デザイナーの作り方 片倉洋一さん 第1回 工学部卒

たった2本の糸でできたジュエリー、「000(トリプル・オゥ)」の産みの親であるデザイナー、桐生市の刺繍会社「笠盛」に勤める片倉洋一さんは一風変わった経歴の持ち主だ。

日本の大学を出るとロンドンに飛び、4年半、デザインとテキスタイルを学んだ。デザイナー志望者は多くそんなルートを選ぶ。別に珍しくはない。

パリ、スイスで最先端のファッション、テキスタイルを創り出すスタッフとして実績を積んだ。これも、ファッションの世界を目指す若者には、いわば定食コースみたいなものだ。

日本に戻ると、群馬県桐生市の刺繍会社「笠盛」を訪れ、笠原康利会長(当時社長)によると、まるで押し売りのように自分を売り込んで社員になった。確かに、人並みを越した積極性ではある。だが、

「この会社で働きたい!」

と思い定めたら、誰しも積極的になる。片倉さんはその度合いがやや強かっただけだろう。

では、どこが一風変わっているのか。
学歴である。

片倉さんは東海大学工学経営工学科を出た。人間工学、生産管理、コンピューターなどを学んだ。デザイナーには、まずない出身学部である。

卒業と同時にロンドンに向かったのは、学生時代に沸き上がった、ファッションの世界でものづくりをしたいという情熱に駆られたからだ。ロンドン芸術大学のチェルシー・カレッジに身を落ち着けた。デザイナーを目指して、順調な滑り出しだと思えた。
だがここで、片倉さんは挫折しかかる。

「周りの学生は、早くからデザインを学んできた人ばかり。デッサンの基礎もきちんと身についている。ところが僕は工学部卒でしょ? デッサンなんかやったことがない。ここはアート&デザインの学校だから、自分が日本の大学で学んできたことは役に立たない、認めてもらえないとしか思えなかった。これはついて行けるのかな、って自信を失って……」

ある個別指導の時間。ふと、大学時代のことを話した。「人間工学」「システムデザイン」を専攻し、数学が得意なんです……。それは愚痴だったのかもしれない。

「ああ、そうなんだね」

といってもらえる程度の話だと思っていた。ところが、話を聞いてくれていたケイ・ポリトヴィッツ(Kay Politowicz)学部長がこの話に食いついた。質問攻めにあった。それは何を学ぶ学問か。どんな実績を残したのか。あなたが得意だったのは……。そして、こう言ったのである。

「工学とデザインがうまくつながったら、洋一らしさになるね」」

考えてもみなかったことだった。

「そうか。私はデッサンはできないが、工学、数学が分かる。デザインの勉強しかしてこなかった人たちはそんなものを持っていないはずだ!」

片倉さんが生み出した「000」のスフィアシリーズは、刺繍ミシンの上糸、下糸のたった2本の糸で「珠」の連なりを作る。「000」のネックレスも、ほどけばたった2本の糸に戻る。
刺繍は2次元のものであると、ずっと思われてきた。その常識を覆して3次元の「珠」を創り出したのが片倉さんである。そして糸がジュエリーになった。
「珠」をつくるには、ケミカル刺繍という手法を使う。水溶性不織布に刺繍をし、あとでこの台紙を溶かして刺繍だけ残すのだ。糸を止める生地がなくなるから、糸の絡め方、束ね方に工夫をしなければならず、布に施す刺繍に比べて数十倍、数百倍の計算をして初めて設計図が描ける。
その上、「珠」は立体である。平面のケミカル刺繍のプログラミングを住宅の設計図に例えれば、「珠」を作るためには超高層ビルの設計図を描くのに等しい計算量が必要になるという。

「私は数学ができました。コンピューターも分かります。そうでなかったら、刺繍ミシンで『珠』を作ることはできなかったでしょう。自分が持っているものを使え、というケイの教えがなかったら、『000』はできていなかったはずです」

デザイナーとはどんな人? と問われて、

「ファッションセンスに優れていて、自分が思いついた新しいファッションを図案にできる人」

と答える人も多いだろう。だが、片倉さんは図案を描くだけの人ではない。発想があり、それを技術が支えて形にするデザイナーである。そして、自分たちが創り出したものが多くの人に役立ち、喜んでもらえることを常に頭に置く。プランナー、クリエーターとも呼びたくなるデザイナーである。そうでなければ「000」は産声を上げてはいなかった。

数学と物理が得意なデザイナー。その片倉さんの解剖を試みる。

写真:自分が創り出した「スフィア」を手にする片倉さん

「桐生の職人さん」中断のお知らせ(下)

話は変わります。桐生は極端なほど分業化が進んだ織物の町です。大企業は自社工場に染色から織りまでの一貫生産体制を築いてコストダウンを図ります。桐生にもかつて、一貫生産の大企業を作ろうという試みはありました。結局うまく行かず、近代化の波に乗ることができないままいまに至っています。
大工場がうまく行かなかったのは手を組んだ相手の裏切りなど様々な原因があったようですが、その1つに

「一国一城の主にならねば男ではない!」

という桐生気質があるような気がします。どこかに勤めて布の生産に関わるよりも、技を覚えたら独立して自分の会社を持つことが当たり前のように続けられてきたのが桐生です。そんな桐生は

「石を投げれば社長さんに当たる」

町です。
結果として中小零細企業の集まりとなった桐生を、時代に取り残された町と切って捨てることもできます。
しかし、近代化に乗り遅れることはマイナス面だけしかないのでしょうか?

一貫生産の大工場では、職人さんは企業の歯車のひとつです。年々革新される生産技術を活かして合理化は進むでしょうが、「技」への執着は減るのではないか。決まり切ったことを日々こなせば毎月決まった額の給与を得て暮らしていける。自分の技をもっと磨こうという思いは、ともすれば薄くならざるを得ないのではないでしょうか。

分業化が極端にまで進んだ桐生では、1人1人の職人さんには近代技術を取り入れる資金のゆとりがありません。自分の腕、技だけが頼りです。少しでも手を抜けば取引先を失うでしょう。いや、手を抜かないだけでなく、受け継いだ技を守り、それに工夫を加えて技を磨き上げなければ競争からはじき出されてしまう厳しい環境で仕事を続けてきました。他より一歩でも先に出なければ経営が、暮らしが続けられないのです。こうして桐生で生き残っている職人さんは技を磨き続けた結果、桐生はあらゆる繊維の技が生き残っている世界でも希有な町になったのだと思います。桐生は繊維の技の宝庫です。

しかし、それだけでいいのか。筆者の目に桐生は過渡期にあるように見えます。自分の技さえ磨けば生き残ることができる時代は終わりつつあるのではないか。当初は賃金の安さだけで日本の繊維産業から仕事を奪ったアジア諸国も、いまや技術も相当向上したと聞きます。このままでは桐生の仕事が減り、職人さんたちは廃業を迫られ、大切な技が途絶えてしまうのではないか。

「『桐生の職人さん』読んでますよ」

とい言ってくださった桐生の方がいました。取材対象にはしなかった繊維関係の方です。次に出て来た言葉に考えさせられました。

「でも、読めば読むほど寂しくなるんです」

寂しくなる? そんな原稿を書いた覚えはありません。何故です?

「高齢の方ばかり出て来るじゃないですか。若い人の姿がない。このままでは技が途絶えてしまいます」

いわれてみればその通りです。それはもったいない、いや、それを許してしまうのは日本にとって損失だ、と筆者は思います。
では、どうすればいいのか? 取材しながら、何度も考えました。技はある。足りないのは何か?

「生きている技の活用法を考え、技と技との組み合わせ方を考えて新しいものを創り出すコーディネーターではないか?」

筆者が到達した仮説です。
しかしいま、日本の繊維産業は衰退期にあるといいます。力のあるコーディネーターは払底しているのかもしれません。とすれば、桐生の繊維産業に携わる方々が自力で未来を切り拓くしかありません。そのためには井の中の蛙になって葦の髄から天井を覗く生き方を変えなければなりません。仕事、業種を超えた幅広い人脈を作り、議論をし、アイデアを出し合い、自分たちの進む道を見出さなければなりません。

広く世界を見渡せば、すでに、織物、編み物、刺繍をセンサーにし、医療現場で活用する試みが始まっています。遺伝子を操作して蚕に蜘蛛の糸を吐かせる技術も日本にあります。第5世代移動通信システム(5G)の基地局では、ノイズを避けるため銅繊維が使われているとも聞きました。

織物、編み物という限られた世界に閉じこもることなく、他の業種とのWIN—WINの関係を築き上げる。そのために幅広いネットワークを作り、織物、編み物を活用できる分野を見つける。これからはそんな時代なのではないでしょうか。そうしなければ、桐生の技は途絶えてしまうのではないでしょうか。
「技」は、一度途絶えると、復元は不可能とまではいわないものの、極めて難しいことです。

桐生に生き続ける繊維の技は無形の産業資産です。ほかの何かと組み合わせて磨けば、光り輝く宝石なる原石です。
その磨き方を生み出し、原石を輝く宝石にする。そんな試みが始まるのを筆者は心待ちにしています。

「桐生の職人さん」中断のお知らせ(上)

前回の周敏織物で、長く続けてきた「桐生の職人さん」の連載を中断します。

前回までで32社・人の桐生の「技」をご紹介してきました。八方手を尽くして取材したつもりですが、これが桐生の「技」のすべてかといわれると心許ないところがあります。私の目が届かなかったところに、まだまだ技が潜んでいるのではないか? との思いが残ります。そのため「終了」ではなく「中断」とし、これから先、ご紹介したい技に出会えたらその都度取り上げることにします。

「桐生の職人さん」の連載では2つの誤算がありました。
1つは、取材先の探し方です。
桐生に生き続けている織物の技を桐生市役所も把握していないことは「はじめに」で書いた通りです。そのため、新聞記者時代の人脈を頼って探し始めました。
当初は楽観的でした。長年繊維で生きてきた町です。最初の取材先にたどり着けば、あとは

「あなたがご存知の優れた職人さんを紹介して下さい」

とお願いするだけで、いくらでも糸を繋いでいけると思ったのです。

ところが実際に取材を始めてみると、私の楽観はみごとに裏切られました。糸がつながらない。皆さん、さすがに同業の知り合いはあるのですが、業種の垣根を越えた横のつながりが職人さんたちには皆無に近かったのです。日々の仕事をこなせばよい。自分の仕事の垣根から外に出る必要はない、というのが職人さんたちで、仕事の発注先、受注先さえ知っておけば仕事には十分。

「俺と違う仕事をしている仕事の名人といわれてもねえ……」

もちろん、取材先に紹介して頂いた技もいくつかは取り上げました。しかし、ほとんどは記者時代の知り合いに頼るしかありませんでした。

「漏れがあるのではないか?」

という懸念が消せないのはそのためです。だから「中断」します。

2つ目は取材の難しさでした。
織物、編み物は私たちの暮らしになくてはならないものです。裸で外に出ることができない以上、毎日身につけます。ありふれた、どこにでもあるものなのです。そのため、

「いってみれば、ローテク(Low Technology)の世界だろう。繊維に関しては素人の私にだって取材できるはずだ」

と、簡単に考えていました。だって、縦横の糸を交互にくぐらせれば布になるし、糸を絡み合わせれば編み物になるではありませんか。
ところが、実際に取材を始めてみると、それは筆者の勝手な思い込みであったことが次々と明らかになりました。

例えば、紗織り、絽織の喜多織物工場です。かつて工業高校で使われた教科書まで見せて頂き、織り上がった紗織り、絽織の構造は理解できました。ところが、なぜこんな構造を織機で織ることが出来るのかがどうしても分からない。
喜多正人社長は、私の目の前で

「ほら、これを綜絖(そうこう)に取り付ける。綜絖が引き上げられると、ここが上に上がるからこれがこうなって……」

と懸命に説明してくださるのだが、わからない。頭に入らない。なぜもじりができるのか……。

高橋デザインルームでも同じ思いを抱きました。
社長の高橋宏さんは図案を織り組織にする意匠屋さんです。生地の表面に出す糸、その下に敷く糸、下に隠す糸、それを固定するために回す糸。その構造を設計する仕事です。
高橋さんは、それをどうやって設計するのか、熱を込めて説明してくださいました。だが、分からない。分かりたいからいろいろな質問をしました。丁寧に答えていただきました。それでも理解できない。どうしてこんな設計ができるのだろう? 織り上がりが何故こんな布になるのだろう?
高橋さんの学歴は中学卒です。向学心は人一倍ありましたが、家庭の事情が進学を許しませんでした
筆者は大学卒です。それなのに、高橋さんの頭の中で構築される設計図が理解できない。お話を伺ううちに、大卒という学歴が恥ずかしくなりました。学歴で人を区別するのは間違いです。

他の取材先でも同じ思いを持ちました。とんでもない世界の取材を始めたものだと何度も後悔しました。

原稿は、自分が理解した範囲内でしか書けません。32編のレポートは、筆者が理解できたと思えた範囲内でしか書けませんでした。だとすれば、私は桐生の職人さんたちの技を、お読み頂いている方々にどこまでお届けできたのだろうか? と考えざるを得ません。
これが誤算の2つ目です。

金襴を現代に 周敏織物の3

【DNA】
周敏織物の周東拓哉専務は初対面の時、薄いブルーのシャツを着て現れた。筆者だってブルーのシャツぐらい持っている。しかし、私のシャツとどこか違う。
よくよく見ると、ボタンだった。普通使われる白っぽいボタンではなく、ブルーグレーである。それだけでも洒落た色の取り合わせだが、さらにそのボタンの裏を見ると濃い藍色だった。

「お洒落なシャツですね」

と声をかけると、

「そうですか。うーん、でもこのボタンがついていなかったら、このシャツは買いませんでしたね」

という答が戻ってきた。なるほど、専務も色の取り合わせにはこだわりがあるらしい。父から引き継いだDNAなのか。

父・通人さんと違い、拓哉専務は自ら後継者の道を選んだ。大学を出ると4年間、京都の問屋に勤め、繊維についての知識を蓄えた。

「問屋ですから、全国各地の織物が集まってきます。はい、見るだけでもずいぶん勉強になりました」

倉庫には常に1000色以上の糸が揃う。

いま、注文を受けた金襴の色のデザインは、ほとんど拓哉専務が受け持つ。1000以上もある在庫の色は総て頭に入っている。さて、この図柄を金糸、赤、緑、茶、グレーで描くのなら、どの金、どの赤、どの緑、どの茶、どのグレーを選べばいいか?
毎日が色との格闘である。

「実は、私、赤という色が苦手なんです。ほかの色だと、一番いい色目の糸を選ぶのにそれほど苦労はしないんですが、赤だけはどれにするか、いつも迷ってしまう。ひょっとしたら、私は赤が嫌いなのかも。でも、父にも相談はしません。頼っていたらいつまでたっても苦手なままですから。はい、ただいま赤を研究中というところです」

——でも、いくつもある同系統の色から、「これだ!」という色を選び出す技って、どうやって身につけるんですか?

「そうですね。4年間の問屋時代にたくさんの織物を見たことが生きているような気がします。それに、うちは機屋です。迷ったら試しに織ってみる。そんな自由がききますからね。ずいぶん無駄も出しましたが」

多くの取引先が認める周敏織物の優れた色使いはきっちりと受け継がれている。

金襴を現代に 周敏織物の2

【佐賀錦】
佐賀の特産に「佐賀錦」という織物がある。特殊な和紙に金銀の箔を貼り、上下をそれぞれ3㎝ほど残して細かな切れ目を入れて糸のようにする。その間に「あばり」といわれる道具を使って色とりどりの緯糸(シルク)を通して織り上げる。
材料が高価な上、織る工程も総て人手によるから、極めて高額な布となる。帯地や財布、鞄などに使われる。

「高くてなかなか手が出せない佐賀錦を、もっと身近なものに出来ないか?」

と問屋さんが考えたのかどうかは、今となっては分からない。佐賀錦と同じように経糸に金糸を使った織物の注文が周敏織物にきたのである。安くするのだから、金箔を貼った和紙の代わりに金箔を蒸着したポリエステルフィルムを使う。しかも、

「折角だから、緯糸にも金糸を使いたい」

と注文主はいった。こちらも、もちろんフィルムである。

たいして難しい仕事ではない。当初周東敏夫さんは気楽に考えたらしい。ところが、織機を動かし始めて頭を抱えた。経糸としてフィルムを設置すると、織っている間にフィルムがよじれるのである。1箇所でもよじれてしまえばそこだけ光の反射具合が変わり、素人にも分かる織物の傷になってしまう。
糸のように細く、ミクロン単位の薄さのフィルムがよじれないようにする手はないか? 周東敏夫さんは、知っている限りの技を使ってみた。だが、金色のフィルムはまるでいたずらっ子だった。周東敏夫さんの努力をあざ笑うかのようによじれてしまった。

よじれ防止装置。仕組みはよく分からない。

「結局ね、父は経糸が絶対によじれない装置を、自分で工夫して作ってしまったんです。そこまで行き着くのに2、3年はかかったようです」

と周東通人社長はいった。

暴れてどうしようもなかった細くて薄いフィルムをなだめる装置。それはいったいどんな仕組みなんでしょう?

「いや、これは企業秘密でして。それほどややこしいものじゃないから、公開したらマネをされる恐れがあるんでね」

以来、周敏織物は金糸、銀糸を使ったどんな織物でも自家薬籠中のものにしてきた。金襴は周敏織物の得意技である。

ここまで書いて、ふと疑問が湧き出た。周東敏夫さんが織ったのは佐賀錦ではないのでは?
と疑問をぶつけたら、即座に周東通人社長から回答が跳ね返ってきた。

「いや、フィルムの代わりに、金箔を貼った和紙を細く切って経糸にすれば佐賀錦が織れます。父は佐賀錦の機械化に成功したのだと思っています」