朝倉染布第7回 奇跡の糸

突然だが、話が少し遡る。

1959年、米国のデュポン社が「奇跡の糸・スパンデックス」を世に出した。1000万ドルの開発費と15年の歳月を費やして生み出したといわれる、伸びる糸、である。商品名を「ライクラ」といった。

糸は伸びない。だから繊維に伸縮性を与えるには編み方を工夫するしかない。それが常識だった。だが、糸自体が伸び縮みすれば、デザインも製法も、出来上がった製品の品質もまったく変わる。スパンデックスは、キャッチフレーズが決して大げさではない、言葉通りの奇跡の糸だった。

朝倉染布が奇跡の糸の研究を始めたのはそれからわずか2年後、1961年夏のことだった。この糸でできた製品が日本で売りだされるずっと前である。デュポン社との合弁で「奇跡の糸」の国内生産を計画していた東洋レーヨン(現・東レ)の商品研究所が共同研究を呼びかけてきたのだ。
基礎研究が終わって1966年、合弁会社の東レ・デュポン社が誕生してスパンデックスの国内生産が始まった。研究のパートナーだった朝倉染布は、この糸の染色加工の技術開発を頼まれた。

糸は布に仕上げ、染色加工をしなければ消費者の手に渡る製品にはならない。すでに世にある糸なら、最適な染色加工法は確立している。だが、スパンデックスは生まれたばかりである。染色加工法をゼロから作り上げなければならない。

染色加工とは化学反応を起こすことだ。だから、染色加工の仕方次第では糸の性質が変わり、能力を殺してしまうこともある。

問題は染色だけではない。伸び縮みする奇跡の糸は敏感な糸でもあった。染色加工の前処理工程でどの程度の力で引っ張り、何度の熱風で乾燥させるかで仕上がりがまったく変わってしまうのである。

朝倉染布第8回 競泳用水着

1970年代、競泳用水着が大きく進化し始めた。
それまでのオリンピック選手が身につけていたのは、私たちが海やプールで身につける水着とほとんど変わらない水着だった。水着とは人前にさらすことがはばかられる身体の一部を隠すものでしかなかったのである。水着を武器として記録を伸ばすという発想は、まだどこにもなかった。

1964年、東京オリンピックで日本の競泳選手が使った水着は、トリコット編み(高給肌着やマフラーなどに使われる編み方。伸縮性がありほつれにくい)したナイロン100%の生地でできていた。この編み方だと縦には伸びないが横には伸びる。そのため、泳いでいると身体と水着の間に水が入って膨らみができて水の抵抗が増すのだが、それが問題だという意識はなかった。

続く1968年のメキシコ五輪でも、水着の素材はやはりナイロンのトリコット編みだった。女子用水着の腰にくびれを入れるなど、身体の凹凸に合わせた裁断が採用されたのがほとんど唯一の進化だった。

1972年のミュンヘン五輪では女子用水着の背中の中央に縫い目線を入れて動きやすくした。だが、生地は依然としてトリコット編みのナイロン。

勝つか負けるかの勝負の世界である。勝利を求めて「改良」の努力は継続された。だが、「改良」をいくら積み重ねても「革命」にはならない。

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第1回 開拓者

現代の名工。

「あなたが身につけた技能は飛び抜けて優れている」

と国が認め、厚生労働大臣の表彰を受けた「卓越した技能者」の通称である。職人として最高のお墨付きをもらうのは毎年150人(1995年度までは100人)で、1967年度に制度が始まってから2018年5月までで4000人をわずかに越えるだけだ。

この狭き門をくぐるには、まず都道府県知事、事業主団体などの推薦を受けなければならない。推薦条件の冒頭にはこう書かれている。

「技能の程度が卓越しており、当該技能において国内で第一人者と目されていること」

大澤紀代美さんは1994年、「現代の名工」になった。54歳の時である。刺繍の世界では初の受賞だった。表彰状、楯は桐生市本町5丁目の「シシュウ ギャラリー」に飾ってある。

 (大澤紀代美さんは全国で初めて、刺繍の「現代の名工」に選ばれた)

報奨金の10万円は

「そういえば、そんなお金、もらったわね。確か、阪神大震災の義援金に寄付したんじゃなかったかしら」

2年後の1996年、今度は黄綬褒章を受けた。これも刺繍職人としては開闢以来のことだった。

(褒章受章祝賀会には、デザイナー山本寛斎氏からの花束も見える)

「その数年前から、そんな話はあったのよ。でも、『刺繍職人? それが何で褒章の対象になるんだ?』というんでお蔵入りになってたんだって。ところが、93年にパリに招待されて個展をやったのね。そうしたら『あのパリで認められるほどのものなのか』というんで評価が急に高まり、おまけに現代の名工にもなっちゃったから急転直下で授賞が決まったって聞いてる。日本人の価値観ってヨーロッパや肩書きに弱いのよね。とんでもなく偉いと思われてる人もきっと同じよ。白人コンプレックス、肩書きコンプレックスを持ってるのかしら。褒章っていったって、その程度のものよ」

刺繍とは大澤さんが頭角を現すまでは、「その程度のもの」でしかなかった。有り体に言えば、単なる下請け職人の内職仕事程度にしか見られていなかった。

朝倉染布第9回 伸縮度

その後改良が進んだが、当時のスパンデックスは塩素に弱かった。塩素に触れるとやがてボロボロに劣化する。ご存じのように、プールの水には殺菌剤として塩素が含まれている。プールで数回泳げばボロボロになってしまうのでは水着としては失格だ。塩素に強いスパンデックスを創り出さねば水着には使えない。
その研究・開発は素材メーカーである東レ・デュポンが引き受けた。

朝倉染布が託されたのは、スパンデックスとポリエステルでできた生地から競泳用水着としての理想的な「伸縮度」を生み出すことだった。

一口に理想的な伸縮度を生み出すというが、極めて難しい作業である。スパンデックスだけで出来た生地ならまだしも、相手はポリエステルとの混紡である。性格が違う2つの繊維のの相性を見ながら、一方のスパンデックスの伸縮度をコントロールしなければならないのだ。その課題をこなさなければ理想的な競泳用水着の生地に仕上げることはできない。

その難しさの一端でも知っていただこうと、朝倉染布がスパンデックスを使った生地を加工する工程を追ってみた。

生地には、製造工程で油分が付着している。これを取り除かなければ染色加工ができない。まず、界面活性剤を含む60℃〜80℃の温水が入った水槽で生地を洗って油分を落とす。

この過程で、生地は2回も縮む。スパンデックスとはゴムのようなものだから、塩ビや紙のパイプに巻かれた生地をほどくと、まず伸ばされていた分が縮む。さらに温水をくぐらせると、その熱で繊維そのものが収縮する。こうして縮む過程で編み目が均一になってくれる。この工程をリラックスと呼ぶ。

ミシンの魔術師—大澤紀代美さん 第2回 日中の架け橋

日本と中華人民共和国が国交を回復したのは1972年9月のことである。

日本が仕掛けた無謀な戦争が仲を裂き、第二次世界大戦後の中国に誕生した共産主義政権、長く世界を東西に二分した冷戦が「仲直り」を阻み続けた。中華民国(台湾)との間では平和条約を結ぶことが出来たが、中華人民共和国とは隣国であるにもかかわらず行き来できるドアがなく、声を掛け合う小窓すら存在しなかった、法的には戦争状態がそれまで続いていたのである。

当時の田中角栄首相の訪中で、その異常な関係が終わった。日本国民の多くが戦後の平和を実感した瞬間だった。

日中にやっと開かれたドア。
大澤紀代美さんの刺繍画が、そのドアをこじ開ける一助になったのは同じ1972年のことだった。

「紀代美、周恩来総理の肖像画を刺繍でつくって欲しいといわれたんだが」

父藤三郎さんに声をかけられたのは、春の息吹がやっと桐生にも訪れようか、という時期だったと記憶する。
刺繍で肖像画を縫い上げる仕事は、大澤さんが独自に始めた。やがて人が知るようになり、それまでも注文に応じて年に4、5枚は縫ってきた。

「また注文が来たのか」

軽い気持ちで引き受けた。
引き受ける気持ちは軽いが、仕事には万全を期す。

まず、写真がいる。それも、いろいろな角度から撮ったものが欲しい。肖像を描くのだから、本人に似ていなくては話にならないからだ。
だが、大澤さんは似ているだけの肖像刺繍を縫う人ではない。本人に似せるだけなら写真に勝るものはないのである。刺繍で肖像画を描く以上、写真では表現が難しい、その人の「本質」まで糸で縫い上げなければ意味がない、と考える。だから、周恩来総理についての本も読まなくてはならない。読んで、確かな周恩来像を築き上げなければミシンには向かわない。大澤さんはそう考える刺繍作家である。

だが、まだ中華人民共和国とは国交がなかった時代だ。周恩来総理の写真を掲載する雑誌は数少なかった。探し始めてもなかなか見つからない。思いついて、いつか取材に来てくれた共同通信の記者に

「あなたのところには報道用の保存写真があるんじゃない?」

と聞いてみた。彼は二つ返事で引き受け、間もなく数枚の写真を持ってきてくれた。

本も探した。しかし、ない。今回は諦めざるを得ないらしい。であれば、手元にある写真だけから人物像を引き出さねばならない。写真とにらめっこの毎日が続いた。