確認、確認、確認 今泉機拵所の1

【機屋になりたい!】
今泉英司さんは桐生市川内町で、男3人、女2人の5人兄妹の末っ子に生まれた。物心ついた頃、今泉一家は総出で機拵えに追われていた。
機屋の職人だった父・久雄さんが機拵えとして独立したのは今泉さんが生まれる少し前のことだった。人に使われることに嫌気がさして自分でできる仕事を探した。

「これなら、俺にも出来るんじゃないか?」

と思い当たったのが機拵えだった。誰かに機拵えの仕事を教わったことはないが、職場で架物も機拵えさんの仕事も見慣れていた。いわば、見よう見まねで始めた素人仕事である。

それでも仕事は星の数ほどあった。その頃の桐生は、リズミカルな機音が途絶えることがない全盛期にあった。町のいたるところで織機が次々と新しい織物を吐き出す。新規な織物を織るには架物を新しく作る必要がある。機拵えの職人は引っ張りだこだった。

家族全員が同じ仕事に追われて忙しくしているのだから、今泉さんが中学を卒業するとすぐに家の作業所に入ったのも自然な流れだった。高校に進めとは両親もいわなかったし、自分でも考えなかった。毎日朝8時から夜10時まで架物を作り続けた。

出来上がれば、注文主の機屋さんに運んで織機にセットする。ジャカードのナス管に通じ糸をかけ、綜絖を調整し、経糸を綜絖、筬に通す。
単純な仕事である。好きになる仕事ではなかったが、でも、嫌な仕事でもなかった。

「だけどね」

と今泉さんは言った。

「俺、機屋になりたいな、とあの頃思ってた。だって、機拵えはすべて手作業だろ? 通じ糸を切りそろえるところから経糸を通すまで全部手でやんなくちゃならない。でも、機屋さんは織機のスイッチを入れれば、あとは織機が仕事をしてくれる。ああ、こんなに楽な仕事がしたいな、ってね」

だが、夢は夢のままだった。今泉さんは22歳で今のところに家を持ち、それからも通いの機拵え職人として実家に通い、仕事を続けた。自宅に作業所を設けて独立したのは40歳を過ぎた頃だった。

「結局、この仕事しかできなかったね」

写真:膨大な量の通じ糸を1本1本目板の穴に通す今泉さん

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