桐生えびす講 その8  関東一社(下)

繰り返しになるが、桐生西宮神社は明治34年、西宮神社に分霊を認めてもらってできた。西宮神社を名乗るところでこうした記録が残っているのは関東では桐生だけだ。

隣の足利西宮神社は慶長8年(1603年)、時の代官が寄付を募って摂津国西宮大神を作ったのが始まりとある。桐生より歴史ははるかに長いが、西宮神社本社との関係は明らかでない。関東にあるほかの西宮神社も同じような事情で、本社直系と名乗ることができるのは関東では桐生西宮神社だけなのだ。

では、本社直系だと何が違うのか?

西宮神社本社は寛文3年(1664年)、江戸幕府から「日本国中像札賦与御免(にほんこくちゅうぞうさつふごめん)」を受けた。いわば、西宮神社が配布する御神影札だけが「本物」であると認められたのである。江戸幕府を後ろ盾にした著作権が確立したといってもいい。

その後西宮神社本社は、この著作権を背景に、お札と御神影札を布教のキーグッズとして使ってきた。全国各地に、本社から免許状を受けた「願人(がんにん)」というお札を配る人を置いた。この願人たちが、信者の家を1軒ずつ歩き、本社で版木刷りしたお札と御神影札を届けた。願人たちに免許状を出したのは、当時、えびす、大黒を描いた札を勝手に配布する動きがあったためだ。著作権を持つ西宮神社本社は、願人が届けるものだけが「本物」であると説明することができたわけだ。

願人は信者たちから「初穂料」を受け取り、集めて本社に送る。全国から集まった初穂料が本社を経済的に支えたのはいうまでもない。

それだけでなく、信者が増えれば願人の手元に残るお金も増える。つまり、本社と願人は、いまでいうWIN-WINの関係で結ばれていた。

そして、わざわざ遠い西宮まで足を運ばなくても、毎年新しいお札や御神影札を手にすることができる信者たちにとっても、このシステムはありがたかった。ここまで含めれば、WIN-WIN-WINの関係となる。巧みなシステムが布教の大きな動力になったのである。

明治維新で江戸幕府は崩壊した。西宮神社の著作権も、だから失効した。

制度としては意味がなくなったが、心は残る。本社に分霊勧請を認められた桐生西宮神社は、本物のえびす様を求めたのである。著作権が失効したのなら、勝手にお札と御神影札を作って売っても、どこからも後ろ指を指されることはない。だが、桐生西宮神社が頒布するお札と御神影札は、本社でお祓いを済ませたものである。

2018年の桐生えびす講に献幣使として参列した吉井権宮司

桐生西宮神社のえびす講には、西宮神社からの献幣使が来る。いまその役を果たしているのは本社権宮司の吉井良英である。
吉井さんはいう。

「桐生西宮神社の特徴は、本社の神札を直々にお受け頂き、頒布されているというところで、関東地区におきましては唯一です。本社と一体的な運営に近い分社ということで関東一社いう表現になっている」

だから、わざわざ兵庫県西宮市まで足を運ばなくても、桐生で本社と全く同じお札、御神影札を手にすることができる。

高品質の絹織物が町を栄えさせた桐生である。原料から染色、織り方からデザインまで、先行商品のまがい物を作っていたのでは、西の西陣、東の桐生といわれるブランド力は身につかなかったに違いない。

「例え著作権はなくなっても、本物とそうでないものの違いは残るはずだ」

本物に敬意を払い、本物にこだわり抜く。桐生西宮神社と桐生えびす講には、織都の歴史を通して桐生人のDNAに刻み込まれた習性が埋め込まれているのである。

桐生えびす講 その9 主役は町衆

桐生西宮神社に定住の神主さんがいた記録はない。神社とえびす講をずっと維持・管理・運営してきたのは「世話人」と呼ばれる町衆である。神主さんがいたら、神事の執行はもちろん、華やかなえびす講の開催にも神主さんが東奔西走して準備を整えるのかも知れないが、桐生西宮神社は神事となると町衆がほかの神社から神主さんを招いて執り行う。

それほどだから、えびす講となると、すべて「世話人」の仕事である。事前にチラシを作って新聞に折り込み、市内に垂れ幕や横断幕を張り出す。開催中の交通規制や警らにあたる警察との打ち合わせ,人波の整理に当たるガードマンの手当、毎年400店から500店を出店してくれる街商組合との詰め、頒布するお札やお守り、おみくじの準備……。えびす講が始まれば早朝から神社に詰めっきりになり、1日目の夜は体力のある若手(あくまで「相対的な」若手だが)が社殿に泊まり込んで参拝者との応対に当たる。

「夜中の1時、2時には夜のお仕事の方たちが仕事を終えておいでになりますし、4時になると早朝の散歩がてらのお年寄りがみえる。初めて泊まり込んだ年は、ああ、桐生って眠らない町なんだなあって感動しました」

とは、ある若手世話人の話である。

「世話人」は歴代20人内外である。かつては桐生の旦那衆が務め、自分の子どもに世襲した。えびす講の間は本業を横に置く。機屋や商家を取り仕切る経営者、その後継者ばかりだったから自由がきいた。

しかし、時代の波は容赦なくえびす講にも押し寄せた。繊維製品の主要生産国がアジア諸国に移り、織物で栄えた桐生に衰退の色が濃くなった。廃業する機屋が増え、客足が減った商店はシャッターを降ろす。かつては事業と桐生西宮神社世話人の後継者になるはずだった世代は家業に見切りをつけ、サラリーマンになって多くは桐生を出た。

「だから、世話人の後継者を捜すのも大変です」

と語るのは、世話人の代表である岡部信一郎総務だ。長く世話人を務めてきた家でサラリーマンになった人は定年を待って誘う。東京などに出て桐生に戻ってこない人もいるから、世話人の家系ではない人にも人脈をたどってお願いし、世話人に加える。

世話人問題以上に過酷な時代の波は、人口減である。1975年には13万5000人を超えていた桐生市の人口は1989年に13万人を割り込み、2004年には11万3000人まで減った。新里村、黒保根村との合併で一時的に13万1000人に増えたがその後も人口減は続き、2018年2月現在で11万1000人強である。日本創成世会議が「消滅可能性都市」の一つに桐生市をあげ、2040年には7万3000人弱の都市になると指摘したことは記憶に新しい。

「関東一社」の桐生西宮神社だが、主要な参拝客はほとんどが市内の人である。人口減はえびす講の人出にも響かざるを得ない。

「まだ目に見えて減ってはいませんが、このまま行けば必ず減りますよね。人の雑踏が薄らげば露店も減ってしまって、ますます人を呼び寄せるえびす講の魅力が削がれかねない」

岡部総務は懸念を隠さない。何か手を打たねば、明治の先人たちから延々と受け継いできたえびす講に赤信号が灯ってしまうのだ。

人口減は大きな時代の流れが生み出したもので、自分たちの力では何ともできないとはいえ、今のままでえびす講を100年先の子孫たちに受け継ぐことができるのか? 悪くすると、いまの世話人世代が桐生えびす講に幕を下ろさねばならなくなるのではないか?

事は深刻なのだ。いまこそ、町衆の総力を挙げて桐生えびす講を守らねばならない。

桐生には、どん底に落ちたときに働く「逆バネ」があると書いた。果たして、その逆バネは桐生えびす講にも姿を現してくれるのだろうか?

桐生えびす講 その10 100年後を目指して

20世紀最後の年である2000年、桐生えびす講は100回目を迎えた。父の後を継いで世話人に就任した岡部さんはまだ総務ではなかったが、その頃から危機感を持っていた。

桐生えびす講を100年先の子孫たちに引き継ぐのが自分たちの仕事である。だが、今のままでは桐生の衰退とともに水没しかねない。100年前の先祖は桐生の繁栄を願って福の神=えびすの神を招いた。このままでは私たちが祖先の願いを断ち切ることになりかねない。

川の流れにじっと浮かぶアヒルは、しかし水面下では必死に流れに逆らって足を動かしている。時代という流れの中で生きる私たちも実は同じである。流れに押し流されないためには、必死で自分たちが動かなければならない。同じ場所にとどまるため、時代の流れに合わせて変化する。その努力を欠けば、いつかは流れに押し流されて消えてしまうのである。

第100回桐生えびす講はいい機会だった。岡部さんは動き始めた。

郷土史家で、群馬県文化財保護指導委員も務める平塚貞作さんを口説いて、「えびす だいこく 福の神」という小冊子を出版したのは第100回記念だった。えびす信仰、桐生西宮神社の由来、えびす講に伴う桐生の暮らし・習慣などをコンパクトにまとめた冊子は、格好の桐生えびす講入門書である。
あるいは、当時の世話人たちの

「桐生えびす講をなくさないぞ!」

という決意表明でもある。

2000年に手がけたのはそれだけではない。

桐生西宮神社のホームページ(http://www.kiryu-ebisu.jp/index.html)を開いた。

同じ境内にある美和神社の神楽殿を使って「福まき」を始めた。種銭(種をまけば芽が出る。このお金を使うとそこから芽が出て実り、たくさんのお金が戻る)、招福菓子、福鯛飴、地元商店のクーポン券を入れた袋を3000個用意し、若者が蒔く。毎回、数百人の善男善女が、いまや遅し、と待ち受ける人気イベントだ。

プロの神楽太鼓奏者・打楽器奏者の石坂亥士さんの「えびす太鼓」もこの年に始めた。たった一つの和太鼓が、ある時は軽妙に、次の瞬間には重々しく様々なリズムをたたき出し、神楽殿から境内に響き渡らせる。

 

 

それから7,8年たって、神楽殿前の広場に手を入れた。桜の木を切り、石灯籠を移設して整備したのは、地元の有力商店が軒を並べる「えびす横町」を生み出すためである。

 

 

桐生が誇るからくり人形師、佐藤貞巳さんのからくり人形小屋ができたのは2010年頃のことだ。からくり人形が本物の布を織る「白瀧姫」がデビューしたのは、この小屋だった。

2015年には、お神楽にあわせて白瀧姫がフラメンコを踊る「白滝の舞い」が登場した。オリジナルの舞踊を生み出したのは、地元のフラメンコダンサー、野村裕子さんである。冒頭の写真をご覧いただきたい。

そして2016年には桐生西宮神社の由来を易しく紹介したパンフレットを作った。お札を求めに来る参拝客に、もっと神社を、桐生の歴史を知ってもらおうという試みだ。同時に、「桐生えびす便り」を創刊した。毎年えびす講に合わせて発刊する年刊誌で、これも参拝客に配布する。

こうした動きに刺激されたのか、2015年からは神社近くの横山町の若衆たちが、独自に屋台を出し始めた。

「昔はうちの町内の近くまで出ていた屋台が、いつからかなくなった。えびす講が始まっても町内は暗いままで寂しい。だったら自分たちでやるか、と」

と語る新見直広さんは、

「いまは会社の経営で忙しいが、時間がとれるようになったらえびす講を支える一員になりたい」

という将来の世話人候補である。

いくら新しい試みをしてもすぐに時間の流れに埋没して「当たり前」になり、ひょっとしたら誰も

「変わったな」

とは気がついてくれないかも知れない。だが、流れの中で同じ場所にとどまるアヒルのように、これだけの努力が重なって初めて、えびす講は毎年変わぬ人の波を呼び寄せている。

しかし、これだけで人口減に対処できるのか?
岡部総務をはじめ、いまの世話人たちは

「これだけでは足りないだろう」

と口を揃える。

では、桐生えびす講をどう変えればいまの賑わいを維持し、さらに盛り上げることができるのか。

狙うのは、関東一円から参拝客を集めることである。毎年11月19,20日の桐生えびす講に、ある人はJRで、ある人は東武鉄道で、またマイカーでたくさんの人が押し寄せる。
岡部総務はいう。

「『関東一社』なんだから、不可能じゃないですよね」

2020年は東京オリンピックの年だ。その余熱が醒めない11月、桐生えびす講は第120回を迎える。絶好の機会である。それまでに新機軸を打ち出し、桐生えびす講を関東一円のお祭りにしたい。

世話人たちはいま、自分たちが引き受けざるを得ない大任を背負って歩き続けている。

この子たちに「桐生えびす講」を引き渡し、桐生の繁栄を取り戻してもらわねばならないのだから。

趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第1回 織都・桐生

桐生に「白瀧姫」伝説がある。

山田郡仁田山郷(いまの桐生市川内町)から朝廷に仕えた若者、久助がいた。掃除係として仕えているうちに宮中の白瀧姫に思いを寄せるようになり、燃える思いを託した和歌を詠んだ。久助の熱いまなざしは白瀧姫を揺り動かし久助を憎からず思い始めが、2人の思いがどれほど募ろうと身分が違いすぎる。久助は叶わぬ恋と諦めていた。

ところがある日、久助の和歌の才が天皇にまで伝わって御前で和歌を披露する機会を得た。久助が詠んだ和歌のみごとさを褒め称えた天皇は、久助の願いを聞き届け、白瀧姫をふるさとに連れ帰る許しを与えた。久助の妻となって仁田山郷に身を移した白瀧姫は都にあった最新の絹織物技術を郷の人々に伝えた。

白瀧姫が身罷ると、地元の人々は天から下ったという岩のそばに埋め、機織神として祀った。いまも川内町にある白瀧神社の起源である。

桐生は「織都」を自称する。織物で空前の繁栄を築いた歴史が桐生の誇りだ。昭和10年代の初め、桐生からの繊維製品出荷額は、当時の国家予算の10%を超えたといわれる。いまなら約10兆円。当時の桐生の人口は6,7万人だったというから、そんな小さな町が現在のトヨタ自動車の売り上げの3分の1を超える繊維製品を作り、売っていた。まるで羽が生えた札束が飛び回っているような豊かな町だったはずだ。

そうした繁栄の起源として桐生の人々が敬愛しているのが白瀧姫なのだ。

桐生は2014年、織都1300年を祝った。続日本紀によると、上野国が和銅7年(714年)に絁(あしぎぬ=古代日本にあった絹織物の一種)を朝廷に納めた。上野国とはいまの群馬県である。

その年、桐生西宮神社の世話人から新しいからくり人形の製作を頼まれた人がいた。

「白瀧姫を作って欲しい」

佐藤貞巳さん(1944年7月生まれ)である。時計店に務めた後独立して長く宝石販売業を続けた。いまは看板屋さんだ。だが、地元ではからくり人形師としての方が著名である。

後に詳しく触れるが、桐生には江戸末期から舞台からくり人形が伝わっている。桐生天満宮のご開帳の際に上演され、出し物も人形もそのたびに新しく作られることが多かった。20世紀の終わり近く、昭和3年(1928年)などのご開帳で使われたからくり人形が市内の蔵から続々と見つかった。

糸は切れ、ゴムは伸び、ネジは錆びついていまにも崩れ落ちそうな人形を

「私が修理する」

と引き受けたのが佐藤さんだった。妻の美恵子さんの助けを借りながら48体の人形をコツコツとた修復しただけでなく、

「ここはこうした方が動きがスムーズになる」

と独自の改良を加えた37体のレプリカまで作り上げた。

佐藤さんはからくり人形伝承者の弟子としてからくり人形を学んだわけではない。誰に教わることもなく趣味でからくり人形を作り始め、いつの間にかのめり込んだ。修復、レプリカ造りを思い立ったのも趣味の延長である。いまでも、少なくとも年に1体は新しいからくり人形を創作する。

「金にはならないのに、新しいものを作り始めると頭の中はからくりばかりになっちゃう。晩飯を食べて一眠りした後、12時頃から作業を始めるんです。いつの間にか夜が白々と明けてくるなんてしょっちゅうでね。人形が思ったように動いてくれないと夢の中にまで出てきますもん。あっ、これだとうまくいくはずだと夢で見て、目が醒めるとその仕組みを忘れてるなんて何百回あったか」

その佐藤さんが作り上げた白瀧姫は、からくり人形製作の第一人者、名古屋市の9代目玉屋庄兵衛さんが

「聞いたことがない」

という、人形の白瀧姫が本当に布を織るからくり人形である。

「機を織る真似をさせるのなら簡単にできるんだけどね。本当に機を織らせるのはちょっと考え込みました」

この白瀧姫がデビューを飾ったのは2014年11月19、20日、桐生西宮神社のえびす講だった。事前に全国紙で報道されたためだろう。

「本当に機を織るからくり人形が見たい」

と、遠く沖縄県から飛行機を使ってわざわざ見に来た人もいた。

佐藤さんはこんな奇想天外な発想をし、それを作り上げてしまう希代のからくり人形師である。佐藤さんをご紹介したい。

趣味? からくり人形師佐藤貞巳さん   第2回 人形が布を織る

いまの織物はほとんどが自動化された織機で織り上げられている。コンピューターで制御された自動織機はデータさえ入れてやれば、あとはほとんど人手がかからない。よほど特殊な目的でもない限り、人が織機の前に座って1本1本緯糸(よこいと)を送りながら織り上げることはない。

だから、コンピューター制御された織機のミニチュア版を作り、最近急速に進歩しているロボットと同期させれば、ロボット人形が自動的に布を織るのはそれほど難しいことではないだろう。

だが、からくり人形はコンピューターを使わない。使う材料は木、竹、ゴムなど近代の技術進歩とは無縁のものばかり。近代産業の面影がわずかに残るのはバネやねじ程度である。佐藤さんはそれだけの材料で、機を織るからくり人形を作り上げた。

白瀧姫のからくり人形を頼まれたとき、

「まあ、人形が機を織っているように見えればいいさ」

と最初は気軽に引き受けた。それだけなら、佐藤さんの手にかかれば簡単なことだ。

話は途中だが、少し回り道をする。これからの話をよりよく理解していただくため、織機の構造を頭に入れて欲しいのである。

布を織るには、ピンと張った経糸(たていと)の間に緯糸を通す。昔から人間はそうやって布を織ってきた。太古は経糸に重りをつけてぶら下げ、それを縫うようにして緯糸を通していた。

これはかなり面倒な作業である。何とか簡単に緯糸を通す方法はないものか。多分、多くの試行錯誤があったのだろう。その成果として定着したのが織機だった。

まず、経糸を隣同士が重なったり縺れたりしないように横棒に綺麗に巻く。その経糸を1本ずつ、中央付近に穴を空けた棒を横にたくさん並べた綜絖(そうこう)に通してもう1本の横棒に巻き付ける。最も簡単な織機には綜絖が2つ重なるように設置され、通常、経糸を1本おきにそれぞれの綜絖の穴に通す。こうすれば足を使って2つの綜絖を交互に上げたり下げたりすることで上糸と下糸が分かれ、緯糸を通す隙間が出来る。

(筬の仕組み)

その隙間に杼(ひ=シャトルともいう)を使って緯糸を通す。通った緯糸は薄く削った竹(金属もある)を櫛の歯のように並べて枠をつけた筬(おさ)でトントンと手前に詰める。どちらも手でする作業だ。

以上が織機のおおざっぱな構造である。図が見たければ、こちらを参照していただきたい。

ということをご理解いただいた上で、話を元に戻す。

佐藤さんはまず、白瀧姫から製作を始めた。

佐藤さんがからくり人形を作っている事を知る地元の人たちは、古い蔵や倉庫,納戸などを整理したときに、

「これは」

と思えるものが見つかると

「佐藤さん、これ、何かに使えないかね」

と持ってきてくれる。そんなことが重なって、佐藤さん宅の一部はまるでガラクタ置き場だ。

そこに、1体の日本人形があった。なんとも気品のある顔立ちで、ずっと気になっていた。佐藤さんはまずこの人形を取り出した。背の高さと手足の長さのバランスが実にいい。織機の前に座って機を織る白瀧姫にうってつけである。

ただ、着ているものとヘアスタイルが違った。着ているのは普通の着物。そんなものは白瀧姫が桐生にやってきたという時代にはない。また髪は高島田である。当時の女性は髪を長く伸ばして後ろで束ねていたのではなかったか?

改造を始めた。申し訳ないが着ている和服をすべて脱がせてヌードにした。着せたのは山形の紅花で朱に染めた袴と十二単衣である。どちらも、趣味の俳句の会の仲間が、お孫さんが七五三に着た晴着をばらして作ってくれた。

髪の毛は人形用の直毛を人形店で買ってきて布に1本1本「植毛」し、それを高島田に結い上げられた髪を取り去った人形に糊付けした。

これで、白瀧姫の顔は出来た。

(着飾って機を織る白瀧姫)

佐藤さんが改造を始めたのは、日本舞踊を踊る人形だ。優雅に舞う手つきでは筬を掴ませることが出来ない。

佐藤さんは鋸、鉋、彫刻刀、やすりを取り出し、手元にあった檜の切れ端を削り始めた。手を作るのである。袴の下から足が見えることがある。これも立った人形の足は使えないので削り出した。

鋸と鉋でおおざっぱな形を作り、彫刻刀で削り、やすりで仕上げる。いつものように夜を徹しての作業だった。

できた。