デザイナーの作り方 片倉洋一さん 第20回 笠盛

足繁く桐生に通い、新井淳一さんに引き回されているうちに、片倉さんはあることに気がついた。

「この町なら、私がやりたいものづくりが出来るんじゃないか?」

片倉さんが知るようになった桐生は繊維産業の町だった。しかも大企業はなく、分業が徹底している。だから、様々な技が根付いている。この町なら、私も何かできるのではないか? 新井さんのお手伝いはできるようになったが、それは無給。少しずつデザインは売れていたが、定職はいまだにない。そろそろ生活基盤を築かねばならない年代である。この町で仕事を作ってみようか。

インターネットで桐生市の繊維関係の会社を調べてみた。その中で興味を惹いたのが「笠盛」だった。スイスのヤコブで使った、刺繍とレーザーカットが1台できる機械があったからだ。この機械、世界中探しても数十台しかないはずだ。その1台が、桐生の、ちっぽけな刺繍会社にある。この会社、いったい何者だ?

       笠原康利会長(当時は社長)

それでも、まだ笠盛の社員になる気はなかった。笠原康利社長(当時)に会いにいったのは、この会社と手を組んで何か新しいものを生み出せないか? と考えたからである。だから、自分の作品を持参した。何か一緒にできませんか?

このころ、笠盛は倒産寸前の苦境にあった。社運をかけるとまで意気込んで進出したインドネシアで手痛い目に遭い、撤退を余儀なくされたのだ。あるニットメーカーの求めで現地生産に踏み切ったのだが、21世紀に入るとアジアが世界の大量生産工場になり、刺繍の注文も50万枚、100万枚の単位になった。ニットメーカーはこの変化について行けず、笠盛もそれに連座した。笠盛4代目の社長だった笠原さんは

「俺の代で家業をつぶすのか」

と覚悟を固めながら撤退作業を進めていた。

そして、笠原さんと片倉さんが出合う。その出会いについて、2人の記憶はかなり食い違う。片倉さんはパートナー関係を作りたかったという。一方の笠原さんは、片倉さんがまるで押し売りのように入社したいと迫り、押し切られたと話す。

「会社が倒産すれば、この若者を失職させることになるのだがなあ」

と心進まぬ採用だったという。

どちらの記憶が正確なのか、解明する手がかりは残念ながらない。だが、片倉さんが笠盛の社員になったことは事実である。

——どうして笠盛に入社する気になったのですか? 最初はその気はなかったんですよね。

「うーん、その頃はヨーロッパからデザインの仕事が少し入っていましたが、日本にいてヨーロッパの仕事をするのは時差もあるし、かなり大変なんです。それに、そのときの急務は暮らしを安定させることでしたから。そうそう、私の思いは創造に集中したいというのが一番先にあって、笠原社長とお会いしているうちに、この会社ならそれが出来るんじゃないか、と思ったことが一番大きかったかなあ。大変お世話になったスイスのヤコブは、サンクト・ガレンという町にありますが、大変な田舎町なんです。そこで世界最先端のテキスタイルを生み出している。桐生もそんな町なのかな、と」

入社したのは2005年4月20日。その少し前、

「社内でお花見をするから、あなたもおいでよ」

と誘われた。

新井淳一さんにも笠盛のことを聞いてみた。新井さんは

「歴史のある会社だよ」

といった。

ここから先は、連載の第2回に戻って「000」開発に取り組む片倉さんを追いかけていただきたい。

いま(2024年1月)片倉さんは「000」部隊を率いるトリプル・オゥ事業部マネージャーである。

デザイナーの作り方 片倉洋一さん 第19回 新井淳一という人

折角の機会である。片倉さんの新井淳一評を残しておくのも、意味がないことではないだろう。

片倉さんはロンドン・ヴィクトリア&アルバート・ミュージアム(V&A)で新井さんのテキスタイルに出会った。V&Aには新井さんの作品が永久コレクションとして収蔵されていた。手で触れることはできなかったが、見るだけですごさが伝わってきた。まず頭に浮かんだのは、

「それまで見たどんな布とも、ベクトルが全く違うことでした」

西洋の美、日本の美、という分類法がある。だが、新井さんのテキスタイルはそのどちらにも収まりきれない。西洋にも日本にも、伝統的な美しい布は沢山ある。だが、そのどれとも違っているのに、限りなく懐かしく。美しい。華やかさは抑制されているが、でも見れば見るほど面白い。色濃く素人の手作りのような雰囲気を持っているのに、作り方を調べると、とんでもないハイテクノロジーを駆使している。

「あえて例えれば、技は決して表に見せない日本の会席料理、でしょうか」

一例を挙げれば、新井さんはこんなテキスタイルの作り方をする。

まず、ポリエステルのフィルムにアルミを蒸着して細く切った糸で布を織る。織り上がった布を絞り、薬液に漬けてアルミを溶かしてしまう。広げると、絞ってあったところにはアルミが残り、ほかはアルミがなくなってフィルムが露出する。

「それが実に美しいのです。テクノロジーと手仕事の組合せで独特の世界、自分が求めている布の表情を創り出すのが新井さんでした。そういえば、ステンレススチールの糸をメーカーと共同開発しこともあったと聞きました」

ロンドン芸術大学の図書館に「テクノ・テキスタイル」という本があった。テキスタイルにも関心を持っていた片倉さんは、この本でも新井さんに出会う。

「これまでとは全く違うアプローチでテキスタイルを生み出している、と高く評価していたんです」

本だけではない。ロンドンで片倉さんが接した人たちの中にも新井さんを賞賛する人は多かった。チェルシー・カレッジの教授陣は

「Mr. Arai is a Weave Master.」
(新井さんは織りの達人だ)

と手放しで讃えていた。同じ日本人として自分ごとのように誇らしく、嬉しかった。

さらに、桐生に足繁く通うようになって、もっと深く新井さんを知る。新井さんは織物の組織と素材の特性を知り尽くしている人だった。そして科学技術を熱心に研究する人でもあった。そんな基礎の上で、

「こんな表情をした布が欲しい」

という発想が湧くと、あらゆる知識を動員して作り上げた。どこか懐かしさを感じさせるのは、テクノロジーが表には顔を出さず、全体を支える基礎として裏側に控えているからだ……。

そして片倉さんは新井さんの別の顔も見た。

「新井さんは世界中の民族衣装を集めていました。まあ、これはテキスタイル・プランナーという仕事の延長とも言えます。新井さんの作品にどこか懐かしさというか、土着的な空気を感じるのはそのためでしょう。しかし、その他に、人形劇をおやりになるのです。それも、素人仕事ではない。そして、朗読にも取り組んでおられました。そのどれもこれもが副業ではなく、すべて本業なんです」

そのすべてが、1人の人の中でつながっている。そして、創り出す布のどこかに「本業」の面影がある。片倉さんは、とてつもない巨人を見たような気がしたのだった。

デザイナーの作り方 片倉洋一さん 第18回 桐生通い

日本に戻って森英恵さんからの注文は納品したが、ほかに仕事の当てはない。やむなく、自分のデザインの著作権を売り始めた。1件5万円。だが、まだデザイナー・片倉を知る人は少ない。生活を支えるほど売れるものではない。

「だけど、実家に戻っていたし、パリで仕事も住む家もなく、途方に暮れていたころに比べれば、まだましではないかと自分に言い聞かせていました」

それに、少ないとはいえ、自分のデザインを買ってくれる人もいる。

「なんとか生きていれば、いずれ作品が認められ、仕事ができるようになるのではと思っていたんです」

故・新井淳一さん(「朝日ぐんま」より)

さて、これからどうするか。そんなことを考えているうちに、留学中のロンドンで見たテキスタイルを思い出した。桐生在住の故・新井淳一さんのテキスタイルである。
それは、美術館のテキスタイル・コーナーに展示されていた。そこでは16世紀ぐらいからの様々な布地を見ることができたが、新井さんの作品が際立っていた。月に1、2回はこの美術館に通い、新井さんの作品に見入った。

「高度なテクノロジーとクラフト、つまり高度な技術と工芸的な手作り感が同居しているんです。ローテクの雰囲気があるのに、調べてみるととんでもないハイテクが使われている。これ、何なんだ?」

新井さんに会いたくなった。帰国から間もなく電話で連絡を取ると、手術からの回復途上でいまは会えない、とのこと。

「秋においでなさい」

確か10月だった。桐生市境野町の新井さん宅を初めて訪ねた。痩身。眼鏡の奥の目が厳しい。

新井さんは世界が認めるテキスタイル・プランナーである。憧れて会いに来る人は多いらしい。そういえば、ロンドンで一緒に学んだ友人も、新井さんを訪ねたといっていた。

片倉さんは自分の来歴を語った。デザイナーを目指してロンドンに留学した。ロンドンの美術館で新井さんの作品に出会い、何度も訪れ、新井さんの作品を評した本も沢山読んだ。知れば知るほど、新井さんの作品のすごさに打たれた……。
聞いていた新井さんは、片倉さんに関心を持ってくれたらしい。

「ご一緒に食事をしませんか」

桐生市内のレストラン「芭蕉」でご馳走になった。食事をしながら、新井さんがいった。

「いまプロジェクトを手がけています。よかったら手伝ってくれませんか?」

自分の作品を桐生市の有鄰館をはじめ、東京や千葉で展示するのだという。無給である。だが、新井さんと一緒に仕事ができれば、金など問題ではない。得るものは山ほどあるはずだ。
喜んで引き受けた。

それから、少なくとも毎月1回は桐生に行き、新井さんの仕事を手伝った。展示会の準備だけではなかった。桐生市内の機屋、プリーツ工場、糸商などとの打ち合わせに同行した。一緒に桐生市内の群馬県繊維工業試験場に行ったこともある。新井さんは様々な職種からノウハウを吸い取り、繊維工業試験場の設備、科学知識までも取り入れてどこにもないテキスタイルを創り出していた。

新井さんが亡くなったのは、2017年9月25日である。すでに桐生の笠盛で働いていた片倉さんは、もちろん葬儀に参列した。

「いまでも、新井さんの作品は輝きを失っていません。もっと長く生きて、新しい作品を見せてもらいたかった」

片倉さんは新井さんの冥福を祈った。

デザイナーの作り方 片倉洋一さん 第17回 ドミニク・シロ

チェルシー・カレッジの卒業制作では最高の評価を貰った。スイスのヤコブで積んだ実績もある。私はオートクチュール(高級仕立て服)の工房で働けるはずだ。

シャネル(CHANEL)、ディオール(DIOR)、ジバンシー(GIVENCY)、ウンガロ(UNGARO)、クロエ(Chloé)、ランバン(LANVIN)、ラクロア(CHRISTIAN LACROIX)……。
片倉さんは、最高級の折り紙がついたオートクチュールを作り続けている工房の門を次から次へと叩いた。ヤコブの門を開かせたのも、持ち前の突進精神である。パリでも何とかなるはずだ。
だが、どこも門戸を開いてくれない。私は何か思い違いをしていたのか?

仕事がない。家がない。肘鉄を食らうたびに不安が募った。とりあえず、ロンドンで知り合った友人宅に転げ込んだ。が、長居はできない。アパートを探した。まだ仕事は見付からない。いつまでこんなことが続けられる?

迎え入れてくれたのは、ヤコブでのコネを使ってアポイントを取ったドミニク・シロ(Dominiqu Sirop)だった。ジバンシーの右腕としてオートクチュールを手がけていたが、ジバンシーがルイ・ヴィトンを中核とするファッションのコングロマリット、LVMHに吸収されたのを機に、1996年に独立して自分の工房を持った。
パリに来て約1ヵ月。片倉さんはやっと足がかりを得た。

オートクチュールの仕事は、マネキンの上で布を仮組みする事から始まる。片倉さんに任されたのは、仮組みをパターンに落とす仕事だった。1㎜の誤差も許されない厳しい仕事である。折り紙が得意だった祖父・坂原光夫さんの

「端をピッタリ合わせないと最後に歪みが生まれてしまう」

という教えを心に刻んで作業を続けた。

翌1月にパリコレを控えた12月のことだった。ドミニクが片倉さんを招き寄せた。

「ウエディングドレスに洋一のケープ(袖のない肩掛けマント)を使いたいんだが」

オートクチュールのショウは、ウエディングドレスが最後に登場して締めくくる。そんな大事な作品のパーツを、ここで働き始めてわずか2,3ヵ月の私に作れと! 舞い上がった。そうか、最初に見てもらった私の作品を評価してくれていたんだ。

それからは多忙を極めた。スケッチを渡され、世界一といわれるルサージュの刺繍工房に注文を出し、パターンを描いて裁断作業……。何とか仕上がったと思うとデザインに修正が入る。そんなバタバタの連続である。

「最初は舞い上がったんですが、やっているうちに、責任の重さに押しつぶされそうになって……」

ショウ前日は全員徹夜だった。

ドミニクシロで担当したウェディングドレス、ロングケープ(Fashion News Vol92より)

それだけに、自分が創ったケープをまとったモデルが舞台に出た時、感動がこみ上げ、自然に涙が流れ出した。

「最高の体験をさせてもらいました」

だがこのころ、片倉さんは壁にぶつかっていた。ワーキングビザである。フランスではこのビザがないと3ヵ月しか働けない。片倉さんは八方手を尽くしてビザを取ろうと奮闘した。しかし、とうとうドアは閉じたままだったのである。

「働けないんじゃあ、パリにいる意味はありませんよね」

結局、日本でしか働けない。帰国せざるを得なかった。その日が迫ったころ、ドミニクが日本人のデザイナー、森英恵さんを紹介してくれた。パリのアトリエを訪ねて作品を見せると、

「7月のパリコレで使いたい」

と注文をもらった。まるで、ドミニクがくれた餞別のようだった。

ファッションの都パリで、やっと足がかりができたと思ったのに。5年でも10年でも、いやできれば生涯パリに暮らし、片倉ブランドを立ち上げたいと願ったのに。

パリコレが終わって間もない2004年3月末、片倉さんは帰国の途についた。

デザイナーの作り方 片倉洋一さん 第16回 卒業制作

ヤコブで3ヵ月の実習、いや実践を終えてロンドンに戻った片倉さんは、再び勉学の道に戻った。そうこうしているうちに、普通の大学の「卒業論文」にあたる「卒業製作」の準備にかからねばならない時期になった。

片倉さんは、スイスのヤコブにあった、世界でも数台しかないというレーザーカットマシンが気になっていた。あの機械を駆使した卒業製作を作ってみたい。しかし、ヤコブが使わせてくれるだろうか?
思い立ったら行動するのが片倉スタイルである。ヤコブのマーチンに打診してみた。

「あなたの会社の設備で卒業制作をしたい。お願いできませんか?」

マーチンはよほど片倉さんを見込んでいたと見える。二つ返事で引き受けてくれただけではない。会社にある生地は自由に使っていいぞ。ヤコブにある生地とは、わずか1mで2万円も3万円もする高価、高級なものである。そして、レーザーカットマシンのプログラムも、当社の技術者に頼めばいい。君が欲しいテキスタイルを我が社の設備で織るのもかまわない。何でも思い通りにやってくれ。君の卒業制作を全面的に支援する!
破格の厚遇ぶりだった。

「半年ほど、月に1〜2回はヤコブに行きました。渡航費? 格安航空券です。現地ではマーチンが自宅に泊めてくれたりもしたので、滞在費もそれほどかかりませんでした。ヤコブではなまったドイツ語が公用語になっていて、コミュニケーションが難しかったのですが、ええ、そこは何とか気合いで」

    片倉さんの卒業制作

片倉さんの作品は、2枚の色違いの生地にレーザーカットマシンで穴をあけ、その穴からもうひとつの生地を引っ張り出すという大胆なものだった。

「自分でも驚いたのですが、それが、最高ランクの評価を受けまして」

自分にはデッサンができない。デザイナー志望者が全世界から集まっているチェルシー・カレッジでの勉強について行けるか、と一時は不安に駆られて落ち込んだことは前に書いた。それが、わずか3年のうちに、早くからみっちりデッサンの研修を積んできて片倉さんに劣等感を持たせた同級生たちを抑えてトップに立ったのである。

「あの作品は、学長の部屋に飾られることになりました。いまでも飾ってあるんじゃないですか。あの作品、カレッジが買い上げてくれたのだったかな? それとも寄贈したことになっているんだっけ? それに、ロンドンのタブロイド紙が私の卒業制作を写真付きで紹介してくれてびっくりしました」

2003年6月、卒業。片倉さんは晴れやかな気持ちで日本に戻った。心配をかけたかもしれないが、何とかデザイナー、クリエータの道でやっていける目途が立った。両親に、そう報告するためである。

だが、日本にとどまり続ける気はなかった。ファッションの本場は何といってもヨーロッパである。なかでも、その核はパリだろう。私はパリで自分の腕を試し、磨きたい。
1ヵ月もすると、パリでの仕事を探し始めた。そして、まだ仕事が見付からないまま、9月、成田から飛び立った。目的地はもちろんパリである。