花を産む さかもと園芸の話 その5 5年

少なくとも5年は農業を続ける。黒保根の農業委員会で誓ったことは、決して口から出任せではなかった。正次さんははじめから5年を1つのめどと考えていたのである。とにかく、5年間は無我夢中でやってみる。しかし、5年たっても芽が出なければ花の育成に踏ん切りをつけてサラリーマンになろう。すでに妻のある身なのだ。いつまでも夢を食ってばかりはいられない。
燃える思いに駆り立てられながら、だが心のどこかでは失敗することも織り込んで冷静に人生を設計していた。

「やらずに後悔するより、やって後悔した方がいい」

は正次さんの口癖である。

それでも、最初から失敗しようと思って事業を始める人はいない。目指すのは輝かしい成功である。だから、思いつく限りの知識を身につけて準備を整えたつもりだった。

「だけど、正次さんの家はガソリンスタンド、私の家は製麺業です。農業は頭の中にしかなかった。現実の農業の厳しさを知らなかったんですねえ」

実際に大地を相手に仕事を始めると、いくつもの障害にぶつかった。中でも困ったのは、出るはずの地下水が出なかったことだ。30mも掘れば出るといわれていたのに、出ない。鉢物を育てるには質のいい水が大量に必要なのに、出ない。
やむなく沢水を引いた。ずいぶん下の方にしか水がなかったため、ポンプを使って2段階で水を揚げる。コストが膨らんだ。水量も不足気味だ。
諦めきれずに、掘削途中で放り出していた井戸を再び掘り始めた。100mまで掘り進んでも出なかった。さらに掘り進むこと数10メートル。

「やっと井戸水がわき出しまして。いやあ、ホッとしました」

まずは暮らしを安定させようと、キキョウ、桜草類、ベゴニア類、アジサイ、シクラメンなどいろいろな花を手がけた。はじめから切り花は全く考えなかった。精魂込めて育てる花だ。できるだけ長く花の盛りを保って楽しませて欲しい。だから鉢物に特化した。

うまく育って売れた花もある。しかし、見切り発車同然の出発だ。設備がまだ整っていない。花と株のバランスが悪かったり、葉が少なかったり、花がなかなか咲いてくれなかったりで、出荷品の量と質のコントロールが思うに任せない。うまくできたと思っても買い手が付かなかったり、安値でしか出荷できなかったり、で暮らしはなかなか安定しない。

だが、泣き言は言えない。朝7時過ぎには仕事を始める。それも花の世話だけではない。設備を整え、雑草を抜き、と仕事は後から後からわいてくる。出荷時期には夕方5時になるとトラックに花を摘んで東京の市場まで届けた。戻りは深夜だ。

花を産む さかもと園芸の話 その6 アジサイ

アジサイは日本原産の花である。ガクアジサイと呼ばれる。主に海岸沿いに自生し、「万葉集」にも詠み込まれている。

幕末、長崎の出島に滞在したドイツ人医師がいた。鳴滝塾を開き、西洋医学を日本に伝えたフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトである。数多くの日本人蘭方医を育てて日本の医療技術近代化に大きな貢献をした彼は、植物学にも深い関心を持つ博物学者でもあった。日本地図を持ち出そうとして国外追放処分を受け、1930年にオランダに去った際、アジサイ属の花14種を持って行った。これが西洋で人気を得て品種改良が盛んになり、日本原産のアジサイと区別するためハイドランジア(西洋アジサイ)と呼ばれるようになった。

事業にやっとめどが付き、やりたかった育種(交配などで新しい種を創ること)に取りかかろうとした正次さんの目を惹いたのがアジサイだった。さまざまに品種改良されたアジサイが輸入されているが、その原産国は日本。しかも、日本では品種改良するところがない。おそらく、それが正次さんの興味を惹きつけたのだろう。幸い、アジサイはすでに手元にある。日本初のアジサイ交配をやってみよう。

私たちがアジサイの花だと思っているところは、実は花ではない。花びらように見えるのは装飾花(花弁の根元で花を支えているガクが変形したもの)なのだ。この装飾花をかき分けて中を覗くと、米粒大のものが固まってある。これがアジサイの花(真花)である。

ご存知のように、植物を交配するには、花の中のおしべから花粉を取り、めしべに着けてやらなくてはならない。それは常識だろうが、アジサイの花は米粒ほどの大きさしかないのだ。おしべもめしべもこの中に入っている。顕微鏡でも持ち出したくなるほどの小ささである。

花を産む さかもと園芸の話 その7 交配の結晶

花が米粒大のアジサイの種の大きさはどの程度だと想像されるだろうか?
筆者は黒保根のさかもと園芸で見せていただいた。想像を絶するサイズだった。

「ええ、正次さんはよく、こんな説明をしていました。白い紙に芯を尖らせた鉛筆を1回だけ押しつける。その時に紙に出来た点が種の大きさだと」

米粒大の花から取れる種である。しっかりすりつぶしたすりゴマの大きさ程度にしかならないのだ。

そして11月。2人は種を宿したらしい実を採取した。付け根の当たりがぷっくり膨らんでいる。いかにも子どもを宿していそうな形である。これを乾燥させる。
乾燥したら、紙の上で揉んでやる。種が紙の上に落ちるはずである。

「ところがね、殻も小さく砕けて一緒に落ちてくるでしょ。種なのか、それとも殻のくずなのかの見分けがつかなくて」

そして、小さいから軽い。文字通り、吹けば飛んでしまう軽さである。

「ほら、もう11月でしょ。夜の作業だから手が冷たくなったりする。でも、息を吹きかけて温めたりは出来ないの。種が飛んでしまうからよ。それこそ息を詰めてやらなければいけない作業なんです」

小さじ一杯にも満たない種「らしき」ものが採れた。これは本当に種なのか? 期待した通りの花を咲かせてくれるのか?
交配はまだ緒に就いたばかりである。

この種「らしき」ものを翌年の春先に蒔いた。2ヶ月ほどで芽が出た。だが、これはアジサイなのか? それともアジサイは芽を出さず、ほかからか飛んできた雑草の種が芽を出しただけなのか?
アジサイの育種はこれが日本初なのだ。アジサイは挿し木でしか増やしたことがない日本では、芽だけでアジサイかどうか判断出来る人はほとんどいない。それに、幸いアジサイだったとしても、狙い通りの花が咲く保証はどこにもない。

「アジサイが花をつけるのは芽が出て翌年の春です」

つまり、交配の結果を目にするには、2年もかかるのだ。

その年、2人が手がけたアジサイはみごとに待ちに待った花をつけた。濃いピンクがあった。白に近いものもあった。それらに混じって、狙っていた桜のような薄いピンクの花を咲かせているものもあった。

出来た、万歳!

花を産む さかもと園芸の話 その8 ミセスクミコ

創り出した花を商品にするにはいくつかの準備がいる。
1つは市場関係者の反応を見ることである。創った自分は大変気に入っているが、市場は受け入れてくれるだろうか?
東京の花市場の職員や生産者仲間に見てもらった。

「これは……。見たこともないアジサイだ。しかも色がいい。花弁の切れ込みも面白い。何より花弁が見たこともないほど大きい。きっと全国で歓迎されるよ」

市場受けは良さそうだ。であれば、次は名前をつけよう。西洋では様々に交配されたアジサイはそれぞれの名前を持つ。名前があった方が親しみがわくだろうし、何より丹精込めて生み出した新しいアジサイなのだ。名前をつけてやりたい。

色は桜色である。であれば女性だろう。ミスか、ミセスか。桜色の花はミスと呼ぶには﨟長けている。やっぱりここはミセスだろう。

ではミセス○○として、○○には何が相応しい? 語呂も良くなくてはいけないし。
10個ほどの名前を考えた。残ったのが「クミコ」である。
まず、家族の名前を考えた。となれば真っ先に浮かぶのが「クミコ」である。愛妻の久美子さんと力を合わせて生み出した花なのだ。

「それに、当時は秋吉久美子さんの人気が絶大で、ええ、主人もファンでした。それで、やっぱり多くの人に親しまれている名前がいいだろう、と思いまして」

ミセスクミコ

名前も決まった。語呂もいい。さあ、出荷するか。
待ったをかけたのが群馬県農業技術センターである。

「坂本さん、アジサイは挿し木で増えるのだから、市場に出したら勝手に作る業者が出てくるかも知れない。これはパテントを取っておいた方がいいですよ」

さかもと園芸の話 その9 フロリアード

チューリップで名高いオランダは、花の国とも呼ばれる。そのオランダで10年に1回、開催都市を変えながら開かれる国際園芸博覧会「フロリアード」は花のオリンピックとも呼ばれる。

4回目に当たる1992年の開催都市はハーグとズーターメア市だった。世界26カ国から出展があり、4月から10月までの開催期間中、336万人が訪れたと記録にある。

「こんな大きな花をつけたアジサイは見たことがない!」

公式のオープニング行事に出席したベネトリクス・オランダ女王が思わず感嘆の言葉を漏らしたのは群馬県のブースでのことだった。女王の目は、さかもと園芸が出品していた「ミセスクミコ」に釘付けだった。現地の新聞も、この情景を記事に取り上げた。

何度も逸話をご紹介した通り、正次さんは欲が薄い人である。金についても

「食べていければいい」

という人だから、ましてや名誉などには全く目を向けない。ただただ、花を立派に育て、自分の思い描く花を産み出したいと園芸に取り組む人である。
だが、実績が積み重なるにつれて、周囲が放っておかなくなった。各種の展覧会に群馬県から出展を求められ、様々な賞をもらった。1983年に開催された第38回国民体育大会(赤城国体)では、

「メイン会場(現在の正田醤油スタジアム群馬)に、花で国体マークを作って欲しい」

と群馬県の依頼を受けてみごとにやり遂げた。久美子さんによると、

「どこに出しても、何をやっても『こんな賞をもらったぞ!』なんて絶対にいわない。今度も何とか期待にこたえられた、と胸を撫で下ろしている人です」