日本1のフローリスト—近藤創さん その3 「あなたは狡い」

夜行列車で秋田市に向かったのは、大会の前日だった。夕刻、JR桐生駅から両毛線で小山に出て東北線の夜行寝台列車に乗り換えた。花材は段ボールの箱に収め、器となる透明なアクリル製のボックスと一緒に持参した。

旅の道連れがいた。群馬県生花商協会の会員である花屋さんが5、6人、

「私たちも大会を見てみたい」

と同行したのだ。一行は車内で賑やかに酒宴を開きながら、ひたすら秋田を目指した。夜が明ければ大会である。

「でも、緊張なんて全くなかったですね。要は恥をかかなければいいんですから。それより、どんな大会なんだろうという興味の方が大きかった」

秋田駅到着は午前6時頃だった。駅でタクシーを拾い、会場に乗り込んだ。早速準備に取りかかる。

恥をかかない—それは、持てる力を100%発揮することである。そのための練習は十分以上にこなしたはずだ。だが、それだけでは足りない。競技大会とはパフォーマンスの場でもある。これから創り上げるフラワーデザインの出来が最も重要なことは言うまでもないが、器と花を組み上げる競技者の姿、形も審査員に目にとまる。その印象が採点に響かないはずはない。フラワーデザインの競技大会とは、一種のショーなのではないか。
競技者の中にはジャージ姿の人もいた。ジャージは作業着だろう。晴れの大会で身に着けるものではない。会場には和服姿の競技者が目立ったのは近藤さんと同じ考えの人が多かったのだろう。そして近藤さんはスーツにネクタイで臨んだ。競技が始まると上着を脱ぎさってシャツの袖をめくりあげたのは一種のパフォーマンスである。

競技時間は90分。時間配分にも気を使った。制限時間内に仕上げられないのでは問題にならない。しかし、時間を余しすぎるのも考えものだ。力を抜いているように見られかねない。掃除、後片付けまでして2、3分残るのがちょうどいいのではないか。

出来た。デザインを何度もやり直し、練習を繰り返したフラワーデザインが完成した。満足できる出来である。時計を見ると、残り時間3分ほど。計算通りだ。よし、これでできることはすべてやった。あとは審査員に任せるしかない。だが、ほかの競技者はどんな作品を作ったのか? ゆとりができた目で会場を見回した。

「するとね、私の目には、私の作品よりいいものはないんじゃないか、と見えたんです。あれ、これは行っちゃったかな? って思いました」

まもなく審査結果が発表された。近藤さんの名は最後に呼ばれた。

「総理大臣賞 花清 近藤一(はじめ)さん」

自分の作品が最高、と見えたのは決して自惚れではなかった。近藤さんは29歳でフローリスト日本一になったのである。

その夜、大会の審査員が祝ってくれるというので一緒に酒を飲んだ。酒の席は「裏講評」を聴ける場でもある。

「近藤さん」

と1人がいった。

「実は、審査の結果はあなたがダントツだった。おめでとう」

自分の作品が一番良く出来ていると見えたのは間違いではなかった。しかし、近藤さんはもっと上を目指したい。そこで聴いてみた。

    近藤さんの作品 3

「私の作品で、どこか直した方がいいところはありませんでしたか?」

審査員が答えた。

「あんたの作品はどこも直すところなんてなかったよ」

それだけでなく、言葉を継いだ。

「あなたの作品は狡いわ。白とピンクと黄色の組合せに黒を配したら、誰が見たって綺麗に見えるじゃないですか。照れもせずにその組合せを使う。ほんと、あなたは狡い人だ」

あるいは褒め言葉だったのかもしれない。だが、やや気に障った。その組合せが一番綺麗に見えるのが常識なら、ほかの競技者だって使えば良かったではないか。その上で、造形の美を競えばいいのだ。私は「綺麗」は「冷たさ」に通じると思い、冬という今の季節に合わせるためにこの組み合わせにした。ほかの競技者が使わなかった組合せを私が使うと、どうして「狡い」ことになるのか?

いずれにしろ、近藤さんは日本一のフローリストになったのである。

写真:近藤さん、店で

日本1のフローリスト—近藤創さん その2 「綺麗」と「綺麗ではない」

近藤さんは生花店「花清」の経営者である。昼間は仕事で忙しい。大会の準備に費やせるのは1日の仕事を終え、夕食を済ませたあとの時間だけである。加えて、月曜と金曜は早朝、東京まで花の仕入れに行かねばならない。朝が早いので前日は早く休まないと体が持たない。準備、あるいは大会の練習に使える夜は週に5日ということになる。

そんな厳しい日程の中で、仕入れの準備をしなくてもいい日は夕食、入浴を済ませると、店の一角にあった作業場に陣取った。
デザインの狙いをさらに先鋭化した。アイデアを煮詰めると、どうやら私は、アクリルの筒の中にすっぽり収まった「人工の自然」と、アクリルの筒を取り囲む「本来の自然」のコントラストを描き出したいらしい。筒の中は人の手が加わった自然という矛盾した存在にする。筒の外には、風雪に耐え抜いて枯淡の域に達した自然をあしらおう。「綺麗」と「綺麗ではない」との対比。考えてみれば、きらびやかな現代文明は、植物が朽ち果てて出来た石炭や石油の恩恵があってはじめて成り立っている。そんな世界を表現できないか。

「何故か、そんなコンセプトに捕らわれましてね」

器はすでに決まっている。あとは花材である。出場を決めたのは秋だが、コンテストが開かれるのは年明けの2月だ。秋の花と年明けの花は違ってしまう。花材を決めたのは店頭に並ぶ花が入れ替わる1月半ばだった。

アクリルの筒の中は人工の自然である。できるだけキラキラしたイメージを創り出したい。そのために最終的に選んだ花は

白:カラーリリィ

黒:黒百合

黄色:ラン

ピンク:トルコキキョウ

だった。白・ピンク・黄色の組合せで華やかさを醸し出し、黒をあしらってアクセントにする。

「できるだけ華やかなものにしようと思いました」

アクリル筒の外側に配したのはシダの仲間、ビカクシダのかたまりだった。これで、人の手が入らない大自然を代表させる。

使う花材、器が決まっただけではデザインではない。これを組み合わせてどう造形すれば

「恥をかかない」

作品にできるのか。花の組合せ方、空間の演出、陰陽の対比、直線と曲線の配置……。考えなければならない要素は限りなくある。

夜10時、11時まで花との対話が続いた。すでに店は閉じている時間だ。だが、近藤さんが花と格闘する作業場には当然灯りがあり、それが外に漏れる。

「近ちゃん、遅くまで精が出るねえ」

通りかかった知り合いが店をのぞき込み、声をかけることもあった。だが、そんな励ましの言葉も、近藤さんの耳にはほとんど届かなかった。それほど熱中していた。
何度も

「これじゃあ恥をかいちゃうわ」

と壁にぶつかった。恥はかきたくない。デザインを基本から見直したのは6、7回にも上る。

    近藤さんの作品 2

「1つのデザインをずーっと追求しているとスランプに陥るんです。評価する眼力が自分の技術を上回って『ああ、ダメだ』というスランプは技術を伸ばしてくれるんですが、逆に技術が眼力を上回って陥るスランプもある。眼力が技に追い付かないから、自分がデザインしたものがいったいどういうものなのか、これでいいのかどうかがわからなくなってしまう。そんなことの繰り返しでした」

何としても優勝する、という力みはなかったものの、恥をかかない作品にしなければという産みの苦しみは十分にあったのである。

「まあ、いまある花材だったらこれがベストか」

と自分で納得できるデザインが仕上がったのは1月も下旬になってのことだった。大会はもう目と鼻の先に迫っていた。

写真:近藤さん、店で

日本1のフローリスト—近藤創さん その1 内閣総理大臣賞

JR桐生駅南にある生花店「花清」。店舗奥にある事務室のスチールラックに沢山の盾やトロフィーが雑然と置いてある。「花清」3代目の近藤創(はじめ)さんが、いくつものフラワーデザインコンテストで獲得したものだ。その奥の方、多くの盾やトロフィーに埋もれるように、やや立派なトロフィーがひっそりとあった。銘板に

第31回(社)日花協秋田大会
全日本選手権
内閣総理大臣賞

と刻んである。
内閣総理大臣賞、が目にとまった。優勝したのか? 興味を惹かれ、

「これは?」

と問うと、

「ああ、それは29歳の時にもらったもので。はい、私が優勝してもらいました」

近藤さんは何事でもないように淡々と答えた。あちこちのコンテストで常勝に近い成績を残している近藤さんにすれば、特筆するほどの価値はないということか。

日花協=社団法人日本生花商協会は毎年1回、フラワーデザインの全国選手権大会を開いている。開催場所は都道府県持ち回りで、第31回は1985年2月、秋田市で開催された。
このコンテストは甲子園方式をとる。各都道府県で予選が行われ、勝ち抜いた代表が出場して日本一を目指す。つまり選りすぐりの実力者揃いなのだ。この大会での優勝は、フラワーデザインを志す人たちにとって、喉から手が出るほど欲しい栄冠である。それだけでなく、生花店を営む人は優勝すれば宣伝効果で店の売上増にもつながる。技と感性を磨き続け、内閣総理大臣賞を目指して何度も挑戦を繰り返す人も多い。

当時、最も権威があるといわれたこの大会を、近藤さんは何と初出場、弱冠29歳で制した。日本一のフラワーデザイン・アーティストになった。

日本一の座。だが、近藤さんが自分で目指したのではなかった。
この年、群馬県では予選が開かれていない。秋田大会開催の前年秋、群馬県生花商協会の幹部から

「近藤さん、あんたが出てくれないか」

と頼まれ、

「出てみようか」

と思って出てみただけである。

学生時代以来、近藤さんは関東・東海花の展覧会、群馬県の展覧会、東京のフラワーデザイン教室の大会など、多くのコンテストで上位入賞を続けていた。だから

「予選会を開くまでもなく、県内に彼以上の実力者はいない」

と判断されたのか。それとも、当時の群馬県はフラワーデザインの後進地で、県予選を開いても参加者はあまりいないと判断されたのか、今になってはわからない。

フラワーデザインコンテストの最高峰への挑戦である。いくつもの大会で上位入賞を続けていたとはいえ、大会の規模が違う。

「でも、緊張は全くしませんでした。そもそも頼まれての出場だから上位入賞を狙う気はありませんでしたから。ただ、恥だけはかきたくないなあ、と」

だから、力みはなかった。それでも、恥をかかないだけの準備はしなければならない。

出ることは決めた。さて、どんな作品を作ればいいのだろう?
想を練り始めて1週間ほどたっていたと記憶する。何の気なしに事務所にあった事務用品のカタログを繰っていた。ふと目がとまる商品があった。透明なアクリル製の円筒である。

「その瞬間にアイデアが浮かんだんです。ボトルシップ、ってご存知ですか? ガラス瓶の中に船を組み立てるヤツです。このアクリルボックスを使って、ボトルシップのような作品ができないか、って」

近藤さんの作品 1(総理大臣賞受賞作ではありません)

アイデアの端緒はつかんだ。あとはそのアイデアを煮詰めなければならない。
アクリルのボックスは円筒ではなく、1辺が20㎝、高さ60㎝ほどの四角柱がいい。側面に四角形の穴をいくつかあけ、同じアクリルの板で棚を作ろう。中には吸水性のスポンジを入れて花を固定する。外にも何か欲しい。アクリル筒の中の華やかさと響き合うもの。そう、枯れた世界が欲しい。まさか流木を使うわけにはいかないだろうが……。

近藤さんのアイデアが少しずつ形を成し始めた。

 

写真:総理大臣賞のトロフィーを持つ近藤さん

デザイナーの作り方 片倉洋一さん 第21回 プレイング・マネージャー

「プレイング・マネージャーってどうなんですかね」

取材中のある日、片倉さんがボソッと言った。そうか、片倉さんはいま、そんな立場にあるのか。
笠盛に入ってモーダモンに出品する作品を模索し、磨き上げ、やがて刺繍糸だけで真珠と見まがうアクセサリーを生み出すまで、片倉さんはデザイナー、クリエーター、プランナーとして疾走してきた。世界のどこにもないものを創り出してやる、という情熱が最上位にあり、勤め先への貢献は

「多くの人が認めてくれるものをつくれば、結果的に会社の利益になる」

という、2番目に大事なことでしかなかった。

だが、ふと立ち止まってみる。片倉さんはいまや、トリプル・オゥ事業部マネージャーである。管理職としてトリプル・オゥ事業部を率い、「000」の成長、会社の成長に責任を追う立場にある。もう、1人の情熱だけで走り続けることが許されない立場なのだ。

問われて、筆者がどう答えたかは記憶にない。筆者の記憶に残るプレイング・マネージャーは、野村克也氏程度だ。ほかにも選手権監督を務めた人はいただろうが、野村氏しか思い出さないということは、両立はなかなか難しいからではないか。

片倉さんはいま、1つの取り組みを始めている。社内向けに「000ストーリー」と「私の人生を変えた人」という文章を書き、配信し始めたのだ。

海外にまで足を伸ばし、デザインやファッションを学んできた人材は、笠盛では片倉さんと、OEM事業部長の高橋裕二さんだけである。では、この2人だけしか、新しいものを生み出すことはできないのか?
そうではない、と片倉さんは考える。ロンドンのチェルシー・カレッジでケイ・ポリトヴィッツ学部長に言われた言葉が頭に染みついているからだ。
デッサンができない、ファッションの勉強が遅れている。そんな劣等感に捕らわれかけていた時、彼女は

「工学とデザインがうまくつながったら、洋一らしさになるね」

といってくれた。それは、無い物ねだりをするより、自分にあるものを伸ばした方がいい、ということである。
いま、笠盛で働いているすべての人が、私にはない「自分にあるもの」を持っているはずだ。管理職とは、それを引き出し、伸ばす仕事なのではないか? ひょっとして、自分が歩いてきた道をみんなに知ってもらうことが、その役に立つのではないか?
そう考えたのである。

「000ストーリー」は、この原稿を書く上で参考にさせていただいた。ここでは、

「これまでの人生の中でいろんな出会いがあり、たくさん教わることがありました。私の人生を変えた『ひと』とのストーリーを連載していきたいと思います」

という書き出しで始まる「私の人生を変えた人」をご紹介しよう。

父から、母から、祖父から、と連載は続いた。アメリカで世話になり、海外への目を開かせてくれた友人も、ロンドンで抱きかけた劣等感を跳ね飛ばしてくれたケイも登場する。

「Afet Halilから教わった事」には、こんなことが書いてある。

「AfetはChelseaで一緒に学んだ仲間でありよきライバル。私より3歳年下でありながら、お姉さん的な存在。家族と離れて暮らす私を招いてくれたHalil家のクリスマスパーティーはとてもいい思い出となってます。
Afetのクリエーションはとにかく唯一無二。ダイナミックで、人々の想像を常に超えているような表現でした。ここまでやっちゃう? ‼的な。
本人の内面には迷いなどの葛藤はいろいろあるそうだけど、はたから見ていると吹っ切れて独自の世界観ができている。
この自分らしい表現を持っているだけでも素晴らしいのだけれども、彼女のさらにすごいところがとにかく当たって砕けろ的なアプローチ&コミュニケーション能力です。
ファッション&テキスタイルを専攻している学生にとっては、パリの一流メゾンで仕事があこがれ! 1つの大きな目標です。(彼女は)2泊程度のパリ旅行の空き時間に、クリスチャン・ラクロワに電話してアポをとり、作品のプレゼンをして仕事をゲット。普通では考えもしなかったアプローチ方法でしたね。
それまでは、印刷したポートフォリオを郵送してました。全くダメでしたね。待っても何もできないもどかしさがあったので、Afet方式を取り入れて、卒業してなんのあてもなくパリに移住しました。
とにかく毎日毎日、電話をかけまくる作戦。ウンガロ、クロエ、ラクロワ、ジャン・ルイ・シェレル、ドミニク・シロのプレゼンの機会をもらい、仕事をゲットすることができました。
たぶん、レターだけ送り続けてもダメだったと思いますね。やや無謀ではあるけど、会いたい人に会いに行く! 行動をする大事さを教えてもらいました。
この行動力も含めて認めてもらっているのかなと思う今日この頃です。
Afethaその後も持ち前の行動力で、ディオール&ジバンシーでもテキスタイル開発で活躍していました」

この連載は、「Jan Liebeから教わったこと」 (Jan Liebeはドイツ出身の建築家)、「Martin Leutholdから教わったこと」(ヤコブの社長兼デザイン・ディレクター)、「Dominiqu Siropから教わったこと」(Dominiqu Siropはパリでの就職先)……、と続く。

片倉さんは、自分のような機会を持てなかった仲間たちに、「片倉」を追体験してもらいたいのに違いない。みんなは、自分だけの何かを、とてつもない可能性を持っている。その可能性の花を咲かせるのに、ひょっとしたら私の体験が役立つのではないか……。

プレイング・マネージャー片倉の挑戦から目が離せない気になってきた。

デザイナーの作り方 片倉洋一さん 第20回 笠盛

足繁く桐生に通い、新井淳一さんに引き回されているうちに、片倉さんはあることに気がついた。

「この町なら、私がやりたいものづくりが出来るんじゃないか?」

片倉さんが知るようになった桐生は繊維産業の町だった。しかも大企業はなく、分業が徹底している。だから、様々な技が根付いている。この町なら、私も何かできるのではないか? 新井さんのお手伝いはできるようになったが、それは無給。少しずつデザインは売れていたが、定職はいまだにない。そろそろ生活基盤を築かねばならない年代である。この町で仕事を作ってみようか。

インターネットで桐生市の繊維関係の会社を調べてみた。その中で興味を惹いたのが「笠盛」だった。スイスのヤコブで使った、刺繍とレーザーカットが1台できる機械があったからだ。この機械、世界中探しても数十台しかないはずだ。その1台が、桐生の、ちっぽけな刺繍会社にある。この会社、いったい何者だ?

       笠原康利会長(当時は社長)

それでも、まだ笠盛の社員になる気はなかった。笠原康利社長(当時)に会いにいったのは、この会社と手を組んで何か新しいものを生み出せないか? と考えたからである。だから、自分の作品を持参した。何か一緒にできませんか?

このころ、笠盛は倒産寸前の苦境にあった。社運をかけるとまで意気込んで進出したインドネシアで手痛い目に遭い、撤退を余儀なくされたのだ。あるニットメーカーの求めで現地生産に踏み切ったのだが、21世紀に入るとアジアが世界の大量生産工場になり、刺繍の注文も50万枚、100万枚の単位になった。ニットメーカーはこの変化について行けず、笠盛もそれに連座した。笠盛4代目の社長だった笠原さんは

「俺の代で家業をつぶすのか」

と覚悟を固めながら撤退作業を進めていた。

そして、笠原さんと片倉さんが出合う。その出会いについて、2人の記憶はかなり食い違う。片倉さんはパートナー関係を作りたかったという。一方の笠原さんは、片倉さんがまるで押し売りのように入社したいと迫り、押し切られたと話す。

「会社が倒産すれば、この若者を失職させることになるのだがなあ」

と心進まぬ採用だったという。

どちらの記憶が正確なのか、解明する手がかりは残念ながらない。だが、片倉さんが笠盛の社員になったことは事実である。

——どうして笠盛に入社する気になったのですか? 最初はその気はなかったんですよね。

「うーん、その頃はヨーロッパからデザインの仕事が少し入っていましたが、日本にいてヨーロッパの仕事をするのは時差もあるし、かなり大変なんです。それに、そのときの急務は暮らしを安定させることでしたから。そうそう、私の思いは創造に集中したいというのが一番先にあって、笠原社長とお会いしているうちに、この会社ならそれが出来るんじゃないか、と思ったことが一番大きかったかなあ。大変お世話になったスイスのヤコブは、サンクト・ガレンという町にありますが、大変な田舎町なんです。そこで世界最先端のテキスタイルを生み出している。桐生もそんな町なのかな、と」

入社したのは2005年4月20日。その少し前、

「社内でお花見をするから、あなたもおいでよ」

と誘われた。

新井淳一さんにも笠盛のことを聞いてみた。新井さんは

「歴史のある会社だよ」

といった。

ここから先は、連載の第2回に戻って「000」開発に取り組む片倉さんを追いかけていただきたい。

いま(2024年1月)片倉さんは「000」部隊を率いるトリプル・オゥ事業部マネージャーである。