その8 糸杉

昭和28年(1953年)、智司少年は桐生高校に進んだ。父・實さんはすでにない。東京の会社に貸していた工場の契約が終わったあと、母・タケさんは市内の機屋さんから中古のラッセル機を譲ってもらい、編み物工場を始めた。セーター地や安価なカーテン地を作って細々と家業を継いでいた。

タケさんは實さんに嫁ぐとき、

「我が家の身上(しんしょう)の半分はお前が稼ぎ出した。それをすっかり持たせてやるからな」

と両親にいわれたという。広沢町から途中にある渡良瀬川を渡し船で渡って桐生女子校に通いながら、それほど実家の仕事を手伝っていたのである。それだけに、夫を亡くして一家の大黒柱にならざるを得なくなったとき、

「自分ががんばらなければ」

と踏ん張ったのだろう。

智司少年が高校に入る頃、市内の職人さんにラッセル機の改造を頼んだ。パッとしないセーター地などに見切りをつけ、東京の問屋に勧められたマフラー生産に切り替えるためである。セーター地などを作るラッセル機は、そのままではマフラーの房を編むことができない。マフラーを作るとなると機械を改造し、房も編めるようにしなければならないのだ。

子どもの頃から工場が大好きだった智司少年は毎日のように工場に入り、職人さんの仕事を眺めた。職人さんの手でらラッセル機が生まれ変わる。まるで魔法を見ているようで夢中になり、改造法を脳裏に刻み込んだ。それがのちに、自分で編み機を改造し、いまの松井ニット技研のマフラーを生み出すことになるとは、当時の智司少年が知るはずもない。

ラジオドラマ「君の名は」が

「放送時間になると銭湯がガラガラになった」

といわれるほど大ヒットしたのはその頃のことだ。間もなく映画にもなり、「真知子巻き」と呼ばれる巻き方をしたマフラーが大ブームになった。マフラー専業となった松井工場は戦前の活気を取り戻した。

このころ智司少年は、大きな美術展が東京で開かれるたびに足を運ぶようになる。ミロのビーナスが来たと知っては出かけ、ゴッホ展と聞くと顔を出す。モナリサがやってきたルーブル展も見た。ちょっとした美術愛好家になったのである。

アルタミラの洞窟壁画の躍動感にショックを受けたのは中学生の時だった。以来、美術ノートは詳細にとった。しかし、美術展に行くことはなかった。

「中学以来、雑誌や美術全集で西洋の絵画を見るようにはなっていました。和の美しか知らなかった私が、美術の授業で西洋には全く違った美があることを知ったのは一種のカルチャーショックだったんですね。それが時間とともに私の中で発酵し始め、本物の西洋の美を見てみたいと思うようなったということでしょうか」

ある時は友人を誘って、ある時は一人で、東京に行った。

混み合う美術館で、まるでところてんのように押し出されながら見ただけだが、今になっても忘れられない1枚の絵がある。ゴッホの「糸杉」(冒頭の写真)である。

「燃え上がるような糸杉が空と山を背景にすっくと立っている。その絵の具の盛り上がり具合、選ばれた色、その重ね方など、いまでも鮮明に思い出せます」

和の美で育ってきた智司少年は、西洋の美を代表するゴッホの秀作を見ながら、

「たくさん見てきた丸帯にも、こんな色使いはあったな」

と、違和感より親しみを覚えた。そして何より、美しいと思った。持って生まれた才覚が、また新たな肥料を得て一回り大きく育った瞬間だった。

写真:ゴッホの「糸杉」

その9 京都工芸繊維大学

兄の隆さんは家業を継ぐことを嫌がり、すでに家を出て大阪の染料会社に就職していた。であれば次男の自分が「松井工場」を継がねばならない。そのためには、もっとたくさんのことを知らねばならない。中学の時は京都工芸繊維大学への進学を漠然と夢見ていたが、この頃には

「京都工芸繊維大学に行く」

という決意を固めていた。

ところが、入試が目前に迫った高校3年の秋、母・タケさんの体調が急におかしくなった。おそらく、自分ががんばらねばと積み重ねてきた無理がたたったのだろう。勝ち気な明治女である。朝は早くに起き、夜は遅くまで夜なべ仕事を続ける。子供たちに、自分が寝ている姿を見せたことがなかった。それが一気に吹き出したのに違いない。医者に診せても、なかなか快方に向かわない。それでも母は一家を守るため仕事から離れない。

「これは、大学に進むのは無理だな」

智司少年は一人決意する。自分がそばにいて母を支えなければならない。

兄は

「だったら地元の群馬大学工学部(現理工学部)にしろよ。あそこなら家から通えるじゃないか」

と進学先を変えるように勧めてくれた。群馬大学工学部は、桐生の旦那衆が繊維産業の各分野の専門家をたくさん育てようと大正4年(1915年)に作った「桐生高等染織学校」が始まりである。この当時も繊維に関係する教育・研究のレベルは高かった。「松井工場」に生かせる知識も豊富に得られるはずである。

しかし、智司少年の決意は変わらなかった。 俺は大学には行かない。

「だって、群馬大学工学部で学ぶのは『工学』なんです。私が行きたかったのは京都『工芸』繊維大学なんです。違いますよね?」

高校時代の智司社長

確かに、「工学」で学ぶのは、より良いものをより安価に作る産業技術であろう。だが、「工芸」はそれだけでは済まない。最高の機能に加え、誰もが欲しくなる美しいものを創り出す感性を育てる分野ではないか。

当時、「松井工場」が作っていたマフラーには、まだデザインの要素はない。白一色のウールの糸を粗く編み上げたマフラーで、他の会社が作っているものと違いはなかった。それが、智司少年が「継ぐ」と決めた家業だった。「工学」が生きる仕事ともいえる。

それでも、なぜか智司少年は「工芸」にこだわった。工芸品とは、実用と美術的な美しさを融合させたものをいう。将来自分がマフラーのデザインをするなどとは、当時の智司少年は考えもしなかったし、できるとも思わなかった。それなにのに、自分の中に根付いた「工芸」へのこだわりを捨てて「「工学」に飛び移ろうとは思わなかった。

様々なことが好き勝手に生起するのが人生である。しかし、三つ子の魂百まで、という。あとでよくよく眺めると、てんでんばらばらに見える中に、1本の筋が通っているのも人生なのではないか。

いや、少なくとも智司社長の人生には、本人が意識しないまま、1本の筋が通っていた。それがいまの智司社長に結実しているのである。

写真:高校の同級生と。中列左から2人目が松井智司さん。

その10 対米輸出

昭和31年(1956年)、智司少年は高校を卒業した。母の体調は一服していたが、すでに大学進学は断念している。

それでは、と家を離れて修行に出ることにした。桐生市内の機屋や買い継ぎ商に行く手もあったが、

「もっと広い世界を見たい」」

と、取引先に紹介された東京の問屋に就職した。その問屋は主に手袋をデパートに納品し、夏場は水着も扱っていた。

夏が来た。

「松井君、ここにある水着をデパートで売ってこい」

「いえ、無理です。私、泳げないんです。だから、水着なんて分かりません」

母・タケさんは水を嫌った。お兄さんが川で溺れ死んだいやな思い出のせいだった。そのためだろう、智司さんは海や川はおろか、プールにも入らせてもらえなかった。カナヅチである。

「何いってる、そんなのは関係ない! 売ってこい!!」

行き先は東京・渋谷のデパートである。売り場に着くと、売り子は中年の女性ばかり。そこに18歳になったばかりの智司青年が立った。

「結果は私の一人勝ちでした。あまりに売るものだから、周りのおばさんたちに妬まれてしまいまして」

18歳の初々しい青年が可愛らしかったから?

それもあるかも知れないが、智司社長の記憶を辿ると、客への説明の仕方が良かったらしい。

「ウールの水着は、使ったあとはあまり揉まずに洗って下さい。それでも、ウールは何度も使っているうちに縮んでしまうんですよねえ」

「こちらのナイロンの水着はお手入れはずっと楽です。縮むこともありません」

そんな、繊維の性質をきちんと説明する姿勢が信頼されたらしい。なにしろ実家は織物工場なのだ。それぞれの繊維の特徴、違いはすっかり頭に入っているのである。

妬む人もいれば目をかけてくれる人もいる。同じデパートに顔を出す他の会社の女性には可愛がられた。ずっと年上の人である。

「N響(NHK交響楽団)のチケットがあるの。行っといで」

「ほら、いま流行っている映画のチケットが手に入ったわ」

給料は安かったが、都会の刺激もあって東京の暮らしを楽しんだ。

「おい、そろそろ桐生に戻ってやってくれないか」

大阪の兄から電話を受けたのは、東京での仕事が間もなく2年になろうとする昭和33年(1958年)の春だった。小康状態だった母の具合が悪化したのだという。否も応もない。東京の仕事は母を助けて「松井工場」の経営をするための修行である。その年の6月、円満退社して桐生に戻り、家業に入った。

その頃、さすがに一世を風靡した「真知子巻き」のブームは去りかけていた。間もなく、代わるように登場したのが対米輸出である。とにかく売れた。東京に本社を置く輸出商社は桐生に支店を置き、桐生産のマフラーを買い占めるようにしてアメリカに送り出した。「松井工場」はてんやわんやと形容したくなるほどの忙しさだった。

もちろん、経営者としての仕事はした。工場で編み上がったマフラーはすべて点検し、自分の目で納得できるものでなければ出荷しなかった。シートのようになって編み上がったマフラーをはさみで裁断するのも智司青年の仕事の一つだった。

届けられた新しいサンプルを見た工場の職人が

「これはうちではできません」

いうと、どうすれば工場の編み機で編めるかを考え、鍛冶屋を呼んで機械を改造した。

やることはたくさんあった。しかし、どれもこれも、指示された通りの無地のマフラーを作るだけの仕事である。自分でデザインすることなんてない。

だが、絶好調の社業は智司青年を再び豊かにした。そこで生まれたゆとりが遊びを通じて、やがてデザイナーとなる智司青年の感性の幅を広げることになる。人生とは、実に無駄なく組み立てられているものだと思えてくる。

写真:「真知子巻き」とはこんな巻き方のことである。

その11 茶の湯

遊びもまんざら捨てたものではない。いや、遊びを知らない人間にいい仕事はできないといってもよい。

遊びをせんとや生れけむ

平安時代末期に編まれた歌謡集「梁塵秘抄」に見える歌である。遊びは人が持って生まれた本能であり、人は遊びを通して様々なものを身につけていくのだ。

家業が順調なこともあり、智司青年は遊びにも夢中になった。とにかく、遊びに遊んだ。

智司青年が家業を継いだ昭和33年当時、桐生では芸事が盛んだった。松井工場も勢いが良かったが、織都桐生も往時の勢いを取り戻していたのである。

そんな空気の中で智司青年が身を入れたのは茶道だった。会社の業績も順調に右肩上がりだし、さて俺も何か芸事を、と考えていたとき、高校時代からの友人が

「俺、お茶を始めたんだ」

と話したのがきっかけだった。それを聞いて、

「だったら俺もやってみようか」

と思い立ち、早速、自宅のすぐ近くで茶道教室を開いていた先生に入門した。戦争で夫を亡くした女性が開いていた表千家の教室だった。

考えてみれば、智司青年は幼い頃から和の美に囲まれ、知らず知らずのうちに身体いっぱいに吸収してきた。親戚には料亭や旅館もあり、茶室も知らないわけではない。数ある芸事の中から茶道に目をつけたのは自然な選択だったのだろう。

最初に教室に入ったときのことだった。何気なく歩く智司青年を見て先生が問いかけた。

「あなた、子どもの時から何かやっていましたか?」

問われてみれば、小学生のころからから仕舞を習っていた。母に言われて妹と2人で通ったのである。仕舞とは衣装や面をつけずに能の一部を舞うことだ。

ご存じのように、能の動きはすり足が基本である。初めて茶道教室に行った智司青年は、意識もしないまますり足で歩いていた。それを先生が見た。実は、茶道でもすり足は基本である。畳の部屋を歩くとき、足を畳から離して歩いたのでは震動で埃が立つ。茶室には何人かの人が座っている。その人たちに埃を浴びせないようにすり足で動くのだ。

初回から褒められたからでもなかろうが、楽しかった。茶道も楽しかったし、加えて教室の仲間と遊ぶのも楽しかった。皆で春スキーに出かけ、雪の上で茶会を開いた。ござを持っていき、枯れ木を探して雪に突き立てて花に見立てた。湯はコッヘルで沸かす。雪上での野点である。

雪上での野点は、周りには奇異に映ったらしい。

「あなたたち、何か新しい宗教の信者さん?」

と問いかけられて皆で笑い転げた楽しい想い出もある。

それほど楽しかった茶道教室だが、2年ほど通ううちに疑問を感じ始めた。もっと知りたいと茶道の家元が著した本を読んだところ、教室での教えと食い違うことがいくつも目に着いたのだ。俺、ひょっとしたら間違ったことを学んでいるのか? せっかく学ぶのなら本物を学びたい。

写真:野点を楽しむ松井智司さん。

その12 小堀遠州

そう思い始めた頃、市内に新しい茶道の教場ができた。先生は表千家で、東京から通ってくるという。

友人に誘われて見学に行った。突然

「お手前をやってみて下さい」

と声がかかった。少なくとも2年間は茶道を学んだのである。その程度は身についている。教室で習った通りに進めた。すると、逐一注意を受けた。

「そうではありません。こうやるものです」

読んだ本の通りに直された。やっぱり、前の教室で学んだことは、どうやら本道ではなかったらしい。

「ここで学ぶべきだ!」

すぐに前の先生に断り、こちらに入門したのはいうまでもない。

通い始めると驚くことばかりだった。挙措動作だけではない。この先生は元仙台藩江戸家老の娘さんから茶の湯を学んだという。それだけに、道具が素晴らしかった。先生が仕切る茶会にはピンと張り詰めた空気が流れ、茶室内の道具の色や配置にもえもいわれぬ均整があった。

「やっぱり田舎の茶とは全く違う」

しばしば東京での一門の茶会にも招かれた。そのたびに、母・タケさんが着物、履き物を揃えてくれた。最高級の品ばかりだった。

智司青年はますます茶道にのめり込んだ。

それだけなら、単なる趣味、遊びの話である。
だが、智司社長は運に恵まれた人なのだろう。

頼久寺所蔵『小堀遠州像』

「この先生が小堀遠州が好きだったのがいまに繋がっていると思うのです」

千利休の茶道は、古田織部、小堀遠州と引き継がれる。「わび・さび」を尊んだ利休に比べ、遠州は「綺麗さび」とでもいえる世界を開いた。どちらも一言で言い表すことは難しいが、あくまで質素さが極まるところに美を見いだす「わび・さび」に比べ、小堀遠州の「綺麗さび」には、質素さの中にも、どこかに華やかさが隠れているといったら良かろうか。遠州の「わび・さび」には「雅」(みやび)」があったという人があり、貴族趣味があった、と表現する人もいる。

例えば利休の茶室は造るたびに狭く、小さくなり、人が出入りするにじり口も刀を差したままでは出入りできないほど狭められた。勢い、茶室の中は薄暗い。

一方、小堀遠州が設計した茶室は窓が多い。にじり口も大きくなった。部屋の中はずっと明るくなる。

確かに、利休の世界には独特の重厚さがある。それは遠州には薄いが、代わって自由さ、伸びやかさがある、と智司社長はいう。

「はい、2人目の先生のおかげで私も小堀遠州が好きになりました。物静かな中にもハッとするような華やかさがある。それが何ともいえないほどいい。いまのマフラーデザインにもそんな私の好みがどこかで生きているような気がしています。もしあの先生が利休趣味で、私もその影響を受けて利休に走っていたら、松井ニットのマフラーもいまのようにはなっていなかったんじゃないでしょうか」

その教室に通ったのは10年ほどだった。仕事が忙しくなり、いつしか足が遠のいた。

松井智司社長が大事にする茶碗。遠州風と言われる

しかし、茶道との縁は切っていない。その後も時に触れ、仲間数人でこの先生の家元で修行した茶人を桐生に招いて茶の湯を学び続けた。

いまでも智司社長は茶会を主宰する。その茶室にも小堀遠州趣味が漂っていることはいうまでもない。そして、松井ニット技研のマフラーにも遠州の香り、「雅」がどこかに漂っているのではないか?

写真:松井智司社長のお手前。