鯉のぼりは昭和33年(1958年)に創業した「平賢」の経営の、最も太い柱であり続けた。最盛期には仕事の7割から8割を鯉のぼりが占めた。あとは半天である。毎年5月から染め始め、翌年の1、2月まで仕事が続く。3月になれば店頭に並んで消費者を惹きつけ、5月、五月晴れの空に全長7mから8mもある鯉のぼりが風をはらんで優雅に、力強く泳いだ。
子どもを持つ家庭に鯉のぼりは「必需品」だった。だから「平賢」の経営も絶好調だった。10数人の社員を抱え、毎年社員旅行を楽しむゆとりが経営にあった。
それが、年とともに仕事が減った。都会化が進み、マンション暮らしが増えた。庭がないマンションでは鯉のぼりや吹き流しを揚げることはできない。子どもがすくすくと育つことを願う家庭の多くが「室内用」、あるいは「ベランダ用」の小さな鯉のぼりを求めるようになった。大きなものでも長さ30cmほどである。加えて少子化の大波も押し寄せた。その小さな鯉のぼりも、販売数は年々減る一方なのだ。
「時代とともに暮らし方が変わるのは仕方がありません。でも、7m、8mの鯉のぼりに比べれば、30cmの鯉のぼりははるかに小さい。小さいから染める手間も少ない。だから手間賃が減る。計算するとよくてトントン、多くは赤字の仕事なんです。これじゃあ続けられません」
だから、何とか工賃を上げたくて、鯉のぼりのオリジナルデザインを発注主であるメーカーに提案したこともある。成功したのは1件だけだった。
もちろん、工賃の値上げ交渉も続けてきた。これも成功したのは1件だけ。
「工賃を上げてもらえないのなら、もう仕事はお断りします、といったら、岡山のメーカーでしたが、社長さんと専務さんがわざわざ桐生まで来られて『工賃を上げるから仕事を続けてくれ』と頭を下げられまして」
確か2018年のできごとだった。だが、ほかのメーカーは
「うちも鯉のぼりの売れ行きが落ちて経営が苦しい。何とか今の工賃でお願いしたい」
と泣きつかれ、ほだされて染め続けていたのである。
「お義父さん、もう鯉のぼりはやめませんか? 仕事を取れば取るほど赤字が膨らむ一方です。メーカーに鯉のぼりの仕事はしないと告げたいのですが、いいでしょうか?」
社長の平田伸市郎さんにそう切り出したのは、2024年はじめのことだった。
鯉のぼりは赤字続きの不採算部門である。努力すれば、工夫すれば改善できるのなら、当面は我慢をするという選択肢もある。しかし、鯉のぼりの市場は縮小を続け、下げ止まる気配は見えない。いわば構造的な赤字部門なのだ。「平賢」だけで何とかできる問題ではない。であれば「平賢」のために切り捨てるしかない。
とはいえ、自分でデザインした手ぬぐいの売れ行きは年々増えていたものの、総売り上げの2割ほどしかない。そして減ったとはいえ、鯉のぼりの仕事は売り上げの3、4割ほどを占めていた。鯉のぼりをやめれば売り上げは急減する。それでも、赤字仕事がなくなるのだから利益は増えるはずだ。小山さんはそう考えた。
そして、手応えを感じ始めていた「桐生てぬぐい」というオリジナル商品を事業の中核にして下請けという不安定な業態から抜け出したかった。
だが、伸市郎さんは鯉のぼりで「平賢」を成長させて来た人だ。きっと鯉のぼりには強い思い入れがあるだろう。果たして提案を受け入れてくれるだろうか?
だが、思いは同じだったらしい。
「そりゃあそうだな、そんな時代なんだろうな」
こうして「平賢」は鯉のぼりを染めなくなった。その年の12月、小山さんは伸市郎さんからバトンを受け継ぎ、3代目の社長に就任した。
写真=「桐生てぬぐい」はこんなデザインから始まった
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