その4  編み方

戸惑っている2人に、彼女は言葉を継いだ。

「まず、いまお手元にある松井ニットのマフラーを全て見せてください」

2人はいわれるままに、全ての在庫のサンプルを座卓の上に並べた。全て、とはいっても、当時の松井ニットはOEMメーカー(取引先の注文に応じて、言われたままのものを作って納める)でしかなった。全てを集めても、たかだか10数点しかない。

彼女は座卓に並んだ10数点を手にとって見始めた。手でなでる、引っ張って伸ばす、目に近づけて編み目を確認する。
やがて口を開いた。

「やっぱり、これは素晴らしい!」

彼女がとりわけ気に入ったらしいのは、カラフルなブロック・チェックのウールマフラーだった。ほう、アメリカ人は、A近代美術館のバイヤーはこんな柄が好みに合うのか。それとも色の組み合わせがお気に召したのか? あれは発注先のデザインに、こちらで多少手を加えたものだったな。

だが彼女は予想もしなかったことをいった。

(これは当時のマフラーではありません)

「この編み方が素晴らしいですね。実に柔らかく、肌に優しい。加えて、房の部分の作り方がいい。マフラーの本体部分と自然に繋がっています。こんなマフラーを私たちの美術館の販売店で是非売りたいと思います。ご賛同いただけたら、すぐにニューヨークの本部に持ち帰って提案します。私が推します。きっと同意を取り付けてみせます。一緒に素晴らしいマフラーを作ろうではないですか!」

松井ニットのマフラーが肌に優しいのは、編む速度が遅い昭和30年前後につくられた古い編み機を使い続けているからだ。その後編み機はどんどん高速化し、生産効率は上がった。他社が次々に新型機を導入するのを横目に見ながら、でも智司社長は新しい編み機に取り替える気にはならなかった。高速で編むと、編む際に糸が引っ張られすぎ、編み上がりが固くなって肌触りが悪く、質感が劣る。他社の製品を手にとって、そう判断した。だから、古くなって取り替え用の部品がなくなっても、たった一つの部品を特別に注文したり、独自に工夫して改造したりしながら古い編み機を大事に使い続けているのである。気温や湿度で変わる糸の張り具合を調整するのは、丸めて糸にぶら下げた電気コードの重りとパンツのゴムだ。いろいろ試したが、これが一番具合がいい。

「だから、ああ、私の思いを分かってくれる人がいた、って嬉しくなりました」

智司社長は初めてA近代美術館の購買担当者と会った日のことを、そんな風に記憶している。

写真:ラッセル編み機に取り付けたパンツのゴム。

その5 三段切り替え

購買担当の女性が気に入ってくれた2つ目の点、房の作り方は智司社長が工夫に工夫を重ねて生み出したところだった。

マフラーは、首に巻く本体部分と、両端を飾る房の部分を別々に編み、あとで縫い合わせるのが普通の作り方である。だが、松井ニット技研のマフラーに付いている房は、松井ニット独自の作り方をしている。

織物の町として栄えた桐生を支えたのは、よりよいものを生み出そうという職人たちの創意工夫の積み重ねだった。水力を使い、同時に数多くの糸に撚りをかける八丁撚糸機は、桐生で発明されたと伝わる。最高級の絹織物といわれるお召しも桐生生まれだ。11代将軍徳川家斉が好んで「お召しになった」ことからお召しの名がついたといわれる。
近年、桐生の織物業が奮わないのは国内で和服離れが進み、洋服生地の生産地もコストが安いアジア諸国に移ったという時代の流れもあるだろう。だが、産地である桐生には何の落ち度もなかったのか? 桐生から創意工夫積み重ねが途絶えかけているのも一因ではないか?

智司社長には最盛期の古き良き桐生の職人魂が生き続けているのかも知れない。他と同じものをつくって何が面白い? もうひと工夫ができないか? 智司社長は常にそう考え続けている人である。

ふとひらめいたのは、マフラー本体と一緒に、房の部分も編んでしまうことだった。最終的に房になる部分は、織物でいえば横糸をなくして縦糸だけにする。編み上がれば、房用に編み上げてすだれのようになっているところを真ん中から切断すれば房がついたマフラーになる。こうすれば、一度に何本ものマフラーを編み上げることができる。
これまでの作り方に比べればはるかに合理化できるではないか。それに、一緒に編むのだから、本体と房が完全に一体になってデザイン上もよい。

「思いつてから、それができるようにラッセル編み機をカスタマイズしまして。はい、自分でやりました。私、子どもの頃から工場で遊ぶのが好きで、いつも編み機を眺めていました。だから編み機の動き方、制御の仕方に子どもの頃から親しんでいて、機械のことが少し分かるんです。編み機のカスタマイズは私の趣味みたいなものかも知れません。編み物工場って零細企業が多いし、編み物は分かっても機械が分かる人はほとんどいない。だから機械をカスタマイズしようとしてもお金がかかるんで、思いつても誰もやらないんです。それを自分でやってしまう私は凝り性なんでしょうかねえ」

色を切り替えて格子柄に編むのを「二段切り替え」という。編み物工場ならどこでも出来ることだ。智司社長が実用化していたのは、さらに途中で編み方を変えて房になる部分を一緒に編んでしまう「三段切り替え」とでも呼べる編み方だった。色を切り替え、編み物から房に切り替える。編み物ではほとんど見ない技法である。

写真:房も一緒に編むマフラーはドラムで巻き取る。

その6 職人魂

話を少し脇道に振る。

凝り性でない職人は大成しない。いくら伝統の技を完璧に身につけ、名人と讃えられた先人の作と見分けがつかないものを作ることが出来ても、その職人は名人にはなれない。名人とは、常に

「もっといいものを。昨日よりちょっとでも優れたものを」

と努力を重ね、先に進み続ける人のことだ。

智司社長は

「もう少しいいマフラーが出来ないものですかね。このままだと発注を打ち切らざるを得ない」

と注文主に脅されて編み機の改良を重ねてきたのではない。注文主は松井ニットが編むマフラーに満足し、翌年以降も発注を繰り返していた。

仕事の手が空くと編み機をいじっていたのは、智司社長自身が満足できなかったからだ。それでも改良の手を緩めなかったのは

「何かが足りない。もう一工夫できれば、もっといいマフラーが出来るはずだ」

という強迫観念に近い思いに駆られ続けているからだ。だから、注文主の言うとおりにマフラーを編んで納入するOEMメーカーの時から、編み機の改良を続けているのである。

まだ満足の域には達していないものの、それでも自分が作るマフラーには絶対の自信がある。編み機をカスタマイズしている編み物工場は、知る限り他にない。自分で編み機に手を加えられる経営者はほとんどいないし、中小零細が多い編み物工場には専門家に頼む資金的なゆとりはないからだ。

加えて、編み方も素材も、何度も見直して思いつく限り最高のレベルにある。他に負けるはずがない。

編み物や織物の会社は、毎年何度も商品展示会に出る。この場で新しい客を開拓するのである。

ところが、それぞれの最新の技術を注ぎ込んだ製品を出す会社は数えるほどしかない。コピーを恐れるのである。

「織物なんて、3㎝四方ぐらいの端切れがあれば、見た目も手触りも全く変わらないものが3ヶ月もすれば店頭に並ぶ世界ですから」

と関係者はいう。企業秘密が漏れるのを防ぐため、最新のものが多くの人の目に触れるのを避け、信用出来る取引先にだけこっそり見せるのである。

だが、智司社長はこともなげにいう。

「私は一番新しいマフラーを出し続けています。コピー? 出来るんならやってみろ、ですよ。うちの工場で編むマフラーは、一朝一夕で真似が出来るような中途半端なものではありませんから」

その7 やっと来たか!

筆者が札幌に勤務した時、すっかり惚れ込んだ炉端焼き屋があった。薄野にあった「憩」という店である。転勤先が札幌と知って

「美味いものが食えるぞ!」

と勇んで札幌に来たものの、私の舌を楽しませる食べ物になかなか出会えず、がっかりしていた。ところがこの店で店主が出してくれる料理が、あれもこれも大変美味い。

「札幌にも美味いものを出す店があった!」

と筆者は喜んだ。

ある日、カウンター越しに店主との四方山話が料理の話になった。

「実はね」

と言ったのは店主である。

「札幌で一番大きなホテルのシェフがうちの客なんだけど、何年前かなあ、『オヤジ、この料理の作り方を教えてくれ』というんですよ。ほら、いま食べてもらってるアン肝の昆布巻きですけどね。いいよ、っていって教えたんです。しばらくしたらまたやって来てね、そのアン肝の昆布巻きを作って何とかいう料理コンテストに出したんだそうですよ。そうしたら優勝したんですって」

ここまでは店主の自慢話である。
私は一歩突っ込んでみた。

「そんな大事なレシピを、ホテルのシェフなんかに教えたら客を取られたりしない? アン肝の昆布巻きを食べたくてここに来ている客が、そのシェフのレストランに行くようになるかも知れないじゃないの」

店主は胸を張って答えた。

「職人ってのはね、聞かれればレシピなんか全部教えるんですよ。さあ、これで作り方は全部教えた。でも、実際に作ってみると、俺が作ったヤツの方があんたのより美味いだろ、というのが職人の誇りなんです」

残念ながら店主が亡くなり、「憩」は店を閉じた。が、店主が語った「職人の誇り」は、私の頭にしっかり染みついている。

智司社長を炉端焼き屋の店主と比べるのは筋違いかも知れない。だが、筆者はふたりに、同じ職人魂を見てしまう。

積み重ねた努力から生まれる、この世界では誰にも負けない、真似できるものならやってみろ、という自信と自負。
だからだろうか。智司社長は突然のA美術館の来訪に舞い上がることはなかったという。

「だって、他とは比べようがないマフラーを作ってるんです。いつかは必ず見いだしてくれる人がいる、と信じていましたから。それがたまたまA美術館だったわけで、私は『やっと来るべきものが来た。少し遅かったかな?』と思っただけでした」

智司社長は自信家であり、楽観主義者である。

その8 共同開発

話を本筋に戻そう。

松井ニット技研がA美術館ブランドのマフラーを作る。松井ニット技研にとっては棚からぼた餅のようないい話である。あとは細部を詰めるだけだ。最初に納品するマフラーの色、柄、素材、編み方などを決めなければならない。
A近代美術館の購買担当の女性たちとの会話は具体性を増した。素材はウールにする。柄は格子がいい。房は絶対に必要。色の選択、配色は松井ニットが用意した色見本からA美術館が選んでデザインする。そして松井ニットが編む。
A美術館と松井ニット技研の共同開発である。あれよあれよという間にA美術館ブランドのマフラーの企画が出来上がっていった。それに満足したのが、一行は満面を笑みにして桐生を去った。

バイヤーの女性が持ち帰ったマフラーの企画は会議で承認されたらしい。翌2000年の春、A近代美術館からマフラーの注文シートが日本のエージェントを通して初めて届いた。発注量などもA近代美術館との契約があるため具体的にはかけないが、初めての取引としては良くも悪くもない数でしかなかった。というより、A美術館という新しい販売ルート、アメリカという巨大な未知の市場への2人の期待が大きすぎたためか、拍子抜けするような数でしかなかった。

「たったこれだけ?」

それでも、新しい市場に最初の一歩を記したのである。それだけでも良しとしなければならない。

やがて桐生を抱きかかえるように連なる山々の木の葉が赤く、黄色く色づき始めた。秋が深まり、マフラーシーズンの到来である。それを待っていたかのように、A近代美術館から追加注文が飛び込んだ。今回も初回と同じ数である。

「まあ、一つの柄でこれだけなら、まずまずの成果か」

当時の松井ニットでは、一つの柄のマフラーの出荷数は2000本前後だった。2回分合わせてもそれには遠く及ばないが、新しい取引先からの注文としてはやっと胸をなで下ろせる数にはなった。

しかし、それは始まりにすぎなかった。間もなく3度目の注文がきたのである。そして、喜んでいる間もなく、4度目、5度目‥‥。

「このシーズンだけでずいぶん出荷しました」

と敏夫専務は目が回るようだったあの年の忙しさを思い出した。

ニューヨークのA近代美術館では、松井ニットのマフラーは羽が生えたように売れ続けていた。アメリカという巨大な市場に、松井ニット技研は確実にくさびを打ち込んだのである。