松井智司の「美」

松井ニット物語

その14 デザイナーズブランド

世の中とは良くできたものである。繊維製品の対米輸出が激減して国内の繊維関係者が青くなっていた頃、その落ち込みをカバーする意図があったとは思えないが、Made in Japanのデザイナーズブランドがムクムクと頭をもたげていた。欧米から流れ込...
松井ニット物語

その13 日米繊維交渉

日本からの繊維製品輸出が米国で問題になったのは1955年からのことである。この年、アメリカは繊維製品の関税を引き下げた。すると1ドル=360円という為替の固定相場に守られて安価な日本からの綿製品がどっと流れ込んだ。これに反発したのが、日本製...
松井ニット物語

その12 小堀遠州

そう思い始めた頃、市内に新しい茶道の教場ができた。先生は表千家で、東京から通ってくるという。友人に誘われて見学に行った。突然「お手前をやってみて下さい」と声がかかった。少なくとも2年間は茶道を学んだのである。その程度は身についている。教室で...
松井ニット物語

その11 茶の湯

遊びもまんざら捨てたものではない。いや、遊びを知らない人間にいい仕事はできないといってもよい。遊びをせんとや生れけむ平安時代末期に編まれた歌謡集「梁塵秘抄」に見える歌である。遊びは人が持って生まれた本能であり、人は遊びを通して様々なものを身...
松井ニット物語

その10 対米輸出

昭和31年(1956年)、智司少年は高校を卒業した。母の体調は一服していたが、すでに大学進学は断念している。それでは、と家を離れて修行に出ることにした。桐生市内の機屋や買い継ぎ商に行く手もあったが、「もっと広い世界を見たい」」と、取引先に紹...