その19 色の合唱

「カンヂンスキーの芸術論」から読み始めた。前回も書いたが、哲学、美学、色彩論など様々な要素が絡み合っている上、100年以上も前の日本語に訳されたこの本は実に難解である。見慣れない漢字も頻出する。読書が趣味の一つである私も、どこまで正確に読み取れたか自信がない。

その中で、智司社長を捉えたのはこれではないか、と膝を叩きたくなった言葉があった。

「色の合唱」

150ページに出てくる。この言葉にカンディンスキーは

(これは私が名づけたものである)

と書き添えている。念のために、この一節をここに書き写す。読みやすいように、古い漢字は新しい漢字、ひらがなに改めた。また送りがなも現代に合わせた。

「しかし私の学生時代には、絵画に対してだけは自由な時間を持つことが出来たので、明らかに不可能なことではあったにも拘わらず、「色の合唱」(これは私が名づけたものである)を画布の上に捕らえようと試みたものである。これはその性質上全く私の魂を感激せしめ、また深くしみ込んで来たものであった。自分はこの響きの全体の力を表現せんことを全力をつくして試みたが、とうとうそれは出来なかった」

色の合唱。これほど松井ニット技研のマフラーデザインにピッタリの表現はないのではないか?

さらに読み進めると、154ページから、カンディンスキーが根底から揺り動かされたという2つの事件が書かれている。モスクワで開かれたフランス印象派の展覧会と、帝室劇場でのワグナーの音楽会である。

フランス印象派展では、クロード・モネの「枯草の堆」(現在は「積み藁」として知られている)に衝撃を受けた。クロード・モネは印象派の画家として高い評価を受けながら、晩年は抽象絵画への道を歩こうとした画家である。ものの形が不明瞭にしか描かれていないこの絵にカンディンスキーは、最初は苦痛を覚えて混乱した。が、やがて

「私の夢、想像を全く越しておる。いままで私から隠されていた意外なパレットの力である。絵は童話的な力と美しさを帯びていた。また絵画において欠くことの出来ない要素と思われていた物体はまたその価値が信ぜられなくなった」

形にとらわれることから自由になったカンディンスキーが抽象絵画の創始者に育っていくきっかけである。

ワグナーはローエングリンが演じられていた。彼は演奏に魅入られ、耳にする音から知っている限りの色が心の中に沸き上がり、すべての色が眼前にあるように感じた。荒々しい、暴れ狂うような線も目の前に現れた。

「芸術は一般的にいって、私がなし得るところのものよりももっと力のあるものであり、従って一方絵画も音楽と同じようにその力を持ち、またそれを発達させ得るものであると明らかに言うことが出来る」

音楽と絵画。そういえば、子どもの頃から歌が好きで上手かった智司社長の趣味の一つは合唱である。後に触れるが、20歳から桐生市内の合唱団「YEARLING」に所属し、2019年3月に退団するまで定期的に舞台に立っていた。

音楽と色彩デザイン。私には、智司社長とカンディンスキーが同じ感性を持つ人のようにも思えてきた。

写真:「カンヂンスキーの芸術論」

その20 和と洋

カンディンスキーの2人目の妻でその死を看取ったニーナ・カンディンスキーが初めて彼の絵を見たのは、まだ学生時代のことだった。もちろん、知り合う前のことである。

彼女はその時のことを、その著書、「カンディンスキーとわたし」(みすず書房)に次のように書いている。

「学校の休み時間に、わたしは女友達に連れられて、ボルシャヤ・ディミトゥリフカの公共の建物で開かれた現代ロシア美術展を見に行った。はっきり言って、その展覧会はわたしたちには一向に面白くなかった。いやそれどころか、展示された絵にわたしたちはむしろ反感を抱いたほどだった。但し一つだけ例外があった——。
そこに他のどんな作品ともはっきり異なった絵を1点見つけたのだ。わたしははじめて色彩と形態の魅力を知り、その魅力のおかげで、その後わたしにはカンディンスキーの世界を開くきっかけができたのである。遠くから見るとその絵は、ゆらゆら燃える火のような印象を呼び起こし、たえずめらめら燃え上がるその炎はお伽の世界のような強烈な色彩効果を生み出していた。ためらいながら、幾分おぼつかなげにわたしはその奇妙な絵に近寄ってみた、そして —— 生まれてはじめて —— 抽象芸術を目のあたりにしたのだ。信じられない光景! 勿論わたしはその画家の名前に関心をいだき、それをやっと絵の右下に見つけた —— その絵は、ワシリー・カンディンスキーの手になるものだった」

その後、51歳のワシリーと結婚したニーナは、彼の死後は唯一の遺産相続人となった。再婚はせず、ワシリー・カンディンスキーの絵画への理解を広めようとカンディンスキー財団を設立、亡き夫の研究・絵画の展示、保存に努めた。財団がポンピドゥー・センターへ多額の寄付をしたのも、その一環だった。

「その18」でも触れたが、智司社長がワシリー・カンディンスキーの絵画にはじめて触れたのは30歳台後半、若手のデザイナーに誘われてパリのポンピドゥ・センターを尋ねたときである。そして、後に妻となるニーナと同じように、強烈な印象を受けた。

智司社長も学校の教科書に掲載されていた抽象画は見た覚えがあった。しかし、実物は初めてである。その部屋には確か10数点のカンディンスキーの絵があり、まず大きさに圧倒された。1枚は自宅の障子2、3枚分はある。

「一言で言えば、ただただ『えっ!』という感じでした。とても華やかで、たくさんの色が一見しただけでは好き勝手にキャンバスに塗られているのに、ごてごてした感じはないしいやらしくもない。きっと、綿密な計算があって成り立っている色彩の世界なのでしょう。何が描かれているかは抽象画ですから分からないのですが、スーッと引き寄せられるような迫力がある。これはもう、好きとか嫌いとか、綺麗だとか汚いとか、そんな世界を越えているな、と」

絵の前で足が止まった。絵に魅入られた、ともいえる。たたずんだまま、次から次にカンディンスキーの絵を見続けるうちに、智司社長の脳裏に、幼いころたくさん見た友禅染の和服が浮かんだ。

「ええ、母方の叔母が高崎市の友禅染の工場に嫁いでいたでしょう。だから、友禅染はたくさん目にしたし、その多色の世界に慣れ親しんでいたからでしょう。ああ、日本も西洋も、たくさんの色を使いこなして美しい世界を作りだしているんだな、って思ったんです」

同時に、なぜか中学の地理の授業を思い出してもいた。担当の先生が休職したとき、代わりに臨時で来た女性教師である。小学校5、6年生の時の担任で、当時は珍しい師範学校出であった。

彼女は毎時間、教科書には載っていない地理の知識を黒板にズラズラと書いた。書き終えると、必ずこう言った。

「これはテストに出る範囲ではありません。でも、知りましたか?」

おそらく、世界とはとてつもなく広いところで、世界を知るには教科書程度の知識では足りない。あなたたちには世界を知って欲しい。テストには出ないが頭の片隅に置いておいた方がいい知識がある、と言いたかったのだろう。

「ええ、カンディンスキーの絵を見ながら、『知りましたか?』という先生の言葉を思い出し、ついつい『はい、知りました』と答えていたんです」

智司社長の美の世界が広がった。

和の美と洋の美が智司社長の中で、「多色」を通じて重なった。智司社長が自覚しないまま、色彩デザイナーとして花開く準備が、ここでも一つ積み重ねられた。

写真:「カンディンスキーとわたし」

その21 YEARLING

少しばかり話が脱線したかも知れない。だが、カンディンスキーとの出会いは智司社長に決定的な影響を与えたのではないかと筆者は思う。だからもう少し脱線を続ける。智司社長の「合唱」である。

桐生には、まだ戦後の混乱期ともいえる昭和23年(1948年)に市民合唱団が生まれている。「YEARLING」という。繊維で栄えた桐生には、いち早く文化を再生するだけの蓄積があったのだろう。

実家に戻って数ヶ月たった頃、高校時代の合唱仲間だった女性から誘われた。

「YEARLINGの公演があるんだけど、一緒に行かない?」

昭和33年、第10回定期演奏会だった。仕事の忙しさで忘れていた合唱への思いが蘇り、誘われるままに出かけた。客席で聴きながら

「自分のいべきる場所は客席ではない。舞台だ」

と痛感した。音楽への思いが行き続けていたのである。その場で入団の手続きをした。

「YEARLING」はユニークな合唱団だった。当初は群馬大学の教授が指導していたが、彼が転勤で退団すると、団員が自主運営をするようになった。指導者がいると、どうしても指導者の色、好みに染まってしまうのが合唱団である。ところが自主運営だから、どんな曲を取り上げるかは仲間内の相談で決まる。戦後に芽生えた民主主義的運営ともいえる。ジャンルを越えて様々な曲を歌った。

一時みんながはまったのが、ロジェー・ワーグナー合唱団である。「16世紀の聖堂の響き」というアルバムが売り出され、あまりに美しい合唱の響きに

「はい、YEARLINGの全員がカルチャー・ショックを受けまして」

自分たちもこんな合唱をしてみたい。だが、今と違って楽譜は簡単には手に入らなかった。耳コピを試みたがなかなかうまく行かない。1曲だけは何とかなったが、他の曲も欲しい。

「思いあまって、東京芸術大学の教授に手紙を書きまして」

全員で東京まで出かけ、合唱の指導を受けてきた。帰りには、喉から手が出るほど欲しかった楽譜もいただいてきた。ガリ版刷りの楽譜だから気楽にもらうことが出来た。

こうして「YEARLING」は、宗教曲にのめり込んでいく。

「YEARLING」の公演はいつも満員札止めの盛況で、1500人の会場に入りきらず、立ち見客が出るのが常だった。
ところが。

「あれはいつ頃ですかねえ。客の入りが悪くなったんですよ」

何とかしようと軽音楽に挑んだ。智司社長と4、5人の仲間が市内のギター教室に通い始めた。ピーター・ポール・アンド・マリー、ブラザーズ・フォーの曲をコピーしようというのである。

智司社長はオーディオにもこり始めた。アンプはこれにして、ターンテーブルは糸ドライブを選び、アーム、カートリッジは別々のメーカーのものを組み合わせる。スピーカーはイギリスのステントリアンを選び、コンデンサータイプのツイーターを加えた。東京・秋葉原に足繁く通ったのはいうまでもない。輸入レコードを買いあさったのもこの頃の話である。いわゆる「音きち」だった。

20歳で始めて2019年に退団するまで約60年。合唱の何が智司社長をそこまで惹きつけたのだろう?

「例えば宗教曲ですが、4つのパートがきちっと合うと、それまでなかった音が聞こえてくるんです。いわゆる倍音が生まれましてね。その倍音の美しさ、倍音を生み出すまでのプロセスの楽しさ。ええ、それが合唱の最大の魅力ですね」

ソプラノ・アルト・テノール・バスの4つのパートがきっちり合うと、単なるハーモニーを越えて倍音が生まれる。

それって、たくさんの色を組み合わせる松井ニット技研のマフラーと同じでは?

「いわれてみればそうですね。でも、合唱もマフラーも、『倍音』はなかなか出てくれませんが」

智司社長が

「本当に私の人生を豊かにしてくれました」

という合唱も、松井智司の美を醸し出す大事な要素なのだ。筆者にはそう思われてならない。

写真:YEARLINGの公演。前から2列目の左から2人目が松井智司社長。

その22 真っ赤なロングマフラー

話を元に戻そう。

パリを出た智司社長とデザイナーはコルシカ島に向かった。そこからニース、マルセイユと足を伸ばし、イタリアに入ってピサ、フィレンツェ、ローマ、ミラノと歩いた。デザイナーはミラノで

「私、これからちょっと用事がありますので、ここで」

と一人で次の目的地に向かった。一人になった智司社長は、再びパリに足を向けた。

これが初めてのヨーロッパ旅行である。パリはあこがれの街だった。足繁く松井ニット技研を訪れていたデザイナーたちの話には、必ずといっていいほどパリコレクションの話が出る。

「今年のパリコレはさ、○○のドレスがとても素晴らしくて……」

「パリコレに行ったら、シャンゼリゼは欠かせないよね。今年もね……」

行ってみたかった。パリのオシャレな雰囲気、芸術の空気の中に自分を置いてみたかった。でも、フランス語……。
行きたいという思いは募っても、とてつもなく遠いところだった。

しかし、英語とフランス語を自在に操るデザイナーと過ごしたパリとイタリアの旅は、智司社長に自信を与えていた。列車の乗り方は分かったし、ホテルの使い方も身についた。あとは片言の現地語さえ覚えればヨーロッパ旅行も怖くないじゃないか!
一人で旅を続けた。

「だから、あれをきっかけに何度もヨーロッパに出かけました」

この旅で、智司社長はもう一つ大事な体験をした。場所はフィレンツェ、時期は9月である。夏の名残を引きずりながら、やっと秋が訪れようかという季節だった。

「まだ半袖でもいいかなという気候でした。暑いんです。それなのに、カーキ色のロングコートを着込んで、それに真っ赤なマフラーを巻いている男の人がたくさん歩いている。何事だ、と驚きましてね」

当時の日本ではまだ、男は質実剛健であるべきだという風潮が強かった。オシャレは女性の専売特許である。オシャレをする男なんて女が腐ったようなものではないか。
女性の方々、申し訳ありません。当時はこのような表現がまかり通っていたのです。

子どもの頃から最高級品ばかり身につけさせられていた智司社長も、そう考える日本男児の一人だった。高級品を身につけるのと、チャラチャラしたオシャレをするのは似て非なるものである、と思い込んでいた。

「ところが、ここの男たちはまだこんなに暑いのに、季節を先取りして秋のファッションで身を包んでいる。コートだけならまだしも、首にマフラーを巻いて、マフラーの先っぽを地面を引きずりそうにしながら歩いているんです。そして、いかにもオシャレにレイアウトされた洋品店のウインドウをジッと見つめている。フィレンツェでは、男もファッションに関心が強いのか。これもカルチャーショックでした」

松井ニット技研はマフラーメーカーである。様々思いが駆け巡った。

マフラーとはそもそも防寒具である。それをこんな季節に使うか?

マフラーの先っぽが地面を引きずるような長いマフラーがなぜ必要なのか?

そもそも、男が真っ赤なマフラーを巻くか?

日本男児が守り続けてきた価値観が否定されたように感じた。だが、決して不快ではなかった。

「そうか、フィレンツェでは男もおしゃれを楽しむのだ。マフラーはオシャレの小道具の一つなんだ」

マフラーメーカーを率いる身として、窓が一つ開き、明るい陽光が差し込んできたように感じたのである。

写真:松井社長がイタリアで買ったマフラーの1本。真っ赤で、引きずるように長い。

その23 買い漁る

日本のデザイナーたちからの仕事受けるようになって、松井ニット技研もオシャレっぽいマフラーの製造を始めてはいた。だが、マフラーは先に染めた糸を使って編む。編んだあとで染めるのならたくさんの色が使えるが、先染めでたくさんの色を使うのは編む工程が複雑になりすぎる。だから、オシャレっぽいとはいいながら、ほとんどは単色のマフラーだった。使ってもせいぜい5色である。

しかし、フィレンツェでオシャレを楽しんでいるらしい男性たちがのぞき込んでいるウインドウには、たくさんの色を使ったマフラーがいくつも並んでいる。綺麗だ。

面白い。いずれ松井ニット技研もこんなマフラーを編むことになるのではないか。そんな予感を持ちながら智司社長はドアを開けて店内に入ると、

・全体の雰囲気

・色柄

・風合い

・糸の使い方

・サイズ 

・編み方

など参考になりそうなマフラーを10本前後購入した。

フィレンツェを出てミラノ、ローマを歩くと、智司社長の買い物は本格化する。目に着いたマフラーを片っ端から買ったのだ。ローマを出るときには、スーツケースがマフラーであふれかえっていた。

この旅で智司社長はいくつかのことを学んだという。

当時の日本のマフラーには楽しさが足りなかった。真知子巻きを例外とすれば、日本のマフラーは二重に折って首にかけ、前でクロスさせてその上から服を着るものだった。もっぱら首筋を寒気から守るもので、見せるものではなかった。だから色柄も地味だった。

しかしイタリアでは、マフラーは衣服の外に出して見せるものだった。だから明るい色が使われ、色数も多い。それにしても、男性用の真っ赤なマフラーとは!

日本のマフラーに足りないもの、それは「楽しさ」だった。

イタリアの洋品店のウインドウにも感心した。セーターやマフラー、傘などがみごとにコーディネートされ、ウインドウが一つのファッションの提案になっている。見ていて心が浮き立つ。フィレンツェでたくさんの男性がウインドウに見入っていたのもそのためだろう。

智司社長がミッソーニに出会ったのはミラノだった。そのブティックに並んでいる商品群に思わず目を奪われた。使われている色が実に綺麗である。それにミッソーニ独自の多色使いはみごとだ。色と色が喧嘩することなく、一つの世界をつくりだしている。

「思わず手を伸ばして買おうとしました。ところが、高い! マフラー1本が、当時の日本円に換算すると数万円もするんです。とても買えないと諦めました」

そのブティックに中年の婦人が入ってきた。何を買うんだろうと見ていると、やがて頭のてっぺんから足のつま先まで、その店で買ったミッソーニで身を固めて現れた。そして優雅にドアを開けると、歩き去った。

「いったいいくらの買い物をしたんだ!」

唖然としながら、

「でも、沢山の色が使われているのに、みごとにバランスが取れていてファッショナブルなんですよ。さすがにミッソーニです」

初めてのヨーロッパ旅行で智司社長は、ワシリー・カンディンスキーとミッソーニに出会った。後の智司社長から顧みれば、運命的な出会いだった。

だが、この時の智司社長はまだ、自分が多色のマフラーをデザインすることになるとは考えてもいなかった。イタリアのマフラーを買い集めたのは、あくまでマフラーメーカーとしての技術を高める参考資料としてでしかなかった。

写真:松井智司社長がイタリアで買い集めたマフラーの一部。いまでも大事に保存している。