その15  あいちトリエンナーレ

好循環。一つの成功が次の成功を招き寄せ、螺旋階段を登るように全てが上へ上へと伸びていくことをいう。

日本の繊維産業が、生産地を中国やタイ、ミャンマーなどアジア諸国に移す動きはそれからも加速する一方だった。その波は全国を覆い尽くし、松井ニット技研への問屋やアパレルメーカーからのマフラーの注文は減り続けた。総合的に見れば松井ニットのマフラー生産量は年々落ちていった。だから、松井ニットが好循環に乗ったとはいえないかもしれない。

だが、松井ニット技研が生み出した「KNITTING INN」は確実に好循環に乗った。「KNITTING INN」ブランドがついたマフラーを販売する美術館が全国に増え、新聞やテレビ、雑誌などのマスメディアは松井ニット技研を好意的に取り上げ続けた。そして、熱心な松井ニットファンが全国に登場し始めたのである。

それでも、減り続けるOEMによる生産を補うまでの数のマフラーが売れたわけではない。しかし、販売店に直接出荷すれば問屋やアパレルメーカーという中間業者がいない分、マフラー1本当たりの利益率がはるかに良くなった。電話やFax、Eメールによる消費者からの直接の注文分の利益率はさらに高い。

松井ニット技研の業績は「減収増益」を続けたのである。

評判は評判を呼ぶ。

2010年のはじめ、「あいちトリエンナーレ実行委員会」という聞き慣れない団体から突然電話があった。

「今年8月から10月にかけて、名古屋市の愛知芸術文化センターを主会場に、『愛知トリエンナーレ2010』を開く準備を進めています。世界中からお客様が見えますが、実行委が販売するその公式グッズの一つとしてマフラーを作っていただきたいのです。お引き受けいただけますでしょうか?」

トリエンナーレとはイタリア語で「3年に1度」を意味する。その言葉通り、3年に1回開かれる国際美術展覧会としてミラノや中国の広州、国内では大阪、福岡など各地で開かれており、愛知県は2010年から開催を始めた。主会場のほか名古屋市美術館、市内の長者町の空きビル、納屋橋の元ボウリング場が会場で、期間中、会場をはじめ、名古屋市内の百貨店でも50点ほどの公式グッズを販売する。その一つとして、是非松井ニット技研のマフラーが欲しい。電話の主はそう語った。

国の内外から訪れる客を、主宰団体は約30万人と見込んでいた(実際は57万2000人が訪れた)。この30万人に、日本が生み出す美を販売する。松井ニット技研のマフラーは、主催者によって「日本を代表する美」の一つに選ばれたのである。

写真:愛知芸術文化センタウィキペディアからお借りしました。

その16  コートールド美術館

ロンドンのウエストミンスター地区、大英博物館や国会議事堂の近くにあるコートールド美術館が松井ニット技研のマフラーを販売し始めたのは、2010年8月のことである。

この年の初め、パリで開かれた家庭用品の見本市、「メゾン・エ・オブジェ」に松井ニット技研は出展していた。そのブースを訪れたコートールド美術館の総務部長が、並べられたカラフルなマフラーを見て惚れ込み、パンフレットを持ち帰った。美術館内で会議を開き、是非このマフラーを美術館で売ろうと決めた。ところが、どこに話を通せば仕入れが出来るのかがよく分からず、やむなく企画は棚上げされていた。

一方、松井ニット技研はイギリスでもマフラーを売りたいと考えていた。その手がかりとしてロンドンでの展示会に出展できないかと考えて現地の代理店と接触し、この代理店に現地での市場開拓も頼もうと「メゾン・エ・オブジェ」の来店客の名簿を渡した。

営業活動を始めた代理店は、間もなくコートールド美術館に行き着いた。まるで赤い糸で繋がっていたかのように、お互いの思いがピッタリ出会ったのである。話がトントン拍子に進んだのはいうまでもない。

コートールド美術館を1932年に設立したサミュエル・コートールドは、家業として受け継いだ絹織物業を国際企業へと育て上げた英国実業界の実力者である。それだけでなく、長い間印象派の絵画にそっぽを向き続けた英国で、早くから積極的にフランス印象派の絵画を収集したコレクターでもあった。

松井ニット技研がある桐生市は絹織物で栄えた街である。また、智司社長、敏夫専務の2人は、若い頃から印象派の絵画に強く惹きつけられていた。

話が出来すぎているようだが、松井ニットとコートールド美術館は、結びつくべくして結びついた、と考えると、筆者は何だか楽しくなる。

美術館側が示した条件は破格だった。ニューヨークのA近代美術館はあくまで「A近代美術館」ブランドで売ることを譲らなかった。ところがコートールド美術館は

「こだわりません。『KNITTING INN』で構いませんよ」

とこともなげに松井ニット技研の願いを受け入れた。

しかも、マフラーだけでなくニットの帽子、手袋も合わせて230点、それも委託販売(店頭に並べ、売れた分だけの支払いをする)ではなく、美術館がまるまる買い取って販売するという。松井ニット技研のデザインへの惚れ込み方は尋常ではなかった。

「コートールド美術館の前には大きな池があり、冬場はスケート場になるそうです。松井ニットのマフラーを巻いたイギリスの若者がこの池で滑っている光景を考えると、ワクワクするんです」

契約の後、敏夫専務は嬉しそうに語っていた。

松井ニット技研はこうして、アメリカ、日本国内に次いで、ヨーロッパでも「美術館」というニッチな市場をの開拓を始めた。

写真:コートールド美術館。ウィキペディアより。

その17 メゾン・エ・オブジェ

話は少し遡る。

コートールド美術館との縁を取り持ってくれた「メゾン・エ・オブジェ」とは、ヨーロッパ最大ともいわれるインテリアとデザインの見本市である。ここに松井ニットが初めて出展したのは2009年のことだった。東京のある会社から突然Eメールが来たのがきっかけである。

日本の製品をヨーロッパに売り込むため、政府がメゾン・オブジェへの出展企業を募っています。私どもは参加企業の募集、調整、取りまとめを任されました。政府の事業なので出展の費用はすべて国が持つことになります。御社に負担は一切かかりません。御社にいい製品と意欲があればぜひ応募していただきたい。

そんな趣旨のEメールだった。募集枠は全国で7、8社だという。
まず敏夫専務が飛びついた。ヨーロッパ、中でもパリはファッションの中心地である。ここで認められれば世界中に認められたことになり、販路は世界中に広がるはずだ。海外ではすでにA近代美術館での販売実績はあるが、アメリカだけでなく、もっとたくさんの国に輸出したい。

商社で働いた経験を生かして営業を担当する敏夫専務の、それは長年暖めてきたプランである。自力で何とかできないかと思い、計画を模索しているところだった。だが、どうしても資金計画で行き詰まっていた。だから、政府が費用を負担して後押ししてくれるのなら、こんなに好都合なことはない。しかも、「メゾン・エ・オブジェ」には世界中のバイヤーがやってくるというではないか。

自分たちがデザインして製造するマフラーに絶対の自信を持つ智司社長に、反対する理由はもちろんない。そう、私たちのマフラーなら不可能ではないはずだ。

すぐに応募した。間もなく承諾通知が来た。松井ニット技研のマフラーにとっては、

「全国で7,8社」

というのも、決して狭き門ではなかった。やはり多くの人が認めるのである。

2人は意気込んで会場のあるパリに乗り込み、割り当てられたブースを飾り付け、開催を待った。

あれは「メゾン・エ・オブジェ」が開幕して何日目だったろう。やはり日本から出店していた人がささやいてくれた。

「ほら、あのブースにいる2人連れ、あれ、プラド美術館のバイヤーだよ」

プラド美術館はスペイン・マドリードにある。1819年に王立美術館として開館し、歴代のスペイン王家の美術品を展示している。収蔵品はゴヤ、ベラスケスなどのスペイン絵画を中心に2万点を超し、世界を代表する美術館の一つである。

その18  プラド美術館

敏夫専務は子どもの頃から絵が好きだった。好きなだけでなく得意でもあり、小中学生の頃は群馬県内の様々なコンテストでいくつもの賞を取った。一時は

「画家になろうかな」

と夢見たこともある。

画家を断念してビジネスの道に進んだ後も、絵画、中でも印象派の絵画が好きで、時間を見繕って遠くスペインまで足を伸ばし、プラド美術館には3度訪れたことがあった。プラド美術館はあこがれの場所だったのだ。

だからだろう。A近代美術館との取引が松井ニット技研を脱皮させ、マフラーメーカーとしての自信が深まるにつれて、

「あのプラド美術館にも松井ニット技研のマフラーを置いてみたい」

と何度考えたことか。

だが、A美術館は向こうが松井ニット技研を見いだしてくれたから始まった縁だった。プラド美術館はまだ、松井ニット技研というマフラーメーカーのことは全く知らないはずだ。どうやって我々の存在を知ってもらったらいいだろう?

これまではそのきっかけすらつかめなかった。だがいま、チャンスが目の間に「立って」いるのではないか? あの人たちがプラド美術館のバイヤーだって!

「私、京都外国語大学を出ています。スペイン語を専攻したので、会話程度だったら出来るんですよね」

敏夫専務の決断は早かった。マドリードからパリまで、プラド美術館のバイヤーがわざわざ来てくれている。これは神が私たちに用意してくれた絶好の機会に違いない。でも、じっとしていたらチャンスは松井ニット技研のブースを通り越してしまうかも知れない。これを掴まなくてどうする!

そう思った時はすでに歩き始めていた。真っ直ぐ2人のところまで進むと、口を開いた。

「Buenas tardes(ブエナス・タルデス=Good afternoon、こんにちは)」

振り向いてくれた2人に、敏夫専務は言葉を重ねた。

「私どもは日本の松井ニット技研と申します。このカタログに載せているようなマフラーを製造する会社です。私たちのデザインは美術関係の方々に高く評価されており、ニューヨークのA近代美術館のショップでは5年連続して売り上げ1位を続けています。よろしかったら私どものブースをご覧いただけませんか? 私どものマフラーは編み方にも特徴があります。是非手にとって見てください」

これがプラド美術館とのfirst contactだった。

これも、A近代美術館との契約違反である。敏夫専務は契約無視の常習犯となった。しかし、その罪はすでに叱責を受けたことで消えているのではないか?

いずれにしても、これはやはり神が用意したチャンスだったらしい。その時、何かが始まったのである。

写真:プラド美術館

その19  絵画をマフラーに

長年の思いを込めた敏夫専務の話に、2人は興味を持ってくれたようだった。

「そりゃあ、東洋人が突然スペイン語で話しかけてくるし、話を聞くと日本人だという。1549年にはスペインからフランシスコ・ザビエルが日本に来てキリスト教を伝えているでしょう。彼らにとって日本は何かと縁がある国ですよね。それに、どういうわけかA近代美術館にマフラーを納めているマフラーメーカだともいう。きっと物珍しかったんじゃないですかね」

2人は気さくに名刺交換に応じてくれた。年かさの男性はミケル・ガライさん。プラド美術館の重役だった。同行の女性はクリスティーナ・アロヴィセッティさんといった。総務部長兼バイヤーと名刺には書いてあった。

敏夫専務に案内されて松井ニット技研のブースに足を運んだ2人は、展示しているマフラーを熱心に見てくれた。そばに立って説明を続ける敏夫専務の口から、これまで考えたこともなかった言葉が飛び出した。

「当社は、プラド美術館にある絵画をイメージしたマフラーをデザインし、製作することもできます。たくさんの名画を所蔵されているプラド美術館でそんな企画を立てられてはいかがでしょう?」

兄の智司社長とそんな打ち合わせをしたことはない。事務所で交わす雑談のついでに出たこともない。突然閃いたアイデアだった。だから、もちろん独断専行である。

敏夫専務の話すスペイン語は、智司社長には一言も分からなかった。しかし、敏夫専務がプラド美術館にした提案を後で聞いても違和感は持たなかった。

「そんなことはやったことがないぞ、とは思いましたよ。でも、マフラーのデザインではいろんな絵画の色使いを参考にすることはよくありました。だから、絵画のイメージをマフラーに移し替えるということもやってできないことではないだろう、と」

「メゾン・エ・オブジェ」が終わり、桐生に戻ってからも敏夫専務は定期的にプラド美術館の2人にEメールを出した。新しく起こしたデザイのマフラーを写真に撮って添付したこともある。A近代美術館が認めた松井ニットのデザイン力をプラド美術館にも認めて欲しかった。

翌年の「メゾン・エ・オブジェ」にもプラド美術館の2人はやってきた。

「これで注文が取れる!」

と期待したが、話はそこまでは進まなかった。次の年の「メゾン・エ・オブジェ」にも2人は足を運んでくれた。親密さは増したが、商談への進展はない。

「やっぱり狭き門なのかなあ。プラド美術館だもんなあ」

敏夫専務の中で弱気の虫がうごめき始めた。

写真:フランシスコ・ザビエル