目の付け所 古澤整経の3

【突き詰める】
製糸メーカーが納品する糸はボビンに巻かれている。1万6000本の経糸を整経するには、だから1万6000本のボビンを立てて糸を同時に出さねばならないが、何度も書いたようにそれは物理的に無理である。だから何回にも分けて整経機で巻き取っていくのだが、一度に巻き取れる糸の数は多いにこしたことはない。

わずか350㎡ほどの狭い工場である。ここに2台の整経機が収まっている。一度に立てられるボビンの上限は何本か? ボビンを立てるクリールと呼ばれる装置に古澤さんは知恵を絞った。
ボビンを立てる棒は、鉄骨で組んだ構造体から横に出ている。メーカー製では棒はマス目の交点に配置されているが、これでは無駄な空間が多いことに気がついた古澤さんは、互い違いに棒を立てた。1列ごとに交点をずらしたのである。こうすれば無駄な空間が減って、同じ空間により多くのボビンを立てることができる。

(普通のクリールはこのように配置されており、空間効率が悪い)

古い整経機にはメーカー製のボビン立てを使っているが、新鋭機のクリールは30㎡足らずの床面積に580本のボビンが立つ。メーカー製なら400本がせいぜいだ。それだけ作業効率が上がる。

「古澤さんは納期がみじかくて助かる」

と機屋さんがいう背景には、古澤さんの智恵が埋まっているのである。

古澤整経の2台の整経機は、1台は北の壁に、もう一台は南の壁にと、互い違いに設置されている。これも古澤流だ。

「妻と2人で整経機にへばりついています。トラブルはボビンから糸がスムーズに出ていないというのがほとんどで、この配置だと、妻の整経機のクリールで起きたトラブルには私がすぐに対応できるし、逆も同じです」

こうして稼げる時間はわずか数秒だろう。しかし、1円を笑う者は1円に泣く。古澤流は徹底的な合理主義なのである。

桐生の職人さん  はじめに

私が「自慢」している群馬県桐生市は「織都」を自称することは何度か書いた。織都。織物の町である。昭和10年代の初めには国の予算額の1割前後にも上る繊維製品がこの町で作られ、国内だけでなく海外に向けても出荷されていた。いまの政府予算に換算すれば、1年間の繊維製品出荷額は約10兆円にも上る。当時の人口は7万6000人程度。たったそれだけの小さな町に巨大なお金が流れ込み、飛び回っていた。

だが、筆者が桐生に赴任した2009年に手にした統計では、繊維製品出荷額は300億円を超える程度だった。この間、糸で縄を買ったといわれた日米繊維交渉があり、アジアが繊維製品の主要生産地となる産業構造の変化があったにしても寂しい限りである。しかも、桐生の繊維産業の衰退にはその後も歯止めがかからず、2019年には220億円にまで落ち込んだ。一時町を市えたパチンコ産業も、メーカー3社が市外に出た。このようにデータを並べれば、桐生は終わった町、終わりつつある町に見えるかも知れない。

ところがどっこい。桐生に織物を伝えたという白瀧姫伝説から1300年にわたる織都としての歴史を誇る桐生には、墓場に入れてもらってはみんなの大損になる宝物がある。繊維産業を支える職人たち、彼らの技である。

考えてみれば、1300年もの長い間桐生が織都として胸を張ってくることができたのは職人たちの努力のたまものである。競争仲間と張り合い、他産地にないものを、他産地ではできないものを産み出し続ける職人たちの汗と知恵と熱意が脈々と積み上げられてきたから、いまでも桐生は織都なのである。歴史の荒波の中で桐生を支える基幹産業の地位からは滑り落ちたかも知れないが、いまでも桐生を支える中核産業であり続けているのは、先人たちの職人魂を受け継ぐ職人たちが、日々精魂を込めて仕事に打ち込み、不可能を可能に変えているからなのだ。

それを筆者は、桐生の原石と呼んできた。原石は磨けば光る。

筆者が桐生に来てすでに11年が経過した。赴任当時から、繊維製品は桐生を考える基軸として常に頭の中にあった。桐生の再興を図るには繊維産業の再活性化が必要だと主張したこともある。1300年の歴史が培った技は桐生の宝物であり、磨けばもっと輝きを増すはずだとの持論も隠さなかった。地球に70億人の人がいて、すべての人が何らかの布を身につけている。やりようによっては桐生の繊維産業を活かす道が必ずあるはずだ。原石を磨こうではないか。

しかし、恥ずかしい話だが、そんな議論をしながら、桐生の技を支えている職人さんたちに筆者の目はこれまで向かなかった。職人とは光が当たることが少ない仕事であるとはいえ、我ながら情けない話だ。

FREE RIDE ライダーは桐生を目指す その1 好きこそ

好きこそものの上手なれ。好きだから一所懸命になる。ますます上達する。

そうあればいいが、人生はそれほど甘くない。好きなのに上手くなれないたくさんの実例を積み重ねるのが大方の人生だともいえる。

例えば筆者は音楽が好きである。桐生に来て60歳を迎え、

「これまで仕事に時間とエネルギーを取られてできなかったギターをマスターしよう」

と決意した。アコースティックギターを買い、ギター教室に通い始めた。文字通り60の手習いである。

「何をしたいのですか?」

と訊いた先生には

「1年後にエリック・クラプトンになりたい」

と答えた。

あれから随分時間がたつ。結果は「たくさんの実例」に、またひとつ実例を加えただけである。

筆者の誇大妄想は置くとして、好きであれば必ず上達するのなら、世の中には各種のプロがあふれかえっているはずだ。

夏の甲子園を目指す高校は4000校を超す。1校平均20人の部員がいるとすると、毎年8万人にも上る高校生たちが野球が「好き」で、毎日グラウンドで汗を流す。だが、甲子園への切符を手にできるのはわずか50校前後に過ぎない。そして、大甲子園のグラウンドを踏んでも、「上手」の極みであるプロ選手になれるのはほんの一握りであり、名選手と呼ばれる人たちはほんの一握りである。「好き」なのに「上手」にはなれない例は枚挙にいとまがない。

つまり、こういうことだ。「好き」で「上手」になるには、類い希な才能と、よほどの幸運が必要である。

桐生市末広町の通り沿いに店を構える「FREE RIDE」はオリジナルのバイクウエアをデザインし、製作し、販売する専門店である。経営者の二渡一弘さんは子どもの頃からオシャレで、そのうえバイクと恋仲になった。アルバイトで蓄えた10数万円をつぎ込んで初めてのバイクを手に入れたのは16歳。以来、時間ができるとバイクウエアに身を包み、愛車にまたがってフラリと旅に出る暮らしを今も続ける。
そんな暮らしを続けているうちに、選びに選んだはずのウエアに不満を持ち始めた。

当時、バイクのサドルに腰を落として「決まる」ファッションはアメカジ(アメリカンカジュアル=ラフで動きやすい)しかなかった。その中からこれぞと思うものを選んだはずなのに、

「バイクに乗りにくい!」

のである。

求める機能があり、格好良く、着ていて楽。そんなウエアが欲しいのに、どれも満たしてくれない。選び方が悪かったのか? 改めて探し直した。しかし、どう探しても

「これだ!」

というのがない。

FREE RIDE ライダーは桐生を目指す その2  黒魔術の館

東西に走る末広通りは、桐生市を南北に貫く本町通りと本町5丁目で交差する。この交差点を西に曲がって末広通りをJR桐生駅方面へ約100m。

……。

この店は何だ? 店の前に服を吊したハンガーラックが並ぶ。テーブルに山積みされた服もあるから、きっと洋服屋なのだろう。しかし、衣料品を扱う店はディスプレーに気を遣う。綺麗な服をお洒落に並べれば、美しさが一段と映えるのに、この店は……。

軒下には、丸太を製材したときに出る端材と思える板や曲がりくねった枝が長さも揃えずに打ち付けられている。その上には日本では見慣れないナンバープレートや看板が所狭しと並ぶ。

「DO NOT ENTER」

入るな、ってか!

「DANGER」

この店は危険なのか?

「THE ROLLING STONES WORLD TOUR」

何でローリング・ストーンズ?

店の名前が見つからない。たくさん並ぶ看板の中に店名はないし、シールがベタベタ貼られた入り口のガラスドアにもない。ショーウインドウにはなぜか「Budweiser」や「Harley-Davidson」のネオンサインがのぞいている。その右手にはエレキギターが……。

あった! これが店の名前だな! ショーウインドウのガラスに、白い文字にオレンジ色の影がついたアルファベットで「Free Ride」。しかし、すぐ後ろの「Budweiser」のネオンサインが目立ちすぎて目に入らないし、第一、店名の前にマネキンが立って一部を隠しているじゃないか。これで、この店が「FREE RIDE」だと分かる人がどれだけいるのか……。

ガラス戸を開けて店内に足を踏み込む。

両側に棚があり、たくさんの商品が並んでいるのは当たり前だが、まず通路が狭い。人1人が歩くのがせいぜいだ。

この床は何だ? 長い1枚板がコンクリートで固められているだけではない。板とコンクリートにはボルトや鎖、そしてコンクリートにはドライバー、チェーン、点火プラグ、レンチ、歯車、ブレーキのディスクローター、スプリング、ラジオペンチ……。思いつくままに、バイクの部品や工具が埋め込まれている。

私は、機械文明時代の黒魔術の館に踏み込んだのか?

FREE RIDE ライダーは桐生を目指す その3 青春

青春時代とは、世の中を仕切っているように見える大人たちを憎みながら、でも、大人の世界に憧れる矛盾した時期である。大人ってなんて汚くてバカなんだろうと頭の一方で吐き捨てるのに、他方には早く大人の仲間になりたい自分がいる。親や教師に隠れてこっそりタバコを吸って粋がるのも、酒を口にして酔いを覚えるのも、一足飛びに大人の自由な世界に飛び込む早道だと見えるからでもある。

この時期に、車やバイク、飛行機などのメカに強烈な魅力を感じ始めるのも、閉ざされた世界で日々悶えている今の自分を、鎖をぶっちぎってもっと自由な世界に運び出してくれる強力な武器に見えるからではないか。

二渡さんの記憶によると、車とバイクに強く惹かれ始めたのは中学時代のことだった。車のアクセルを思い切り踏み込み、自在に操ってみたい。バイクで初夏の心地よい風を切り裂きたい。自宅の近くに、車高を低く、いわゆる「シャコタン」に改造した車、ピカピカに磨き上げた、いかにもかっ飛びそうな大型バイクを自在に乗りこなしている先輩たちがたくさんいたからかも知れない。

とりわけバイクにのめり込んだ。バイクの図鑑を手に入れて飽きずに眺め、街中を、山道を、草原を走り回る自分の姿を思い浮かべた。

「うーん、いま思えば、車やバイクが大人のシンボルに見えたのかも知れませんね」

バイク熱は高校に進んでも冷めなかった。いや、益々燃えさかった。

「バイクの方が早く免許が取れるんですよ、16歳で。だからでしょうね。車への関心はもちろん持ち続けていましたが、『もうすぐ乗れる』バイクへの思いが高まる一方でした」