日本1のフローリスト—近藤創さん その12 スランプ
この頃、日本のフラワーデザインは大きな変革期を迎えていた。 当時のフラワーデザインの主流はドイツデザインである。ドイツのフラワーデザイナーが日本の華道、小笠原流を研究して生み出した。華道の世界には日本ならではの美意識が埋...
この頃、日本のフラワーデザインは大きな変革期を迎えていた。 当時のフラワーデザインの主流はドイツデザインである。ドイツのフラワーデザイナーが日本の華道、小笠原流を研究して生み出した。華道の世界には日本ならではの美意識が埋...
そして近藤さん、32歳。 「えっ!」 という依頼が舞い込んだ。 このころ「花キューピット」と呼ばれるようになっていたJFTD(Japan Flower Telegraph Delivery=日本生花商通信配達協会)の本部...
「あ、私は基本に囚われすぎていたのではないか?」 と気が付いた時、近藤さんは28歳になっていた。私は学びすぎたのではないか? と思いついたのだ。 それを近藤さんは 「学ぶことの落とし穴に落ちていたようなんです」 と表現し...
善は急げ。近藤さんは大学を卒業するとすぐに桐生に戻って「花清」に入った。そしてもう1つ「善」が重なった。5月に祐子さんとゴールインしたのである。2人3脚の歩みが始まった。 己の美しさを競うように咲き誇る花々を商う生花店は...
「花清」の屋号は、創業者である祖父・清さんが 「花の清さん」 と呼ばれていたのがルーツである。その清さんが、この大会に付き添っていた。自分が興した事業の後継者である子と孫が全国大会に参加する。その姿を自分の目で見たかった...