養子になった。おじが経営する岡田裁縫塾の生徒として厳しい修行が始まったのは昭和6年(1931年)、14歳の時である。「目で見て、頭で覚える」のが職人の技の伝承だった時代、五三さんは大事だと思ったことはトイレでメモし、みなが寝静まる夜中に清書し手残した。文字に起こすとは、断片的な知識の間に論理というロープを張り巡らして知識を体系化することである。この努力が後に和裁に改革を起こす基礎になったことは疑いない。