「117クーペ」 大塚パンチングの3

【学ぶ】
近藤さんがドイツに向けて旅立ったのは39歳の時だった。行く先はパフ(PFAFF)社。特殊ミシンの代表的メーカーである。

その頃、大塚パンチングが受ける仕事はほとんど欧州がらみだった。向こうのデザイナーが日本の刺繍屋さんを介して仕事を頼んでくるのである。加えて、刺繍屋さんが欧州の刺繍を持ち込み

「これを国内で 作って売りたいんだが、何とかならないか」

と頼んでくる。

欧州の刺繍だから、使われているミシンは欧州製である。客の求めるより優れたパンチングをするには欧州製ミシンを知り尽くさねばならない。

「本場で勉強してこないと間に合わないぞ、と思いまして」

1990年9月20日、近藤さんはドイツにいた。

学校での勉強は大嫌いだったから、ドイツ語はおろか英語も分からない。だが、思い立ったら躊躇はしない。パフ社の日本代理店に本社での研修を頼み込み、独りで機中の人となった。会話? 通訳を雇えば済む!

3週間、座学があり、実技があり、工場見学があった。ドイツ人の専門家が付きっきりである。通訳とともにホテルと工場を往復した近藤さんの目は、今にも食いつきそうな光を放っていたのに違いない。

だが、終わってみると拍子抜けだった。

「新しく学べたことがなかったんです。みんな私が知って、やっていることばかり。あ、刺繍の理論がみごとにマニュアル化され、誰でも学びやすくなっていたのは流石だと思いましたが」

交通費、滞在費、通訳代。数百万円の私費を投じたドイツ行きは、ひょっとしたらムダだったのかも知れない。しかし、自分が世界のトップレベルの仕事をしていることだけは知ることができた。

近藤さんの座右の書

【The Art Of Embroidery In The 90’s】
近藤さんが大事にしている本である。「Embroidery」とは刺繍のこと。だから直訳すれば「90年代ににおける刺繍の技術」となろうか。40歳のころ、1万5000円を支払って手に入れた。
468ページ、全編英語である。ジャカードミシンによる刺繍、多頭ミシン、デザイン、パンチングなど、刺繍全般の解説書で、写真や図版が豊富に盛り込まれている。

近藤さんは英語がからきし駄目である。それなのに、読めもしない高価な本を何故買ったのか。

この図だけで近藤さんには中身が分かるのだ。

「この本にはね、フレンチドット、フレンチノット、スノーケル、チェーンステッチなどの図が沢山あります。これを見ていると、何処に針を刺して、糸をどう運べばできるのか分かるんです。ええ、図の周りにある英語は全く分かりませんけどね」

予備知識、長年の体験があれば写真や図版からも学べることは沢山ある。近藤さんの最高の参考書なのである。

 

 

「117クーペ」 大塚パンチングの2

【横振りに迫りたい】
布に模様を入れるには3つの手法がある。ジャカード織りで模様を入れるか、生地にプリントするか、それとも刺繍を施すか、である。
それぞれに優劣があるわけではない。目的別に使い分ければいい。しかし、刺繍にはほかの2つの手法にない特徴がある。他の2つが平面なのに対して、刺繍は糸を重ねて築き上げる立体構造物なのである。平面での模様を木版刷りの浮世絵に例えるなら、刺繍は油絵の世界だ。光の当たり方、見る人の目線で刺繍糸は色を変え、刺繍は表情を変える。刺繍糸の向きを工夫し、糸による凹凸を組み合わせれば、刺繍は百面相になる。その刺繍の特徴を極限にまで追求し、横振りミシンによる刺繍を芸術の域にまで高めたのは桐生市在住の現代の名工、大澤紀代美さんである。

近藤さんは、大澤さんの作品が羨ましくて仕方がない。

「糸を走らせる方向、糸の重ね方はいくらでも工夫できます。でも、ジャカードミシンでは横振りミシンでできる柔らかさがどうしても出せない」

横振りミシンで縫った刺繍は、生地の上で刺繍糸が少しだけ緩んでいる。しかし、ジャカードミシンで縫うと、刺繍糸は生地に糊付けされたように張り付いてしまう。そうなるようにジャカードミシンが作られているので、近藤さんには何ともできないのである。

「だから、ジャカードミシンによる刺繍は、良くいえばカッチリしている。悪くいえば冷たい。あの横振りの柔らかさ、味わいの深さには届かないのです」

時折、

「横振り風の刺繍にしたいんだが」

という注文が来るから、それなりの工夫はしている。ミシンの針は生地を突き通すのが普通だが、途中布に届かない程度に下げる箇所を入れるのである。サテン打ちといい、これで少しは生地の上の刺繍糸が緩んではくれるのだ。

「でも、これでは大澤さんの世界にははるかに届きません。何とかならないかと考えているのですが」

何とかならないかと工夫する。それは優れた職人の持病である。

【工夫、工夫、そして工夫】
刺繍の一技法にピコ加工がある。生地に穴を空け、その穴で紋様を作る。太い針を使い、生地に穴を空けるのと同時に穴の周りをかがり、ほつれないようにする。
だが、1つだけ泣き所があった。ピンと張られた生地に空けた穴は生地が引っ張られているため自然に塞がってしまう。それを避けるため太い針を使い、そのまま周りをかがるから、太い針のため穴の周りに小さな針の跡が残ってしまって美しくない。

「117クーペ」 大塚パンチングの1

【パンチング】
フランスの発明家、ジョセフ・マリー・ジャカールが、後にジャカード織機と呼ばれる自動織機を発明したのは19世紀の初め、1801年のことである。
織り柄のある布を織るには、織機に張った経糸(たていと)の必要なものだけを引き上げ、残った糸との間に出来た隙間に緯糸(よこいと)を通す作業を繰り返す。長年、経糸の引き上げは人力に頼っていたが、ジャカード織機はそれを自動化した。
ジャカード織機を制御するのは穴を空けた厚紙(紋紙という)で、これを装置にかけると穴を空けた部分に対応する経糸が引き上げられる。当然、どのような紋様を織り出すかで紋紙の穴の位置が変わる。紋紙を作る工程をパンチングといい、穴の位置の正確さが求められた。
この機構をミシンに応用したのが、刺繍を自動化したジャカードミシンである。やはり紋紙が必要で、針を落とす位置に加え、そこからどの方向に、どれだけの距離だけ糸を走らせるかなどの情報を紋紙に空けた穴で表す。この情報に従って、刺繍する布を固定した枠が動いて紋様を刺繍する。
穴があるかないか、つまり0と1で情報を表すのはコンピューターの動作原理と同じだ。だから、いまのジャカード織機、ジャカードミシンの多くがが紋紙を離れ、コンピューターで制御するようになったのも不思議ではない。
だから、かつては文字通り厚紙に穴を空ける仕事だったパンチングが、いまではコンピューターを動かすデータを入力することに変わった。刺繍屋さんに渡すもの穴の空いた紙からフロッピー・ディスクに変わり、時にはメールに添付したファイルで納品する。それでもこの仕事がパンチングと呼ばれるのは長年の習慣によるものだろう。

【曲線】
その日、大塚パンチングの応接室にコンピューターがセットされていた。口での説明では飲み込みが悪い筆者に、近藤稔代表が痺れを切らしたのだろう。百聞は一見に如かず。目の前で実演してやれば何とか理解させられるのではないか。

ディスプレイ上でカーソルが動く。

「こうして、刺繍する範囲を指定してやると、あとは自動的にコンピューターがやってくれます。糸を密にするかまばらにするかも数値を入力するだけです。作業が随分楽になりました」

パンチングがコンピューター化されるまでは大変な仕事だったという。作業台に6倍に拡大した図案を広げる。その上にアームが伸び、手元の左右にあるハンドルを回して針を落とす位置にアームの尖端を持って行く。位置が決まればボタンを押す。すると、アームに仕掛けられた装置で、台の横にある紋紙に穴が空く。穴の位置が少しでもずれると刺繍の仕上がりに響くから、息を止めるほどの真剣勝負だった。

「やり始めたら、周りの音が全部消えてました」

ディスプレー上に表示されデザイン。これを元に作業を進める。

それが、コンピューターを使えば、スキャナで読み込んだ図案をディスプレイに表示し、その形に沿ってカーソルを動かせば誰にでも正確なパンチングができる。近藤さんが

「楽になった」

というのも頷ける。この250万円もするソフトウエアは、パンチングを業とする人はほとんど使っているそうだ。

手作業で紋紙に穴を空けていた頃は、少なくとも3年は修行をしないと使いものいなる紋紙はできなかったといわれる。それが今は、ひょっとしたら筆者にもいますぐにこなせるかもしれない作業になった。

180台の特殊ミシン シャオレの3

【機械職人】
桐生で刺繍を家業とする家に生まれた。5人兄妹の末っ子である。幼いうちにひとり亡くなったが、いずれにしても家業を継ぐ立場にはない。いずれは家を出て自立する。櫻井さんは東京の大学に進んだ。
選んだのは建築課である。建築家になって住宅やビルを設計する。そんな未来図を思い描いた。

学びが始まった。しかし、面白くない。

「毎日、図面、図面で図面ばっかり描かされた。嫌になってね」

それでは、と機械科に鞍替えした。

「機械なら面白いんじゃないかなと思ったのに、ここでも図面、図面の連続。同じことの繰り返しで、この道も俺にあわないな、と」

次の転戦先は経済部である。経営手法を身につけたいと思ったのだが、

「なんか数字や数式がいっぱい出てきて頭の中がこんがらがっちゃって、あ、俺には学問は向いていないんだ、と気が付いたのさ」

大学を2年で中退、とりあえず実家に戻って手伝いを始めた。それが櫻井さんの前半生である。子供の頃から機械いじりが好きで時計やラジオを分解しまくったという想い出もない。プラモデルなんてほとんど作ったことがない。
そんな櫻井さんが、ミシン屋さんの専門家も嫌がるミシンの調整を楽々とこなす。必要なパーツを、時には朝の2時、3時までかかかって作り出す。その間、周りの音は耳に入らない。
大学の機械科でも辛抱出来なかったのに、櫻井さんはいつの間に「機械職人」になったのだろう?

30歳少し前、念願の独立を果たして鋳物を始めた。川口市で鋳物会社を経営する叔父がいて景気がよかった。母の勧めもあってそこで仕事を覚え、桐生の自宅を出てみどり市笠懸町の今の場所に鋳物工場を作った。
ところが2年もたたないうちに石油危機に襲われた。仕事が激減し、仕方なく工場は閉めた。
さて、何をしよう?

刺繍の道を選んだのは、やっぱり育った環境のためだろう。子供の頃から工場の手伝いをさせられた。

「だから、ミシンの構造は何となく頭に染みついていたね」

180台の特殊ミシン シャオレの2

【職人? 私はそんなんじゃないよ】
初めて訪れたとき、取材の趣旨を説明するのは記者の義務である。貴重な時間を割いてお話を聞かせていただくには欠かせないことだ。

「桐生は繊維加工の優れた技が集積している、世界でも希有な街だといわれます。それなのに、ではどんな技があるのか、どんな職人さんが一つ一つの技を担っているのかが驚くほど知られていない。桐生が誇るべき職人技をもっと広く伝えたいと思いまして」

取材先によって様々な反応が戻ってくる。

「職人技? いや、私はそんなたいしたことはしてませんよ」

が最も多い。次によく聞くのはこんな言葉である。

「そんなところで取り上げていただけるような技はありません」

突然の来訪者への謙遜もあるだろう。同時に、日々の仕事をきちんとこなしながら、

「もっとうまいやり方はないかなあ」

と工夫に工夫を重ねるのが当たり前の毎日だから、優れた技を駆使しているという自覚が生まれにくいのかも知れない。

そんな反応に慣れっこになっていた私には、櫻井さんの言葉は新鮮だった。

「特殊刺繍の職人技? 俺にはないよ、そんなもの。だって、それ用のミシンがあれば誰にだって出来ちゃうし、そもそも俺はミシンに30分も向かっていると眠くなって休憩しちゃうんだから」

そして言葉を重ねた。

楽しそうにブランケットを縫う裕見子さん

「ここに研修に来る学生さんもいて最初は俺たちが縫ったサンプルを見てビビってるけど、『簡単だからやってみなよ』と勧めると、ミシンに向かって縫い始め、『あ、私にも出来るんだ』って喜んじゃうのよね」

私も180台のミシンの1台の前に座らされた。

「このレバーを足で踏むとミシンが動き出す。このレバーを右手で動かすと、ほら縫い目があちこちに曲がって模様が出来るでしょ」

確かに縫えた。仕上がりは、贔屓目にも立派とは言えなかったが。

「じゃあ、ほかのところで出来ない特殊刺繍が櫻井さんでは何で出来るんですか?」