その充さんは3代にわたって続いてきた店を継ぐ気はなかった。既成靴の販売店であるクイーン堂シューズの客の多くは母・民子さんと同年代の女性だった。ずっと年上の人ばかりである。子どものころ、店の手伝いをしたいとは思った。しかし、年齢差に何となく気圧され、接客など出来なかった。
これでは店を継ごうという気が起きるはずがない。それに父の琛司さんは店を継げとはいわなかった。地方都市の靴屋の未来像を思い描くことも難しかった。だから大学を出ると、東京・新橋にある雑貨を輸入する商社に就職した。大都会・東京でのサラリーマン生活が始まった。
ところが。
「都会の空気が肌に合わないというか、毎日の暮らしが何となく流されているだけのような気がしてきまして。東京で一生暮らしていくイメージがどうしても沸いてこないんです。根っからの田舎者なんですかね」
そんな思いが高じて桐生に戻った。28歳の時である。職場の仲間は
「田舎の女性靴専門の靴屋を継ぐ? お前、大丈夫か?」
と口をそろえた。彼らが心から心配してくれていることは分かった。それでも東京に居続ける気にはならなかった。
戻った。ゼロからの靴屋修業である。当初はサラリーマンの制服としてすっかり馴染んだスーツ・ネクタイ姿で店に出た。両親の接客ぶりを見ながら見様見まねで客を迎えた。
「ところが、お客様の足に靴を合わせるには、どうしても床に膝を突いて動くことになります。それでズボンの膝の部分が擦れてしまってどうしようもない。あ、これはいかん、とすぐにカジュアルな服で店に出るようになりました」
接客法は両親を見習った。特に母民子さんに感心した。客を相手に歯に衣を着せない。
「あなたの足は甲高なのよ。だからこの靴は合わない。あなたのような足にはこちらの靴の方が合うから履いてみて」
ぶしつけかとも思える言葉が、どうやら客の耳には心地よいらしい。客の気持ちをとらえ、信頼感まで生んでいるようだ。そうか、千差万別の客の足にぴったりな靴を選び、場合によっては押し付けてあげるのも靴屋の仕事か。
両親と一緒に仕入れにも行った。まだ履き心地より、見た目、ファッション性が求められた時代である。両親は女性客に好まれそうなファッション性の高い靴を選んでいた。だが、充さんが
「おや?」
と思ったのは、どんなに奇麗な、いかにも女性好みのデザインの靴でも2人が仕入れないものがあることだ。聞くと、内側の縫い目が気になるという。縫い目が大きいと、履いているうちに足が痛くなるというのだ。
靴の深さにも2人は注意していた。浅すぎる靴、深すぎる靴は避けた。あとでトラブルが出る恐れがあるという。
ヒールがついた靴は、靴底に出来ている曲線に注意を集中していた。この曲線がうまく描かれていない靴は土踏まずが靴から浮き、かかとと足の前部で体重を支えることになる。それは疲れやすいというのである。
2人は客に好まれそうな靴を選びながら、履き心地にも気を配っていた。ひょっとしたら、お得意客の足の形、好みを思い描きながら仕入れていたのかもしれない。
やがて充さんは春夏秋冬、季節が変わるたびに東京に出て、靴屋を回るようになった。ほかの靴屋はどんな展示をして、どんな売り方をしているのか。銀座、日本橋、渋谷、新宿、池袋などの靴屋さん、デパートの靴売り場、靴のチェーン店…。足が棒になるほど歩いた。
「でも、ほら、うちは女性靴専門でしょう。だから、私が見るのは女性靴のコーナーなんです。男1人で女性靴のコーナーを見ているとけげんな顔、こいつ怪しいヤツなんじゃないか、という顔をされるんですね。それで『いや、ちょっと彼女にプレゼントをしようと思って』なんて言い訳をするんですが」
女性誌にも目を通した。「Oggi(オッジ)」、「CanCam(キャンキャン)」、「25ans(ヴァンサンカン)」。
女性の感性、好みを知りたい。どんな品揃えをしたら地方都市の女性靴専門店を維持、成長させることが出来るのか。感覚を磨かねばならない。
やがて1人で仕入れに行くようになった。まだ充さんの頭はファッション性が第一で、履き心地は革の一部を伸ばし、ソールの下に詰め物をしてそれぞれの客の足に合うようにする家伝の技で十分だと思っていた。
写真=客の足に靴を合わせようとすると、どうしても膝を突いてしまう


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