日本1のフローリスト—近藤創さん その14 挫折

1995年は日程の関係で、インターフローラ・ワールドカップの国内予選と花キューピットのジャパンカップ大会が同じ宮崎市の会場で、同じ日に開かれた。まずジャパンカップの競技会が開かれ、その上位入賞者と、直近4年間の実績でワールドカップ予選への出場権を持つ人合わせて10人前後がワールドカップ予選で作品の出来を競った。近藤さんはワールドカップ予選への出場権をすでに持っていたから必要はなかったが、それでもジャパンカップにも出場した。

これまで6年間、この日に向けてデザイン、練習を積み重ねてきた。仕上がるたびに、自分で自分の作品に見とれた。努力は無駄ではなかった。これまでにないほど力はついているはずだった。
そして、2年前のワールドカップ・ストックホルム大会で日本代表のアシスタントを務めた実績もある。
だから機会があるたびに、周りの人たちは

「2年後のワールドカップは近藤さんだね。がんばって下さい」

と励ましてくれる。
近藤さんが自信をもって宮崎に乗り込み、この日に臨んだのはいうまでもない。

ところが、思いもよらなかった異変が起きる。最初に開かれたジャパンカップの作品を仕上げた時、何故か

「ヤバいなあ」

という思いにとらわれたのである。どこをどう間違ったのか、何が足りなかったのか、あるいは多すぎたのか、仕上げたばかりの自分の作品が光っていない。他の出場者の作品に比べてくすんでいる。
間もなく懸念が現実になった。結果は散々だった。上位10位にも入れず、等外に落ちた。

あわてた。自分にいったい何が起きたのか? 体中にみなぎっていた自信がどこかに流れ去っていった。気を取り直す間もなくワールドカップ日本予選が始まった。

「私が目指したのはジャパンカップの優勝じゃない。ワールドカップに出ることだ、世界一になることだ、と気を取り直したつもりだったんですけどね」

審査結果は2位。ワールドカップ日本代表は1人だけである。近藤さんの夢が、この時絶たれた。

「ジャパンカップで等外に落ちたことで動揺していたんですかねえ。2つの大会がいつものように別の日に開かれていたら結果は違っていたのでは、なんて考えたこともありますが、要はそれだけの実力だったんですね」

ワールドカップは4〜5年に1度開かれる。次の大会を狙うという選択肢もあった。しかし近藤さんにその選択肢は問題外だった。それでは42歳を越えてしまう。目標に据えていた村松さんと肩を並べることはできないではないか。
近藤さんは、夢を、捨てた。

   近藤さんの作品 14

「はい、踏ん切りをつけました。目標に届かなかったんだから、そうするしか仕方ありませんでした」

若き日の栄光にしがみつき、栄光を求め続けることに費やされる人生もあるだろう。しかし、勝つばかりの人生には陰影がない。いつもキラキラしている人生に深みが出るか? 人は皆、生まれ落ちて成長を重ね、頂点を極めたあとは多かれ少なかれ衰える。老いを得た身を人目から隠す俳優もいるが、老いた身を堂々とスクリーンに映し出すクリント・イーストウッド、ロバート・レッドフォードのような名優たちもいる。栄光だけが人生ではない。頂点から滑り落ちる深い挫折を知って初めて、さらに豊かになる人生もあるのではないか。

「ええ、そう考えれば、私は失敗して良かったのかも知れません。あれでワールドカップに優勝でもしていたら、鼻高々のいやな男になっていたかもしれませんから」

近藤さんはこのあと、新たな道を歩き始めるのである。

写真:宴席での近藤さん

日本1のフローリスト—近藤創さん その13 世界一を目指す

1989年、花のワールドカップといわれるインターフローラ・ワールドカップ(Interflora World Cup 1989)が東京で開かれた。世界最大の生花店組織であるインターフローラが1972年に始め、4〜5年に1回開くフラワーデザインの競技会である。フラワーデザインのオリンピックともいえる。
アジアで初めて開かれたこの大会で、日本代表で出場した村松文彦さんがみごと優勝して世界1のフラワーデザイナーになった。
村松さんはこの年、42歳。近藤さんより8歳年上である。

「よし、私も42歳までに世界1になる。村松先輩と肩を並べたい」

近藤さんは、村松さんと肩を並べようと志したのだ。新たな挑戦である。目指すのは1997年のワールドカップ。この大会で優勝すれば、近藤さんは39歳での世界一になる。村松さんより早い。

それまでにも増してフラワーデザインにのめり込んだ。ワールドカップの国内予選に出るには直前4年間の実績が必要だ。8年先を目指して様々なコンテストに出続けた。相変わらず「無冠の帝王」に変わりなかったが、上位入賞は果たし続けた。総合成績で見れば、ダントツのトップだった。

1993年にストックホルムで開かれたワールドカップで、近藤さんがアシスタントとして日本代表に同行したのはそんな実績があったからである。アシスタントは、次のワールドカップで日本代表になる最有力候補が務めるのが慣例だった。1997年の日本代表は近藤さん、と近藤さん自身を含めて誰もが疑わなかった。

1995年は、2年後に迫った1997年ワールドカップ出場者を決める国内予選が開かれた年である。
その年の春、インターフローラ・ワールドカップのアジア大会である第1回アジアカップが台湾・台北市で開かれた。地元台湾を始め、韓国、シンガポール、フィリピンなど7つの国・地域からのフローリストが集まったこの大会に、日本からは直近2年の国内のコンテストでの上位入賞者4人が出た。近藤さんは当然その1人で、最年長である。

初めてのアジアカップで、運営に不慣れがあったのかもしれない。実に不思議な大会だった。
それまで近藤さんが出場したフラワーデザインのコンテストでは出場者が一堂に集まり、制限時間の中で作品を作った。だから花を飾り付ける姿や、制作中に出たごみの後始末など、出場者の姿勢も審査員の採点に響いていた。
ところがこの大会では、地元台湾からの出場者は、自分の作業場で制作した完成品を会場に運び込んだのだ。これでは、いったいどれほどの時間をかけて作り上げた作品なのか、出場者のフラワーデザインに対する姿勢はどうなのか、など分かるはずがない。
もっと戸惑ったのは、運び込まれた作品が、作品を置く台から大きくはみ出していたことだ。他の大会では、作品は台の大きさに合わせることが暗黙の了解だった。

   近藤さんの作品 13

「近藤さん、あれはどうなんでしょう?」

と言い出したのは、日本からの参加者だった。最年長の近藤さんが台からはみ出した作品の是非を審査委員に確かめに行ったのは、自分でも同じ疑問を持ったからだ。しかし、作品のサイズには明文の規定がないとそっけなく告げられただけだった。そうか、作品の大きさの制限は、私たちの勝手な思い込みだったのか?

戸惑うことばかりの大会で、優勝したのは台湾からの出場者である。やはり、というべきか。近藤さんは2位になった。日本人ではもちろん最高位だった。

ワールドカップの日本予選は、その年夏に開かれた。

写真:アジアカップに出場した近藤さん

日本1のフローリスト—近藤創さん その12 スランプ

この頃、日本のフラワーデザインは大きな変革期を迎えていた。

当時のフラワーデザインの主流はドイツデザインである。ドイツのフラワーデザイナーが日本の華道、小笠原流を研究して生み出した。華道の世界には日本ならではの美意識が埋め込まれている。空間を生かし、省略することでより大きな世界を表現する。ヨーロッパには、花で空間を埋め尽くすようなオランダデザインもあったが、いつの間にかドイツデザインがヨーロッパを席巻し、それが日本に逆輸入されて日本でももてはやされていた。

近藤さんは草心古流の華道を学んだ。自分がやって来たフラワーデザインも、華道とフラワーデザインを融合させたものだ。だから、ドイツデザインはすぐに理解できた。自分が進んできた道と同じなのである。近藤さんはドイツデザインに熱中した。ドイツ語の本を取り寄せた。文章は読めないが、知りたいのはデザインである。写真を見れば分かる。

学ぶことは多かった。近藤さんのフラワーデザインにドイツデザインの影響は沢山見て取れる。近藤さんは自然を切り取ったようなデザインをする。水盤にコスモスを挿すとしよう。近藤さんは、コスモスが自然に生えているように挿す。そしてアクセントに、1本だけ斜めに挿す。

「野に生えているようにできたのがベスト、だと思います」

だが、それが「人口の自然」に見えてはいけない。まだ熟度が足りないのである。
そして、どこまでも「花」を主役にする。

「もちろん、私がデザインするのですから私の思い通りに挿しますが、でも私の思い通りになっていてはいけないのです」

何やら禅問答めくが、それがドイツデザインに共感する近藤さんのフラワーデザインである。

だが、新しく押し寄せてきた流れは破壊的だった。理詰めともいえるドイツデザインへの挑戦は、「理」を「感性」に置き換えるものだった、ともいえる。芸術の世界に例えれば、モダンアートともいえる作風である。
例えば、苔を使って椅子を作った作品があった。素材は自然のものだが、それを何故椅子の形にしなければならないのか? 青竹を角度を変えて何カ所も切断し、切り口を回転させてつなぎ合わせた作品も登場した。どちらも高い評価を受けた。

それまでのフラワーデザインに慣れた目から見れば、異様な作品である。だが、見方によっては、それでも

「美しい」

と近藤さんの目にも見えることがある。そして、この「異様」な造形をした作品が高く評価されるようになった。時代とは、目新しいものを求めるものらしい。リズム、メロディ、ハーモニーを3大要素としたクラシック音楽から、その全てを取り去った現代音楽が生まれたことにも似た流れともいえる。いつしか、ドイツデザインは主流から外れ始めた。フラワーデザイナーが、いつの間にかフラワーアーティストになった。

「これはもう花屋の世界ではありません。私は嫌いだし、ついて行くことはできませんでした」

近藤さんが、ドイツデザインが分かり過ぎたのも

「ついて行けなかった」

原因である。

「分かりすぎ、共感しすぎたんです。私は自分の道を持ちすぎて、その道を外れることができなかった。新しい流れの作品を見ると、『あんなものを』という思いがどうしても沸き上がってきたのです」

こうして近藤さんは、再び「無冠の帝王」になってしまったのだった。

「だけどね」

と近藤さんはいう。

   近藤さんの作品 12

「そういう、流れが変わったことだけがあの時期の不振の原因だったのかな、とも思います。だって、私の作品を見て、『近ちゃんのは綺麗だよね』といってくれる人はまだまだたくさんいたんですから」

だったら、どうして「無冠の帝王」に戻ったんでしょう?

「やっぱり、天狗になって謙虚さを失っていたのかな、と。だって、32歳で審査員でしょ。神様みたいなデザイナーと肩を並べたんです。俺はこんなに若くしてこの地位をつかんだ、という思い上がりがあったのかな、とも思うんですよね」

そう気がついた時、近藤さんは新しい挑戦を始めた。自分の道で世界一を目指したのである。現代音楽がもてはやされても、モールアルトやベートーベンの音楽を高く評価する人は多いではないか。私の道だって同じではないか?

写真:デザインした花の前で近藤さん

日本1のフローリスト—近藤創さん その11 指導員

そして近藤さん、32歳。

「えっ!」

という依頼が舞い込んだ。
このころ「花キューピット」と呼ばれるようになっていたJFTD(Japan Flower Telegraph Delivery=日本生花商通信配達協会)の本部から

「フラワーデザインの指導員になってもらえまいか」

と打診されたのである、群馬県みなかみ町で開かれた花キューピッド主催のジャパンカップ会場でのことだ。この大会、近藤さんはなぜか振るわず、10位という成績に終わっていた。

「その私が?」

花キューピットには数多くの指導員がいた。年配のベテラン揃いで、一介のプレーヤーだった近藤さんには雲の上の存在、神様に見えていた人々だ。その神様の1人になれ、だって?

近藤さんの実績が認められ、後進を指導する力があると認められたのだろう。こんなに名誉なことはない。喜んで引き受けた。
わずか32歳での就任である。もちろん、近藤さんが最年少だった。そして、近藤さんを除けば、フラワーデザインの指導を職業としている人ばかりで、生花店を経営するかたわらでフラワーデザインを続けているのは近藤さんが初めてだった。その神様たちは、

「久しぶりに生きのいいのが来た」

と新参の神様を引き立ててくれた。様々な会合、コンテストなどで

「あいさつは君がやれ」

と指名された。新参者の顔を多くの人に知ってもらおうというのだろう。

「皆さんには本当に可愛がっていただきました」

生花店を経営しているからだろう、近藤さんの役回りは全国の花屋さんの指導だった。毎年5、6回、地方に出かけてフラワーデザインを知りたい、やりたいという花屋さんに集まってもらい、講習会を開いた。そのたびに10作品前後のデザインを新たに起こし、花屋さんたちの前でフラワーデザインのデモンストレーションを繰り広げた。

「さすがに近藤さんだ!」

「こんなの、見たことないね!」

という花屋さんたちの言葉がくすぐったかった。

近藤さんが教えたかったのは、フラワーデザインとは感覚の世界だ、ということである。言葉にすればそれだけだが、それをどうすれば伝えることができるか。

「皆さん、風景を見て『ああ、綺麗だなあ』と思うことがあるでしょう。そんな時、『どうして綺麗なのか』を考えるようにしてください。例えば朱に塗られた橋があり、その後ろにはモスグリーンの杉木立を背景にみごとな紅葉があって、それが水面に映っている。その色の組合せが『綺麗』なのか。針葉樹である杉と紅葉は補色関係にあるから、そのコントラストが『綺麗』なのか。『綺麗』の原因を考えるのです」

「自分はこう思う、ということを大切にして下さい。自分の『主観』を大事にするのです。フラワーデザインは自分のものを表現する世界です。そして、そのためには『綺麗』を自分で見つけなければなりません」

フラワーデザイナーとして自分で心がけていることを、心を込めて説明した。

そして、生花店を訪れるお客様の心理分析、フライトアテンダントに学ぶ接客マナーなど「花清」の3代目として身に着けた経営のノウハウにも話を広げた。生花店経営に役立つだろうからである。話を聞いてくれている人たちは生花店経営の仲間なのだ。

   近藤さんの作品 11

講習会は講師である近藤さんが逆に学ぶ場でもあった。様々な花屋さんがいて、様々なフラワーデザインをした。

「あんな考え方をする人がいる」

「あんな花の挿し方をする人がいる」

目からうろこが落ちるような発見を花屋さんたちから沢山もらった。

生花店を経営しながらの指導員である。忙しかった。だが、それを上回る充実感があった。

だがこの頃、指導員を続ける一方でプレーヤーとしてフラワーコンテストに参加し続けていた近藤さんは大きく、厚い壁にぶつかっていた。上位入賞の常連ではあった。だが、29歳の全国制覇を最後に、優勝できなくなっていたのである。再び「無冠の帝王」に戻ったかのようだった。

「何がいけないんだ?」

近藤さんは考え込むことが多くなった。

写真:テーブルウエアのデモ。右端が近藤さん

日本1のフローリスト—近藤創さん その10 熟成

「あ、私は基本に囚われすぎていたのではないか?」

と気が付いた時、近藤さんは28歳になっていた。私は学びすぎたのではないか? と思いついたのだ。
それを近藤さんは

「学ぶことの落とし穴に落ちていたようなんです」

と表現した。

人は多かれ少なかれ、学んだ知識に縛られるものである。ある知識を得る。知識は社会に立ち向かう際の武器だから、得た知識で自分の周りに塀を作って自分を守る。知識の量が増えれば増えるほど、塀の厚さが増して頑丈になる。天空を移動する太陽、月、星々を見上げた人類は長い間、動いているのは太陽や月で地球は動かないものだという知識に縛られた。その迷妄から私たちを解き放ったのはコペルニクスである。いま踏みしめている大地はどこまでも平らであり、大地に続く海も平らで、その果てからは海水が滝になって流れ落ちていると信じて疑わなかった人々に対し、地球が丸いことを証明して見せたのはコロンブスだった。知識は人を縛るのである。

近藤さんは中学1年生の頃から父。宗司さんに草心古流の華道をたたき込まれた。大学3年からはフローリスト養成学校でフラワーデザインを学んだ。華道であれフラワーデザインであれ、教えることができるのは基本だけである。刻々と変化する時代と場所、社会、状況に応じた活け花、フラワーデザインを全て教えることは不可能だ。あとは基本を身につけた個人が、基本の上に立って自分で工夫するしかない。

華道もフラワーデザインも、近藤さんは類い希なほどの優等生だった。基本は十分すぎるほど身につけた。それはそれでいいのだが、具合が悪いのは、基本とは数多くの先人が努力を重ねて生み出した理論、知恵、工夫、成果をギュッと圧縮した集大成であることだ。筋が通り、異を唱えることは難しい。天動説や地球平面説が長い間人々を縛り付けてきたのもそのためである。
いつの間にか近藤さんは、「基本」という分厚い壁を作ってしまい、その中に閉じこもっていたらしい。壁の中にいれば安楽だが、時代と響き合う躍動感がある作品は、その壁を破り、乗り越えなければ生まれないのではないか。

近藤さんはいう。

   近藤さんの作品 10

「あのころの私は、自分の作品が綺麗に見えて仕方なかった。JFTDの全国大会で2位になって、外面はともかく、内面では天狗になっていたんですね。ところが、その後の作品は基本に忠実なだけ、綺麗だけど教科書通りというものばかりですから、コンテストの審査員の目には綺麗には見えなかったんでしょう。きっと、基本という目から見れば美しく見えても、自由な発想が生み出した躍動感にあふれている他の人の作品に比べれば、つまらないものに見えたんでしょうね」

であれば、壁を破らねばならない。近藤さんは華道とフラワーデザインの融合に挑戦した。長い歴史を持つ華道は、花を美しく見せる原理・原則のかたまりのようなものだ。対するフラワーデザインの歴史は新しく、どちらかといえば個人の自由な感性を尊ぶ。

「基本が出来ていて、その上に自由な発想が花開けば、鬼に金棒じゃないですか?」

近藤さんは大きな一歩を踏み出した。

「ええ、あのころが私の転換期だったのだと思います」

29歳。しばらく蛹(さなぎ)になっていた近藤さんは、美しい蝶に変身して羽ばたいた。飛んでいった先に、日花協主催のフラワーデザイン選手権大会・総理大臣賞という栄光が待っていたのは、先に書いた通りである。

写真:花を整える近藤さん