その7  手作り

電話営業はのっけから大成功だった。いくつもの美術館が、是非資料を見せてくれ、という。

だが、これまでOEM(相手先ブランドでの生産)メーカーでしかなかった松井ニット技研に、販売店や消費者に見てもらえる商品パンフレットなどあるはずがない。
電話では

「資料をお送りしましょうか」

といったが、その資料は、実はどこにも存在しなかった。こんなに早く反応が返ってくるとは考えもしなかったから、資料をつくる準備さえしていない。

なければ、作らねばならない。しかし、北海道への出張費すら捻出できない会社である。見栄えのいいパンフレットを作る資金など逆立ちしたって出てくるはずがない。思わず口にした営業トーク、

「よろしかったら資料をお送りさせていただきます」

で敏夫専務は身動きが取れなくなってしまった。

「どうしよう?」

しばらく考え込んだ敏夫専務はデジカメを取り出した。これでマフラーの写真を撮ろうというのである。カメラは「バカチョン」と呼ばれる普及品。それに写真の撮り方なんて勉強したことはないズブの素人である。それでもできるだけ美しく写るようにマフラーの巻き方、置き方を工夫し、背景にマフラーと色の取り合わせがいい色紙を敷き、光の具合がいい場所を探してデジカメのシャッターを押し続けた。

撮った写真は手元のプリンターでプリントし、A3の紙に貼り付けた。貼り付け終わると、写真の横に手書きで説明を書き込んだ。

「出来た!」

敏夫専務はその紙を手にすると、近くのコンビニに足を向けた。カラーコピーするためである。

少しパソコンに詳しければ、パソコンで写真と文章が編集できるのは常識である。だが、敏夫専務にはその知識がなかった。知らない以上、大量に資料を作るにはコピーするしかない。コンビニに走ったのは,会社にはモノクロのコピー機しかなかったからである。

「資料を作らなきゃ、って考えた時に、それしか思いつかなかったんですよね。でも、カラーコピーって、驚くほど高いんですね。どうしてあんなに高いんですか?」

一緒に、A近代美術館のカタログも、松井ニット製のマフラーが載っているページをカラーコピーした。あとは松井ニットのマフラーを記事にしてくれた新聞のコピー。これが、敏夫専務が用意した「資料」の全てである。

こうして10ページほどの資料が出来上がった。電話でのいい反応が戻ってきた美術館に次々に送ったのはいうまでもない。

「そうですねえ。第1弾として資料を送った美術館は5、60館もあったでしょうか」

その8  大原美術館

開拓営業には、金と時間と人手がかかる。最先端の技術が生み出した画期的な、競争相手がいない新製品でも、それなりのものを投入して手間暇をかけなければ市場はなかなか門戸を開いてくれない。それがいまの常識だろう。

一方、松井ニット技研が売ろうとしているのはマフラーである。すでに世の中にはマフラーの市場が確立し、溢れるほどの製品がひしめき合っている。その既存の市場に新しく参入して一定の位置を占めるには、相当な力業がいると考えるのも常識だろう。

素人が撮った、決して巧いとはいえない写真とフェルトペンを使った手書きの文字で急造した原本を、コンビニでカラーコピーした「資料」だけでその市場への参入を図る。無手勝流とまではいうまい。しかし、敏夫専務が始めたのは愛馬ロシナンテにうちまたがって風車に挑みかかったドン・キホーテにも似た、一昔、いや、二昔も三昔も前の開拓営業であるとはいえる。

ところが、世の中は不思議なものである。

多くの美術館が即座に門戸を開いてくれたのである。

「当館はとりあえず10本お願いします」

「うちは30本から始めます。出来るだけ早く送ってください」

次々に注文が舞い込み始めた。
10本? 30本?

「たったそれだけ?」

と、意外の感に囚われる方もいらっしゃるかも知れない。確かに、ある見方をすれば、たったそれだけ、である。だが、ゼロから出発したのだ。0が10、30になるということは、増加率は数学的には無限大である。

松井ニット技研は、こうして新しいニッチマーケットの扉を押し開いたのだった。

それから1、2年後のことである。智司社長が編み物組合の旅行で岡山に行った。

「そういえば、倉敷市の大原美術館にはまだ声をかけてないんだったな」

そう思いついた智司社長は、出がけにマフラーの見本と営業資料を鞄に詰め込んだ。岡山に着くと、

「申し訳ありませんが、ちょっと寄りたいところがあるので」

と同行者たち断り、一人で大原美術館に寄った。

「そうしたら、どうしてもっと早く声をかけてくれなかったのか、とお小言をいただきまして」

こうして取引が始まった大原美術館はいまでも、松井ニットのお得意先の一つである。そしてこの頃には、このあとで詳しく触れるが、松井ニットが生産するマフラーの25〜30%が、自社ブランド「KNITTING INN」になっていた。問屋などの中間業者を省いて美術館と直接取引するので中間マージンがなくなり、利益率は膨らむ。OEMの注文は相変わらず減り続けたが、松井ニットは黒字転換を果たしていた。

写真:大原美術館

その9  養子

いまでは松井ニット技研のマフラーやショールのブランドとして定着している「KNITTING INN」は、智司社長、敏夫専務の2人が国内美術館総当たりの開拓営業を思いついた時、

「そうであれば、ブランドが必要だ」

と急遽立ち上げたものである。美術館への電話営業、「資料」づくりに追われながら、これもやらねばならない仕事だった。

KNITTING INN。日本語にすればニットの木賃宿。決して豪華ではない。近代建築の粋を凝らしたものでもない。ひっそりとたたずんでいるが、木枯らしが吹きすさぶ通りから一歩ドアをくぐれば、人の温かさがホンワリと漂ってきて、心がホカホカする。安心してくつろぎ、身を任せることができる一夜の宿。首筋を冷たい風から守るだけでなく、身にまとうだけで何故か浮き浮きしてしまう松井ニットのマフラーにピッタリのブランド名だ。

それなのに、「KNITTING INN」の産みの親は、実は松井ニット技研ではない。仕事で知り合ったデザイナーが独立して立ち上げたファッション事業のブランドとして産声を上げたものなのだ。何が悪かったのか、そのデザイナーの事業はうまく行かず、「Knitting Inn」は放り投げられていた。それを智司社長が拾って大事に育て上げた。ブランド名としては、じつは養子なのである。

昭和50年(1975年)前後だったと記憶にある。DCブランドとして一世を風靡したBIGIの若手デザイナーから声をかけられた。

「松井さん、今度私、独立します。日本の『ミッソーニ』をつくりたいんです。ついてはご協力をいただけないでしょうか。松井さんにつくっていただく製品を中核にして新しいブランドを立ち上げようと思っているのです。断られると、独立計画が頓挫します。何とかお願いできませんか?」

ミッソーニは、イタリア・ミラノの老舗ニットブランドである。ストライブやジグザグなどの幾何学模様と多彩な色を組み合わせ、人目を惹きつける華やかさの中にも落ち着きのあるデザインで、「色の魔術師」の呼称を欲しいままにして世界中にファンを持つ。

「ほう、ミッソーニですか」

当時、松井ニット技研はBIGIブランドのマフラーや生地を作って納めていた。このデザイナーは松井ニット技研の製品がよほど気に入ったらしく、社内の企画会議で頻繁に松井ニットを押してくれた。そんな縁で一緒に仕事をすることが多かった。その彼が日本のミッソーニを目指す。

「わかりました。あなたには何かとお世話になりました。私どもでよろしければ、何なりとお申し出ください。できることはお引き受けします。しかし、若い人は思いきったことができて羨ましいですね」

写真:Inn

その10  ワシリー・カンディンスキー

桐生市在住の世界的テキスタイルデザイナーで、英国王室芸術協会名誉会員、英国王立芸術大学院名誉博士でもあった故・新井淳一氏は生前、松井ニット技研の色の使い方を称して

「松井さんは日本のミッソーニですよ」

と筆者に語った。しかし、この時の智司社長は、自分のデザインが後に「日本のミッソーニ」と表現されることになることなど、想像したこともなかった。若いデザイナーの挑戦を何とか支えてやりたい、と願っていただけである。

「ところで、ブランド名は決めました?」

「いろいろ考えたんですが、Knitting Innにしようと思っています」

「いいですねえ。言葉の響きが何とも心地いい。ニットの宿ですか。素敵なブランド名です。頑張りましょう」

こうして、共同作業が始まった。デザイナーがデザインを起こし、松井ニットがマフラーや生地を作る。

このデザイナーが智司社長をフランスに誘ったのはそれから間もなくのことだった。

「一緒に行って下さい。松井さんに是非見ていただきたいところがあるのです」

彼が智司社長を伴ったのはパリ4区、セーヌ川のほとりに開館したばかりのポンピドーセンターである。彼は脇目もふらずある部屋を目指した。

「この部屋です。ワシリー・カンディンスキーの絵が集められているんです。松井さんに、是非彼の絵を見ていただきたかった」

ワシリー・カンディンスキー(1866—1944)はロシア出身の画家である。モスクワ大学で法律と政治経済を学んだ後、ミュンヘンで絵の勉強を始めて画家になり、20世紀初頭に抽象絵画の創始者になった。同時に美術理論家として芸術と職人技の融合を目指したといわれる。ロシアで革命が起きた後モスクワに戻り、レーニンに認められて政治委員を務めたが、スターリンの台頭を嫌ってドイツに戻った。しかし、台頭したヒトラーの圧迫を受けるようになり、フランスに移り住んだ。

「これ、この色使いなんです。ミッソーニはワシリー・カンディンスキーの絵からたくさん学んだに違いないと思うんですよね」  s

円、直線、曲線、そして黄色、緑、青、赤など多彩な形と色がキャンバスの上で踊り回っている。奔放にも見えるが、計算され尽くしているようでもある。何が描かれているかは分からないが、刺激的で、それなのにふんわり包まれるような暖かさを感じさせる。

色の魔術師といわれるミッソーニの原点。耳のそばを流れていくデザイナーの言葉をよそに、智司社長はすっかりワシリー・カンディンスキーの世界に魅せられていた。

写真・ポンピドゥ・センター

その11  KNITTING INN

当初は順調に進むかに見えた若手デザイナーの独立は、何が悪かったのか、3年ほどで躓いてしまった。松井ニット技研からは「Knitting Inn」ブランドのマフラーや生地を作る仕事がなくなり、「Knitting Inn」」のブランド名も、いつしか智司社長の記憶から消えていた。

さて、それはそれとして、美術館に商品を出すのに、ブランド名を決め決める必要に迫られた智司社長、敏夫専務はアイデアを出し合った。

まず敏夫専務が

「『EL MONTERO』ではどうだろう」

と言った。京都外大スペイン語学科を出た敏夫専務はスペイン語に習熟している。「エル・モンテーロ」は英語で言えば「THE HUNTER」、日本語に直せば「狩人」、「勢子」、という意味だ。獲物を求めて馬を駆ける。やがて身体が温まる。呼吸をするたびに口から吐きだされる息が真っ白い朝だ、松井ニットのマフラーを首に獲物を追う狩人。活動的でいかにもオシャレである。

だが、智司社長にはふと蘇る記憶があった。あの若手デザイナーが使っていたブランドである。

「それも素敵だね。でも俺は『Knitting Inn』にしたいと思うんだ」

そんな言葉が智司社長の口からこぼれた。あの、何とも響きのいい言葉が記憶の底から突然浮かび上がったのだ。

「松井ニット技研はニット製品のメーカーだ。だからKnitting。それにInnをつけると、オシャレっぽくなるだろ?」

智司社長の脳裏で息を吹き返したのは、若手デザイナーに協力した日々だけではなかった。もう一つ、なぜか、中学2年生の時に学んだ英語の教科書、「JACK & BETTY」の中身がフッと浮かんだのである。

それはこんな話だった。
フランスの紳士が英国旅行に出た。紳士は木賃宿=Innに宿を取る。夕食をとろうと食堂に降りていくと、突然卵料理が食べたくなった。それを宿主に伝えたいのだが、困ったことに、英語で卵を何というのかが思い出せない。

紳士は言った。

「ちょっと教えて欲しいのだが、ほら、chicken(鶏肉)は何からとれるのだったかな?」

宿の主人は答えた。

「そいつはhen(雌鳥)ですよ」

「そうだったね。ところで、そのhenは何を産むだろう?」

「旦那、それはね、私たちの国ではegg(卵)というやつだと思いますが」

「そうそう、そのeggが食べたいのだが、料理出来るかね?」

智司社長は高校生時代、私塾に頼まれて英語の講師をするほど英語が得意だった。というより、中学生の頃から英語が大好きだった。

それにしても、60年ほど前に勉強した教科書の一節がこんな時に蘇るとは、人の記憶とは不思議なものである。

「専務と相談しているうちに、私の中で、Innという言葉が、なぜかあの教科書に出てきたInnと結びついてしまって、専務が何といおうと、新しいブランド名はこれしかない、って思ってしまったんです」