化学を極める ホリスレンの3

【洗面器からの出発】
前回、スレン染料は素人に扱えるような代物ではない、と書いた。だが、ホリスレンの初代、堀照尉(てるい)さんは、ほとんど素人同然の状態でこの事業を立ち上げた。昭和36年(1961年)のことである。

桐生工業高校の定時制を卒業した照尉さんは桐生市内の機屋に職を得た。染色まで手がける機屋で、照尉さんは染め終わった糸を干す仕事を割り振られた。しかし、その程度の仕事では満足な給与はもらえない。見切りをつけて独立、染色業を始めたのは、糸を干す傍らで染色の仕事を手伝わされ、自然に技が身についていたからである。

といっても、満足な開業資金はない。染色用の機械を備えるなど夢のような話だった。思いあまった照尉さんは洗面器に染料を入れて糸を染めた。夜を日に継ぐように仕事をしたが、それでも染め上がる糸はほんのわずかでしかない。赤貧洗うが如し、という暮らしからなかなか抜け出せなかった。

「あんた、スレン染めをやってみないか」

声をかけたのは、市内で糸に撚りをかける仕事をしている知り合いだった。取引先の、パールヨットという新進の刺繍糸メーカーが、スレン染めが出来るところを探しているという。パールヨットは色の堅牢度が高いスレン染めの糸に特化し、評価をぐんぐん伸ばしていた。

スレン染め? 知らない言葉ではなかった。工業高校の授業でほんの2時間余り、実習したこともある。記憶によると、あの染め方は難しい。俺に出来るか? しかし、選択肢はなかった。それが出来なければ今の暮らしから抜け出す術はない。

市内にスレン染めをする所があると聞いて教えを請いに行った。高価なスレン染料を市内の販売店で小分けしてもらい、見よう見まねで染めてみた。参考書が欲しかったが、そんな本は見当たらなかった。
そして、ほんの少しずつだが、市内の糸屋さんから注文が来始めた。

間もなく、パールヨットから注文が来た。綿糸を黒に染めてみろという。採用されれば、相手は伸び盛りの刺繍糸メーカーである。暮らしぶりは一転するに違いない。

黒に染めた。突き返された。

「濃度が足りない」

また染めた。また戻ってきた。3度、4度……。

10回突き返されて、あれほど膨らんでいたやる気が急速にしぼんだ。

「これ以上何をやれっていうんだ、ってね。それで妻とも話して、俺たち、食うにも困ってるけど、今度駄目だったら諦めよう、ってことにしたんです」

11回目の試作品。最後の試作品だった。数日後、パールヨットから知らせが来た。

「おい、あれでいいんだってさ。合格したよ、合格だ!」

その日、堀さん一家に喜びと安堵が爆発した。以来ホリスレンは、パールヨットと二人三脚で発展した。

化学を極める ホリスレンの2

【色との闘い】
ホリスレンは30種類ほどのスレン染料を常備する。この30色から、刺繍糸メーカーのパールヨットの色見本に従い、実に700種類近い色を出す。
無論、それぞれの色を出すための染料の配合割合は数値化している。その通りに混ぜ合わせ、湯に入れて還元剤を加え、染料を溶かす。

染色用のタンクは中心に染料の吹き出し口があり、タンクに入れた15㎏から50㎏の糸に染料溶液を吹き付ける。スイッチを入れればタンクの下に落ちた溶液は循環して再び吹き出し口から飛び出していく。

それだけの事である。一見、素人の筆者にも出来そうな作業工程ではないか?

「ところが、それだけだと色がぶれるんです」

染料の配合はマニュアル通りにやった。だから間違いはないはずなのだが、同じ染料メーカーの染料でも、ロットによって微妙に成分比率が狂うらしく、染め上がりが色見本からずれた色になる。いってみれば、新しく染料を購入する度に実験し、配合割合を書き直さなければならない。大変な手間である。

 

それだけではない。途中まで使った缶に入っている染料を、最適と分かっている配合割合で使っても、

「毎回うまく行くとは限りません」

染料を溶かし込んだ湯の温度、湯と染料の割合、染める時間、その日の外気温、加えた還元剤の微妙な量の違い、タンクへの糸の入れ方……、スレン染料は実に敏感に「違い」を嗅ぎ分けて違った表情を現す神経質な染料なのである。

「ある程度までは数値化出来るし、やって来たんですが、最後は勘頼りですね。今日はこれで行く、って決めてやるんです」

35年間で勘は随分鋭くなったと思う。だが、逆説的にいえば、データの裏付けがない勘ほど当てにならないものはないこともこの間に学んだ事だ。

化学を極める ホリスレンの1

【刺繍糸】
刺繍糸には2つの厳しい性能が求められる。

・経年変化に強いこと
刺繍糸は一巻き6000m〜9000m程の長さで供給される。様々な色を使うため、大量に使う糸と少量しか使わない糸が生まれる。このため、少しだけ使う糸は、一巻きが5年後、10年後も使われることがある。10年たった糸に出番が来た時、褪色して色が変わってしまっているのでは、その糸を使った刺繍屋さんは注文主のアパレルメーカーに叱られ、刺繍糸メーカは刺繍屋さんからクレームを受けて、やがて客をなくしてしまう。長年、日の光が当たっても、空気中の水分に晒されても色が変化しない高度な堅牢性は、刺繍糸になくてはならい。

・水に強いこと
ポロシャツ、靴下など、刺繍で出来たワンポイントマークで知られる繊維製品は数多い。こうしたワンポイントマークを売りにするブランド・メーカーは、刺繍の糸の色に強いこだわりを持つ。洗濯を繰り返しても、刺繍は当初の色を失ってはならない。
そこまでこだわらなくても、刺繍糸の色が水で落ちたらどうだろう? 落ちた色は生地にシミを作る。刺繍の周りが薄らと刺繍の色に染まったら、客は販売店に苦情を持って行くはずだ。水に強い事、水道水に含まれる塩素でも色が落ちない事も刺繍糸の条件である。

このため、刺繍糸は日光にも水にも塩素にも最も強い耐性を持つスレン染料で染めるものがほとんどだ。スレン染料は水に溶けない。アルカリ剤と還元剤を加えて水溶性にした上で繊維に浸透させ、染料溶液から引き上げて空気中で酸化させ、もとの色に戻す。もともと水に溶けないから強靱な耐水性を示し、その上耐光性も強い。過酷な環境に晒される軍服や制服に多く使われるほか、あのバーバリーのトレンチコートもスレン染めした糸で仕立てられている。
スレン染めの複雑な染色工程は高度な職人技の固まりである上、染料の価格が他と比べて極めて高い。そのためか、手がける染め屋さんは少ない。
日本最大の刺繍糸メーカーであるパールヨットの糸の染色を一手に引き受けるホリスレンは、その社名からも分かるように、スレン染めを専業とする染め屋さんである。

【スレン染め】
「ええ、スレンってやつは実に扱いにくいんですよ。ちょっと見ていて下さい」

「赤」に染め上げるスレン染料

初めてホリスレンを尋ねた時、2代目社長の堀貴之さんは応接間のテーブルにフラスコやピペットなど、かつて高校の理科室で見た記憶のある懐かしい道具を並べた。何が始まるかと見つめていると、魔法瓶からフラスコに湯を注ぎ、そこに、焦げ茶とも言える深い赤のスレン染料を加えた。出来た液はドロリとした赤である。

 

「ご覧になっているように、スレン染料は水や湯には溶けません。混じり合っているだけです」

堀さんはピペットになにやら液体を吸い上げると、この染料の中に数滴垂らした。

「いま、還元剤させました。こうするとスレン染料が水に溶けます。この状態にしないと糸を染めてくれません」

数秒後、堀さんはフラスコから糸を引き上げた。オレンジ色に染まっている。ところが、見る見る内に再び色が変わり始めた。空気に触れているところからどんどん赤くなっていく。

手編みの技をいまに 中島メリヤスの3

【伝統芸】
東京から桐生を訪れるには、東武鉄道の浅草駅から特急「りょうもう号」が便利だ。便数が少ないのが難点だが、乗れば1時間40分前後で新桐生駅に到着する。
新桐生駅を出て県道桐生伊勢崎線を左折、桐生市街方面に向かうと、4月初めにはみごとな桜並木に出迎えられる。道の両側から満開の花をつけた枝が張り出し、まるで桜のトンネルだ。トンネルを抜けるとすぐ左手に「中島メリヤス」の看板が目に入る。

「メリヤス? 桐生は繊維産業の町だが、ラクダのシャツや股引まで作ってるのか? しかし、最近はそんなものはトンと目にしなくなったが、会社としてやっていけるのかな?」

筆者は看板を目にするたびに、そんな思いにとらわれていた。10年以上も桐生で暮らしながら、それがとんでもない間違いであることを知ったのは今回の取材を始めてからのことである。不明を恥じるほかない。

創業は1948年(昭和23年)。大正天皇の近衛兵として新潟から上京した祖父・四郎さんが、太平洋戦争が激化すると桐生市の隣、太田市の中島飛行機で航空機の整備の仕事に就いた。敗戦で職を失ったころ、知人が「退職金代わりにもらった」という手動の編み機を譲ってくれたのが道を開いた。

(創業者、中島四郎さん)

編み物には全くの素人である。しかし、ほかに暮らしを立てるあてがない。すでに妻があった。四郎さんは繊維産業が盛んな桐生市で、見よう見まねで股引やセーターを編み始めた。それだけでは満足な収入が得られず、創業当時の「中島メリヤス」は、タバコをはじめ様々な雑貨を並べた。綿から糸を曳いて売ったこともある。

「はい、創業当時の我が社は、雑貨屋だったと聞いています」

と敬行さんはいう。

事業主は事業の近代化、高度化を試みる。四郎さんは中島飛行機で習い覚えた機械の知識を活用した。モーターを調達すると自力で編み機に取り付け、手動編み機を自動編み機に改造したのである。手編みに比べれば生産性が数倍、十数倍になった。
この改造が「中島メリヤス」の基礎を築くのだが、それが形になって見え始めるまでにはもう少し時間が必要だ。

手編みの技をいまに 中島メリヤスの2

【指名発注】
東京・千住に「天神ワークス」という革工房がある。皮に強いこだわりを持つメーカーとして根強いファンを持つ。
とは後で知ったことだ。「天神ワークス」から突然電話が入った数年前、中島敬行さんには未知の会社だった。

「スタンダードな革のカージャケットを作ろうと思っています。最上の子牛の皮を使います。それに相応しいニットパーツを作ってもらえるところを探して中島さんの評判を知りました。お願いできませんか?」

「中島メリヤス」はパーツメーカーである。理不尽な注文でない限り、仕事は引き受ける。しかし、最上の革とは? どんなニットパーツが求められている?

聞くと、使う革は独自の技法で丁寧になめし、1930年代から50年代の味を再現する。ほかでは出来ない独自のジャケットに仕上げるため、革だけでなく、ジッパーにも裏地にも、もちろんニットパーツにも最高級の物を使う。ニットパーツを使うのは衿、袖、サイドベントの3箇所で素材はウール。

仕事は難しいほど面白い。引き受けた中島敬行さんはまず、素材選びから考えた。
このレザージャケットにはどんなニットパーツが合うか? クラシックな雰囲気にはソフトな衿や袖では似合わないだろう。ゴツゴツするような手触りが欲しい。
選び取ったのは英国のウールである。北極圏からの寒気と雨風の厳しい環境で育つ羊はハリ、コシのある毛をつける。それに毛に黒と茶が混じるのも面白い。これに南米産の羊毛を混ぜてやろう。
そして、古い編み機を使う。もともと低速の編み機の速度をさらに落として編む。昔はもっと編みの速さは遅かったはずだから……。

(出来上がった衿)

分厚い、ざっくりした編み目のニットパーツが出来上がった。狙い通り、手触りは粗く、しっかりとしたコシがある。

「はい、あの質感のあるレザーに負けない存在感のあるパーツが編めたと思います」

一発で採用された。もちろん、「中島メリヤス」のパーツが使われているからとこのジャケットを買う客はいないだろう。だが、このジャケットの高級感、ファッションセンスを具体化するには「中島メリヤス」の技が役立ったはずである。