その3 藤娘

預け先の母の実家は丸帯専業の機屋だった。こちらも他に先駆けて力織機、それもジャカード織機を入れ、当時の最先端の技術で美しい帯を織っていた。

※ジャカード織機:コンピューター制御織機の先駆けともいえる自動織機。穴の空いた厚紙(紋紙、という)で引き上げる経糸を制御し、紋紙に記録されたパターン通りに織り柄を作った。

だから、こちらも飛び抜けて豊かだった。おじいちゃん、おばあちゃんにおばさんが2人、おじさんが一人の家庭で、子守を兼ねたお手伝いさんが一人同居していた。智司社長の母・タケさんははこの家の長女である。

みなオシャレだった。仕事柄もあるのだろうが、智司社長の記憶には、いつもとびきり美しい和服を着こなして動き回っていた祖母や叔母たちの姿が焼き付いている。

こういうのを猫可愛がりというのだろう。祖母や叔母は、買い物、機屋仲間との打ち合わせなど、どこに行くのにも智司君を伴った。外出となると、2人は家にいるときよりもさらに美しい着物を身につける。

「本当に美しくてね。中でも、しばらくして高崎の呉服問屋に嫁いだ上のおばさんはオシャレで、一緒に歩きながらうっとりと見つめてしまっていました」

祖母は芝居が好きで、いまの松井ニット技研からそれほど離れていないところにあった「桐座」がお気に入りだった。智司君を預かってからは、芝居見物のお供は決まって智司君だった。

「ある日、市川歌右衛門が舞台に出ましてね。ええ、女形です。舞台の天上から藤の花がいっぱい下がっていて、そこに藤の枝を肩に挿した歌右衛門が烏帽子をかぶって登場するんです。だから、あの芝居は『藤娘』だったのかなあ。綺麗なんです。舞台衣装が派手やかでしょう。そこに藤紫の花が溢れている。とにかく、綺麗で綺麗で、何ていうんでしょうねえ、そう、魂を奪われたみたいになって、もう舞台から目が離せないんです」

智司君は5歳になると生家に戻ったから、これは3、4歳の頃の記憶である。生まれて3、4年しかたっていない幼子が歌舞伎舞台の絢爛さに魅せられて我を忘れ、しかもその記憶をいまに至るまで持ち続ける。普通にあることではない。ませた子どもだったというより、人に増して「美しさ」に鋭敏な感受性を持って生まれついたのだろう。

智司社長を惹きつけたのは舞台だけではなかった。祖母に連れられて通い詰めた「桐座」には、客として芸者衆も通っていた。芸者とは流行の最先端に触れ、身にまとってお座敷で客をもてなす仕事である。それだけではない。もてなしには話題の豊富さも必要だ。彼女たちは身銭を切って教養を積み重ね、仕事に備えていた。「桐座」は彼女たちの学習の場でもあったのである。

勉強が目的とはいえ、普段着で来る芸者衆はいない。美しさも芸者衆の武器の一つである以上、たくさんの人がいる場に出る彼女たちは念入りに化粧をし、美しく着飾って妍を競った。

「桐座」の智司君は舞台からだけでなく、自分を取り囲む客席からも美しさを吸収していたのに違いない。

智司君がやがて、祖母に連れて行かれた呉服商の店頭で

「おばあちゃん、この着物、きっとおばちゃんに似合うよ」

と口にするほどの「目利き」になった。溢れるほどの美しさに取り囲まれているうちに、智司君の内側で、知らず知らずに美しさに対する独自のセンスが育っていたのだと思われる。

その4 四丁目小町

智司少年は、あまり手がかからなくなった5歳になって生家に戻った。すぐ近くに、「四丁目小町」と呼ばれた父方のおば、富貴さんが嫁いでいた。ご亭主は桐生工業専門学校(いまの群馬大学理工学部)の先生である。

魚屋だった松井家が機屋に転業したのは、親が

「こんな綺麗な子が魚屋の娘では可愛そうだ」

と考えたからだという、何だか魚屋さんには気の毒な言い伝えが残っているほどの美人だった。しかも、東京の女子校に進んだインテリであり、卒業して桐生に戻ってくる時は夜会服(イブニングドレス)姿で汽車を降り立った、時代の最先端のファッションセンスを身につけたおしゃれな人だった。

嫁ぎ先は桐生市内有数の料亭だった。生家に戻った智司少年は足繁くこの家に足を運び始める。

第2次世界大戦のあおりで戦時中に廃業していたが、元は繁栄する桐生で覇を競った一流の料亭である。家の造りが全く違った。

客を迎え、もてなし、楽しませるのが料亭である。勢い、オシャレで粋な雰囲気が漂っている。玄関の間は畳敷きの3畳。大小の部屋が複雑に配置され、何度も曲がりながら部屋を繋ぐ廊下にも畳が敷き詰められている。

部屋に置かれた座卓や脇息には職人の凝った仕事が見て取れた。欄間や障子、床の間の意匠も目を引く。床の間を飾る掛け軸、廊下のあちこちに何気なく置かれた壺、食事を盛る器、それを運ぶお盆、添えられた箸。贅をこらした品々が智司少年の目を楽しませたのである。

「庭も素晴らしかったですねえ。石の配置、上手に剪定されて枝振りがみごとな木、季節季節の草花など、街の真ん中にいるのに広大で美しい自然の中にたたずんでいるような感じがして、縁側に座ってボンヤリ時間を過ごすこともありました」

智司少年は空襲が激しさを増した昭和20年(1945年)の春、四万温泉に疎開した。そのおばさんの嫁ぎ先の親戚が経営する料理旅館である。母と妹、弟、それにお手伝いさん一人と一緒だった。

料亭にはすっかり馴染んだ智司少年の目に、料理旅館はまた違った空間に思えた。客を迎えてもてなすのは同じだとはいえ、町中でのもてなしと、温泉地でのもてなしは違うのだろう。こちらの方がおおらかでゆったりしている感じがする。

部屋から部屋を歩き回り、

「こっちはこう作ってるんだ」

と新しい発見をするのが日課になった。
智司少年は、やっぱり「少し違った」少年だったのである。

ちなみに、智司少年は終戦の玉音放送を町のラジオ屋で聞いた。

「桐生に帰れる!」

料理旅館の探検は楽しくても、友達がいないのが寂しかった。桐生に戻る。あいつに会える!

矢も立てもたまらなくなった。母や妹がやっている帰宅準備がじれったくなった。

「僕、先に帰る」

と、1人で四万温泉を出た。とはいえ、四万温泉から桐生までは100㎞程の道のりだ。それを小学2年生が1人で?

広沢のおばあちゃんが四万温泉までハイヤーで迎えに来てくれたのである。

昭和20年。小学2年生。ハイヤーでのお迎え。智司少年は文字通り、銀のさじをくわえて生まれてきたのだった。

写真:四丁目小町と呼ばれたおば富貴さん。

その5 桐生の着倒れ

話を少し戻す。

2歳から預けられた広沢のおばあちゃんの家も着道楽だったが、戻ってきた生家もまさるとも劣らぬ着道楽だった。

母は、普段着と外出着をきっちり区分けし、

「普段着は何でもいいけど、外に出るときはちゃんとしたものを身につけていないと気後れする」

が口癖で、身につけるものは何でも最高級のものを揃えた。

「何でもいい」普段着とはいえ、安物を使ったのではない。男性用は銘仙である。そして、外出着は最高の織物生地といわれるお召しで仕立ててあった。背広が必要になるとわざわざ東京・銀座まで出かけ、最高級の生地でオーダーした。

※お召し:強い撚りをかけて糊で固めた絹糸で織り上げ、あとで糊を洗い落とした生地。撚りが緩んで独特の凹凸が生地表面にできる。11代将軍徳川家斉が好んで「お召し」になったことからこの名がついたといわれる。

父の實さんの身体が弱ると、母のタケさんが外の仕事も取り仕切るようになった。取引先との打ち合わせなど仕事での外出も増えた。そんなときの母は、言葉通り、タンスから最高の着物取り出して身につけた。

「着飾った母を見ると、何だか嬉しくて仕方がなかったですね」

智司少年が最も好きだったのは、深緑の生地に、刷毛で描いたようなグレーがかった薄緑の大きな渦が全体にあしらわれた着物だった。その着物に身を包んだ母を見た日は、一日楽しかった。

「母が亡くなった後であの着物を探したんですが、どこに行ったか見つからないんです。どうしたんでしょうねえ」

生家に戻っても智司少年は相変わらず美しいものに取り囲まれていたのである。

加えて、当時の桐生は「着倒れ」といわれた。西の京都・西陣と並ぶ織物の産地として繁栄の極みにあったころだ。男も女も、町に出るときは競うように着飾った。競えるだけの経済力が桐生にはあったのである。

それに、当時の桐生には数百人の芸者がいた。機屋の旦那衆の夜ごとの接待や遊びは、それだけの芸者衆がいないことには成り立たなかった。松井家のすぐそばにも検番(けんばん)があり、夕暮れ時に外に出ると、着飾ってお座敷に向かう芸者さんと数多くすれ違った。

「夕日の中にパッと花が咲いたようで美しかったですねえ」

まだ形ができずに柔らかいままの智司少年の感性は、こんな桐生で育まれたのである。

「小さいときから美しいものをうんと見ないと、美しいものを生み出す感性は育たないんじゃないですかねえ」

いまの桐生は機屋も減り、経済力も衰えた。芸者衆は1人もいない。昔日の桐生は過ぎ去った夢のようなものだ。着飾る文化はお金が溢れるほどあってこそ絢爛豪華な花を咲かせるものだ。いまの桐生を「着倒れ」と表現する人は皆無に近くなった。

智司社長は、いい時代、いい場所で、心が一番可塑性に富んだ時代を過ごしたのではなかったか。

写真:母の形見の着物の横に立つ松井智司社長

その6 若鷹の爪

智司少年は終戦の前年、桐生市立東小学校に入学した。

あれだけのマフラーをデザインする人である。そして、繁栄を極めた桐生で和の美に取り囲まれて育ち、繊細な美感を育ててきた子どもでもある。才能の一端は幼い頃から迸り出て、

「これが子どもの絵か、と担任の教師を驚かす絵を次々と描く子どもだったに違いない」

と先回りして考える人がほとんどだろう。筆者も長い間、そう思っていた。

ところが。

「私、小学生の頃から絵がからきしダメでしてね。ほら、夏休みになると絵の宿題が出るじゃないですか。絵を描くのは下手で、だから嫌いで放っておくんです。すると、いつの間にか父が描いてくれている。それを提出すると、そりゃあ小学生の絵に大人の絵が混じっているわけですから、『いい絵だ』と展示されるわけです。それが恥ずかしくて。いまさら、『これは僕の絵ではありません』というわけにもいきませんしね。それもあって、夏休みが終わるのが大嫌いでした」

松井智司君の絵が、優れた絵として毎年教室を飾っていたのは私たちの予想の通りである。だが、違ったのは、実は本人が描いた絵ではなかったことだ。

能ある鷹は爪を隠す。だが、この頃の智司少年には隠すべき爪はまだなかった。爪がないから、見かねた親鷹が爪を貸していたわけだ。

だがいま、智司社長は鋭い爪を持つ鷹であることを私たちは知っている。遅れて生えてきたからより鋭い爪になったのかも知れない。あるいは、本人も気がつかないうちに、身体の奥深くで他に優れた爪を作る作業がゆっくりと進んでいたから外に出るのが遅れたのか。いずれにしても、いわゆる大器晩成形なのだろう。

その爪が表に現れるのはずっと先のことである。私たちは辛抱強く待たねばならない。

絵が嫌いな智司少年が好きだったのは音楽である。歌うのが得意で、

「はい、先生に指名されて教室の前に出て歌うのは、いつも私でした。それに、自分の耳で聞いて、私よりいい声だなあ、と思ったのは同学年に1人しかいませんでした」

それほどだから、歌の才能はあった。そして、才能の持ち主は褒められることでさらに才能を磨こうとする。

2年生に進級した智司少年は、学校の合唱団に入ったのである。そして放課後の練習には欠かさず参加した。

勉強は大嫌いで、だからしなかった。当然、成績は

「中の中ぐらい」

を続け、そのまま桐生市立東中学に進んだ。相変わらず、合唱クラブで喉を鍛えた。
そんな智司少年に、ほんの少しだけ変化が生まれる。

「何故か、美術の授業が好きになりまして」

いや、爪が生え始めたのではない。好きになったのは美術史である。教科書で見た「アルタミラの洞窟壁画」に、何故か強く惹かれたのだ。

「この躍動感を2万年前の人が描いたと知って,大きなショックを受けたんです」

次にギリシア建築に惹かれた。エンタシスの柱の優美さである。エジプトの絵画に惹きつけられた。ギリシャ彫刻の造形力、力強さに心を奪われた。
美術が好きだった父が集めた画集や美術雑誌を開き始めたのはこの頃のことだ。

そして、ノートを作り始めた。雑誌や新聞から、これぞと思った記事、写真を切り抜き、ファイルする。空いた場所に、授業で習ったことや思い浮かんだ文章を書き加えた。そのノートはいまでも大事にとってある。

「それまで、織物をはじめ日本の美にはゲップが出るほど触れていましたが、西洋の美は全く知らなかったんです。きっとそれでショックを受けたんですね」

だが、相変わらず絵を描くのは苦手だった。美術史との付き合いはあくまで片手間で、智司少年の情熱は相変わらず合唱に注ぎ込まれていた。

写真:小学校の修学旅行。後列右から6人目が松井智司社長。

その7 変化

もう少し、中学時代の智司少年を追いかけよう。暮らしに変化が訪れるからである。

いまは小学生から英語の授業が始まるが、当時は中学に入って初めて英語に触れた。教科書に並ぶabcに智司少年は戸惑った。全く理解できないのである。

小学校の頃は、勉強などしなくても何となく理解できた。算数も国語も社会も理科も暮らしの中に出てくるから、取り立てて勉強しなくても

「こんなことだろう」

と分かる。だから勉強はしないが、成績は「下」ではなく、「中の中」を保っていられた。

だが、英語となると話が違う。生家にもおばあちゃんの家にも町にも、英語は見当たらなかった。これは勉強しなければ理解が届かない。

「あのう、英語が分からないんだけど,塾に行かせてもらえませんか」

おずおずと母に申し出、塾に通い始めた。生まれて初めて

「勉強しなくちゃ」

と思ったのである。

「やってみたら、ちんぷんかんぷんだった英語が分かるんですよ。すっかり面白くなって英語が大好きになり、つられるようにほかの科目も勉強をするようになりました」

智司少年はそれまで、もっぱら「感性」を磨いてきたのだろう。この時の変化は「知性」も磨かねばならないと、智司少年が少し「大人」になったことの表れではなかったか。

成績に自信を持ち始めた智司少年は、いずれにしろ繊維の世界で生きていくことになるのだろうから、であれば京都繊維工業大学に進学したいと考え始めたのである。

第2の変化は家業に訪れた。

智司少年が小学校に入った頃、国が始めた無謀な戦争は徐々に敗色を濃くしていた。相次ぐ局地戦の敗北で船や飛行機が足りなくなり、材料に困った政府は鉄の供出を民間に強制した。織物など戦争にあまり関係がない業界が真っ先に狙われた。織機を取り上げられた「松井工場」は機屋を廃業せざるを得なくなり、「赤城発条」と社名を変えてスプリングを作り始めた。太田市にあった中島飛行機に納品する部品である。軍需産業に変身しなければ生き残れない時代だった。

小学校2年生で敗戦を迎えた。これでやっと機屋を再開できると胸を撫で降ろしたのもつかの間だった。その秋、父・實さんが倒れたのである。一家の大黒柱が病の床につき、工場の操業が止まった。母・タケさんは広沢町の実家の絹の靴下工場を見て松井工場で靴下を作り始めたがあまりうまくいかず、間もなく東京に本社があったトリコット工場に貸した。

そして昭和23年、實さんが肺炎で世を去る。松井家は火が消えたようになった。中学校を目前に、智司少年はくわえていた銀のさじを失っていた。

そして、3つ目の変化は思いもかけないところに現れた。智司少年のデザインが認められたのである。

中学の卒業アルバムのデザインが校内で公募された。公募といっても, 3年生は全員、アルバムのデザインを考えて提出せよ、というのだから、見方を変えれば強制である。

①金をかけないこと
②使いやすいこと

の2つが、課された条件だった。

絵が

「からきし下手」

を自認していた智司少年も出さざるを得ない。あれこれ考え、鶯色の表紙のアルバムを提案した。何と、それが採用されたのである。

「まさか、私のデザインが通るとはね。ほんと、予想もしていませんでした」

子どもの頃から美しさに取り囲まれて育ってきた美への感受性が初めて形になった、ともいえる。智司少年の爪が、皮膚を破ってほんの少しだけ外に出た瞬間だったのかも知れない。

それに、コストを抑え、使い勝手がよい、というのはいまの松井ニット技研のマフラーに通じる哲学でもある。

智司少年は、智司社長への道を半歩、いや100分の1歩かも知れないが、この時踏み出したのだと筆者は考える。

写真:松井智司少年デザインによる中学卒業アルバム。すっかり古ぼけてしまったが……。