目の付け所 古澤整経の1

【整経とは】
織機にかける経糸(たていと)を揃える工程である。布を織るには4000本前後から1万6000本ほどの経糸を使う。糸のメーカーはボビン(糸巻き)に巻いて納品する。機屋さんがそのまま使おうと思えば直径10㎝ほどのボビンを、多いときは1万6000本立てなければならない。それは物理的に無理である。だから1万6000本の糸を数百本ずつに分けて1つのビーム(大きな円筒)に巻きつける。一度に400本の糸を巻くとすると40回繰り返して1万6000本にする。それが整経と呼ばれる作業である。

整経された経糸は機屋さんの手に渡る。機屋さんは多いときは1万6000本の糸が巻かれたビームを織機に取り付け、糸を1本ずつ綜絖(そうこう=経糸を上下に分けて緯糸=よこいと=が通る隙間を作る装置)の穴を通し、櫛の目状の筬(おさ=緯糸を押し詰める装置)を経て織り上がった布を巻き取るビームに繋ぐ。綜絖が1万6000本の経糸を上下に分け、その間に緯糸が通って筬が「トントン」というリズムで緯糸を詰める。

スムーズに布が織れていくためには、経糸がスムーズに流れなければならない。言い換えれば、ビームに巻かれた経糸は綜絖の小さな穴に引っかかってはならない。一部の糸を綜絖が引き上げて杼が通る隙間を作るとき、隣同士の糸がこすれ合って上に行く糸が隣の糸を連れて行くのは御法度である。1本1本の糸にかかっているテンションがバラバラでは、織り上がったときに緩い経糸の部分が盛り上がって布が波打つ。

整経業の要諦は、織る際にこうした事故が起きないように大きなビームに糸を巻き取ることである。

【「古澤さんに整経してもらった糸は織りやすい」】
古澤整経の創業は1963年。いま2代目の古澤良浩さんが経営する。糸を巻き取るアルミ製のビームは糸を巻くと重さが300㎏から500㎏にもなる。輸送コストがかさむため他の繊維産地から仕事が来ることはほぼないが、桐生市内とその近郊の機屋さんの信頼は大きい。
ある機屋さんによると

「頼むと、必ず『うちは少し高いんだよね。これだと〇〇の工賃になるけど大丈夫?』と必ず聞いてくれるのがありがたい」

それでも、他の整経屋さんに頼もうとは思わないというから、工賃に充分見合った仕上がりになっているのである。

目の付け所 古澤整経の2

【カスタマイズ】
最新式の整経機を石川県のメーカーに発注したのは2018年だった。繊維を大量に一貫生産する大手メーカー向けに開発された機械で、かなり高価なものだ。中小企業が導入することはまずない。だが、古澤さんは迷わなかった。

「大工場向けだから最先端の機能が備わっているんですよ」

古澤さんは妻・忍さんと2人で仕事を切り盛りしている。いわゆる中小零細工場の1つである。同じ糸を大量に整経する大手工場と、多品種少量生産、つまり様々な糸を少量ずつ整経する古澤整経とでは事情が違う。いくら最先端の機械とはいえ、使いこなせるのか?

ここでも古澤さんは少し違ったところに目をつけた。

「大工場で導入機を決めるのは、多分現場で作業したことがない役職者で、現場で作業する人たちは上が決めた機械を操るだけ。『こうしたらもっと使いやすくなるのに』と思いついても、そんな意見が上に通る機会はほとんどない。だから糸で苦労したことがない整経機メーカーが考えた大量生産向けの機能しか備えていない。でも、私は自分で操作します。最先端の機能をどうすれば多品種少量生産の現場で使いやすくできるのかを徹底して考え、メーカーにカスタマイズしてもらいました」

何をカスタマイズしたのか。

整経機には糸を巻き取るタンプルという巨大な円柱があり、クリール(糸が巻かれたボビンを立てておく装置)から出た糸はこのタンプルが巻きとる。
広大な空間さえあれば一度に数千本、1万数千本の糸をタンプルが巻き取ることも出来よう。しかし、それは物理的に無理なので数百本ずつ巻き取る。一度に400本の糸を巻き取れば、1万本の経糸は25回に分けて巻くことになる。これは大手工場でも事情は同じである。だから、すでに巻き取りが終わってタンプルにできた山と、これから巻き取ってできる山で差が出ないよう、糸の最終的な出し口とタンプルの間にセンサーがついており、大工場では自動的に整経が進む。

目の付け所 古澤整経の3

【突き詰める】
製糸メーカーが納品する糸はボビンに巻かれている。1万6000本の経糸を整経するには、だから1万6000本のボビンを立てて糸を同時に出さねばならないが、何度も書いたようにそれは物理的に無理である。だから何回にも分けて整経機で巻き取っていくのだが、一度に巻き取れる糸の数は多いにこしたことはない。

わずか350㎡ほどの狭い工場である。ここに2台の整経機が収まっている。一度に立てられるボビンの上限は何本か? ボビンを立てるクリールと呼ばれる装置に古澤さんは知恵を絞った。
ボビンを立てる棒は、鉄骨で組んだ構造体から横に出ている。メーカー製では棒はマス目の交点に配置されているが、これでは無駄な空間が多いことに気がついた古澤さんは、互い違いに棒を立てた。1列ごとに交点をずらしたのである。こうすれば無駄な空間が減って、同じ空間により多くのボビンを立てることができる。

(普通のクリールはこのように配置されており、空間効率が悪い)

古い整経機にはメーカー製のボビン立てを使っているが、新鋭機のクリールは30㎡足らずの床面積に580本のボビンが立つ。メーカー製なら400本がせいぜいだ。それだけ作業効率が上がる。

「古澤さんは納期がみじかくて助かる」

と機屋さんがいう背景には、古澤さんの智恵が埋まっているのである。

古澤整経の2台の整経機は、1台は北の壁に、もう一台は南の壁にと、互い違いに設置されている。これも古澤流だ。

「妻と2人で整経機にへばりついています。トラブルはボビンから糸がスムーズに出ていないというのがほとんどで、この配置だと、妻の整経機のクリールで起きたトラブルには私がすぐに対応できるし、逆も同じです」

こうして稼げる時間はわずか数秒だろう。しかし、1円を笑う者は1円に泣く。古澤流は徹底的な合理主義なのである。

桐生の職人さん  はじめに

私が「自慢」している群馬県桐生市は「織都」を自称することは何度か書いた。織都。織物の町である。昭和10年代の初めには国の予算額の1割前後にも上る繊維製品がこの町で作られ、国内だけでなく海外に向けても出荷されていた。いまの政府予算に換算すれば、1年間の繊維製品出荷額は約10兆円にも上る。当時の人口は7万6000人程度。たったそれだけの小さな町に巨大なお金が流れ込み、飛び回っていた。

だが、筆者が桐生に赴任した2009年に手にした統計では、繊維製品出荷額は300億円を超える程度だった。この間、糸で縄を買ったといわれた日米繊維交渉があり、アジアが繊維製品の主要生産地となる産業構造の変化があったにしても寂しい限りである。しかも、桐生の繊維産業の衰退にはその後も歯止めがかからず、2019年には220億円にまで落ち込んだ。一時町を市えたパチンコ産業も、メーカー3社が市外に出た。このようにデータを並べれば、桐生は終わった町、終わりつつある町に見えるかも知れない。

ところがどっこい。桐生に織物を伝えたという白瀧姫伝説から1300年にわたる織都としての歴史を誇る桐生には、墓場に入れてもらってはみんなの大損になる宝物がある。繊維産業を支える職人たち、彼らの技である。

考えてみれば、1300年もの長い間桐生が織都として胸を張ってくることができたのは職人たちの努力のたまものである。競争仲間と張り合い、他産地にないものを、他産地ではできないものを産み出し続ける職人たちの汗と知恵と熱意が脈々と積み上げられてきたから、いまでも桐生は織都なのである。歴史の荒波の中で桐生を支える基幹産業の地位からは滑り落ちたかも知れないが、いまでも桐生を支える中核産業であり続けているのは、先人たちの職人魂を受け継ぐ職人たちが、日々精魂を込めて仕事に打ち込み、不可能を可能に変えているからなのだ。

それを筆者は、桐生の原石と呼んできた。原石は磨けば光る。

筆者が桐生に来てすでに11年が経過した。赴任当時から、繊維製品は桐生を考える基軸として常に頭の中にあった。桐生の再興を図るには繊維産業の再活性化が必要だと主張したこともある。1300年の歴史が培った技は桐生の宝物であり、磨けばもっと輝きを増すはずだとの持論も隠さなかった。地球に70億人の人がいて、すべての人が何らかの布を身につけている。やりようによっては桐生の繊維産業を活かす道が必ずあるはずだ。原石を磨こうではないか。

しかし、恥ずかしい話だが、そんな議論をしながら、桐生の技を支えている職人さんたちに筆者の目はこれまで向かなかった。職人とは光が当たることが少ない仕事であるとはいえ、我ながら情けない話だ。

FREE RIDE ライダーは桐生を目指す その1 好きこそ

好きこそものの上手なれ。好きだから一所懸命になる。ますます上達する。

そうあればいいが、人生はそれほど甘くない。好きなのに上手くなれないたくさんの実例を積み重ねるのが大方の人生だともいえる。

例えば筆者は音楽が好きである。桐生に来て60歳を迎え、

「これまで仕事に時間とエネルギーを取られてできなかったギターをマスターしよう」

と決意した。アコースティックギターを買い、ギター教室に通い始めた。文字通り60の手習いである。

「何をしたいのですか?」

と訊いた先生には

「1年後にエリック・クラプトンになりたい」

と答えた。

あれから随分時間がたつ。結果は「たくさんの実例」に、またひとつ実例を加えただけである。

筆者の誇大妄想は置くとして、好きであれば必ず上達するのなら、世の中には各種のプロがあふれかえっているはずだ。

夏の甲子園を目指す高校は4000校を超す。1校平均20人の部員がいるとすると、毎年8万人にも上る高校生たちが野球が「好き」で、毎日グラウンドで汗を流す。だが、甲子園への切符を手にできるのはわずか50校前後に過ぎない。そして、大甲子園のグラウンドを踏んでも、「上手」の極みであるプロ選手になれるのはほんの一握りであり、名選手と呼ばれる人たちはほんの一握りである。「好き」なのに「上手」にはなれない例は枚挙にいとまがない。

つまり、こういうことだ。「好き」で「上手」になるには、類い希な才能と、よほどの幸運が必要である。

桐生市末広町の通り沿いに店を構える「FREE RIDE」はオリジナルのバイクウエアをデザインし、製作し、販売する専門店である。経営者の二渡一弘さんは子どもの頃からオシャレで、そのうえバイクと恋仲になった。アルバイトで蓄えた10数万円をつぎ込んで初めてのバイクを手に入れたのは16歳。以来、時間ができるとバイクウエアに身を包み、愛車にまたがってフラリと旅に出る暮らしを今も続ける。
そんな暮らしを続けているうちに、選びに選んだはずのウエアに不満を持ち始めた。

当時、バイクのサドルに腰を落として「決まる」ファッションはアメカジ(アメリカンカジュアル=ラフで動きやすい)しかなかった。その中からこれぞと思うものを選んだはずなのに、

「バイクに乗りにくい!」

のである。

求める機能があり、格好良く、着ていて楽。そんなウエアが欲しいのに、どれも満たしてくれない。選び方が悪かったのか? 改めて探し直した。しかし、どう探しても

「これだ!」

というのがない。